第11話 母を見舞う

 現代の日本国でのおはなし。

 それは令和の時代になって間もない頃のことでした。 

 その日、山犬は地下の某有名デパート前付近にて托鉢を行っていました。すると、一人のひどく顔色のすぐれない小柄な若い女性が近づいてきて、山犬の持つ鉢の中に紙幣を入れました。この不景気なご時世、小銭でも入れてくれる人なんて滅多にいないというのに、紙幣だなんて・・・山犬は驚きながら右手に持っていた鈴をチリリン、と鳴らし施財の偈(せざいのげ)を唱たのです。

財法二施(ざいほうにせ)

功徳無量(くどくむりょう)

檀波羅蜜(だんばらみつ)

具足円満(ぐそくえんまん)

乃至法界(ないしほっかい)

平等利益(びょうどうりやく)

女性はもうその場を立ち去ろうとしていましたが。山犬は

「あの、ぜひあなたのためにお経を唱えましょう」

と声をかけてみました。するとその女性は少し困惑した様子で

「それじゃあ・・・私の母のために、お願いします」

と、恥ずかしそうに小さな声で言いました。山犬が

「はい、承知しました」

と言うと、女性が周りをキョロキョロと見ながら

「あの、長くなります? 」

と言ったので、

「あ、では、観音経だけを手短に」

山犬は気を利かせて答えました。

「では、それでお願いします」

そう言って女性は静かに、僧侶に扮した山犬の経をきいていました。ところが、しばらく経ってその女性は、そわそわとした様子で腕時計を確認し山犬に軽く会釈をしてから足早にデパ地下の中へと入っていってしまったのです。山犬はデパートのガラス越しに見える小さな女性の姿を目で追いながら、思いました。現代の人々は何と忙しなく生きていることだろう、と。


 その女性は百貨店の地下食料品売り場を忙しなく歩き回っていました。平日の昼を過ぎた頃だというのに、今日はいつもよりやたらと人が多いなぁ、と思いながら目当ての品を探していたのです。リカーショップの前を通りかかると

「ぜひ試飲してください、今年は出来がいいんですよ」と男性店員に呼び止められ、そこでようやく気が付きました。今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日だと。女性は綺麗にディスプレイされたボジョレーワインを眺めながら、

「いえ、私は飲まないので・・・すいません」と試飲を勧めてくれた男性店員に詫びながらリカーショップを後にしたのです。そして

「お母さんが元気だったら・・・喜んで買って帰るんだけどね・・・」と力なく呟いたのでした。

 母親の異変に気付いたのはちょうど一年前。予約をしていたボジョレーワインに、ローストビーフやカマンベールチーズ、ホウレンソウのキッシュに生ハムといったオードブルを買って帰り、母親と二人でささやかな御馳走を愉しんでいた最中でした。母親が急に胃の辺りの痛みを訴えて顔を歪めたのです。すぐに胃薬を飲ませ、二時間ほど経った頃、ようやく痛みも落ち着いたのですが、その後もこういった症状が続いたのでした。痛みだすのは決まって食後。胃の辺りから背中にかけて刺し込むような激痛が走るということでした。数日後に近くのクリニックで診てもらうと、すぐに精密検査を受けるように、と言われ大病院の紹介状を手渡されたのです。大病院での長い長い待ち時間の後に伝えられた結果はあまりに非情なものでした。 ――― 末期の膵臓ガン

 膵臓の膵頭部に出来た約三センチほどの悪性腫瘍は周りの血管をも巻き込み、更に膵管を通して肝臓にまで転移していました。もはや手術での切除不可能なステージ4bだったのです。医師は「出来るだけのことはやってみましょう」とすぐさま抗がん剤治療を開始しました。ご多聞に漏れずこの母親も抗がん剤の副作用に苦しんだ一人でした。脱毛、体力低下、食欲不振、爪の変色や皮膚粘膜の炎症・・・等等。けれど、巷でよく耳にする抗がん剤特有の吐き気は、ほとんど見られませんでした。担当している看護師によると

「最近の制吐剤は患者さんの苦痛を和らげるため、めまぐるしい進化を遂げているんです」とのこと。

だったら抗がん剤の方もガン細胞を殲滅させるようなめまぐるしい進化を遂げてほしいものだ、と切に願わずにはいられない・・・程に、母親の膵臓ガンには太刀打ちできなかったのです・・・。

 数日前にあの大病院で母親は黄疸を防ぐ為のステント挿入手術を受けた後、とうとう担当医から余命宣告を受けたのでした。

「これ以上抗がん剤を投与しても副作用のデメリットの方が大きいと思われます。大変申し上げにくいのですが・・・もってあと二ヵ月程・・・今後は少しでも苦痛を失くすための緩和ケアへの切り替えをお奨めします」

 事実上、医師に見放された結果となり、母親は今、消化器内科の病室から緩和ケア病棟へと移されたのでした。肝転移したガンが大きくなるにつれ、彼女の身体は衰弱の一途を辿っていました。食べることはもちろん、あんなにおしゃべり好きだった母親がほとんど口を開かなくなったのです。いつも眉間に深い皺を作り目を瞑って、肝臓疾患からくる特有のダルさと重さと闘っていました。ガン特有の痛みはオキノームという強力な痛み止めで緩和されていたのですが、胃を荒れさせないためにはやはり何か飲食をさせなければならなかったのです。何を食べたいかと聞いても「何も欲しくない」という悲しい返事ばかりで埒があきません。ならば、と母親が大好きだった、デパ地下でしか販売していない絹のような滑らかさが売りの高級プリンを用意しよう、プリンならば高たんぱくでカロリーもそこそこあるし、何よりあのヒンヤリとしたなめらかさが、抗がん剤で炎症を起こしてしまった口内の粘膜を刺激せずに飲み込めるだろう、と。

 そして女性はデパ地下の洋菓子店でプリンを買い、母親の居る緩和ケア病棟へと急いだのでした。

「お母さん、来たよ」

・・・相変わらず返事はありません。嗚呼・・・あと何日、母と一緒に居られるのだろう・・・娘は入り口ドアに背中を向けて横になっている母の姿をみて涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら

「今日ね、お母さんの大好きだったプリン買ってきたから、痛み止め飲む前に一緒に食べようね」

 明るい声で話しかけます。すると母親はゆっくりと顔を上げ、苦しそうに身体を仰向けにしました。そして

「ありがとうね」

か細く擦れた声で返したのです。

「今日はねボジョレー・ヌーボーの解禁日って知ってた? お母さんワイン好きだから買ってあげたかったけど、今は病気を治す方が大事だからね。来年、元気になったらまた一緒に飲もうね」

 来年のボジョレー解禁日に母が生きているはずもないと判ってはいても、何かしら期待をもたらす言葉をかけずにはいられなかったのです。ボジョレーどころか、年を越せるかどうかも判らないという状況だというのに・・・無理に明るく発した声はあまりにわざとらしく、静まり返った病室に虚しく響きます。母親は軽く頭を縦に揺らしただけでした。娘は自分の発言を少し後悔しました。このまま、静まり返ったこの部屋で死にかけの母を目の当たりにし、涙を流さないように、気丈に振る舞うことは到底できそうになかったのです。でも、すぐに考え直しました。今はまだメソメソとしている場合ではない。余命宣告を受けたからと言って、それが百パーセント当たるという確証はどこにもないのだから。現に母親はこうして娘のために必死に頑張っているではないか。そんな母親に対して泣き顔なんて見せている場合ではないのだ。たとえ見え透いたウソの励ましでもかまわない。それで少しでも長く生きてくれるのなら・・・。娘はそう心に誓ったのです。そして

「ねえ、夕方のニュース始まるからテレビつけていい? きっとボジョレー解禁の様子も見られるよ」

 そう言ってテレビをつけた瞬間、そこへ、ノックの音が聴こえました。娘がドアを開けると、いつもの薬を持って看護師が部屋に入ってきました。娘は時計を見てああ、もうそんな時間なのだ・・・。と思いました。末期ガンと診断されてからというもの、時間が経つのが物凄く早い・・・。それはまるでガンの増殖スピードと並行しているかのようでした。必死の思いで抗がん剤治療を行うもそれをあざ笑うかのように、母親の膵臓に居座る悪性腫瘍は驚くべき速さで増殖・転移を続けていたのです。残されたわずかな時間が着実に過ぎていく・・・あと何日、一緒に過ごせるのだろう・・・またその言葉が娘の頭を過ぎりました。

「どうですか、お痛みはありませんか? 」 

女性看護師が母親に話しかけるも、彼女は無言でテレビの画面を凝視しています。

テレビ画面では、全国各地の仏閣にある巨大な仏像が紹介されていました。母親はそこに映っていた観音菩薩の映像をじっと眺めています。

「お母様は今日、何か食べられましたか? 」

 末期患者のこういった無言の対応にも慣れているらしく、この女性看護師は今度は娘に話かけました。

「いいえ、朝から何も・・・だから、今日は母の好物のプリンを買ってきたんです。痛み止めを飲む前に、テレビでも見ながら一緒に食べようと思ってたんですけど」

「ええ、そうですね。何かお腹に入れないとね」

看護師はやさしく言いました。そして母親への投薬を済ませると静かに部屋から退出したのでした。相変わらず母親はテレビの画面を食い入るように眺めていました。娘が

「チャンネルを変えようか? 」

と訊いても、母親は微かに首を振りじっとテレビを見ています。やがて、枯れ枝のような母親の手が動き、プルプルと震えながら合掌をしたのです。テレビ画面では観音菩薩像の前で僧侶が経を唱えていました。

「あ、観音経・・・」

そう呟いた娘は、観音経を唱える映像を合掌しながらじっと見続ける母親に話しかけたのです。

「お母さん今日ね、私、托鉢をしているお坊さんに観音経を唱えてもらったよ」

娘はこの言葉に母親が少しでも反応するかと期待しましたが、無表情のままでした。母親は相変わらず合掌したままテレビの観音経を熱心に見聞きしていたのでした。娘はそんな母親の姿を眺めながら、先ほど出会った僧侶のことを思い出していました。

 いつもなら、托鉢しているお坊さんなんて気にも留めなかったのに、今日はなぜか、お布施をしたい気分になったのです。

あの細身のお坊さんが、あんな人ごみの雑踏の喧騒の中で正面のただ一点のみを見つめ、無心で経を唱える姿に、何かしら心惹かれるものが湧いてきたのでした。気が付くと、自分でも不思議なくらいの自然な流れでお布施を鉢に投入していたのです。呼び止められたのは意外でしたが、少し嬉しくもありました。残念ながら母の薬の時間が迫っていたので、お経を最後まで聴くことはできなかったのだけれど・・・。そして今、その母が観音経を熱心に聴いている・・・これはただの偶然?


 翌日、娘はまたデパ地下へと足を運びました。しかし、今日の目的は絹のようになめらかなプリンではありません。娘はデパ地下の入り口付近に必死に目を凝らし、ある人物を探していたのでした。その人物は昨日とほぼ同じ場所に立って托鉢をしていました。娘は僧侶の姿を見つけられたことに安堵し、駆け寄っていきました。そして、少しはにかみながら

「こんにちは。昨日はお経の途中で失礼をして本当にごめんなさい。あの・・・憶えてます? 」

と話しかけたのです。すると僧侶は顔をあげ、怪訝な様子で

「あー・・・多分あなたが話をしたいのは違う修行僧でしょうね」

と答えたのです。娘はぎょっ、として網代笠の下にある僧侶の顔をよくよく見てみると、色白の狐に似た女性のような顔立ちをしているではありませんか。人違いに気付いた娘は慌てて

「す、すいません!! あの、私、てっきり昨日のお坊さんだと思って、あの、・・・ほんとうに、すみませんでした!」

そう言って、足早に立ち去ろうとしました。しかし、この女性のような僧侶は

「まぁ、まぁ、ちょっと落ち着いて。昨日ここで托鉢していた者は私の旧知の仲です。なにやら大事な用があるようですね。私が会わせてさしあげましょう。付いてきて」

と言ってスタスタと歩き始めたのです。娘は戸惑いながらも、間違えた自分に非がある上、親切にも昨日の僧侶のところに案内をしてくれる、というのだから、後を付いていくしか選択肢がないな、ということで、素直に従って行ったのでした。

 娘は前を歩く細身で小柄な僧侶の後姿を見ながら、何で間違えたんだろう、と思いました。どちらの僧侶も細身ですが、昨日のお坊さんの方がずっと長身で、どちらかというと筋肉質な体型をしていました。今、前を歩くなで肩で中性的な僧侶とはシルエットだって全然違っているのに、と。頭に網代笠を被り、足に脚絆、手に鉢と鈴を持つ托鉢スタイルだけで同一人物と決めつけてしまったのです。そして、まさか托鉢しているお坊さんが数人いたなんて、考えもしなかったから、単純に間違えてしまったのでした。

 地下から地上へと続く上りエスカレーターに乗り、ターミナルへと続く商業ビルのフロアを横切って国道沿いに出ました。道路向かいには郵便局の本局ビルが見えています。僧侶はそこで立ち止まって振り返ると、大きな郵便マークの看板の下を指さして

「ほら、あそこ」

と言い、

「今日は私がデパ地下で、あっちが郵便局のローテーションなのよ」

そう言いながら、郵便マークの下で托鉢を行っていたもうひとりの僧侶の方に近づいてゆきました。そして、娘の方を指さしながらひとことふたこと言葉を交わしてから、案内してくれた狐顔の僧侶はまたデパ地下の方へと戻っていったのでした。

娘は少し離れた場所でもじもじしながら、僧侶にどう声をかけようか、とタイミングをうかがっていましたが、

「昨日はどうも。よろしければお経の続きを唱えましょうか? 」

と、向うから明るく話しかけてくれたので、幾分か気持ちが楽になり、

「こんにちは。昨日はお経の途中で失礼をして本当にごめんなさい」

と、最初に人違いで僧侶にかけた言葉を繰り返したのです。

「いえいえ。現代の方は皆さんお忙しいようですから」

僧侶は屈託ない笑顔で応えました。

先ほどの中性的な狐顔の僧侶よりも、こちらのお坊さんの方がずいぶん話しやすいな、と娘は感じました。それは、この僧侶の顔が秋田犬に似ていて親しみやすい印象を受けたからでした。

「あの、実は、今日はお願いがあってあなたを探していたんです」

「はぁ、私でお役に立てることならば・・・」

「もちろん、逆にあなたにしかお願いしません。昨日の観音経を、母の前で唱えていただけないでしょうか」

「ええ、それならばお安いご用ですよ」

「あの、今からでも、よろしいですか? 」

急なお願いで戸惑いながらも、話しやすく感じの良い僧侶だったので依頼はしやすかったせいもあり、娘は思い切ってお願いをしてみました。案の定、僧侶は快諾しました。

「いいですよ。それでは参りましょう」

そう言って、地面に置いていた羽織を持つと静かに歩き出しました。

 母親のいる病院までの道すがら、娘は自分の母親の病状のこと、医師からの余命宣告でもう先が長くはないこと、死への恐怖と悲しみでいっぱいいっぱいなこと、母親がいなくなった後、どうやって生きて行っていいのかわからないという不安に苛まれていること・・・などを僧侶に話し続けました。

僧侶は、余計なことは一切話さずに、時折相槌をうち首を縦に揺らしたりしながら黙って娘の話を聞いていました。

 やがて病院が見えてくると、娘は、母親が昨日、観音菩薩像の前で僧侶が観音経を唱えるテレビ番組を合掌しながらじっと見つめていたことについて触れ、

「母といっしょに観音経をきけば、私も少しは悲しみとか不安とか恐怖とかいうものから解放されるのではないかな、と思ってお願いをしたんです」

そうポツリと言ったのでした。 

 娘が僧侶を伴って母親の居る緩和ケア病棟に入ると、周囲がにわかにざわついているのが感じられました。受付で看護師が娘を呼び止めて、

「あの、そちらの方は・・・? 」

と、遠慮気味に質問します。

「あぁ、あの、母に観音経を唱えてもらおうと思って。その、昨日熱心に観音菩薩像のテレビを見ていたものだから・・・」

と、ぼそぼそ答えました。すると看護師は

「そうでしたか。あの、次回からは事前に相談してくださいね、・・・ここにいらっしゃる患者さんの病状が病状だけに、お坊さんを見ると動揺してしまう人がいるかもしれませんのでね・・・」

と、言いにくそうに言葉を濁したのです。娘は、ああ、そうだった、と安易に僧侶を連れてきてしまったことに後悔をしました。もう先が長くない人たちばかりの病棟で、僧侶がお経を唱えるなんて、葬式か生前葬か、と思われても無理はない、娘は自分の浅はかな考えに深く反省したのでした。一方の僧侶は、というとそのようなことは一切気にすることもなく、物珍しそうに病院内を興味深げに観察している様子でした。僧侶が周囲の目を気にかけていないことが、唯一の救いでした。


 病室に入ると、枕と布団に埋もれてぐったりしている母親の姿がありました。痩せ細った身体はまた更に小さく縮んでしまったように見え、今にも枕と布団の隙間に沈んでゆきそうです。娘はそんな、死に近い母親をみてまた涙が溢れ出そうになるのを必死で堪えながら、

「お母さん、今日はね、お坊さんに観音経を唱えてもらうようにお願いしたの」

話しかけましたが返ってくるのは、し~ん・・・とした沈黙ばかり。娘が母親の方に近づいて、その枯れた棒切れのような手をとってみると、ようやく目を開けてくれました。そこで娘はもう一度、

「今からお坊さんに観音経を唱えてもらうからね」

と言って、母親の筋張った皺皺の掌を撫でたのでした。


 僧侶―――山犬はこの病棟に入った途端、まるで冥府へやって来たような感覚を抱きました。これほどまでに、死を目前にしている人が集中しているとは。そして、その死が目前にある人々の多くは、まだ生きたい! という切望を声にならない声で絶えず訴えかけているのを感じるのです。死という運命とそれに抗うように生への執着とがぶつかり合い、目には見えない「生か死か」という究極の闘いがここでは起きているのです。山犬は、もうずいぶん前に狐が言ったことを思い出しました。人間には命数というものがあるから生きている時間は有効に使わないといけない、と。人々が忙しなく行動するのはこのためなのだ、と改めて考えさせられたのでした。

「どうぞ、こちらにお掛け下さい」

娘がパイプ椅子を用意しながら言いました。山犬はその声に引き戻されるように、椅子に腰をかけ、あらためて母親の姿を見たのです。死が近いことは一目瞭然でした。残念なことに、もうあと数日の命でしょう。多年の修業を積んできた山犬には直感でそれがわかりました。この親子に山犬が今出来ることといえば、お経を唱え、極楽浄土への導きをしてあげることくらいです。山犬は静かに数珠を取り出してから、母親に挨拶をしました。

「どうも、はじめまして。昨日、お母様が観音経を唱えるテレビ番組を熱心に見ていらしたと娘さんから伺いました。今日はどうぞナマで、観音経をお聞きください、それでは始めさせていただきます」

そう言って軽く会釈をし、合掌と数珠を合わせてお経を唱え始めたのです。

 僧侶の低くどっしりとした、安定感のあるお経は聞いていてとても耳心地の良いものでした。昨日は、人ごみの雑踏の中で気が付かなかったのですが、重みのある声で唱えられるお経は時に力強く、時に軽快に抑揚をつけ、聞いている者の心にズンズン、と何かしら訴えかけてくるような、これまでに聞いたこともなかったものでした。

 母親も同じように感じていたのでしょうか、お経が始まった当初は薄目しか開けていなかったのが、今はもうしっかりと両目が開かれ、目をしばたくようにして、お務めを果たす僧侶の方をじっと見つめていました。

 お経に耳を傾けながら、娘はこれまでに様々な場面で聞いてきたお経を思い返してみたのです。

 お経は仏様の教えを読み上げているのだというけれど、今でもさっぱりわかりません。子供のころから法事は退屈なだけの行事で、唱えられるお経はその最たるものでした。抑揚をつけて唱える僧侶もいますが、いったい何を聞かされているのかわからない、眠りを誘う呪文のようなものでした。しかし、この僧侶が唱えるお経は、言葉の意味がわからない中でも、熱く心に訴えかけるものがありました。それは、これまでに経験したことがないほどの臨場感でもって、仏の物語を熱心に語っていることが伝わってくるのです。例えるなら、言葉の通じない外国人に、身振り手振りを使って一生懸命に自分の気持ちを伝えていくうちに、意思疎通が叶った、という感覚でしょうか。とにかく、今耳にしているお経は別格に違いありません。

そんな娘の感動を物語るように、静かにお経を聞いていた母親の目からは涙がこぼれ出てきました。


 経を唱えていた山犬は、母親の未だ捨てきれない生への執着をひしひしと肌で感じとっていました。それらは母親の流す涙にも凝縮されていました。娘との別れを悲しむ涙であり、この世との別れを惜しむ涙でした。この母親が、必ず極楽浄土へ迷うことなくゆけるように、まずは不安や恐怖を取り除いてあげることに専念しよう、と心に決めたその時でした。ふと、何か違和感を感じ、母親の方に目をやると、枕元のすぐそばに黒い人影が見えたのです。影はベッドで寝ている母親の足元を潜り抜け、部屋の外へと煙のように消えていったのです。一瞬の出来事でしたが山犬は見逃しはしませんでした。背筋に冷たい汗がつぅー、と流れるのを感じましたが、何とか観音経を最後まで唱え終えた頃には、汗も引いていました。


「どうもありがとうございました」

経が終わり、深々と頭を下げながら礼を言う娘の目にも光るものがありました。そして、

「本当に、これまで聞いてきたお経の中でも最高のものを聞かせていただきました。母もこうして涙を流すほどに感動しています」

と、まだ感動冷めやらぬ様子で娘が感想を述べました。

「それはそれは。喜んでいただけて何よりです」

山犬は微笑みながらこれに答え、次に母親の手をとると、ゆっくり、一語一語丁寧に、神妙に語りかけたのです。

「何も恐れることはないのですよ。よいですか、遅かれ早かれあなたも娘さんもこの世を去ります。けれどその先には極楽浄土の世界が待っています。私は今、あなた方親子が、どうか迷うことなく極楽浄土へ行けるよう、観音菩薩と阿弥陀如来にお願いをいたしました。だから、何も心配することはないのですよ。どうか気持ちを楽にして、今はゆっくり休んでくださいね」

山犬の言葉に母親は涙ながらに頷いて見せたのでした。

 山犬はゆっくりと母親の手を戻してから、静かに病室を出てゆきました。娘が慌てて山犬の後を追いかけてきます。そして、白い封筒に入ったお布施を差し出しながら

「あの、これ、わずかばかりで心苦しいのですが、どうかお納めください」

と、山犬に手渡したのです。すると山犬は

「では、有り難く頂戴いたします」

と言って素直に封筒を受け取りました。それを懐に収めると、娘に軽く会釈をして廊下を歩きだしました。娘が

「あの、どちらのお寺さんの方でしょうか、よければまた・・・」

と言いかけましたが、山犬はすぐさま

「ご縁があればまたどこかでお会いできるでしょう。それでは、また」

と、答えて、そのまま非常階段の降り口の方へゆきました。


 娘の名残惜しそうな視線を背中に受けながら、足早にその場を去ります。

「何とか、助けてあげたかったけど・・・」

山犬は低く呟きました。しかし、これ以上あの母子に何をしてあげられるでしょう。山犬は自分の力不足に嫌気がさして、首を振りながら、非常扉を勢いよく開けました。

僧侶の姿をした山犬は、来た時のように、病棟の人たちに動揺を与えないよう、帰りはあえて、エレベーターには乗らず非常階段を使ったのでした。

「大したもんだな」

非常階段を数段降りたところで、階下から話しかけてくる声が聞こえました。山犬は嫌な予感を抱きながら、もうあと数段降りた先にある階段踊り場の隅っこに、ひょろ長く立つ黒い影を見つけたのです。山犬は絶望感に襲われながら、ああ、やっぱり、とため息をつきました。すると、

「あんたの唱えた経だよ。ありゃ、大したもんだ」

 声の主はもう一度話しかけてきたのです。まるで肺病にでも冒されているようなしわがれた声でした。山犬は覚悟を決めたように

「それはどうも。けれど、死神に褒められるのも私としては複雑な心境です」

と答えました。黒い影は不気味な引き笑いをしながら大きな鍬か鎌のようなものを持ち、それを弄ぶように右から左へと持ち替えて山犬の前に立ちました。そして、観察するようにじっと山犬を見つめているように見えます。ように見える、というのは、この黒い影が影そのもので、顔や表情などが一切わからない黒のシルエットのみの存在だったからです。黒いパーカーかマントを被った長身細身の男性が大きな鍬か鎌を持っている、視覚情報としてはそれだけです。いや、それだけだからこそ、不気味さと恐怖心が増してくるのでしょう。

「俺が見えるってことは、あんたこの世界のもんじゃないな。どっから来た? 」

「仏門の世界から修業のためにやって参りました」

「なるほど、だからあれだけの経が唱えられたんだな。あまりに立派な経だったんで、息苦しくなって一旦退散したよ」

「では、このまま永久に退散していただけると助かるのですが」

山犬の言葉に〝死神〟は更に大きく不気味な引き笑いをしながら言いました。

「俺は〝命数〟に従って自分の仕事をしているだけだ。邪魔をするな」

山犬は愕然としました。またもや、〝命数〟! 狐も言っていたあの〝命数〟です。山犬は、先ほどの死に直面している母親の姿が頭を過り、眉間に皺を寄せながら絞り出すように呟いたのです。

「命数・・・それって、何とかならないものですかね・・・ 」と。

すると〝死神〟は

「ならん。命数はどうすることもできん。もしもこれをどうにかしようものならば必ずや厄が生じて民を害すことになる」

と答えたのです。山犬にとってこれは意外な応えでした。だから

「えっ、どうにかする方法もあるにはあるんだ」

と言ってみたのです。これを受け〝死神〟はまた引き笑いをしながら

「あるには、ある。だが、おまえごときには無理だ。権限がない」

と、しわがれた声で言ったのです。しかし、山犬は

「それはどういった方法ですか? たとえ権限がなくても、知識として知っておきたいんです、教えて下さい」

と〝死神〟にお願いをしたのです。

「教えたところであの母親は明日の早朝、逝くことに変わりはない。お前に俺の仕事の邪魔はさせん」

明日の早朝・・・山犬は娘が母親の最期を看取って嗚咽号泣する姿を想像しました。いたたまれない気持ちで唇を噛みしめます。その様子を見た〝死神〟は

「この世に生れ出た時に、善人も悪人も関係なく命数は決まっているのさ。あの母親の命数は51。それだけのことだ」

雑音を含んだようなささやき声で山犬に言いました。

 善人も悪人も関係なく・・・山犬はこの言葉が引っかかりました。あの母子はどう見ても善良な市民です。これからも悪事を働くような行いもせずに普通に暮らしてゆくはずです。なのに、なぜ、平均にも満たない命数を与えられたのか。だからこそ、山犬はあの母子に、この世を旅立つ際に迷うことなく極楽浄土へ行き着くよう、経と念仏を唱えたのです。臨終の際、たとえどのような事態が起ころうとも、必ず極楽浄土に導かれますように、という念仏を。これがあの親子に対して山犬ができる唯一の事だったからです。ふと、山犬は考えます。これが狐だったら、どうしていただろうか、と。お得意の霊符を使って母親を病から救うことができたでしょうか。答えは否、でしょう。霊符を使うには、あまりにも時間がひっ迫しており、狐の謹製した霊符であっても、天の定めた命数を変更できる可能性はないに等しいでしょう。つまり、どんなに法術に長けていようとも、命数を変えられる権限はない、ということなのです。では、どうすれば権限を得て変更することができるのでしょうか。

「でも、その命数は変更も可能なのでしょう?  その・・・〝権限〟さえもっていれば」

 山犬は更に尋ねました。すると〝死神〟はやれやれ、と呆れたように両手を広げながら言いました。

「さぁな。俺もその辺は詳しくない。まぁ、権限、というより、閲覧資格だな、『如意法術』を知るための」

「『如意法術』? それは、書物ですか? 」

「書物なのかどうかでさえ実態はわからん。天庭の書院にあるということで書物だろうという憶測だ。何せ、天界の秘法術だからな。これには天界と地上界、すべてを意のままにできる法則と法術が納められている、らしい。如意法術さえ使役できれば命数の変更はおろか、天と地の全てを支配することだってできるだろう。しかし、閲覧できたところで果たして実行可能かどうか・・・。誰も知らんよ」

 『如意法術』・・・。山犬は何度も頭の中でその言葉を繰り返しました。賢い狐はこのことを知っているのでしょうか? 戻って早速狐に訊いてみなければ・・・山犬が考えを巡らせていると、〝死神〟は

「とにかく、俺は命数に従って仕事をしている。人間に立派な経を唱えてやるのは結構だが、今後は俺が居ない間にやってくれ。くれぐれも邪魔はするなよ」

そう言って、細長く黒い影は疾風のごとく階段を舞い降りたかと思うと、非常扉の隙間へと入って消えていったのです。

「邪魔をするも何も・・・今の私に一体何ができる? 経と念仏を唱えるくらいしか出来なかったというのに・・・」

山犬はまた唇を噛みしめて、明日の早朝、あの親子が迎える別れの運命に心を痛めたのでした。


 





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