第18話 キスしてみたいお年頃
「……い、いや……ごめん、意味がわからない……ど、どうしたの急に?」
いきなりの言葉に、僕の頭は真っ白になる。
「そ、そのっ……あれです……作画資料です……き、キスシーンも描くつもりでいるんですけど……私キスしたことないので、なかなかどういう感じなのかわからなくて……」
「は、初めてなら尚更だめだって、そんな、ぼ、僕なんかにファーストキス使ったらだめだよ」
仮にこれが二回目以降ですって言っても断るけど。
「こっ、こんなことお願いできるの、八色さんしかいないんですっ!」
珍しく、井野さんの大きな声が辺りに響いた。本人もとんでもないことを言っているのは自覚しているようで、顔を真っ赤にしたまま視線は俯いたまま、それでいて優しい瞳を何度も何度も瞬きさせては、不安そうに僕のことを上目遣いで見てくる。
「や、やっぱり男性の唇の感触を知りたいので、女性には頼めないですし……そもそも私と話してくださる男性の知り合いは、バイト先のここしかいません。八色さんにしか頼めないんですっ」
まあ、論理は理解できる。理解できるけど……それってほんと付き合っている彼氏にお願いすることじゃ……? バイトの先輩に頼むことじゃないよ……?
「……だ、だとしても……そんな大事なこと、駄目だって……そんな、ただの知り合いにお願いすることじゃ」
「ただの知り合いなんて思ってませんっ!」
僕が必死になしの方向に話を進めようとすると、井野さんは椅子から立ち上がり、ぶらさげた両手をぎゅっと握り締めながらさらにそう叫んだ。
「あっ、そっ、そのっ……や、八色さんは本当に優しくて、私の面倒も見てくれて……だ、だから……ただの知り合いではないんです……八色さんは……」
「僕のことをよく思ってくれているのは嬉しいけど……ほら、僕以上に優しい人なんてごまんといるし、僕以上に格好いい男だって腐るほどいるしさ」
「私のことちゃんと見てくれる男の人なんてきっとこれから先そうそういるはずがないんですっ!」
三回目の叫び。……あまりにも必死過ぎて、僕は唖然としてしまう。
「……私、地味だし、口数も少ないし、笑顔だってそんなに浮かべないし、腐ってるし、男の子と話すことなんてそうそうないし、……なのに、えっちなことには興味があるし……。眠れない夜に、八色さんのこと考えると……身体が熱くなるんです……キュウって心と身体がうずいて……どうしようもなくなるときがあるんです……。それくらい、八色さんのことは特別に思ってるんですっ!」
……ええとごめん。本当に意味がわからない。今もしかして僕、告白された?
僕のことを、オカズにしていますっていう、告白を。
文脈的にそうだよね? ……ねえ、これってどう返してあげればいいの? あと井野さんの妄想のなかで僕は一体ナニをさせられているんですか? まさか男同士で絡みあわされてないよね? ……いや、いいや。考えるだけ怖いからやめておこう。
「……うん、井野さんの気持ちはわかった。わかったけど……やっぱりキスとかそういうのは恋人がするものであって、軽々しくすることじゃないと思うんだ」
「で、でもっ」
「これから井野さんは。……大学行くか専門行くか、それとも就職するかは知らないけど、ほんとにたくさんの人と出会うよ。そのなかに、僕よりいいひとなんてたっくさんいるから。井野さんのことちゃんと見てくれる人も絶対いるから。……そんな、一時の気の迷いで選ぶ人間じゃない。……僕は」
「八色さんがいいんです……! 私は……!」
すると、恐らく井野さんのなかで何かが切れてしまったのだろう。座っていた僕に飛び込んできて、椅子ごと僕を押し倒した。
ガタンと激しい音とともに、視界が上に傾いて、息が上がっている井野さんの顔が胸元に映りこむ。
「……恋人になったら、キスしてくださるんですか……?」
彼女は、懇願するような目で僕を眺めて、そう呟いた。
「……わ、私は……八色さんのこと」
そして、彼女の胸元にあるリボンがぎゅっと僕の体に密着して、火照った体温を感じる。
「ず、ずっと前から……す、す──」
……見た目より大きいぞ、とこれまた慣れない感触にドギマギしていると、机の上に置いていたスマホが今度は着信を知らせた。
これ好機とばかりに乗りかかっていた井野さんを椅子に戻してあげて、電話に出る。
「もしも──」
「井野さんは違法井野さんは違法井野さんは違法」
……おう。いきなりそれは普通にゾッとする。電話越しでも目のハイライトが落ちていることが想像できるよ。
「ど、どうしたの……? 風邪は? 大丈夫なの?」
「ケホッ、ケホッ……熱は少し下がったんですけど……咳はまだ……いえ、私の女の勘が今八色さんに電話をかけろと告げたので……井野さんとは何も起きてませんよね?」
ほんと、あなたの愛の重さは一級品ですよ……今日ばかりは助かったけど……。
「何も起きてないよ。僕は犯罪者にはなりたくないしね。じゃあ切るよ、早く風邪治してね」
「は、はい、ケホッ……」
それで電話は切れた。
「……井野さん。一回落ち着こう? それは……僕がバイト辞めるときも同じ気持ちだったら、もう一度聞かせて。今は……ごめん、それを聞いてあげる度量が僕にはない」
座ったまま俯いている彼女にそっと言い聞かせて、僕は財布を取り出して五千円札を手渡す。
「……返すのはいつでもいいから。これで家に帰りなよ。こんな時間まで外にいさせるのは悪いし、ね? あれだったらタクシー捕まるところまでは一緒にいくから」
さっきまでうるさいくらいに鳴り響いていた雨音はかなり弱まっていて、これなら外に出てタクシーを探すくらいの余裕はありそうだ。さすがに僕までタクシーで帰ると今月ピンチになってしまうので、どこか適当にカラオケに入って時間を潰すことにしよう。
井野さんは無言で五千円札を受け取って、そのままブレザーのポケットにしまい込んだ。
「……一年待てばいいってことですよね?」
席を立ちあがった彼女は、俯いたままそう言う。
「うん。……そのときになら返事するよ。イエスかノーかで」
「わ、わかりました……それなら……一年後、いいよって言ってもらえるように私、頑張ります……今日はすみませんでした……お金は早いうちにお返しします……。お疲れ様でした……」
午後十一時十五分前。都合、閉店から一時間くらいスタッフルームにいたことになるけど、井野さんはひとり静かにお店を出ていき、僕は、
「……大概甘いよなあ……僕も。どうすんだよこれ……」
水上さんと井野さん、ふたりに告白されてしまい……もういっぱいいっぱいだ。結局井野さんを振ることもできずに、先送りの一年後だ。解決になってない。というか、むしろひどくなるのではないか?
だって、ここには愛が重たい水上さんがいるのだから。
「……とりあえず、僕もカラオケ行こう……」
それから、僕は新宿にあるひとりカラオケの専門店に行き、夜通し歌を歌って溜まったストレスを発散させた。久し振りに行くのもいいものかもしれない。いつもバイトで遊ぶことなんてしないから。
翌朝になると、始発から電車が復旧したので慌てて家に帰ってすぐに寝て。
……また出勤した。次の休みは明日までないです……。ああ、辛い……。
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