冷やし中華

『冷やし中華はじめました』


 濃い空色に赤い筆文字ののぼりが、いつもより強い風に胸を張っている。

 毎日歩く大学への道。ただの背景だった定食屋の前に現れた自己主張の強いそれを進行方向に睨みながら、パンプスの踵をアスファルトに突き刺して進む。


 あたしは、冷やし中華が嫌いだ。

 あんなに大々的に始めるくせに、誰も『冷やし中華終えました』なんて言わない。

 気づけば季節は過ぎ、記憶から薄れ、メニューから消えていく。


 うやむやにされた終わり。

 まるであたしの恋みたい。


 あいつとの始まりは今でも記憶に鮮やかだ。

 サッカー一筋で、勉強はさっぱり。先生に指名されて小さく困る様子は、まるで群れからはぐれた子羊で。

 隣の席のあたしが助け船を出してあげたのがきっかけだった。

 お礼を言うあいつが持ってきたのは、きれいな目と焼けた肌に、爽やかな笑顔。

 それなのに、部活に打ち込んでいる時はまるで真逆で、獰猛で激しい狼の群れのリーダーだった。感情が身体を抜け出してボールを追う、見ているだけで息の上がりそうなプレー。

 そのギャップに、あたしは夢中になった。


 今考えれば、恋に恋していたのかも知れないけど。

 形式が大事だと思ったあたしは下駄箱に手紙を忍ばせ、体育館の裏で告白した。

 結果は成功だ。

 友人たちに祝福され、クラスでは持て囃された。


 付き合って一週間、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月……。二人の記念日には恥ずかしがるあいつをショッピングモールまで連れていってプリクラを撮って、フードコートでケーキを食べた。あいつはいつもイチゴショートで、その子どもっぽさも最初は好きだった。


 最初は。


 あいつはただのサッカーバカだった。あたしを尊重してとかいって自分じゃなにも決めないし、着る服だっていつまでも彼のお母さんが買ってきたものだった。

 あいつの自主性を見てみたくてあたしは連絡を取らないようにしてみたけど、そうしたらあいつも連絡してこないなんて。


 結局そのまま、自然消滅だ。

 席が替わり、クラスが替わり。

 記憶は変わらないはずなのに、やがて家族からも友達からも触れられなくなって。そしてもちろん、あたし自身からも。


 恋の終わりなんて、そんなものなんだろうか。


 別に、あいつとの甘酸っぱい思い出は今でも嫌いじゃない。短くても絵に描いたような青春を送れたことは、大学生になった今でもあたしの宝物だ。

 だからこそ、もっと相応しい、絵に描いたような終わり方があったんじゃないかって。


 考えているうちに、冷やし中華ののぼりがあたしに並ぶ。おおげさに風に踊る姿を最後にもう一度、睨みつけた。

 ちょうどその時、一際強い風が横から殴り付けてきて。

 のぼりがあたしに倒れ込んでくるのが、スローモーションで見える。とっさに身体は動かなくても思考は意外に冴えるもので「罪のない冷やし中華を嫌ったあたしへの復讐なのかな」なんて思ってしまう。


 でも、冷やし中華の復讐が成就することはなく。

「大丈夫ですか?」

 一人の男の子が割って入っていた。

 のぼりを掴む繊細な白い手と、上から覗き込まれる長身。

 目尻の下がった瞼に縁取られた色素の薄い瞳は、まだ誰の色にも染まっていない。

 見とれていると、後ろ頭を掻きながら恥ずかしそうに彼は続けた。

「驚かせてごめんなさい。お姉さんの後ろ姿、綺麗だなって思って見てたんですけど……」

 彼は視線を道の先へと逸らす。

「その……正面は。もっと、綺麗でした」

 言い終えて目を固く瞑った顔は、とても子どもっぽくって。


 いろどりあざやか。あまくてすっぱく、爽やかな。

 誰にも知られず消えても、季節が来ればまたやってくる。


 やっぱりあたし。

 冷やし中華、好きかも。

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