第12話 如意法術
地上に降りた二人は、「宿坊」という寺が運営する宿に居候をさせてもらっていました。ここは寺の修業を経験したいという僧侶候補の人や、一般の人々が格安の料金で利用できる宿泊施設です。二人は旅の修行僧、ということで本館の離れに住み込みをさせてもらい、毎日宿泊客のためにお務めを果たしていたのでした。二人の唱えるお経はとても評判がよく、連日宿泊客や見物客が絶えることはありませんでした。食べ物と寝る場所には困りませんでしたが、二人が日常に必要なこまごまとした雑費にかかる最低限の金銭は必要だったので、これは連日街へ托鉢に出て工面していたのでした。
山犬が宿に戻ると、狐はとうに帰っていた様子で、頬ずえをつきながら山犬を待っていました。
「おかえり。ずいぶん遅かったね。あの娘さんの要件って、なんだったの? 」
狐は早速帰宅した山犬に訊ねました。
「お母さんの前で観音経を唱えてほしい、って・・・」
山犬は、娘から頂戴した白い袋を狐に手渡しながら答えました。狐が中身を出してみると、結構な枚数の紙幣が入っていました。
「わお! すごいじゃん、高僧が戴くお布施みたい! あんた、富豪の葬式にでも呼ばれたの? 」
「ちがうよ! 」
「? なにムキになってんのよ? 」
事情を知らない狐が言った冗談とはいえ、あまりにタイムリーな内容だっただけに、山犬はつい感情的になってしまったのです。
「別に。ただ、葬式じゃない、って言いたかっただけなんだ、けど・・・もう明後日には葬式になるんだろうな・・・」
と、後半はボソボソとした話し方になりました。
「?」を浮かべる狐に対し、山犬は狐の前に静かに座ると、弱弱しい口調で事の成り行きを語り始めました。狐が立ち去ってからあの娘と母親の入院している病院まで行き観音経を唱えたこと、そこで死神に出くわした事を詳しく話したのです。そして、予め天の定めた命数はどうしようもない、という現実を前にして自身の力不足を思い知らされたことに触れ、死神から教えてもらった『如意法術』の存在について、狐にきいてみたのでした。
「ああ、如意法術ね。あたしも噂には聞いたことがある。地上界はおろか、天界をも自在に動かせる秘法中の秘法術で、鬼神も使役できるとか・・・」
「やっぱり知ってたんだ! 」
山犬は狐の博識ぶりに感嘆しました。
「いや、これは噂でしかないから」
「どこかに隠してあるのかな? 」
「天庭の書院にあるとかないとか・・・」
「やっぱり知ってるんだ! 」
「いや、だから噂だって」
「噂でも情報はもってるじゃん。それに噂、噂って、そんな噂話、一体どこで誰とするんだよ! 」
山犬は少々、イラッとして狐に言いました。すると狐は
「えっ、誰って・・・カラスとかフクロウとか・・・あとコウモリとか、そのあたり」
本気なのか冗談なのか判断のつかない口調で答えたのでした。
「・・・・・」
山犬はしばらく考えてから狐に言いました。
「ねぇ、探してみようよ」
「如意法術を? 存在するかどうかもわからないのに? 」
「うん、でもありそうな場所はわかってるんだし」
「あんたさぁ、天庭の書院、ってどこにあるのか知ってるの? 」
「知らないけど・・・かのん様ならご存知かも」
「教えてくれるわけないじゃん。逆に何でそんなことを訊くのか、って質問攻めに遭うがオチだわ」
「絶対に悪いことには使いませんから、ってお願いしても無理かな・・・だって、この法術さえ使うことができれば、多くの人々を救えるんだよ。今日出会った娘さんの母親だって若くして死ぬこともなくなるんだ。それに、世界のあちこちで起こっている不幸な出来事・・・病気や飢餓、虐待や差別、暴力や略奪、偏見や弾圧、貧困や諍い・・・これら全てが解決できたならどんなに平和で豊かな世界になることか。如意法術を使えばなんだって解決できるっていうのに、どうして秘密にして隠しておくんだろう? 」
山犬は眉間に深いしわを寄せ口惜しそうに狐に言いました。
「そうね、山犬の言うとおり。どんなにすばらしい法術でも使わなければ宝の持ち腐れよ」
狐は山犬の言葉に深く同意しました。それからしばらくの間、腕組みをしながらじっと空の一点を見つめ黙りこくってしまったのです。
「ほんの少しでもいいからどんな法術があるのか知りたいんだ。それで少しでも人々を助けることができて、皆が豊かで幸せな暮らしができるなら・・・何かいい方法はないかな」
山犬は、博識な狐ならば何かしら解決方法を導き出してくれるのではないか、と探るように言ったのでした。すると、
「あのさ、あんたが話した中でずっと気になってたんだけどさ、キーマンは死神よね」
と、ようやく狐が口を開きました。
「キーマン? 」
「そう。死神は、直近で死ぬ運命にある人の元にやって来て冥府まで連れて行く、っていう流れ。これって世界共通じゃない? 」
「日本だけじゃない、ってこと? 」
「というよりも、仏教であれ、神道であれ、キリスト教であれ、表現の違いはあれど、死者をあの世まで連れて行く、っていう役割は一緒でしょう」
「ああ・・・なるほど、だから? 」
「死神は様々な国から死者を連れてくるでしょう? この時点では宗教など関係なく連れてくるのは信仰の垣根がない場所じゃないのかな。で、一旦そこに運び終えたところで故人の信仰や宗教観に即して、天国なり地獄なり、行き先が決められるんじゃないかな。でもそれを決めるには、何かしらの判断基準が必要でしょう。それはどこで何を参考にするのか、って考えたら・・・死神の言った天庭の書院に行き着いたのよ。つまり天庭の書院は全ての宗教の共用部分にあたる場所で、世界中の神々の管理監視の下、全宗教・宗派に関する重要事項や秘法術が保管されている場所。だからきっとそこに如意法術も保管されているのよ 」
「死神は書院の存在を知っていた。それで、閲覧資格が必要とか言ってたわけか・・・」
「だとしたら、天庭の書院は死者の受け入れ準備のため、死神が死者を運び込むその瞬間だけ開かれているんじゃないかな」
「死神が死者を運び込む瞬間・・・」
山犬は呟きながら、母親は明日の早朝、逝く・・・と、死神の言った言葉を思い出します。狐も同じことを思っていたのでしょう、
「死神は、明日の早朝母親を連れて行く、ってあんたに予告したんでしょう? だったらその時が天庭の書院を覗けるチャンスね」
と、目を光らせて言いました。
「でも、どうやって? 死神にはくれぐれも邪魔はするなよ、って言われたし」
山犬は恐れるように言いました。死神の存在が不気味でこれ以上は関わりたくなかったからです。しかし狐は平然としていました。
「そんなもん、スルーしときゃあいいのよ。見つからなきゃわからないんだし。それより、いい考えが浮かんだわよ、題して〝死神ストーカー計画〟!」
「ス、ストーカー・・・!? 」
「さっき私が話した天庭の書院は憶測でしかないからさ、それを確かめるために、まずは冥府へ向かう死神をストーカーしてみるの。それで本当に書院にまで行き着けたらシメたものよ。閲覧にまで至るかどうかはわからないけれど、とりあえず、死神の後を追いかけてみようよ。だって他に確かめようがないでしょう?」
山犬はあの不気味な死神とは関わりあいたくはなかったのですが、狐の言うとおり、他に方法も思いつきません。そして何より、如意法術を覗き見するため、不承不承にも狐の計画に乗らざるを得ませんでした。
日付が変わると二人は、かつて観音菩薩と幾度となく地上と天界への往来をした時のように、深い瞑想に入ってゆきました。徐々に二人の姿は薄れてゆき、地上での姿かたちが消えてなくなると同時に、狐と山犬は天界の入り口に到着したのです。ここまでの事ができるようになるまでに、二匹は何百年という厳しい修業期間を要しました。最初は観音菩薩の従者としているだけでしたが、法術を見よう見まねで学び始めてから数百年の修業期間を経て、ようやく天上と地上とを自由に行き交いができるようになったのでした。
地上界から天界に入るには、必ずここを通らねばなりません。二匹が居る場所はまさに、地上と天上とを結ぶ長い渡り廊下のようなところだったのです。狐と山犬はそこで死神が来るのをじっと待っていました。どれほどの時間が経ったことでしょうか、黒いシルエットがゆっくりとこちらへ歩いてやってくるのが見えました。狐と山犬は、雲が分厚くかたまっている空間に身を潜めてシルエットがやって来るのを待ちました。
やがて二匹の前を通過する全身黒ずくめの細身の影は、昨日山犬が病院で出会った死神に間違いはありませんでした。ただひとつ違ったのは、娘の母親を右肩に担ぎ左手で持つ鍬をロックするように引っかけていたことでした。何としても獲物は渡さない、という死神の執念のようなものを山犬は感じました。
死神が通り過ぎたところで、二匹は雲の切れ目を伝いながらこっそりと死神の後を追います。長い長い距離を歩いて行った先に、ようやく天界への入り口に到達しました。入り口、といっても絢爛豪華な門や扉があるわけではなく、そこは傍目では何もない空間です。しかし、見る者が見れば、入り口箇所がどこなのかがわかるのです。つまり、天界へ入ることができる者のみ入り口が見える、ということなのです。死神が入り口の空間を通り抜けたのを見て、狐と山犬も難なく入り口を通り抜けました。そして、死神を追って彼が向かう先を見ると、これまで狐と山犬がみたこともない世界が広がっていたのです。そこは壁や仕切りなど一切ありません。床面にマーブル模様の石が敷き詰められ、まるで豪奢な高級マンションのエントランスのように、やけにだだっ広い空間・・・そこへ死神は入っていったのです。狐と山犬は顔を見合わせました。これまで観音菩薩と共に幾度となく天界への入り口は通っていたのですが、ここには〝何も存在しない〟のが常で、このような光景が見られたのは今回が初めてだったからです。
「やっぱり、あたしの見立ては正しかったようね。あそこが天庭に違いないわ」
狐は鼻の頭を掻きながら呟きました。山犬は狐の知能の高さにただただ驚くばかりです。そこで二匹は死神に続いてそこへ忍び込んでみたのです。どこへ行ってしまったのか、死神の姿ははいつの間にか消えていました。
エントランスホールのように広い場所に狐と山犬の二匹は困惑していました。何せ身を隠す場所がどこにも見当たらないので、いつ死神に見つかってもおかしくはなかったのです。ドギマギしながらマーブル模様の敷石の上をウロウロしていると、突然、床面から大理石の台座が現れ出たのです。最初に描いたイメージがマンションエントランスホールのせいでしょうか、これも高級マンション入り口にある、電子ロックキーの操作台のようにみえます。山犬はびっくりしておもわず尻尾が後足の中に引っ込んでしまいましたが、狐はほんの少しビクッとしただけで、もう次の瞬間には優雅な白い尻尾を立てながら台座にひょい、と駆け上って台の上に何があるのかを確認しています。肝が据わってるな~、と山犬が感心していると、狐が手招いて言いました。
「ちょっと、見てよ、これ」
山犬も台座に飛び乗ってみました。
「あっ」
台座の上にはツルツルとした黄金色に光る石板があり、そこに『儒』『神』『仏』『道』『密』『回』・・・といった宗教らしき項目が刻まれていました。他にもびっしりと文字のような記号のようなものが刻まれていますが、二匹が読めた項目はこれだけでした。
「何これ、宗教ごとに区切られてるみたい」
狐は目を細めながら一区切りごとに文字を追ってゆきます。しかし、『如意法術』という項目は見当たりません。そこで山犬は、
「まずはタッチパネルのように選ぶのかな? 」
と言って、大胆にも『神』『仏』『道』『儒』この辺りをパッ、パッ
、パッ~と肉球で触れて行ったのです。すると、また別方向の床面から台座が次々と現れ出てきたではないですか。二匹が恐る恐るそれぞれの台座に飛び移ってみてみると、山犬が先ほど肉球で触れた『神』『仏』『道』の書物らしきものが、台座ごとに玉の函に収められていました。狐と山犬は現れた四台の台座を前にキョトン、としていました。やがて狐が
「とりあえず『仏』を見てみようか」
そう言って玉の函に触れるも、それは蓋が寸分のズレなくピッタリとくっついていています。開ける方法がわかりません。さて困りました。山犬が
「どうする? 」
と困った表情で言うと、狐は落ち着き払って答えました。
「こういう時は大概、何か承認を求めているのよ、現代で言うパスワードみたいなもんよね」
「パスワード? 」
「そう。でもあたしたちには閲覧資格がないから、せっかくこうやって見たい項目を出してきてくれたっていうのに・・・」
どうやら閲覧資格がある者が瞬時に用立てが済むように、石板で宗教を選択した後、来訪者の希望した項目を提供する仕組みのようです。
山犬は、それが如意法術なのかどうかは別として、どうしても玉の函に入った中身を見たい、と思いました。そこで、
「師匠であるかのん様の真言を唱えて、決して邪なことには使いませんから、って誓約をたてたら見せてくれないかな? 」
と言うと、狐は
「そんな、情で訴えかけて許可するようなシステムだとはおもえないんだけど・・・」
と半ば呆れた様子でこたえました。しかし、山犬は
「そんなこと、試してみないとわからないよ」
そう言って、師である観音菩薩の真言を口にし、書物を見ることは決して邪な心ではなく、真に法術を極めたいが故の求道心からなるもので、もしもこの術を邪道な目的のために使ったならば、術を封印していただいてもかまいません。と誠心誠意誓いを立てたのです。
すると・・・玉の函はウソみたいにすんなり開いたのです。
狐と山犬はお互いの顔を見合わせて頷いた後、山犬がゆっくりと函の中から『仏』と見て取れる書を取り出しました。それはことのほか重くずっしりとしていました。書物、ではなく本のような四角い石、でした。震える手でその書物のように重い石を探っていると、厚みのある部分が半分に区切られていることに気付きます。そこで、項をめくるように開けて見ると、数十項目に分けられた文字が記してあったのです。そこに記されていたものとは・・・・・読めません!
「え~・・・」
山犬が失望の声を出すと、狐がすかさず、
「ほら、早くメモ用紙を出して」
と山犬に催促をします。山犬は、腹の部分にペタリと貼り付けていたメモ用紙の束を外して狐に手渡しました。山犬は如意法術が閲覧できた時に備え、予め筆記用具を自身の腹に貼り付けて持ってきていたのです。
狐は山犬から受け取った用紙を石板に記されていた文字の上に重ねると
「今読めないなら、写しとって帰ってからゆっくり調べればいいでしょう。たぶんこれは、梵字か・・天竺文字ね」
と言って手早く紙の上を擦ってゆきました。石板に刻まれた文字を紙に擦りつけておいて、後で鉛筆か何かで色をつければ文字が浮かび上がってくる仕組みを利用するものです。山犬もそれに倣い狐の反対方向の項目から擦ってゆきました。
狐は次に『道』の書が入った台座に飛び移り、道教に関連したあらゆる呪文やマントラを唱えましたが玉の函は寸分も動きませんでした。狐は『道』の書はさっさと諦めて次に『神』の台座に移りました。
『神』とは神道のことに違いない、と確信をもっていましたが、どうすれば函を開けられるか、思案し、ちょうど『仏』の項目を擦り終えた山犬を呼び寄せました。
「ねえ、神道だけど、どうしたら函が開くと思う? ちなみに、『道』の函はマントラとか呪文とか唱えてみたけどダメだった」
狐が相談すると山犬は
「『神道』だったら祝詞を奏上すれば開くかな」
と、提案したのです。そこで今度は二匹で祝詞を奏上してみたのです。すると玉の蓋がズレて、函はすんなり開いて見せたのでした。
狐と山犬は師である観音菩薩や阿弥陀如来の元、仏門の世界で修業を重ねていましたが、日本国の建国神である神々の存在もしっかりと敬意を込めて学んでいました。ゆえに神道への造詣も深く、基本中の基本である祝詞は難なく奏上できたのです。
函の中身はやはり『仏』の書と同じ石板でした。こちらも開くと、いくつかの項目ごとに文章がびっしり記してあります。書かれてある内容は達筆な隷書で日本文字のようでないような、ところどころ?な文字や漢字も入っており、やはり現時点で二匹には読むことができませんでした。なので、こちらも仏の書と同様に紙に擦りつけて写し取ることにしたのです。
『神』の書の半分を擦り取ったところで
「おい! お前たち、そこで何をしている! 」
しわがれた怒声に驚いた狐と山犬が声のした方を見ると、死神が鎌を振りかざしてこちらに突進してくるところでした。二匹は大慌てで写し取った用紙をかき集め、山犬がそれをまとめて咥えると一目散に逃げ出しました。
死神は必死に追いかけますが、四足歩行の獣の脚にはかないません。死神が全速力で走ってゆき天界への入り口が見えた時には、二匹の姿はもうどこにもありませんでした。
命からがら地上に戻った二人は、宿坊の離れにて早速、持ち帰った用紙を鉛筆で塗りつぶし、文字を浮かび上がらせる作業に取り掛かっていました。
「いや~、それにしても危ないところだったね」
山犬が疲労の色を滲ませながらしみじみ言うと、狐は
「真の偉業を成し遂げるためには必要な試練だったのよ。いいじゃない、結果として天書を手に入れることができたんだから。〝灯はともる飯はできる〟ってやつよ」
と応えながら、すべての文字を浮かび上がらせてゆきました。
「それにしても、何が書いてあるのかさっぱりわからん」
山犬は塗りつぶされた用紙を眺めながら言いました。その間にも狐は、梵字の解説書や天竺文字など様々な参考文献をネット検索していきます。が、どれも当てはまるようなものは見当たりません。狐は顎に手を当てて溜息交じりに言いました。
「どうもこの天書にはロックがかかっているようね」
「ロック? 」
「そ。ロックを解除しないと書かれてある内容を完全に理解することが出来ないようになってるみたい。ああ、面倒くさい! もう、ほんっとに頭にくる! 」
これだけの労力と時間を費やしたというのに、ただの一行も理解できないことに狐は苛立っていたのです。その時でした。突如、まぶしい光が差し込んできて、二人を包み込んだかと思うと、
「狐と山犬、天界の書を写し盗った紙を持ってすぐに師の元へ参りなさい」
という声が響き、狐と山犬はその眩い光と共に消えていってしまったのでした。
「あなた方は本来獣であったにもかかわらず、人間に成ることを願い、観音菩薩のもと、長年の修業を経て、ようやくそれが叶いました。そもそも修業の目的は、人々の苦しみや悲しみを癒すため。そのために法術を学び、地上に降り立ったのではなかったのですか? それが、天庭に忍び込み、閲覧資格のない天書を写し盗るとは・・・これは 一体、どういうことでしょうか」
ひざまづき首を垂れる狐と山犬の前で、阿弥陀如来が問いかけます。
後方には、阿弥陀如来の脇侍である観音菩薩と勢至観音も控えておられます。
するとじっと項垂れていた山犬が頭を少し上げ口を開きました。
「おっしゃる通り、私どもは人々の苦しみや悲しみを少しでも解消するために経や真言を唱え、仏の教えを広めてまいりました。しかしながら、この地上界はあまりにも、不公平や不幸な出来事が多すぎると感じておりました。そこで、たまたま出会った死神から如意法術の存在を知ることになりました。私はぜひともこの法術を活用し、地上界を争いや不平等、貧困、飢餓のない、誰もが幸せで豊かになれる平和な世界に変えたいと願いました。その一心で天上界の秘術書を覗き見たのです。決して邪なことは考えておりません」
山犬はそう訴えたのです。
「あの天書は閲覧資格のない者は開けられないはず。どうやって開けたのですか」
阿弥陀如来が続けて詰問します。
「はい、恩師である観音菩薩の真言を唱え、決して悪事を働かない、と誓いをたてると函が開いたのです。開かなければそのまま諦めるつもりでいました。しかしながら、天書の中身は見ることはできても、閲覧資格がないということで内容は未だ一項目も理解できておりません」
山犬は恩師の前で状況を正直に話しました。そして
「確かに、天庭の書院に忍び込み、禁断の天書を盗み見したことはよくないことです。でも、この行為は、純粋な求道心から法術を極め、未だ諍いや貧富の差が絶えない地上の世界をよくしたい、人々の様々な悲しみや苦しみを少しでもなくしたい、という純粋な気持ちからきたものなのです。どうかご理解いただき、赦していただけないでしょうか」
と、今度は涙ながら切に訴えたのでした。後方で見守っていた観音菩薩と勢至観音はこの山犬の切実な訴えに、心を痛められたご様子で、とても悲しげな表情を見せて立っておられました。しばしの間沈黙が続き、やがて、それまで黙っていた狐が口を開いたのです。
「秘術というのであれば流伝を禁じるもの。しかしながらこの秘術書は項目ごとに分けられ文字となって記されていました。本来、文書とは流伝するものです。そうであれば世に広く流伝すべきものであるはずです。どんなにすばらしい法術でも使わなければ宝の持ち腐れではないでしょうか」
先ほどの山犬の訴えとは対照的な狐の言葉に、脇侍である観音菩薩と勢至観音は呆気にとられてしまいました。
「屁理屈はおやめなさい。狐、どうやらあなたは今回の件でまったく反省していないようですね」
すかさず阿弥陀如来が一喝されました。
それを聞いた山犬は、額を地面に押し付けながら
「今回、天界の秘法術を盗み見するにあたり、私から狐に協力をお願いしたのです。どうか責めるなら私を責めて下さい。狐は私に知恵を貸し助けてくれただけなのです。どうかお慈悲を」
と、必死に狐をかばいました。その様子をご覧になられた阿弥陀如来は観音菩薩と勢至観音の方を振り返って、顔を見合わせ、それぞれが困惑した表情を呈されたのでした。やがて、阿弥陀如来が山犬に仰いました。
「なるほど、わかりました。ところで・・・、あなたがそこまでして庇ってやった狐は一体どこに行ったのですか? 」
「!?」
山犬が気付くと、隣に居た狐の姿はありませんでした。天書を写し取った紙と共に忽然と消えてしまったのでした。
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