第4話 のっぴきならない状況はいきなりやって来る。

 夜の新宿駅は、これから帰宅する人でとても混みあっている。

「じゃあ、自分はこっちなんで。お疲れ様っすー」

 トントンとその人混みの間を縫うように小走りで、浦佐は京王線の改札内へと入っていった。残りの三人は全員JRみたいで、浦佐とは別の改札を通っていく。


「水上さんは何線で帰るんですか?」

「えっと……尾久おくに住んでいるんで、埼京線で赤羽まで出てそこから上野東京ラインです」

 あれ? 水上さんの通う大学のキャンパスって南大沢だよね……。そっち側だと遠いんじゃ……。

「私の学部、二年生からはキャンパス変わるので、わざわざ引っ越すのも面倒で最初の一年は我慢することにしたんです」

 きっと思考を読んだのだろう、彼女はすぐに疑問に答えてくれた。

「……で、では、私はこれで。お、お疲れ様です」


 連絡通路の階段を上りきると、すぐに井野さんは中央総武線のホームへと向かいだした。

「うん、お疲れ様―」

「お疲れ様でした……。ところで、八色さんはどちらに住んでいらっしゃるんですか?」

 残ったふたりでまた話を続ける。

「えっと、僕は武蔵境むさしさかいってところでひとり暮らしですね。なので、ここのホームなんです」


「……武蔵境……ですか」

「はい。そう言えば、次の出勤日はいつでしたっけ」

「次は……明日です」

「あー、なるほど。明日は僕休みなんですよね。えーっと……」

 なるほど、早速二シフト目から僕と会わない日ができてしまったのか。僕は暇をしているので週五でバイトに入っているから、あまりそういうことは起きないだろうと思ってはいたけど……。


 スマホに保存しているシフトの写真を見てから、

「明日も浦佐と井野さんどっちもいるみたいなので、……そうだなあ、浦佐に見てもらってください。僕から彼女にラインしておくんで」

 そう説明した。すると、

「あっ、あの……ライン……交換してもらってもいいですか?」

 ライン、という言葉に反応したのか、水上さんはスマホの画面を僕に差し出してお願いしてきた。

「ああ、そういえばそうでしたね。いいですよ。あと、お店のグループラインにも招待しておくんで」

「あっ、ありがとうございますっ……」


 友達登録を済ませると、水上さんは嬉しそうに画面を見つめている。……そ、そんなにですか……?

「じゃ、じゃあ僕はこれで。気をつけて帰ってくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 そうして僕も彼女と別れ、ホームに上がり始めた。階段を半分くらい上がった頃に一度後ろを振り向いてみると、まだ下に残っていた水上さんが小さく微笑んで手を振っている。

 僕も軽く手を振り返して、そのまま発車ベルが鳴り響いている快速電車に飛び乗った。


 次に水上さんとシフトが重なったのは、三日後の木曜日のことだった。この日は僕と水上さんと、井野さんが出勤する日で、宮内さんはお休みだ。だから、ちょっとシフトは薄めだ。人数的には別に普通だけど、僕が水上さんにつきっきりになっているから事実上ふたりみたいなところはある。

 三シフト目になった水上さんは、もうレジに関しては完全に放置してもほぼ大丈夫になっていた。初日で教えきれなかったレジの業務も浦佐が教えてくれたようで。……まあ、あいつは一年働いているからな。


「ありがとうございました」

 帰っていったお客さんを見送ってから、レジに立つ水上さんに僕は話しかける。

「いいですね、もう見ていて安心できます。やっぱり吸収早いですね水上さん」

「あっ……ありがとうございます……」

 僕に褒められてポッと頬を少し熱くさせている彼女にさらに続ける。

「それじゃあ、そろそろ新しいこと教えちゃいますね。加工って言う作業なんですけど、こっち来てもらってもいいですか?」

 レジの前に張り付いていた彼女を、後ろにある作業台に呼ぶ。

「加工って言うのは、商品に値段の書かれたラベルを貼りつける作業のことで──」

 そうして、仕事の説明を始めたタイミングのことだった。


「おいっ! なに客にぶつかってんだよ!」

 有線の音楽が鳴り響いている店内に、野太い中年男性の怒号が聞こえてきた。その声に、店のなかにいる全員が視線を向ける。

 ……井野さんか。まずいな……こういう対応井野さんは大の苦手にしている。大人しい彼女だから仕方ないことなんだけど。

「ごめん水上さん、ちょっと離れるから、何かあったらカウンターに置いてある呼び鈴鳴らして」


 緊急事態なので致し方なく、僕はカウンターを出て現場に向かっていった。

 レジからギリギリ目が届く、文庫コーナーの一角。そこで井野さんはあわあわと涙目でテンパってしまっていて、……酔っ払っているおっさんが怒鳴り散らしている。

 ふたりの間に入って、こっそり井野さんの耳元で確認をする。

「……ぶつかって来られたってこと?」

 そう尋ねると、うるうると瞳を揺らす彼女はコクコクと顔を縦に振る。

「……じゃああとは僕がどうにかしておくから、その間カウンターで水上さんのこと見ていてあげて」


 井野さんはペコペコと僕に頭を下げてカウンターに逃げるように向かっていく。

「なんだ? 責任者か?」

 ……はあ。まあサービス業のバイトしていればこういうお客にもしばしば当たるけど、古本屋は酒飲んだ後に来る場所ではないだろ……。

「バイトリーダー的な立場です。うちの店員がぶつかって来た、ということでしょうか?」

 しかも片手に持っているの官能小説かよ……。扱いにくいったらありゃしない。


「そうだよ、棚見て回ってたらよ、さっきの若い女の店員が足ぶつけやがってよ」

 ……いや、絶対ふらついて歩いたあなたがぶつかったのが正解でしょ。と言いたいのをグッと堪えて頭を下げる。……スカッとする対応なんて現実じゃ取れない。少なくとも、僕には取れない。

「申し訳ありません、スタッフも注意して店内を歩いてはいますが、場合によってはどうしても避けられないこともございまして。あとで自分からも注意しておきますので」


 ただ、このおっさんはそれほど粘着するタイプではなかったようで、一度謝ると気をよくしたのか「わかればいいんだよわかれば」と言い残し、持っていた文庫を平台の上に置いて店を出て行った。

「はあ……酔った状態で来るんじゃねーよって話だよね。大丈夫? 井野さん」

 カウンターに戻った僕は、硬く結んでいた表情を少しだけ緩めて、井野さんの頭をポンポンと叩いてあげる。彼女は「ありがとうございます」と震える声で僕に呟く。


「……落ち着くまでスタッフルーム行ってていいよ。この時間はそんなに混まないし、涙目したまま働かれても困るし」

 井野さんはさらにお礼を言って、力ない足取りで一旦スタッフルームに下がっていった。

「さ、ちょっと茶々が入ったけど、加工の続きを教えますね……って? 水上さん?」

 隣に立っている彼女の顔を見ると、ちょっとだけ凍りついていて「……八色さんはそういう人ですし仕事だから仕方ないですよねそうですよね」とブツブツ独り言を話している。

「……み、水上さん?」

 すぐに彼女は「す、すみません」と反応してくれたけど……。だ、大丈夫かなあ……。

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