第5話 こんなこと、簡単にするはずないじゃないですか……

「……お疲れ様でした……」

 その日の閉店後、作業が終わるとすぐに井野さんはとぼとぼとした足取りでお店を後にした。「お疲れ様」を返す間もなく、彼女の影はエレベーターのなかに消えていった。

「今日みたいなことって、結構起きるんですか?」

 そんな落ち込んだ様子の井野さんを見てか、水上さんは僕に尋ねてきた。まあ、明日は我が身ですしね。


「うーん……まあ、あそこまで大きな声を出されるのは月に一度あるかないかくらいかと思いますよ。一応ここ、ビジネス街に位置するお店なんで、今日の酒に酔って来るような人もそんなにいないですし」

「そうなんですね……」

「ああいう対応、夜番のなかでは井野さんが一番苦手なんですよ。浦佐は怒られてもあまり気にしないタイプだし、僕は四年も働いてれば慣れちゃいますし。あと、有給使っていて今はいない先輩も浦佐と似て適当な性格なんで、そこまで思いつめないんですよね」


 そこまで話すと、水上さんは一旦更衣室に入って着替え始めたので、それを待ちつつスマホをいじる。

 数分して、制汗シートの少し刺激的な香りを漂わせながら水上さんが出てきた。何気に古本屋は立ちっぱなし、動きっぱなしで、勤務中は体力を使う。汗もまあまあかくこともしばしば。

 水上さんと入れ替わるように僕も更衣室に入って私服に着替える。男はそんなに着替えに時間はかからないので、一瞬で僕は外に出た。シートも最悪人目がつくところでも使えるからね、女性はそうもいかないだろうけど。


「それじゃあ、帰りましょうか──」

「あのっ」

 僕がそう言いスタッフルームを後にしようとすると、言葉を断ち切る形で水上さんが口を開いた。

「……ど、どうかした?」

 意を決するように彼女はゆっくりとこう言った。

「い、井野さんと八色さんって、別にただの先輩後輩ですよね?」

「そうですよ。正確に言えば、水上さんと同様に研修担当でしたけど。それを言うと浦佐もそうなんですけどね」

「……てっきり、頭撫でてあげていたので、そういう関係なのかなって一瞬思っちゃったりしまして」


 ……ああ。なるほど、そういうことね。

「いや、あれはつい反射でやっちゃっただけなんで、別に他意はないですよ。それに、井野さんはただの後輩ですし、彼女だって僕なんかハタチ過ぎたおっさんくらいにしか思ってませんよきっと」

 四歳差って学生のうちは結構大きいし。あと職場恋愛は色々ガタが確実に出るので非推奨だ。


「……それなら井野さん、あんな顔しないと思うんだけどな」

 蚊の鳴くような大きさで呟くものだから、僕はよく聞き取れなかった。

「……えっと、何か言いました?」

 振り向きざまにきちんと水上さんのほうを向いて聞き返そうとした、そのとき。


「え?」

 鈍い音とともに、視界が彼女の着ているブラウスの青一色に染まる。

「……あ、あの水上さん……? どうかしました?」

 通路に立っていた僕は、どうやら水上さんに壁ドンをされたようだ。……正しくは、壁ではなくカートに乗せているコンテナドンだけど。ふたりきりの空間に、しばし静寂が訪れる。

 いまいち状況を理解できずに、僕は間抜け面を彼女に向けていることだろう。それとは対照的に、少しだけ息を荒くさせた水上さんの頬は上気している。


「……年頃の女の子の頭を、その気もないのに撫でちゃだめですよ、八色さん。そんなことしたら、勘違いしちゃいますから」

 目線を合わせることなく、彼女は僕の胸元一点に視点を集中させている。

「ぁ……いや……は、はい」

 僕はおっさんだからそんなわけない理論を展開しようと思ったけど、それを彼女の圧は許してくれなかった。


「浦佐さんにも似たようなことしてませんよね?」

「う、浦佐にはしてないですよ、そんなことしたらあいつはきっと『なにやってんすか先輩』ってジト目で言うに決まってますし」

 うん、これは予想に難くない。

「と、とにかく、もう帰りましょう? 頭撫でるとか、そういうことはしないように気をつけるんで、はい」


 僕は細い彼女の白い腕を取ってコンテナドンから解放されようとした。ただ、これは壁ドンではなく、下がカートのコンテナドンであることをちゃんと理解すべきだったんだ。

 腕を取ろうとした拍子にコンテナを押してしまい、水上さんの身体がこちらに倒れかけてしまう。

 ──危ない、このまま倒れたら重たい本やソフトが入ったコンテナと正面衝突する。


 そう思った僕は、咄嗟の判断で傾く彼女の、自分よりひとまわり小さな身体を抱き留めた。

 ……一瞬の間、鼻腔を汗と制汗シートの香料と、柔軟剤の甘い香りが刺激する。

 その匂いの名前を頭に思い浮かべた頃、

「すすみません、危なかったので、ついっ!」

 五センチもなかった距離を一メートルに離す。

「わ、私こそすみません、出過ぎたこと言って……」

 お互い赤面して、なんかいたたまれない雰囲気になってしまう。


「そ、そろそろ帰りましょう。あまり長居するような場所でもないですしっ」

 居心地の悪さを誤魔化すため、今しがたずれてしまったコンテナを元の位置に戻しつつ、僕はそう言った。

「そ、そうですねっ」

 水上さんも同意してくれたので、少々危ない雰囲気になりつつもなんとか僕らはお店から家路に向かい始めた。


 ……なんか、水上さんの目、瞬間的に死んでいたような気がするのは僕の思い違いだろうか。薄暗いところだったせいなのか、それとも……。

「…………」

 ぼそっと聞こえた女性の声……いやもうこの場合水上さんしかありえないのだけど、その声に体を震えさせて、思考を止めてしまう。……いや、まさかね。


「では、お疲れ様でした」

「お疲れ様です、八色さん」

 例によって、新宿駅の十一・十二番線下の階段で別れを告げる。僕と同じような仕事帰りの人が多数歩く階段を上がり、また半分を過ぎたところで振り向いてみる。

 ……やはり彼女はにこやかな表情のまま手を振っている。

 とりあえず後ろ手に振り返してホームに上がったけど……。


 こう、水上さんも香ばしい気がしてきた……? もしかして、僕懐かれている? それで済んでいればいいけど。

 類は友を呼ぶとよく言うし、カオスな職場に来る人もまたカオスならば……なくはない話ではない。

「いやいやいや」

 けど会ったばかりの女性をそんなふうに決めつけるのはよくない。そうだ。あれは事故だったんだから。……とりあえず、そう思うことにした。

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