第19話 井野円はデートに行きたい

「はぁ……」

 井野さんのキス未遂事件から数日後、出勤前の時間に、僕はひとりため息をついて頬杖をついていた。

「どうしようかなあ……これ、早く辞めた方がいいんじゃ……」


 この間の去り際、井野さんが発した言葉を額面通り受け取るなら、今後彼女は僕にアピールをしてくる、ということになるわけで。もとが大人しい彼女だから、どこぞの水上さんとは違って普通にしてくれるとは思う。ただ……。

 そんな井野さんの様子を見た水上さんがどうするか、が全く読めない。


 けど、辞めるって言ったって宮内さんは頷いてくれるはずないだろうし、そもそもあの人は僕が年度末まではいるものだとして考えているはずだし……。ただでさえ鬼のゴールデンウィーク全出勤を成し遂げた宮内さんにこれ以上心労を増やすのも本意ではない。

「ほんと……どうしたものかなあ」


「物憂げにため息なんてついて、どうしたんですか? 溜まってるんですか? でしたら」

「……いきなり出て来て耳元で囁くな」

 音もなくスタッフルームに入ってきていきなり至近距離で話しかけないで欲しい。……前世は忍者か何かなんですかね。


「風邪……よくなったんだ」

 僕の斜め後ろに立つ水上さんは、ニコりと表情を崩し、

「はい、おかげさまで。その節はご迷惑をおかけしました。金曜日、ラストみたいで」

 井野さんと、の部分を強調して言う彼女は、そのまま表情を変えることなく僕の目と鼻の先に近づいて来る。


「……電車も止まっていたみたいですけど、本当に何もしてないですよね? 大雨の音に紛れて井野さんのこと襲ったりとかしてませんよね?」

 主語が逆だったら本当だったんだけど、それなら堂々と否定できる。うん。

「何もしてないって……」


「なら安心です。八色さんには胸を張って生きていてもらいたいですから」

 どちらかというとあなたのおかげでビクビクして生きているけどそのへんのことはどうお考えでいらっしゃるのでしょうか。

「……お、お疲れ様です……」


 なんてことをしていると、学校帰りからそのまま直接来ている井野さんが、いつものように物静かな声でそう言いつつスタッフルームに入ってきた。

 一瞬井野さんと僕は目が合うも、すぐに井野さんが申し訳なさそうに視線を外して、そそくさとロッカーへと向かってしまう。


 ……まあ、普通に考えて恥ずかしいよね。恥ずかしいことしたし、言ったし。なんで僕、井野さんの彼氏でもないのに、井野さんがひとりで致していることを把握してないといけないんだろうって、気が遠くなる。忘れられるなら綺麗さっぱり忘れてあげたい。

「……やっぱり、何かあったんですね?」

 そんな僕らの様子をジト目で見てから、水上さんは僕のすぐ隣に椅子を持ってきて座っては、膝の上に肘を乗せてくる。


「だっ、だから別に何もないって言ってるでしょ、痛い痛い、膝ぐりぐりしないで」

「八色さんは責められたいんですよね? でしたらこれも気持ちいいんですか?」

「それと、これとは話が別だって……!」

 と、ロッカーが少し大きな音で閉められると、井野さんが僕と水上さんのもとに近づいていって──


「あ、あのっ、八色さん……次の土曜日って、お休みでしたよね……?」

「そ、そうだけど……それがどうかした?」

 僕の前に、一枚のチケットを差し出してこう続けた。

「ここっ……一緒に行ってくださりませんかっ?」

 卒業証書を受け取るような感じで井野さんは頭を下げる。僕はそのチケットをとりあえず受け取って何が書かれているのかを確認する。


「えーっと……遊園地の割引券……?」

 新宿から三十分程度のところにある遊園地のものだ。

「お、お母さんが福引で当てたみたいで……使わないのも勿体ないからって私にくれたんですけど……お誘いできる人が……いなくて……」

「え、えっと……ん?」

 ふと、隣に座っていた水上さんの表情を窺うと、凍りついた顔色にわなわなと震えた手。口元は笑っているけど目はその逆。


「わー、八色さん井野さんとデートするんですねー、いいなあー現役女子高生と遊園地デート──」

 ……棒読み棒読み。

「──さぞ楽しいでしょうね」

「っ……あは、あはは……」

 最後の部分だけ思い切り声のトーン落として僕にだけ聞こえるようにいったから圧が凄い。恐怖のあまり乾いた笑いが出てしまった。


「……だ、だめでしょうか……?」

 その、飼い主に向ける困った子犬みたいな目をしないで欲しい。そんな目をされたら断ろうにも断れなくなっちゃう……。

 し、しかしこんなすぐに動いてくるとは……井野さんの積極性恐るべし……。普段大人しいぶん、こういうことはアクティブなのかなあ……。


「い、いや、駄目ってことはない……けど……」

 井野さんから再び錆びた機械のごとく首をひねって、どす黒いオーラを醸し出し始めた水上さんのほうを向くと。

「いいじゃないですか、井野さんとデート」

 と、笑ってない笑顔でそう言い放つ。と、同時に机の上のスマホが音を鳴らし、通知を知らせるため勝手にロック画面が点灯する。


水上 愛唯:井野さんは違法


 僕は何も見なかったことにしてスマホをおやすみモードに切り替え、画面を消す。本音と建前ですね。……水上さん、他の人がいる前では重たい発言しないあたり、使い分けているのか……?

「え、えっと……」


 前門の井野さん、後門の水上さん。どう転がってもよくはない。

 僕が答えに悩んでいると、井野さんの表情は徐々に徐々に曇っていって、

「……そ、そうですよね……私みたいな女に誘われても迷惑なだけですよね……すみません、八色さんのこと考えなくて……」

 とまた自虐を始めてしまうものだから、


「わ、わかった、行くよ、付き合うからっ──いっ」

 僕は、井野さんの誘いを受けてしまった。瞬間、僕の左足が力強く踏まれる。

 痛みで半ば涙目になりながら踏んだ主のことを見上げると、


 いのさんはいほう


 と口の動きだけで僕にそう伝えていた。

 ……無理だって、井野さん半分涙目になってたって。女性の涙に勝てる男なんて存在するのか? いるのなら是非名乗りをあげて、勝つ方法を僕にご教授願いたい。授業料払うから。

 はぁ……。今日はこの三人のシフトなんだよなあ……。

 ほんと、どうしよう……。これ。

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