掌編集
綺嬋
プロポーズ
それは、いつも通りの土曜日だった。
僕は、頭が沈む感覚で呼び戻される。
瞼の裏の世界に挨拶してくるのは、君とトーストの香りが作るあたたかなマーブル模様。
ベッドに腰かけた君が僕の髪を撫でる右の手つきが、まだ夜と朝の淵をふらつく意識をいたずらに夜へ手招きする。
反対に、僕の左手を優しく拾い上げる左の手は水仕事を終えたばかりでひんやりしていて、りんと朝に導いてくれる。
やがて溶けていた意識が冷えてかためられると、僕は気づく。
君の左手は微かに震えていて、もう右手も僕の髪に触れていない。
何かよくないことでもあったのだろうか。
切り開いた視界にあったのは、僕の左の薬指に結ばれる、白銀の環。
七色を湛えた光の結晶を実らせたそれは、三十六度五分のぬくもり。君がずっと抱いていた証。
驚いて見上げた視線の先にある、穏やかな春の朝が形を得た柔らかな笑顔。指環を通しおえた君は、もう一度僕の髪を撫でた。
「先を越されたって、思った?」
そうだ。
僕は今日、君にプロポーズしようとしていたんだった。
昨日の夜、どんな言葉で伝えようか時計の針から滑り落ちてしまうまで思案していたっていうのに。
君にはいつも、負けてばかりだ。
「残念だけど、今回は私の負けなの」
僕の青い吐息をよそに
「寝言でプロポーズなんて。世界中で、あなただけよ」
それは、いつも通りの土曜日だった。
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