第7話 がんばるべきとき、そうでないとき

 水上さんの研修もある程度進み、ゴールデンウィーク直前の四月末のある日のこと。僕はバイト先に行く前に、新宿駅の東口にある大型書店に寄っていた。その日は僕のお気に入りの作家さんが新刊を発売する日で、また数量限定でサイン本も置かれるということなので発売日に突入していたんだ。


「ありがとうございましたーまたお越しくださいませ」

 無事、お目当てのサイン本は手に入れた。まだ出勤まで時間があるし、どうしようかな……と思っていると、僕の目の前を見知った顔と制服が通過していった。

 あれは……井野さんかな。向かう方向は……隣接してあるアニメショップだ。

 そういえば、読んでいる漫画の新刊も出ていて、この間買取に来てたな。欲しいって思ってたから、ついでに買っちゃうか。


 そう思い、僕は井野さんの後をついて行くような形で、多数のキャラクターが描かれている外装のショップの店内に入った。

 一階は新刊本コーナーになっていて、ライトノベルや漫画、さらにはアニメ系の雑誌が棚狭しと陳列されている。

 おっ、あったあった、これこれ。

 平台に積まれている漫画を一冊手に取って、そのままレジの列に並ぼうとする、と。


「……あれ、八色さん……」

 向かう道の途中に……彼女がいるコーナーがあって、僕と井野さんは鉢合わせた。

 長い髪が目もとを隠し、眼鏡のレンズには僕の姿が映し出されている。右手に持ったかごの中には……これでもかと美男子と美男子が見つめ合っている表紙の漫画が積まれていた。

 ……まあ、知ってました。そうですよね。


「井野さんも買い物? 僕はちょっと漫画一冊買いに来ただけで」

「……は、はい」

 彼女は一瞬持っているかごを後ろ手に隠そうとしたけど、もう見られたかと思ったのか諦めてそのままにしている。……うん、隠す必要ないよね、僕知ってるから。


「凄い量だけど、それ、全部買うの?」

「……アニメ化が決まったものの新刊とツイッターフォローしている絵師さんが漫画を出版することになったのでそれも買わないとで、あとその他諸々色々です」

「全部……BL?」


 本来自虐の意味で使われるから、他人の僕がこう表現するのは間違っているのだけど、あえて言わせてもらう。井野さんはいわゆる腐女子だ。それも浦佐と同レベルの熱を持った。普段は全然その素振りを見せないのだけど、きっかけがあるとすぐ赤面しつつもがっつり状況を観察してしまう。……まあ、これは宮内さんが勝手にその状況を作ってくれるだろうから、今は説明しない。もう言ってしまえば、大人しい性格をしているのに結構なむっつりさんってわけだ。あと、他にも彼女は秘密にしていることがあるのだけど……。


「ぜ、全部ではないです、少しくらい少年漫画も入ってますっ」

「……バレーボール、自転車、野球……もといダイヤ」

「ひっ……」

 少年漫画と聞き、井野さんが買いそうな「魅力的な男キャラ中心に描かれる」少年漫画のテーマを呟くと、今度は持っているかごを隠そうとした。


「あまり漫画は強くないけど、僕も腐っても古本屋のアルバイトだから。四年も働けば井野さんが買いそうなタイトルくらいは想像つくよ」

「そ、そうですよね……」

「まあ、立ち話はこれくらいにして、僕はもうレジ行っちゃうよ。……夢中になってバイトに遅刻しないでね」

「あっ、あの、八色さん」

「何?」


 動き出した足を、彼女の呼び声とともに一度止める。

「せ、先日はありがとうございました……。私の代わりに対応してくださって」

 すると、彼女はペコリとそう言って頭を下げる。……はいいのだけど、ちょっと待て。


「……井野さん、すぐに頭を上げようか」

 ここは人の目がある店内。そこにいる大学生の僕と、高校の制服を着た井野さん。もういいよね。

「……僕が変な目で見られるからとりあえず歩きながら話そうか」

「あっ……す、すみません」

 ポッと顔を赤くして、もともと小さな声をさらに絞った声量で謝る。……うん、平常運転。


「も、持とうか……?」

 ショップを出て、バイト先に向かおうとする道すがら。両手に本の入ったレジ袋を持った上に肩にスクールバックを提げている大荷物は、およそ高校生のそれとは思えない。

「い、いえ……平気です、普段から重いもの持ち運んでいるので、これくらいなら全然」

 職業柄ですね、ええ。ただ、そうは言っても……、なんか本が入ったレジ袋のビニールが伸びていて見ていて不安なんだ……。二重になっているとはいえ。


「いいよ、貸して」

 なので、少し強引ではあるけど、彼女の利き手とは逆の左手に持っているレジ袋を、僕は掴んだ。

「え、あ、で、でも悪いです、先輩にそんなこと」

 彼女はそれを固辞するけど、僕もそれをまた断る。

「いいのいいの。こういうのはできる人がやったほうがいいの。実際顔少し赤くなってたから、無理してたんじゃないの?」


「……えっ? あ、えっと……えっと……」

「さっきの話じゃないけど、できることとできないことはあって当然なんだからさ、できないことはちゃっちゃとできる人に回したほうがいいんだよ。できなきゃいけないことは別として」

 細い路地を歩いていき、東口から西口へと移動していく。


「で、そういうことをできるようにするのは、余裕があるときでいいの。片手が空いているくらいのね。じゃないとやることが多すぎてパンクしちゃうから」

「そ、そういうものなんですか……?」

「そういうもんだよ。ゆっくりでいいのゆっくりで。そのうちできればいいんだから。で、それに伴って怒られたりするのは上の僕の仕事」

「…………」


「僕も今は辞めちゃった先輩にそうさせてきたからね。それに、僕が井野さんよりも時給高いのは、汚れ役も込みってことなんだし」

 数分歩き、バイト先のビルに到着した。

「はい、じゃあこの話はおしまい。そろそろゴールデンウィークのセールもあることだし、元気だしてこう。じゃないと……身が持たないよ」

「そ、そうですね……」


 なんだろう、ちょっといい話をしていたつもりのはずなのに、どうしてかラストは盛り下がっている。元気出そうって言っているはずなのに。

 ……まあそれは、ゴールデンウィークのセールが果てしなく忙しいことに起因しているのだけれど。井野さんはまだ半年しかいないから、ゴールデンウィークのセールは初体験だけど、年末年始に似たようなセールを経験済みだから、予想は立ったのだろう。


「お疲れ様でーす」

「お、お疲れ様です……」

 井野さんと揃ってスタッフルームに入ると、今日は先に着いていた水上さんが、痛々しい目線を僕に向けてくる。……一緒に来ることすら僕は許されないのですか。別に下心があるわけでもないのに。

 今度から、水上さんがいる日に他のスタッフと店に入るのはやめておこう……。

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