第8話 狛犬様

 昔々の日本の田舎でのお話です。

 狐と山犬は修業と托鉢を行うため、田舎の村の外れにあるひとつの集落を訪れていました。二人は観音菩薩との約束を順守し、陽が昇っている間だけ、修行僧の姿かたちに変化をして、悩みや苦しみを抱えている人々のため、お経を唱えてあげました。全てのお経を唱え終わった後、二人は集落の人々からお経のお礼にと、ここの畑で採れたというわずかながらの芋や豆などを戴きました。修行僧に化けた狐は俯き加減で

「これはこれは、忝い」

そう言うと、もう一人の修行僧に変化した山犬も

「どうもありがとうございます」

と丁寧に礼を言いました。すると一人の老人が近づいてきて二人にこう訊ねました。

「旅のお坊さん方、これからまた別の村に行くのかい? 」

「はい。この先の山間にある集落に行って人々に経を唱える予定です」

 老人の問いかけに修行僧に化けた狐が答えました。すると老人とその他の人々がお互いの顔を見合わせて困惑した表情を浮かべたのです。何やら不穏な空気を感じ取り、修行僧に化けた山犬は

「どうかなさったのですか? 」

と老人に訊きました。老人は後方に広がる雪に埋もれた田畑を指さしながら言いました。

「今年はどこもかしこも凶作でな、人も動物もみんなが腹を空かしている。熊や狼だって例外じゃない。ついこの前、この先の村では狼が群れをなして襲ってきて、村人の大半が食い殺された。あんたらがこれから行こうとしている集落も、ひょっとしたらもう既に襲われているかもしれん」

 老人がそう言うと、今度は年配の女性が

「この貧しい集落には狼を退治するだけの屈強な人も武器もありません。今の私らに出来ることといえば、狼の襲撃に備えて家の戸口をしっかり締めて、食い殺されないように祈りながら、じっとしているしかないのです。しかし、狼が大群で襲ってきては、こんな脆い木の壁などひとたまりもありません。襲われた村々のように、狼たちは獰猛な牙で一晩のうちに家を壊し、次々と人々を喰ってゆくことでしょう」

と、絶望的な口調で言いました。人々がため息をつく中、突如小さな男の子が声をあげました。

「きっと、あの狛犬様が助けてくださるよ! 」

「狛犬様? 」

 修行僧に変化した山犬は、説明を求めるように老人の方を伺いました。すると人々が口々に

「あれは、ただの言い伝えだから・・・」

「そうそう、ただの迷信」

「ふん、あんな古くて傷んだ狛犬の置物に何ができる? 」

「もう、大昔のことで、本当にあったことなのかどうかも怪しいさ」

 と、否定的な意見ばかりが囁かれたのです。このような人々の反応と、山犬の疑問に応えるべく、老人は口をひらきました。

「向かいの山の中腹に古い寺がありましてな。そこに鎮座されている狛犬様のことを言っているのですよ。この狛犬様は、都にある大きな寺の境内にあった御神木から出来ています。御神木の伸びた枝を切ったものを彫ったものです。しかし都の寺にはもう既に立派な狛犬が鎮座されておりました故、縁あってあの山にある寺が譲り受けたそうです」

「都の寺の御神木で彫られた狛犬様だから助けてくださる、だろうと? 」

 今度は狐が尋ねました。

「いえ、あの狛犬様には有名な武勇伝がございまして」

「武勇伝? 」

「はい。この辺りは見ての通り、周囲は山に覆われております。そのため様々な動物が田畑を荒らすのはいつものことなのです。しかし・・・今年のように天候に恵まれない年は山でのエサもままならないため、熊や狼などと言った凶暴な動物までもが人里に下りてきて遂には人々を襲うのです。狛犬様が山寺に鎮座された時も今年のような凶作の年だったそうで・・・とてつもなく大きな熊がエサを求めて村や集落に現れ次々に人々を喰っていったそうです。僅かに生き残った人々は寺に避難し、ひたすら経を唱え、人食い熊が去ってゆくのを待ちました。熊がここまで追ってきてはいないかと村人の一人が、戸口の僅かなすき間から外を伺うと、不思議なことに寺の左右に鎮座している狛犬様が台座の上から消えてしまっていたそうです。一夜明け、村人たちが恐る恐る外に出てみると、なんとあの大きな人食い熊の喉元が深く抉られて死んでいたそうです。狛犬様はというと、何事もなかったようにまた元の位置に鎮座されていたそうで、これは御神木で彫られた狛犬様が、人々の祈りに応えて御守りくださったに違いない、と。ま、こういった言い伝えが残されているのですよ」

「そうさ、だから今度もきっと狛犬様が助けてくれるよ」

 先ほどの男の子は真っ直ぐな瞳を老人に向けながら言いました。

「だから、あれは大昔のただの言い伝えだって」

 年配の女性が苦笑しながら男の子に言いました。老人は男の子の目を見ながら、考えるように呟きました。

「ただの言い伝えであったとしても、このまま何もせずこの先何日も狼に怯えてただじっと食われるのを待つくらいなら・・・そうじゃ、」

 老人は何かを思いついたように、僧侶に化けた狐と山犬の方に向かってこう言いました。

「旅のお方、どうかお願いがございます。これから山寺に行って狼の事を知らせてはくれませぬか。そして狛犬様に助けてもらえるよう寺の住職と共に経を唱えてはくださいませんでしょうか」

 この老人の突然のお願いごとに狐と山犬は困ってしまいました。なぜなら、二人が人の姿に成れるのは陽の昇っている間だけ、と師である観音菩薩と誓約を交わしていたからです。もうすっかり陽は暮れようとしています。これから山に登って寺に着く頃にはとうに夜になっていることでしょう。

「これから、っていうのはちょっとマズいな・・・」

 山犬が困った顔で応えると狐が代替え案をだしました。

「今から山に向かうとすっかり夜になってしまいますので、明日の朝、早くに出発いたしましょう、それでもよろしいでしょう? 」

 老人は快諾し、山寺でのお経をお願いする代わりに、

「今晩はぜひここに泊まってください」

と二人に言いました。しかし、狐と山犬が僧侶の姿で居られるのもあと少し。早く人前から姿を消して、本来の獣の姿に戻らないといけません。そういった事情から、賢い狐は

「いえいえ、どうかお気を遣わず。食べ物を戴いただけでも十分でございます。それに、私どもは野宿には慣れておりますから」

と、老人の親切心にやんわり断りを入れたのでした。

「そうですか、それでは、くれぐれも狼には気をつけて・・・」

 老人と集落の人々は心配そうに、修行僧に化けた狐と山犬を見送ってくれました。

 さて、人々と別れた二人は集落から離れ、山の麓に入ると、本来の狐と山犬の姿に戻り、戴いた食べ物を仲良く分けて食べました。

「狼の大群だってさ・・・なんかゾッとするね」

 食べ終わると山犬がポツリとこぼしました。

「それは狐のあたしが言うセリフ。山犬のおんたにとっては親戚みたいなモンでしょうが」

「え、全然違うよ! 人なんか食べるワケないじゃん」

「なら、狐はどうなのよ? 」

「襲って食べようなんて、考えたこともないさ」

「当り前よ、そんなことしたってあんたが返り討ちに遭うだけだからね、よ~く覚えておきなさい! 」

 狐の強気な発言に、山犬はお手上げ、と言う風な様子で両前脚を広げて見せました。それから、何かを思い出したように狐にこう話しかけたのです。

「あのさ、今になってふと思ったんだけどさ、畑も凶作で、あの人たちが食べる分も僅かなハズなのにさ、こうして食べ物を分けてくれるなんて・・・なんかそれってさ・・・」

山犬が言葉に詰まり、ようやく次に出た言葉は狐と同時でした。

「狼に襲われて死ぬことを覚悟しているからじゃないかな」

 そう言ってから、何やら重苦しい空気が漂い、それから二匹は沈黙してしまいました。しばらくすると、遠くの方から狼の遠吠えが聴こえてきました。かなり離れた場所ではありましたが、遠吠えの連呼から、夥しい数の狼たちが居ることは間違いなさそうです。その夜、狐と山犬は恐怖に怯え、一睡もできませんでした。


 翌朝、狐と山犬はすぐさま狛犬が鎮座する古寺目指して山に上っていきました。老人の説明では寺は山の中腹にあるはずです。しかし、予想以上に山道は険しく、おまけに雪が降って今にも吹雪になりそうな悪天候でした。狐と山犬は今日はもう修行僧に化けてはいません。狐と山犬という本来の獣の姿で険しい山道を必死に上っていました。どれだけ山を登って行ったのでしょうか、もうとっくに中腹辺りには来ているハズなのに、古寺らしきものは見当たりません。

「迷ったかな? 」

 山犬が不安げに言いました。

「住職が居る寺なら人の匂いがするから、すぐに見つかると思ってたけど・・・甘かったか」

 狐は恨めしそうに空を見上げて呟きました。風と雪はどんどん強くなってくる一方です。雪で覆い尽くされた地面から、もはや人の匂いを嗅ぎ分けることは無理なようです。それでも、狐と山犬は必死になって山寺を捜し歩きました。どれだけ歩き回ったことでしょう、吹雪の中、狐はかすかな人の声を耳にし、山犬に知らせます。

「ね、聞こえた? 今、人の声がしたでしょ」

「いや、吹雪の音でわからなかったな・・・」

 山犬は鼻先に雪をつけたまま耳を澄ました。すると狐は

「ほら、あっちから! 」

 そう言って声のした方へ走り出したのです。山犬は慌てて狐の後を追いました。狐と山犬が走って行った先に、寺らしき建物がみえました。建物の門前には左右に台座らしきものが配置されています。建物も台座も雪に埋もれて本来の姿がわかりませんが、どうやら狛犬様が鎮座する古寺に間違いなさそうです。山犬は寺に向かって進もうとしたところ、それを狐が止めました。狐は山犬を連れてそっと古寺の側面に移動して、様子を伺うことにしたのです。それは古寺の前で、今にも倒れそうになりながら必死に助けを求め戸口を叩く人がいたからです。よく見るとその人物は、昨日集落で会ったあの男の子でした。やがて戸口が開き、中から寺の住職が出てきました。住職は男の子を見るととても驚き、一体何があったのか、と尋ねました。住職が驚くのも無理はありません。なぜなら、男の子は全身血まみれだったのです。

「昨日の夜遅くに狼の大群が襲ってきて、集落の人間は皆喰われてしまいました。自分は命からがら、爺様と山に逃げてきましたが、爺さんは途中で力尽きてしまいました。この寺には狛犬様がいらっしゃるから、きっと助けてくださると思いやってきたのです。ご住職、どうか助けてください」

 男の子はそう言って深々と頭を下げたのでした。ひとまず住職は男の子を寺の中に入れてあげました。

 そのやりとりを見ていた狐と山犬は驚いて顔を見合わせました。

「なんてこと・・・あの集落が襲われただなんて・・・」

 山犬は驚愕しました。

「遅かったか・・・」

 狐は悔しげに唇を噛みました。それから二匹は寺の裏側にまわってゆき、裏口戸の隙間から中の様子を伺うことにしました。

「そうか・・・とうとうこの辺りまで狼の群れがやってきおったか」

 住職は男の子の傷の手当てをしながら低く呟きました。狼の鋭い牙によってできた噛み傷は小さな男の子の命をも脅かすほど深刻な深いものでした。しかし男の子は痛みにじっと耐え、決して泣くことはしませんでした。

「坊や、ここに逃れてきても、ここには狼を退治するような槍も鉄砲も何もない。狼の大群に取り囲まれてしまえば、こんなオンボロの寺子屋なんぞすぐに壊されてしまうだろうさ。そうなったらば、もう建ちに火をつけて狼もろとも焼き払うしかないがのう、さて、どうしたものか」

 住職がこう言うと、男の子は言いました。

「大丈夫さ、ここには狛犬様がいらっしゃるもの」

「狛犬様? お前さん、あれは大昔のただの言い伝えじゃよ。わしもここでは長くお務めをしておるから言うのだが、あの狛犬様の武勇伝はただの言い伝えであって、狼を退治してくれるようなことはない」

「そんなことないよ。きっと狛犬様は助けてくださるよ」 

 その時でした、吹雪の音の合間に狼の遠吠えが聞こえてきたのです。住職は背筋が凍る思いがしてきました。そして男の子にこう訊ねたのです。

「坊や、今夜はきっとここに狼がやってくる。怖くはないのか? 」

「狛犬様がいらっしゃるから平気」

 男の子はきっぱり答えました。その真っ直ぐな子供の瞳を見て、住職は心を動かされたのです。やがて自身に言い聞かせるように囁きました。

「その純真な心こそ神仏よ・・・」

 そうして住職は勇気ある決断を下したのでした。

「よいか、坊や。もしも、狼が寺の中に入ってきたなら、わしが先に喰われるから、お前はすぐさま建ちに火をつけろ。そしてその隙に逃げるんだ。よいな」


 戸口のすき間から一部始終を見ていた狐と山犬はこの住職の決断にギョッとし、また思わず二匹が顔を見合わせました。狐はすぐに戸口から離れると狛犬が鎮座する寺の正面に向かいました。山犬もそれに続きます。

「あの狼たちがこんな遠い所までやって来るかしらね? 」

 狐が振り向きながら山犬に言いました。

「来る、絶対に。奴等は一度取り逃がした獲物は簡単には諦めないから」

 山犬はそう言って男の子が逃げてきた際、寺の戸口についた血を険しい目で眺めていました。

 一方、狐は右側に配された雪に埋もれた狛犬を台座の下から見上げていました。やがて山犬にこう言ったのです。

「だったら何とかできないの? あんたは狼と同類なんだから、どうにかしなさいよ! 」と。

 すると山犬は雪に埋もれている狛犬の台座にヒョイと上りました。それから前足と鼻先で雪を丁寧に取り除いてみたのです。かなりの経年劣化はありますが、丈夫な御神木に彫られたそれはそれは立派な狛犬様でした。山犬はしばらくの間、狛犬の目をじっと見つめていました。やがて台座から下りると、狛犬を一周しながら呪文を唱えました。もう一方にある狛犬にも同じことを行いました。それから、寺の正面に立つと狐に言いました。

「結界は? 張った方がいいよね? 」

「当然」

 狐はそう答えると、山犬の邪魔にならないように、寺の奥へと移動します。それを合図に山犬は

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前 !」

 と吹きすさぶ雪風の中、叫びながら刀印を素早く切ったのでした。


「? 今、何か声が聞こえたような・・・」

 寺の中にいた住職はわずかに聞こえてきた声が気になり、外の様子を見てみることにしました。ひょっとしたら、集落で生き残った人がまた助けを求めてここにやってきたのかもしれない、と考えたからです。住職が戸を少しだけ開けて外を見ると、誰も居ませんでした。なんだやはり吹雪の音か、気のせいかと戸を閉めようとしたところ、トントン、と板を軽く叩く音がしたのです。住職がもう一度戸を開けてみると、戸口の脇に純白の小さな狐がいるではないですか。白い狐は吹雪と積もった雪に同化しており、住職はすぐには気がつかなかったのでした。

「おお、狐か。こんなところでウロウロしておったら、お前も狼に喰われてしまうぞ。さぁ、入りなさい」

 住職はそう言って狐を中に入れてやったのです。

 狐は寺の中に入る直前、狛犬の陰に隠れている山犬の方を振り返りました。山犬は明らかに恐怖が貼り付いた不安な表情をしています。そんな山犬に、狐は、美しく優雅なその長い尻尾を二三度振って激励の合図を送ってから寺の中に消えていったのでした。


 山犬は狐の前では気丈に振るまってはいましたが、内心はもう怖くて仕方がありませんでした。観音菩薩の弟子で少なからず法術を扱えるとはいえ、まだまだ修行の身。飢えた狼の大群を前に、果たしてどこまで通用するのやら。とはいえ、昨日あの集落の老人たちに古寺で経を唱えると約束を交わした事と、その老人たちは既に狼に襲われてしまったこと、等等を思い出すと、ここで逃げ出す訳にはいきません。唯一生き残ったあの男の子と、英断を下した立派な住職を助けるためにも、憎い狼どもを退治しなければ。山犬は恐怖心を払拭させるため、静かに経を唱え、狼の群れが現れるのを待ちました。


 陽はもうとっくに落ち、深い闇が迫ってきました。相変わらず吹雪は収まらず、山犬は鎮座する狛犬と共に雪に埋もれ同化しているように見えます。

 寺の中では傷の手当てを受けた男の子がウトウトしており、住職は熱心に経を唱えておりました。一方、狐はというと壁際の隅の方で、山犬が張った結界に全神経を集中させ、狼の襲撃に備えていました。

 やがて、夜の闇が一層濃くなった頃、狼の遠吠えが幾重にも聴こえてきたかと思うと、獣の唸り声が方々から聞こえだしました。住職が立ち上がり、そうっと戸口のすき間から外を見ると、無数の赤い光が見えます。まさにそれは獣の光る眼。寺は既に夥しい数の飢えた狼どもに取り囲まれていました。一匹の狼が戸口に突進します。それを合図に狼たちは一斉に寺に向かってゆき、古い木造の建物を壊しにかかりました。野獣どもの凄まじい攻撃と、恐ろしい唸り声に驚き、小さな男の子は思わず住職の傍に駆け寄ります。住職は静かに男の子を自分の隣に座らせてから言いました。

「さぁ、坊やも一緒に経を唱えるのだ。狼が入ってきた時は・・・すぐに火を放ちわしを置いて一目散に逃げるんだぞ、よいな」

 それから二人は一心不乱に経を唱えたのです。

「南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・・・・・・・」


 隅っこに居た狐はお経を唱える二人の姿を見ながら囁きました。

「あんたたち、極楽浄土に行くにはまだ早いわよ」と。

そして、外に居る弟弟子の身を案じながらも

「山犬、はやく何とかしなさいよね! 」

と呟き、印を結んだのでした。


 狛犬の陰に隠れていた山犬は、血に飢えた狼の大群を前に恐怖に竦みあがりそうでした。暗闇に不気味に揺れ動くいくつもの野獣の目、幾重にも聞こえる低い唸り声と息遣い、時折みえる鋭利な白い牙、嗅いだことのない生臭い臭気・・・そのどれもが、かつて経験したことのない恐怖だったからです。これまで観音菩薩の弟子と従者として、修行の数々は精神的に厳しいものばかりでしたが、同類に喰い殺されるかもしれない、といった恐怖に晒されることはなかったのです。師匠である観音菩薩の元から離れた今、まさかこんな極限状態で修行の成果を確認することになるとは・・・。山犬はあらためて、人肉求め体当たりで寺を壊しにかかっている獰猛な獣の群れを見ました。心臓が今にも破裂しそうな勢いで早鐘を打っています。観音菩薩の名を呼んで今にも泣きたい心境でした。と、寺の中から男の子のハッキリとした声で

「南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・」

経を唱える声がきこえてきたのです。山犬はその経を聴き、住職が男の子の〝疑うことを知らない純真な心こそ神仏〟と表現したのを思い出しました。山犬は、不安と恐怖、そして何より法術や経に対しての疑念を跳ね返すかのように、印をしっかりと結び、必死に呪文を唱え始めたのです。

 猛吹雪の中、寺の内と外では経と呪文が唱えられていました。依然、狼たちの猛攻は続いています。予め山犬が結界を張っていたので、かろうじて古い木造の寺は壊されずにいられました。ですが、これだけの猛攻撃が続けば結界が破られるのも時間の問題だと覚悟していました。呪文を唱えあげた山犬は、対の狛犬に向かって

「狛犬様、私に力を貸して戴きたい。三匹で力を合わせて人食い狼どもを退治して、村にまた平穏が訪れるようにしたいのです。どうか協力してください」

 山犬がそう懇願すると、突如、狛犬の瞳から徐々に金色の光が灯り始めました。やがて狛犬たちはゆっくりと首を動かすと長い眠りから目覚めたように、伸びをし、身体を揺すぶって積もっていた雪をはねのけると、咆哮をあげ勢いよく台座から降り立ちました。すかさず狼たちが狛犬に襲い掛ります。すると二対の狛犬は、歯を剥いて刃のような鋭い犬歯を見せつけると、この世のものとは思えぬ物凄い速さで狼どもを次々と噛み殺していったのです。そのあまりの速さと勢いに唖然とする山犬。そんなことはお構いなしに対の狛犬は、残酷なまでの正確さと俊敏な動きで次々と狼の喉元を噛み千切ってゆき、あっという間に狼の群れを殲滅させたのでした。この間、山犬の出番はなく、ただただ狛犬たちの圧巻の逆襲に瞠目するばかりでした。そこは血生臭く凄惨極まりない殺戮現場と化したのです。


 やがて吹雪も収まって陽が昇りはじめてきました。

 一心不乱に経を唱えていた住職と男の子でしたが、しばらく経ってやけに外が静かになり、狼たちの動きがピタリと止まった様子に気づきました。

 住職が恐る恐るそうっと戸口を開けて外の様子を伺うと、そこには驚きの光景が広がっていました。無数の狼の屍が辺りを埋め尽くしており、血の臭いが漂っていたのです。住職と男の子は外に出て、狼どもの亡骸を間近に見て回りました。そして住職が台座の上に鎮座する狛犬をみて更に驚いたのです。

 台座に戻った狛犬様の口周りには、血がべったりと付着しており、首元まで血に染まっていました。

「狛犬様だ! 狛犬様が助けてくださったんだ! 」

男の子は大喜びで狛犬様の台座の下へ駆け寄っていきました。住職は信じられない、といった様子で、台座に鎮座する狛犬の姿を見上げると、すぐに合掌し深々と頭を下げたのでした。


狐と山犬は雪の積もった切り株の後ろから、二人の様子を眺めていました。

もうこれで村の人々が狼の群れにおびえる日々もなくなるでしょう。

人々を助けるために、狛犬様がお力を貸してくださったことに2匹は深い感銘を受けました。そして男の子と住職が狛犬様に深く感謝している姿をみて満足していました。

と、山犬が思い出したように狐に言いました。

「何で自分だけ中に入っていってしまったのさ」

「当然でしょう!? あたしはか弱い狐なのよ」

狐はその優雅な尻尾を振りながら平然とこたえます。

「か弱いだって!? よく言うよ」

そう言って山犬は、お手上げ、といった仕草を見せました。

すると狐は少し意地悪く言いました。

「あんた、ホントは怖くて怖くて仕方なかったんでしょう? 」

山犬は

「うん、でも法術が必ず効いてくれるって信じてたからね」

真剣な眼差しで答えたのです。

「そうね、信じるって大事」

「うん」

「あたしは山犬のことも信じてたよ。それに・・・万が一、法術が効かず、山犬が食べられちゃったら、あたしも食べられる覚悟でいたから」

「うっそだ~! 」

山犬はすかさずツッコミを入れると、

「うん、ウソ。そんなワケないじゃん」

と、狐は舌を軽く出してから一気に山を下りていったのです。山犬は

「も~!」

と、言いながら狐の後を追いかけて行きました。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る