第26話 五十倍単勝オッズ、逝く
「──おぢさん。僕が右手に持っている馬券をビリビリに破るのと、左手に持っているサッカーくじをビリビリに破るの、どっちがいいですか?」
その翌々日、月曜日。出勤前に僕は休憩を取っていた小千谷さんを見つけるなり、小千谷さんのかばんにしまっていたそれらふたつを人質に説教を始めた。……ったく、ロッカーの鍵くらいかけなさい。普段はスタッフルームで家電の仕事しているとはいえ、不用心ですよ。
「やっ、やめろ八色、それには単勝オッズ五十倍の俺のマイドリームと、当たれば一等百万は行くサッカーくじなんだ、やめてくれっ」
「……どっちが、いいですか? おぢさん」
「……どっちも嫌だ」
その答えを聞き、僕はまず右手に持っていた馬券を破いてみせた。途端、二十四歳のおぢさんは「ああああああ! 俺の五十倍!」と悲鳴をあげる。
「……以前も似たようなことで説教したはずですよね? それが今度は井野さんにコンドーム? ふざけてるんですか? そもそもあなた夜番で最年長なのに説教されるようなことしないでくださいよっ」
「いやあ、それは……ほらあ、井野ちゃんがむっつりスケベで間違えて八色の子供妊娠しないようにって配慮を兼ねてだな。……ほら性教育って大事だろ?」
「そんなん保健体育の教師に任せろ」
「まあそう怒るなって、俺なりの応援なんだからさ、今まで奥手だった井野ちゃんの背中を押す的な? で? ちなみに? 使ったの? どうだった?」
それを聞いて、反省の兆しがないと見た僕は左手に持っていたもうひとつのくじもびりびりに破いた。
「あああああ! 俺の百万円んんん!」
「……今度同じようなことしてみてください、あんたを去勢するからな」
「ひいいい! 八色パイセンキレると怖いよお!」
「……まだ説教されたいですか?」
「すみませんでした」
これでも茶化してきたので、最後にギロリと目を剥いてみると、さすがの小千谷さんも大人しくなり、謝りの言葉を入れた。
「はぁ……。もうこれっきりにしてくださいよ……? 井野さんに変な入れ知恵するの」
「井野ちゃんじゃなければいいの?」
「そういう問題じゃねえ」
水上さんにはもっと駄目です。浦佐は多分大丈夫。冷ややかな態度で「何言ってんすか」って返してくれるはずだから。
ひとまず井野さんにゴムを渡した件の説教は終わりにして、僕も制服に着替えるために更衣室に入ろうとする。
「お疲れ様ですー」
すると、噂をすればなんとやらで水上さんがスタッフルームに入ってきた。更衣室の前の僕と目を合わせては、意味ありげな笑みを浮かべるけど、僕は一旦無視して着替えることに。
少しして更衣室を出ると、ロッカーに荷物を入れていた水上さんに話しかけられる。
「八色さん、土曜日のデート、どうだったんですか?」
……白々しい。途中までついて来ていたのに。
「色々あったけどまあ楽しめたよ。うん」
「そうなんですね。それはよかったです」
一応スタッフルームに小千谷さんがいるので、過激なことはしてこないみたいだけど……、小千谷さんには聞こえないくらいの大きさで、
「……色々について、あとでゆっくり教えてくださいね?」
と肩越しに呟いて彼女も更衣室に入った。
……とりあえず、ゴムのことは絶対に黙っていよう。ろくなことにならないのは目に見えているから。
僕、小千谷さん、水上さん、宮内さんと、珍しく全員成人したメンバーで迎えた夕礼。
「えーでは、この場をお借りしまして、水上愛唯さんのキャリアアップをしたいと思います」
連絡事項の確認の最後に、ゆっくりと手を上げた僕はそう話し始める。それに合わせ、小千谷さんと宮内さんは拍手をする。まあ、うちのお店のしきたりみたいなやつ。水上さんは何のことかわかっていないみたいだけど。
「水上さんはこれが初のバイト、ということでしたが、とても落ち着きがあって接客態度も良好で、見ていて安心できる仕事ぶりでした。一度教えたことはすぐに吸収してくれて、今度は何をすればいいのか、どんなことをすればいいのか、ということを考えてくれていました。今後は、その姿勢を継続したうえで、今僕がやっている
簡単に彼女のいいところを話して、演説を終える。あ、これはちゃんとした本音です。
「水上さん、名札貸してください」
「は、はい」
こういうキャリアアップは、本人に内緒で行うことが基本なので、いきなりのことで水上さんも驚いているようだ。……こういう姿を見るのも珍しい。
彼女から名札を受け取ると、名前の上に張っていた「研修中」のバッジを外して、さらに名前の上部に空いているスペースに、水色の丸いシールを一枚貼ってあげる。この一枚目のシールが、一人前になりましたよ、ということを示すものになる。ちなみにこのシールは三枚まで増えていき、それ以上昇給すると、別の格好いい名札を用意してくれる。井野さんや浦佐は一枚、僕は二枚、小千谷さんは三枚だ。
「おめでとうございます」
そうして、彼女に名札を返すと、純粋に嬉しそうな笑みを浮かべて一礼する。
「それじゃあこれで夕礼を──」
やるべきことも終わったので、夕礼を終えようとすると、
「えーでは。この場をお借りして、八色太地君のキャリアアップを行いたいと思います」
ニヤニヤとした表情の小千谷さんが手を上げてそう言いだすではないか。
「……は?」
勤務中だというのに、そんな呆け声が出てしまった。
「……いいか? 昇給させてもいい人間は、昇給させられる覚悟がある人間だけだ八色」
何言ってんだこの人。
「というように、八色君は今いる夜番の子全員の研修担当をしてきました。その数は通算で六人と、俺のひとりより多いです。仕事も丁寧かつ熱心で、俺も含めたメンバー全員に説教かますこともある夜番のお母さん的存在になってます。今後もその調子で、頑張ってください。上記責任を持ちまして以下略」
……しかも適当だし。宮内さんも笑ってないでなんとか言ってくださいよ、一応これ正式な業務なんですからね?
ニヤついた笑みの小千谷さんに渋々僕の名札を渡す。
「おめでとう、これで俺と同じ時給だ」
「嬉しいのか嬉しくないのかわからない気持ちにさせていただいてありがとうございます」
晴れて三枚目のシールを張り付けた僕の名札。
もう一枚目の水色のシールは三年以上つけているのでボロボロだし、二枚目の黄緑も似たようなものだ。
ただまあ……ピッカピカのピンク色をつけてもらったからには、ラスト一年も頑張りますか……。うん? ピンク色?
……タイミング良すぎじゃありませんかねえ。
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