第9話 いきなり出てきて襲われて

「はぁ……原因わかんないし……」

 井野さんからレジ閉めの業務を引き継いで三十分。僕はがっくりとレジの画面に手をついてうなだれる。

 防犯カメラも確認したけど、紛失はしていないし、お札もみんなマニュアル通り三回確認してから渡している。三回もチェックしてお札を多く渡すなんてミスそうそう起きるはずがない。それに、千円札の渡し間違いが起きそうな、四千円、九千円のお釣り、または買取は今日それほど起きていないし……。


「こりゃとりあえず宮内さんに電話かなあ……」

 うちのお店はレジ差異の金額が五百円を超えると、店長に報告の電話をしないといけないことになっている。なんでも、月間累計の差異が規定の金額を超えると、警察に理由を説明しないといけないらしいから。


 カウンター内に置いてある店のPHCから、宮内さんの携帯に電話をかける。数コールほどで、宮内さんは電話に出た。僕は事情を説明すると、

「あら、昨日も1レジで差異が出てたわよ。確か……プラス千円。昨日は浦佐さんが電話をかけていたけど、もしかしてあの子、まーたやらかしたのかしら」

「……本当ですか」

 なるほど、その可能性を考えていなかった。


「比べるようで悪いけど、こういう仕事の浦佐さんの信頼ってゼロに近いわ。太地クンが防犯カメラや返品レシート調べてもそれらしいのがないって言うのなら、きっと昨日のレジ閉めミスね。そのまま閉めちゃっていいわよ、お疲れ様」

 電話が切れ……そして、僕もキレたくなる。


 ……前日のレジ閉めで1レジをプラス千円として処理をした。それがミスなら、今日マイナス千円出るのは当然のこと。例えば、本来千円札が五十枚あるレジを五十一枚あるということにしてレジを閉めたら、翌日のレジは千円札が五十一枚あるものとして営業を開始する。でも、実際は一枚少ないから、その日はマイナスが出てしまう、そういう論理だ。

「うーらーさああああ! まーたお前かよおお……っていうか朝番もしっかりレジ開け確認してくれよおおお……」

 十時を回った薄暗い店内に、モテない、ついてない男の遠吠えがこだました。


 さすがに疲れた……さっさと着替えて帰ろ……。トボトボと歩いてスタッフルームに戻ると、誰もいないはずの空間に電気が点いていた。

「あれ……まだ誰かいるの?」

 しかし、物音は一切立っていない。トイレと更衣室の電気は消えている。

「消し忘れかな……」

 まあいいやと、僕はロッカーからカバンを取り出し、そのまま更衣室の外で着替え始める。どうせ誰もいないし、いいでしょう、と。


 制服のポロシャツを脱いで、一旦テーブルに置く。汗拭きシートで体を拭いてから、私服のワイシャツに袖を通そうとした。けど、

「……だめですよ、八色さん。女の子がいる前で裸になっちゃったら」

「へっ?」

 突然後ろから、耳元にそんな囁き声が聞こえる。


 慌てて振り返ると、いつかと同じように至近距離に詰めていたもう帰ったはずの水上さんが僕の肩に手を触れようとして、

「おっ、おわっ」

 びっくりした僕は、そのまま尻餅をついて倒れてしまった。ちなみにまだ着替え終わってないから、シャツのボタンは開けっ放しだ。

「み、水上さん? 帰ったんじゃないの……?」


「ふふ、待っちゃいましたっ」

 ……そんないじらしい後輩を演じても無駄ですよ、あなた僕に疑惑をかけられているの気づいてないの?

 彼女の奇行はそれにはとどまらず、倒れた僕の上に跨るような形で顔と顔の距離を詰めていく。

「え、ど、どうしたの? 急に……その、着替えたいんですけど……」

 床に背中がついてしまい、端から見れば僕は襲われている。……ん? もしかして襲われているのか? 僕。


「……八色さんの生着替え見て、ちょっとうずいちゃいまして……」

 イエス。はいこれ黒だ。現在進行形で僕は襲われているし、水上さんは僕の予想通り危ない人だ。具体的に言えば、感情が重たい人。

「……職場でうずかないで欲しいけどなあ……」

 透き通るような綺麗な瞳はじっと僕の顔を見つめ、形の良い唇は微かに震えつつ、少しだけ呼吸の速度を上げている。


「奇跡かと思いました……初めて会った日以来、ここで八色さんにまた会えて」

「そ、それはよかったよ」

「浪人中は一切他人と関わりを持たなかったので、誰かに優しくしてもらうのが嬉しくて……特にあのときは内心バイトの面接に間に合うかどうかの瀬戸際だったので、凄く焦っていて……」

「へ、へー、そうなんだ」

「本当はあの日に連絡先も欲しかったんですけど……初対面でそこまでやると重たいかなって思って、あと、八色さんがすぐに行かれちゃったのもあって……ただ、また会えるのを祈っていました」


 ……会うのを祈られてしまうなんて、僕も偉くなったものだなあ。ははは。

「ここで会ったのも奇跡みたいに思えて……でも、周りには可愛い後輩がふたりもいて。今はまだ芽は出てませんけど……出る前に掴んじゃえって。今日なら井野さんも帰ってふたりきりになれるから……」

 ちょっと待とうか。今何をしようとしている。その手にかけているものはなんだ。スカートから何を脱ごうとしているちょっと待てここは職場だよおーいみなかみさーん。


「八色さんは……どういうプレイが好きなんですか? 八色さんのためなら……頑張りますよ、私」

「……落ち着こう、落ち着こうか水上さん。まずその脱ぎかけの下着を履いて。そういうことはちゃんと段階を踏んですべきだし、ましてや職場でするようなことでもない」

 僕は暴走する彼女の動きを止めるため、腕を押さえつける。

 ……ここでことに及んでみろ。これから先ずっと出勤前や休憩中、そのことを思いだしてしまって辞めたくなるから絶対。あと、初めてがこんなアブノーマルって嫌だ普通に。


「で、でもそれじゃあ八色さんが──」

「それに、僕だって水上さんのことよくわからないし、水上さんだって僕のことよく知ってないでしょ? そんな状態で……ね、やったって不幸になるだけだって」

「そ、それはそうですけど……」

「あと、職場で恋愛関係作ると色々危ういというか……」

 あ、ハイライト落ちた。


「ね? うん。気持ちは嬉しいけど、一旦考え直したほうがいいよ。うん、それがいい。とりあえず今日のことは忘れておくから、ね? 自分の身体は大切にしたほうがいい。水上さん綺麗なんだから」

 ハイライト復活した。うん、このまま諫めると刺されかねないと思って軌道修正して正解だったな。


「そ、そんな、綺麗だなんて……」

 僕の言葉に照れてしまった隙に、なんとか起き上がって難を逃れた僕はさっさとワイシャツのボタンを閉める。

「……じゃあ、もう帰ろうか」

 寿命が縮んだけど、何はともあれ僕は無事だった。もうそれでいい。あと、今度から水上さんと帰りが同じでふたりきりになるときは気をつけないと。そう誓った夜だった。

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