第6話 不自由という名の病

 昔々の日本国でのおはなし。

 狐と山犬の二匹は地方のとある村で托鉢を行っていました。すると一人の中年の男が二人の元にやってきて、着物の懐から小銭の入った巾着を取出し、その中に入っていた何枚かを片手で掴んで、山犬の持つ鉢の中にじゃらじゃらと流し入れながら言いました。

「僧侶のおふたかた、どうか私の家内のために経を唱えてやってはくれませんか」

 自分の鉢に気前よく施しを入れてくれたことに気をよくした山犬は

「ええ、もちろん。で、奥様はどこに? 」

と上機嫌で応えました。するとその男性は

「実は、家内は今、病で臥せっておりまして・・・私の家はすぐ近くにありますので、どうか家内の元まで来ていただけないでしょうか」

と山犬に訴えたのです。

「それはそれは、さぞやご心配で大変でしょう。わたくしどもでよろしければ喜んで奥様のために経を唱えましょう」

 そう言って山犬は快諾しました。一方、山犬の隣で二人のやり取りを見聞きしていた狐は、何か腑におちないものを感じ取っていました。しかしながら、山犬がこの村人の提案にすんなり快諾をしてしまったので、仕方なく同調することにしたのでした。

 男が言った通り、彼の家はすぐ近くにありました。およそこんな田舎の農村地域にはそぐわない、立派な石垣で囲われた住居でした。開けっ放しの大きな門扉をくぐり、広い中庭を通り抜けるとようやく住居に辿りつきました。玄関からは使用人らしき女性が出迎えて、早速奥方の居る部屋へと二人を案内しました。広い廊下を通って部屋に入るとツ~ンとした薬草特有の香りがし、苦しそうに咳き込む声が聞こえます。二人が部屋の奥に目をやると、髪の長い女性が布団の上で横になっていました。山犬は挨拶を交わすため、更に近づこうとしました。狐もそれに続きます。ところが、使用人は二人に向かって、これ以上近づくな、と言わんばかりに、すぐ目の前で座布団を並べ、そこに座るよう促したのです。そこに遅れてやってきた男性が気まずそうに二人に言いました。

「すみませんが、この距離でお願いします」 

これに対し、不信感を抱いた狐が

「あの、失礼ですが、奥様は何の病気を患っておられるのでしょう? 」

と、男に訊ねたのです。

「それが・・・医者に診せてもさっぱりわからんのです。目が腫れぼったくなったかとおもうとすぐに咳が出だしたので、てっきり風邪かと思い、それならしばらく養生していれば自然に治ると思っていたのですが、咳は一向に治まらず、高熱が出たかと思えば更に目蓋がひどく腫れあがってきて、数日すると今度は喉が異様に腫れてきて、今ではもう食べ物はおろか水さえも呑み込むことが困難な状況で・・・医者もこんな病気は見たことも聞いたこともない、とお手上げなのです。食べることも飲むことも出来ないため、家内の身体はどんどん弱っています。なので・・・せめて、死ぬ前にお経を詠んで聴かせてやれば、少しは家内の心も安らぐかと・・・」

 男は時折声を詰まらせながら、妻の病状を説明していました。彼が話している間にも、病人の苦しそうに咳き込む声が聞こえています。狐と山犬は時折顔を見合わせ、お互いに困惑した表情のまま、男の話を聞いていました。男が話し終えると狐は

「なるほど、そういうご事情でしたか。それでは、この場から経を唱えさせていただきます」

 そう言って、山犬と共に並べられた座布団の上で綺麗に正座をし、観音経を唱え始めたのでした。


 招き入れた二人の僧侶が唱える経は見事に息の合ったものでした。一方は少し高音で張りのある声、もう一方はどっしりと落ち着いた低めの声。この二つがうまく合わさって、非常に耳心地の良いものだったのです。村の男は大層感心して、この二人が唱える経に聞き入っていました。

一方、床に伏した奥方の咳は一向に治まらず、むしろ二人が熱心に経を唱えれば唱えるほどに、咳も酷くなっていくという悪循環となっていました。


 病床の奥方があまりに苦しそうに咳き込んでいることを受け、山犬は一旦経を中断した方がよいのでは、と経を唱えながらも逡巡していました。がしかし、狐の方は奥方の咳を気にするそぶりも見せず、一心不乱に唱え続けるものだから山犬もそれに同調せずにはいられず、結局最後まで経を唱え終えたのでした。


 経を唱え終わる頃にはすっかり太陽も西に傾いていました。侍従が並んで座っている僧侶二人の前にやってきて、恭しく茶を差し出します。家人である村の男が

「どうぞ、召し上がってください」

 と勧めると二人の僧侶は一礼をしてから出された茶を一気に飲み干します。長い経を唱え終え、からからに乾いた二人の喉に、水分が心地よく沁みわたってゆきました。

 村の男は、妻が咳き込んでも経を中断せずに続けてくれたことに、ことのほか感謝しました。

「家内はもともと信仰深く、元気な頃は毎日のように法華経を唱え、写経もしておりましたので、お二人の立派な経を聴いているうちに、自分も一緒に唱えようとしたのでしょう。それが生憎、今は声の代わりに咳しか出せない中で、経を中断されず最後までお聞かせいただいたので家内も大層満足しておることでしょう」

「それはそれは。奥様のお気持ちが少しでも安らいだのなら、私どもも本望、本当によかったです」

 山犬はそう言って男とその奥方に気遣いをみせました。狐の方はというと、病床にいる奥方の方をじっと覗うように終始視線はそちらに向けていました。

 村の男の手厚い見送りを受けながら二人はその家を後にしました。強い西陽を正面に受けながら二人は今夜休む場所を探すため、村はずれの田園に向かって静かに歩き出しました。陽が暮れかかる時間帯とあって、家路につく通行人とも多くすれ違いました。

 やがて、かなりの距離を歩いてから狐は山犬にぽそりと言いました。

「どう思う? 」

「何が? 」

「あの病よ」

「うん。医者もお手上げだってね。気の毒に・・・」

「本当に病かな? 」

「え? どういうコト? 」

 山犬は狐の意外な言葉に驚きました。すると狐は、一人の村人が自分たちのそばを通り過ぎるのを待ってから、声を潜めて言いました。

「だってさ、あの奥さんの咳。あたしたちが経を詠んでる最中からどんどん激しくなっていったでしょう? あれは病じゃなくって、あの奥さんに何か悪い憑き物が入っているんじゃないかって、憑依したものが観音経を忌み嫌って、咳き込んでいたんじゃないのかな、ってあたしは思ったのよ」

「えぇ~っ!! 憑き物って、まさか狐じゃないよね!? 」

「失礼ね! 何でそこで真っ先に狐を思い浮かべるのよ! とんだ偏見だわっ!」

「いや、だって・・・狐って昔から人を化かしてとり憑く典型的な動物じゃない? まぁ、それだけ知的で神秘的な存在なんだってことだけどさ」

「・・・そんなおだてには乗らないわよ。いいように表現してくれてるけど、裏を返せば化け物扱いだってことくらい承知しているんだから」

 そう言った狐の白い顔は正面から差す西陽を受けて黄金色に輝いています。これにより、狐の言葉とは裏腹に一層神秘さを増して見えるのでした。山犬はこの光景に矛盾を覚えながらも

「で? 憑き物だったら退治してあげるの? 」

 と尋ねました。

「う~ん・・・それを今考えていたところなんだけどね。とりあえず、病なのか憑き物なのかを確かめないことには対処の仕様がないから」

 狐は腕組みをしながら言いました。

「どうやって確かめるのさ? 」

「そうね、何か理由をつけて数日後にでもあの家にもう一度行ってみるとか・・・」

 狐がそう言い終えた時でした。向かいから歩いて来ていた村人らしき女性が、狐と山犬の数歩手前の所で突如前のめりに倒れたのです。二人は驚いて女性の方に駆け寄ります。

「だ、大丈夫ですか!? 」

 山犬が倒れ込む女性を何とか起こそうと両肩を持って地面から引っ張り上げました。女性は山犬の介添えを受けながら、何とかよろよろと立ち上がりました。そして俯いたまま何度も

「すみません、すみません、」

 と繰り返しまいた。その女性は薄い藍色の着物を着ていたのですが、長い髪から垣間見える彼女の顔色は着物の色よりも蒼白で、唇の色は病的なまでに色を失くし、およそ血の通った生者のそれではありませんでした。しかし、顔色は蒼白なのに対して、身体から発せられる異様な熱っぽさを山犬は感じていました。女性の両肩を持った際、着ている着物越しからは、じっとりとした湿気を含む熱量が感じられたからです。

「お見受けしたところ、お身体の具合が相当悪いようですが・・・」

 すぐ傍で一部始終を見ていた狐が女性に声をかけたときです。女性は激しく咳をしました。驚くことにその咳は、先ほど経を唱えるために訪問した館の病床に伏した奥方が発していた咳と酷似していたのです。そして更に驚いたのは、女性が咳き込みながら髪をかきあげた際に垣間見えた彼女の目元でした。両の瞼が大きく腫れあがり、目が開けられているのかどうかさえ分からない状況だったのです。それが熱によるものなのかどうかはさておき、とにかく目の前の女性は尋常ではない状況で、すぐにでも医者に診せて治療を受けさせる必要がありました。

「とにかく、医者に診てもらった方がいいですね」

 言わずもがな、の事を山犬が発すると女性は咳を堪えながら

「ええ、ええ、そうなんです、だから今、向かっている道中なのです・・・」

 そう言ってまた激しく咳き込んだのでした。狐と山犬は顔を見合わせました。このまま女性を一人で村の診療所まで向かわせることは困難です。今のままでは到達する前に生き倒れてしまうことは目に見えていましたから。しかし、二人も深刻な事情を抱えていました。夕暮れはすぐそこまで迫っていました。そうです、二人が人間の姿かたちでいられるのは陽が昇っている間だけ。陽が沈むと二人はたちまち本来の狐と山犬の姿に戻ってしまう、という観音菩薩と交わした誓約があるからです。

「どうしよう」

 心底困った表情で山犬が狐に問いかけます。狐は女性をじっと眺めながらあらゆる疑問点と問題点を瞬時に考えました。つまり、気懸りなのは

 最初に訪問した先の奥方の咳とこの女性の咳が酷似している点。

 医者の見立てで、どのような病と診断するのか、という点。

 病ではなく、何かが憑依したのではないか、という点。

 憑依であればその正体を突き止めたい、という点。

 これらを明確にするには女性と共に医者の元へ行く必要があります。

 問題なのは、日暮がもうそこまで迫っている、という時間帯でした。今から二人で山犬と二人で女性を介添えしながら早足で行けば、何とか陽が落ちる前には医者の元にギリギリ送り届けることができるはず・・・。

 狐はこれらを総合的に判断し、早急にこの女性を医者の元に届ける、という決断をしたのでした。


 二人が女性を連れて村の診療所に辿りついたのは、ちょうど山に陽が隠れてしまう直前でした。どうにか二人は僧侶の姿を保ったまま診療所の入り口で、事情を説明して女性を医者に託すができたのです。

狐と山犬は女性の介添えをしたまま、医者の居る場所へと案内されました。

 そこでは驚きの光景が二人を待っていました。診療所の床は病に伏した人々で埋め尽くされていました。そして驚くべきことに、病を患う人々は狐と山犬が遭遇したこの女性と同じく、皆一様に両の瞼がひどく腫れあがり、至る所で激しい咳を連発しては苦しそうに悶えているのです。狐と山犬は足の踏み場もないほどの病人の数に圧倒されながらも、何とか足元に横たわる病人を避けながら医者の居る部屋に辿りつきました。もうその頃になると女性はいよいよ自力で歩行することも困難な状態になっており、半ば二人の僧侶の肩にぶら下がるようなかたちで運び込まれたのでした。

 狐と山犬は医者の居る部屋のすぐ前まで行くと、先を行きながら部屋までの案内をしていた助手に礼を言い終え、女性をその場に座らせてから素早く退散しました。もう二人には本当に時間がなかったのです。二人の僧侶は慌てて人気のない中庭にまで行くと、たちまち二匹の獣に変化して瞬時に縁側の下に姿を隠したのでした。本来の姿に戻った二匹は、早速床の下を移動し、病人女性を残してきた場所まで戻ると、物陰からそっと様子を伺っていました。

「またひとり、病人がでたか」

 豊かな顎鬚を生やした老人が、女性の脈をとりながらボヤく様に言いました。やがて助手を手招いて尋ねます。

「この女性はいつからここに? 」

「先ほど、二人の僧侶が連れてこられたのですが・・・」

 助手は僧侶の姿をキョロキョロ探しながら応えました。

「もうこの診療所では手一杯だ。とても私の手には負えない・・・心苦しいことだが、今後患者がやってきても断るように」

 老人は眉間に深い皺を寄せながら険しい表情で助手に言いました。助手はうな垂れながら力なく答えます。

「はい、わかりました。先生」


 翌日、狐と山犬は僧侶の姿に変化して朝早くにでかけました。二人は先日病人を送り届けた診療所に着くと、介添えをした女性を訪ねたのでした。すると昨日医者の居る部屋まで二人を案内してくれた助手が対応してくれました。

「昨日はろくろくお話もできずに失礼いたしました。大変な用事ができて急いで帰らねばならなかったものでして・・・」

 と、狐は昨日病人を残して早々に姿を消した理由を述べ、失礼を詫びたのでした。

「あの女性は幸運でした。実はあの女性を診た後、先生は、もうこの診療所では手一杯だから、今後は患者が来ても断るよう指示を出されたのです」

 助手は静かに言いました。

「私どもはギリギリ間に合ったということでしたか」

 山犬は少し驚いた風に言います。

「そうです。先生も本当は頼ってくる患者さん全員を治療したいのです。しかしながら、患者の数が圧倒的に多すぎるのです。何か、流行病に効くお薬があれば多くの人を救えるのですがね」

 助手は心底疲れ切った表情と声で答えました。

「あの女性は流行病に罹っているのですか? 」

 狐が尋ねると助手は、診療所の部屋には収まりきれず通路にまで出て寝かされている病人を見渡しながら答えました。

「おそらくは。ここに来られる患者さんの症状は皆同じなのです。まず瞼が腫れだし、咳と高熱が出ます。あの女性の方もそうでした」

「会わせていただけます? 」

 山犬がそう言うと、助手は頷き二人の僧侶を先導するように歩きはじめました。狐と山犬は後にづづきます。所狭しと寝かされている患者たちの咳やうめき声が聞こえてきます。山犬はそれらを聞くだけで胸が苦しくなっていくのを感じました。

 先を歩いていた助手が歩を止め、僧侶の方を振り向き、前方を指さしながら言いました。

「あちらにいらっしゃいます。今ちょうど先生が診てくださっていますね」

 見ると、昨日に狐と山犬が連れてきた女性が、庭に通じる縁側に居ました。助手の言ったとおり、床から半身を起こした女性の前に長い髭を生やした老人が座っていました。

「先生、昨日その女性を連れてこられた僧侶の方が来られました」

 助手が医師の背後から話しかけると、病人女性が僧侶姿の狐と山犬に深々とお辞儀をしました。老医師が振り向いて、二人の僧侶の姿を確認すると、ゆっくりと立ち上がって言いました。

「喉の腫れがひどく、声も出せない状態です」

 女性患者は両の手を合わせ狐と山犬に向かって何度も頭を下げていました。昨日、自分をここまで連れてきてくれた恩人に礼を言いたいのだが、既に声も出せないまで悪化したため、こうして何度もお辞儀をして感謝の気持ちを態度で表していたのでした。

「いえ、お気を遣わずに。どうぞ、もう横になって楽にしてください」

 山犬は両手を合わせて頭を下げ続ける女性の傍に屈み、合わせていた手をとって、ゆっくりと布団の中に納めさせ、次にやさしく肩を持ちながら横になるよう促しました。女性の瞼の腫れは昨日より随分ひどくなっていました。

「流行病とききましたが」

 狐が老医師に訊ねます。すると医師は

「あちらで話をしましょう」

 と言って、助手と共に診療所の奥へと歩き出しました。

 三畳にも満たない狭い部屋に通された狐と山犬は、ピタリと肩を寄せ合うように並んで座り、目の前で火にかかったやかんの湯が沸き白い蒸気を吐き出す様をぼんやり眺めていました。やがて、助手がやかんをとって茶を淹れ、医師と僧侶の二人に提供しました。老医師は茶を一口含んでから言いました

「ご覧になったとおり、この診療所ではあまりにも患者が多すぎて限界の状態なのです」

 山犬は医師の言葉に深く頷きます。老医師は深く息を吐き出してから続けました。

「御仏のこころは重々承知しておりますが、これ以上は私一人では対応できません。したがって、今後病人をここに連れて来られても、もう受け入れはできないのです。大変心苦しいのですが、どうかご理解いただきたい」

 なるほど、この医者は、僧侶が人助けのために今後また患者を連れてきても、もう受け入れることはできないということを伝えるために二人を別室に招いたのでした。医者の意向を瞬時に悟った狐は言いました。

「先生の仰ることはよくわかりました。私どもは旅の者で今、この村で斯様な病が蔓延していることを、あの女性をこちらに送り届けて初めて知ったばかりでした。事情を知らなかったとはいえ、大変失礼をいたしました」

「いえ、お二人は急病人を医者の元に届けるという義務を立派に果たされました。詫びる必要などないのです。しかしながら、流行病の患者が急増し続けている現在、これ以上の新規患者の受け入れは出来なくなりました。おそらく、他の医者や診療所でも同じでしょう」

 医者は俯きながら現状を嘆きました。すると山犬が訊ねます。

「いつ頃から病は広がり始めたのですか? 」

「さて、私がこの病を患う人を最初に診たのは先週のことです。この一週間で患者は急増しました。ひょっとしたらもっと以前から他の地域で病が広がっていたのかもしれません」

 医師の言葉を受け、今度は狐が具体的な質問をします。

「先ほど助手の方から聞いたのですが、症状は皆ほぼ一緒だそうですね? まず瞼が腫れてきて、咳と高熱が出る、と。熱がひけば治癒となるのでしょうか」

 狐の問いに老医師は険しい表情で答えます。

「この病に罹った患者で治癒に至った者はまだ一人もいません。特異な病でして、未だにわからないことも多々あります。御承知のとおり症状としては、まず瞼が腫れだし、咳と高熱が出ます。高熱と並行して腫れの症状は悪化の一途を辿るのです。瞼の腫れは視界を完全に覆うほどになり、今度は耳の奥が腫れ出して聴覚に影響が出ます。そして咳の症状が酷くなるにつれ、喉の奥も腫れだし、話をすることも、食べ物を呑み込むことも困難となります。腫れた喉が徐々に塞がれてゆき、やがては水でさえも飲むことができなくなります。ここまでに至ってしまうと最後は・・・」

 老医師の説明にじっと耳を傾けていた狐と山犬は、つい先日、妻のために経を唱えてほしいと頼んできた村の男を思い出していました。男の妻が患っていた病状は、今ここに居る大多数の患者と同じではないか、と。二人は今、まさに蔓延している病の恐ろしさを知り、内心穏やかではありませんでした。そこで狐は改めて医師に問いかけました。

「なるほど、致死率の高い病、ということですね。ただ、私はこれが本当に〝病〟なのかどうか、という点が気になるのですが」

「と、おっしゃいますと? 」

「〝病〟ではなく、何かが憑依した、とは考えられませんか? 」

「憑依? それは・・・、狐か何かが人に憑りついて、このような病状に冒されているのではないか、ということを仰っているのですか? 」

 老医師は困惑気味に応えました。

「ええ、まぁ、必ずしも狐、とは断定しませんが、とにかく、何かの呪いとか恨みといった、陰の情念から発せられたというか・・・そういった心当たりとかはありませんか? 」

「さぁて・・・特に、狐に化かされてヒドイ目に遭った、というような話も聞いたことがありませんし・・・」

 老医師が長い顎鬚を撫でながら考え込むように話すと、山犬が場違いに弾んだ声で言いました。

「やっぱり、憑き物と言われて一番に思い浮かぶのは狐ですよね!? 」

 その言葉に狐は一瞬、山犬の方を睨みつけました。

「お二人はこれは病ではなく、狐のような憑き物によるものだと考えておられるのですか? 」

 老医師は目を丸くして二人の僧侶に訊ねました。

「いえ、だから、憑き物の正体が狐だなんてひとことも申していません。ただ、何か恨みや呪いをうけるような出来事が過去にこの村であったのなら、恨みを持った人、或いは動物が憑依したとの可能性もある、ということを申しているのです」

 狐は憮然として応えたのです。その狐の物言いと表情に、山犬は思わず笑い出しそうになりましたが、ここで笑ってしまうのはさすがに不謹慎だと察していたのでぐっとこらえたのでした。

「いえ、そういった恨みつらみの類の話はこの辺りで聞いたこともございません。逆に、どうしてこれが病ではなく憑依かもしれない、と思われるのですか? 」

 医者は二人の僧侶の顔を不思議そうに交互に眺めながら訊ねました。すると狐は、経を唱えるために先日大きな屋敷を訪れた際、主人の奥方が流行病で床に伏していたことを話し始めたのです。

「・・・なるほど・・・。経を唱えるうちに患者が苦しみ出した、ように見えたわけですね? 」

 老医師のこの問いかけに狐は頷きました。

「よろしい、それではこれからこの診療所内で経を唱えてください。あなたがたの経を聴いて、もしも患者たちがもがいたり苦しみだしたなら、あなた方のおっしゃるとおり、憑き物による仕業といえるでしょうから、今ここではっきりさせましょう」

 そう言うと、老医師は立ち上がり、助手に僧侶たちが経を唱えられる場所を準備するよう申し付けたのです。山犬は突然のことで少々ビックリしましたが、狐の方は平然としていました。やがて準備を整え終わった助手が狐と山犬の元へやってきて、建物の中央にある中庭に面した廊下の踊り場まで案内をしました。そこは、全ての部屋に面していたので、引き戸が開放された部屋の中の様子が全て見通せる場だったのです。くたびれた座布団が二枚、行儀よく並べられていました。腰を下ろそうとした山犬を制して

「読経に入る前に念のため九字を切ってよ」

 と、狐が言いました。九字を切る、とは、護身法のひとつで、九ある字の呪文を唱えながら一字ごとにそれぞれの印を素早く結んでゆく、というものです。

「わかった」

 山犬はそう答えると、

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前 !」

 と、勢いよく九字を切ったのです。狐は素早く部屋に居る病人に視線を走らせました。が、さしあたって患者たちには何の変化も見られませんでした。それを受けて、二人は静かに座布団の上に鎮座し、経を唱え始めたのです。

 老医師は患者の診察を行いながら、聞こえてくる経があまりにも立派なことに感心していました。二人の僧侶が唱える経が、その音程といい、息継ぎの間隔といい、見事に息の合ったものだったからです。少し高めで張りのある声と、落ち着きのある低めの声。この二つの声音が重ねられると、重厚で奥深く非常に調和がとれた、聴いている者に何かしら安らぎと感動を与えるものだったのです。未だ聴覚に症状が出ていない患者たちも僧侶たちが唱える経に聴き入っていました。中には僧侶に有難く感謝している気持ちを表すように、両手を合わせながらお辞儀をする仕草をする者もいたほどです。

 お経とは、永い永い仏の説法を語っているのですが、言葉の意味を全て理解するには学習と修行が欠かせません。従って、経を習ったことのない一般の人々にとっては難解な言葉で長い呪文を唱えられているようにしか聞こえないのですが、それでよいのです。もちろん、内容を理解しているに越したことはないのですが、読経とは、感覚よく唱えることによって、それを聴いている人々に慰めと心の平穏を与えることこそが、本来の目的なのだから。そして狐と山犬は、まさにこのために、観音菩薩の元で多年の修行を積んできたのです。彼等が熱心に唱える経は人々の心に響き、見事にその役割を果たすものでした。 

 やがて、二人の唱える経が終了します。しかし、経が終わってもしばらくは誰一人として声を発する者は現れませんでした。皆、今しがた唱えられた見事な経の余韻に浸っているかのように、じっとその場に佇んでいるのでした。時折、病床の患者による遠慮気味の咳がそこかしこから聞こえてくる程度です。そして、病人の前で経を唱えた本来の目的である憑依の件では、狐と山犬による読経によって、もがき苦しむような病人は一人として現れませんでした。

「どうやら憑き物ではなかったようですな」 

老医師が狐と山犬の元にやってきて言いました。

「そのようですね」

 当てが外れた狐は、しかし、未だこれから病人に変化が現れるのではないか、と期待するように辺りを見回して答えました。

「いや、それにしても見事なお務めでした。このように胸にまで染み渡る様な経はついぞ聴いたことがない。病に苦しむ患者もお二人の唱える経によって、一時ではありますが苦痛を忘れることができたことでしょう。立派な経を唱えて下さったことを心より感謝いたします。ところで、失礼ですが、お二人はどこの寺で修行をなさっておられる僧侶の方でしょうか? 」

 二人が唱え上げた経に対し、老医師は未だ興奮醒めやまぬ様子で訊ねたのです。医師の問いに、狐と山犬は困惑しましたが、すかさず狐が、

「私どもは方々の土地へ旅をしながら修行を行っている身で、特に決まった寺も何もございません。それよりも、今、この時点で多くの村人が患っているものが何かしらの憑依ではなく、病だということがはっきりしました。この病が流行病、つまり疫病であるなら一刻も早く何かしらの有効な手立てを打たねばならぬと思うのですが」

 機転を利かせ話題を流行病の方向にすり替えたのでした。

「それが・・・病を治す方法が未だにわからぬ状態でして。このような症状で死に至る病気はこれまでにみたこともない、と他の医者たちも申しております。今は、酷く腫れた部分を切開し、膿を出しながら苦しむ患者を少しでも楽にしてやることと消毒くらいしかできません。もう完全にお手上げの状況なのです」 

 と、老医師は逼迫した現状を訴えました。すると狐は答えました。

「そうでしたか。憑依による病気の症状であったならば、私どもで憑き物を祓い清めて退治することもできたのですが・・・。しかし、流行病であっても、解決策がないわけではありません」

 老医師はその言葉に驚いた様子で顔をあげ、僧侶へ視線を移しながら訊ねました。

「と、仰いますと? 」

 狐は医師の方にはめもくれず、相変わらず部屋の至る所で病に伏している病人たちを観察するように見回していました。やがて、

「明後日、疫病退散の霊符をお持ちいたしましょう。それを頓服にして服用すればきっと快気するでしょう」

 そう言ってから、狐と山犬は診療所を後にしたのです。

「霊符? 」

 老医師は怪訝な表情を浮かべながら立ち去る僧侶たちを静かに見送ったのでした。


「霊符ってさ、まさかまた自分で用意する気なの? 」

 診療所を出てしばらく歩いたところで山犬は狐に問いかけました。

「もちろんよ。他に誰が用意できるっていうのよ」

 狐は何を今さら、といった感じで答えましたが、山犬は尚も不安げな表情で押し黙ってしまいました。それを見かねた狐は

「この前だってうまくいったじゃない、いつまでも結婚できない可哀そうな女子に、あたしが祈祷しながら謹書した霊符を渡した途端、すんなんりお嫁に行けたでしょう? 」

 と、前回もたらした霊符による成果を誇らしげに言いました。しかし山犬は不安な様子を崩そうとはしません。そもそも霊符というものに未だ馴染めていなかったのです。それもそのはずで、霊符の謹書は狐がこっそり仙人から見よう見まねで得た能力であり、師匠から弟子へ教えを伝える、といった従来の道筋からは大きく反れた経緯での習得だったからです。それに、仙人がもたらした霊符を使用するにあたり、師匠である観音菩薩の許可を得た訳でもなかったから尚更でした。しかし、狐が言ったように霊符を使って人々の悩みや願いを解決できることも知りました。山犬は狐が謹書した霊符の効験に明らかに困惑していたのでした。

「でも、今回は多くの人が苦しんでいる流行病だよ。一人の願い事ではないし、何より人命がかかっているんだ。関わるからには相当の覚悟と責任が・・・」

「そんなことは百も承知よ。こんな大変な問題だからこそ村人の力になってあげないと。大丈夫だって、もうあたしは霊験あらたかな霊符をしたためる能力を得たんだから。この流行病も、疫病退散の霊符でもって対応すれば必ず治まるハズよ」

 山犬の言葉を遮って狐は自信満々に言い放ちました。

 翌日から狐は霊符の謹書に勤しみました。 山犬は、小川の上流まで行って狐が謹書するために必要な清潔な水を汲みに行きました。 狐は二種類の霊符を用意しました。疫病を鎮めるための霊符と、既に病を発症している病人に服用してもらうための霊符です。

「これは、万病に効果を発揮する〝天地同和寿命無限自在符〟。そしてこちらの霊符は〝断疫病符〟。これ以上病が広がらないよう流行病を鎮めるの」

 狐は二種類の霊符をそれぞれ一枚ずつ謹書しを終えると、自慢げに見せながら説明をしました。

 山犬が見たところ、一つ目の霊符には、小さな蛇かミミズが這っているかのような細いひょろひょろとした線で、それぞれ形の違う文字のような文様のようなものが七個描かれていました。もう片方の霊符にはしっかりとした筆質で漢字のようなものが紙面いっぱいに大きく描かれていました。狐が最初に謹書した〝男子思慕符〟の時もそうでしたが、どれも山犬にとっては初めて見る象形ばかりで、各々の形がどのような意味を持つかなどさっぱりわかりませんでした。そんな狐をよそに、狐は精神を統一し、呪文を唱えながら一気呵成に霊符をしたためてゆきます。こうして老医師との約束の日までに、狐は数十枚の霊符を謹書したのです。

 その日の朝早くに狐と山犬は再び診療所に向かいました。

 狐は長時間に渡って集中しながら多くの霊符をしたためました。このため、狐にはかなりの疲労があったに違いありません。しかし、診療所へ向かう足取りは軽いものでした。

 狐は自分が新たに習得した術を披露できることを心から喜び、謹書した霊符を使って、すばらしい結果を出すことを愉しんでいるようでした。

 診療所に着くと老医師の元を訪れ、狐が自ら謹書した霊符を出して見せました。そして〝断疫病符〟の霊符を医師と助手に授けたのです。それから次に〝天地同和寿命無限自在符〟を取り出して、重篤な患者から順にこの霊符を呑ませたい、と伝えました。すると助手が

「呑ませる、と言われても、重篤患者ほど喉の腫れが酷く、食事もろくに飲み込めないというのに、そんな紙に書いた符を呑ませるだなんて無茶です」

 激しく抗議しました。

 山犬は助手の意見はもっともだと思いました。そもそも、霊符を〝呑む〟だなんて、一体どうやって紙一枚を呑ませるつもりなのか、と不思議に思っていたのです。いつもの山犬ならば、疑問があった時点ですぐに狐に質問をするのですが、先日辺りからどうも意識がぼ~っ、とし、瞼が重く言い知れぬ身体の倦怠感を覚えていました。このため、何かを訊ねる気力が失せ、ただ狐の作業をぼんやりと見守りながら、無言で身体を安静にさせていたのでした。

 狐は助手に

「それでは、椀に水を淹れてきてはもらえませんか? 」

 何の説明もなくいきなり依頼をしました。突然の指示に、助手は水を汲みに行くため渋々立ち上がると、狐の要望通りに、椀に水を入れて戻ってきたのです。助手から椀を受け取ると、狐は〝天地同和寿命無限自在符〟の霊符を一枚取り出して、椀の中の水にすぅ~っと潜らせたのです。すると、紙はみるみる溶けてゆき、不思議なことに符に描かれていた、あの、小さな蛇かミミズが這っているかのような細いひょろひょろとした線で描かれた、それぞれ形の違う文字のような文様のようなものが七個、水の上に静かに浮かんでいるのです。

「これを、まだ水分が呑み込める病人に飲んでもらってください」

 そう言って文字の浮かんだ椀を再び助手に手渡しました。そのやりとりを近くで見ていた老医師は、助手が持つ椀を注意深く覗き込みました。

「ほほう、これならば何とか服用可能・・・呑んで治癒を促すものか・・・」 

 と、呟きました。

 助手は狐に言われたとおり、重篤でまだかろうじて水を飲むことが出来る患者の元へゆき、水に溶けた霊符を呑ませました。それから狐は、霊符の数だけ水を入れた椀を用意してもらい、慎重に霊符を潜らせていったのです。病人たちは霊符の描かれてある象形が浮かび上がった水を、静かに服用していきました。数人の病人が、椀の中で静かに浮いて揺れる象形をみて驚きました。彼等は当初、呑むことに抵抗しましたが、老医師の説得もあり、しかも、目下これしか治す手立てはない、と知ると、やがて恐る恐る口にしたのです。その他の患者はというと、彼等の大半は酷い瞼の腫れによって視界が塞がれ、何も見えていない状態でした。更に酷い状態では、聴力までも失い、耳元で話す医師や助手の声さえ聞こえない病人もいます。このため彼等は、霊符の象形が見える患者とは対照的に、椀の中身が何であろうと、生きるための水分補給なら何でも口に流し込もうとしました。

 病人たちが霊符を服用していくのをみて、狐は満足げに

「これでしばらく様子をみましょう」

 老医師と助手に言うと、それ以上は何の説明もないまま、満足げに山犬と共に診療所を後にしました。

 狐は自ら謹書した霊符に絶対の自信を持っていました。だから、診療所から帰る道中、山犬にこう言ったのです。

「まぁ見ていてごらんなさいよ、霊符を服用した病人たちは、数日のうちに快気するから。そのうち村の流行病もウソみたいに終息していくハズよ。今から結果が楽しみだわ、ねぇそう思わない? 山犬」

 ところが、ついさっきまで横を並んで歩いていたはずの山犬の姿がありません。狐は驚いて後ろを振り向くと、二十歩ほど後ろに屈みこむ山犬の姿があったのです。

「山犬!? 」

 慌てて狐が駆けつけると山犬は、苦しげに咳をして、肩で息をしながら助けを請うように狐を見上げました。

「―――!! 」

 山犬の顔を診た途端、狐は衝撃のあまり言葉を失いました。なぜなら、山犬の両瞼が赤く腫れあがっていたからです。

「山犬・・・そんな、ウソでしょう!? 」 

狐はすぐさま山犬の腕をとり、抱きかかえるようにして、二人が仮の寝床としていた村外れの廃屋に戻りました。そして、今度は山犬のために、また新たに霊符を謹書したのです。

 その夜、山犬は高熱を出し、完全に臥せってしまいました。狐は診療所の病人に行ったように、謹書したばかりの霊符を清らかな水に潜らせて、山犬に呑ませました。

 もう山犬は喉の腫れからくる痛みで、話すことはおろか、唾を呑み込むことさえも難儀で、この霊符の浮かんだ水を飲み干すのにかなりの時間をかけねばなりませんでした。

 時折咳き込みながら服用を中断する山犬に、狐は

「大丈夫だから。この〝天地同和寿命無限自在符〟を呑んで安静にしていればすぐに快気に至るわよ」

 と、励ましながら安心の言葉をかけたのです。しかし、翌日になっても山犬の熱は一向に下がりませんでした。それどころか、瞼の腫れは一層ひどくなり、苦しげに咳き込む回数も増えていました。狐はそんな山犬の様子を見て、数日前に霊符を謹書した時の自信満々な気持ちは何処へやら、どんどん不安に陥っていったのです。これは同時に嫌な予感を抱かずにはいられませんでした。

 二日後、狐は霊符の効果を確かめに、一人で診療所に出かけました。老医師は、狐の姿を見るや否や

「今日で十六人の方が亡くなりました」

 と、冷たく言い放ちました。狐は自ら抱いていた予感が的中したことを嘆きました。そして、せっかく協力してくれた老医師と助手に詫びたのです。

「私を信頼して協力して頂いたというのに、ご期待に添えられず、本当に申し訳ない」

 すると老医師は

「なに、あなたが詫びることではありません。どのみち、治せる方法は他にはなかったのですから。それに、私どもはあなたがたの事を今でも信頼しております。あのような立派な経を唱えることが出来る僧侶はそうそういませんからね。ただ、残念ながら病の影響で目や耳が塞がれた患者はお二人の立派な姿を見ることも経を聴くことも叶わなかった。そして他の病人も、見ず知らずの他所から来た僧侶が用意した霊符というものに信頼を寄せられなかった、それだけのことです」

 こう言い放ちました。老医師の言葉を受けて、狐は原点に立ち戻って再考する必要があることに気付いたのです。

 そもそも、霊符に限らず、呪術や呪文、といった類は、精神的な力による作用によって現実に影響を与えるもの。それは即ち、それらを扱う者が持つ、信じる力の大きさや強さで効果に格段の差が出てくるのです。

 そして、この検証から導き出された答えは、狐にとって、自信喪失と失望と悲しみと孤独といった負の感情を否応なく突きつけられる不都合な真実でした。

「なるほど、そういうことか」

 狐は俯いたままひとり言のように呟きました。

「どうかご自分を責めないでください。流行病は誰にもどうすることもできないのです」 

今度は助手が狐に声をかけました。すると医師は顎鬚を触りながらこう言いました。

「いや、まだ打つ手はあるかもしれません」

 医師の言葉に狐は敏感に反応しました。

「それはどういったものでしょう? 」

「あなたは最初、この病は何かの憑き物の仕業かもしれない、と仰いました」

「はい、それが何か? 」

「実は、今からもう数十年前のこと、村から遠く離れた森の中に、どんな万病にも効くといわれている薬草が群生している場所があったのですが・・・」

 医師がそこまで話すと、横で老医師の話を聞いていた助手が、驚いてハッ、と声を発した後に、

「先生、それは危険ですよ」

 と、忠告をしたのです。狐は

「どういうことです? 」

 そう言って先を話してくれるよう促しました。

「噂を聞きつけた村人たちがこの薬草を手に入れようと、大勢で森に入って行きました。ところが薬草が群生している辺りはちょうど猿の縄張りだったのです。猿たちは縄張りを荒らしに来た人間に怒り、襲いかかりましたが、返り討ちで多くの猿が殺されたのです。一方で、村人たちは後先考えずにあるだけの薬草を根こそぎ奪ってしまったので、もうその場所では薬草は二度と生えてはこなかったのです。が、最近になって、森に迷い込んだ村人で、この薬草が群生している場所を見たという者が現れたのです。彼が言うには、そこには大きくて凶暴な牙をもつ猿が群れを成して薬草を護っているらしく、人が迂闊に近づくことができない、ということでした。あなたの憑き物ではないのか、という発言を聞いてからしばらく経って、私はこの出来事を思い出しました。そして以降この病は、猿による復讐の呪いではないだろうか、という考えが頭から離れないのです」

「猿の報復、ですか? 」

「私にはそう思えるのです」

「なるほど。で、その薬草が万病に効くというのは本当なのですか? 」

「さぁ、なにせもう何十年も前の話なので・・・昔からこの村に住む老人たちの話しでは、医者から見放された重病人にその薬草を煎じて飲ませたところ、嘘みたいに快癒したとか・・・」

「そうですか・・・しかし、私の霊符が効験を得ないなら、次はその薬草を試すしかないですね」

 狐の意見に助手は猿への恐怖心と危機感を露わにしました。

「でも、あの森には凶暴な恐ろしい猿が群れをなしているんですよ! 薬草をとる前に殺されてしまいます! 」

 ところが老医師は、長い顎鬚を触りながら狐にこう訊ねました。

「憑き物退治がお出来ならば、凶暴な猿どもを駆逐する戦術もお持ちであろうかと推測いたしますが、如何でしょう? 」

「少し計画を練る必要がありますね。薬草が群生している場所を詳しく教えてもらえますか? 」

 狐がそう言うと、老医師は詳細情報を得るため、猿の群れと薬草を見たという村人の元へ助手を走らせたのです。助手が行ってしまってから、老医師は今度はこう狐に訊ねました。

「旅の僧侶のお方が、なぜ危険を冒してまで薬草をとりに行こうなどと申し出されるのですか? 」

 狐は未だ部屋の外に溢れ、通路に寝かされている病人たちを虚ろな目で眺めながら答えました。

「私と、もう一人いた僧侶が先日発病し、重症です。そして・・・彼にも霊符の効験がなかたのです」


 最も狐を落胆させたことは、山犬に、霊符の効験がもたらされることなく、病状は悪化の一途を辿っていたことでした。この事実は即ち、山犬が狐の法術に対して絶対的な信頼を寄せてはいない、ということの証だったからです。狐は悲しさと悔しさと情けなさとが入り混じった涙を拭いながら、それでも必死に山犬の介抱を続けました。この時点では狐はまだ、次にとるべき論理的な判断ができていませんでした。山犬の信頼を得られていなかった、ということへの衝撃と失望の方が大きすぎて、自暴自棄になりつつあったのです。とるべき手段無く、このまま山犬が死んでいくのを指をくわえて見ているくらいなら、自分が薬草を探しに行き、たとえその過程で猿に殺されたとしてもかまわない、とさえ考えていたのでした。


 一方、山犬は、仄暗い水底にひとり沈められてしまったかのような蒼ざめた孤独を感じていました。頭部を主として腫れ上がった箇所は、水圧に押し付けられている時に生じる圧迫感に似ており、目は思うように開けず、耳もじゅくじゅくとしたような音しか聞こえません。狐が手をとって、何か話しかけていることはわかるのですが、その声はまるで水中に居る時のような、くぐもった音でしか聞こえてこないのです。大切な人の姿が見えない、声が聞こえないことが、そして会話もままならないことが、こんなにも辛く孤独なことだとは想像したこともありませんでした。

 おそらく狐は、自分のために霊符の謹書といった、あらゆる手立てを考えて行動していることでしょう。しかし、それは山犬が真に望んでいたこととは違いました。山犬としては、今はとにかく狐に傍に居てほしかったのです。傍に居て、できれば他愛もない話をしてほしかった、そして何より一緒に経を唱えてほしかったのです。法術に関して言えば、狐を信頼していないわけではなかったのですが、やはり霊符というものに対しては、観音菩薩から直伝されたものでなかったため、疑問や邪推が過ぎっていたのです。だから山犬は、そういうものに頼るより、臥せっている間もずっと観音経を唱えました。幼い頃より大切に育ててくれた師匠であり親代わりでもあった観音菩薩にひたすらこの窮状を訴え続けたのです。


 翌日、狐はまた診療所に出向き、助手が村人から聞いてきた薬草のある場所を伝えてもらいました。老医師と助手は、一人で森に入るのはいくらなんでも危険が大きすぎるから、村人の中から何人か協力してくれる人物を探そう、と提案しましたが、折しも流行病が蔓延し、健常な人などほとんど皆無な状況。狐はこれを理由に医師の申し出を辞退すると、そのままひとりで森をめざし歩き続けたのです。


 森の中は想像以上に暗く、狐がこれまでに散策したどの森よりも暗く深く、陰気な森でした。歩いていくにつれ、狐は身体から力が抜けていくようでした。

「うわっ・・・なんか、すっごく厭な感じの森よね」

 方位的にも狐は、自分が鬼門の方向に向かっていることを直感していました。本能的に危険を察知し、これ以上森の奥へ進むことへの警告が、冷や汗と手足の強張り、心拍数の上昇といった体調の異変として現れていたのです。しかし、山犬を救うためには進むしかありません。狐は立ち止まってふぅ、とひとつ深呼吸をして息を整えると

「でも、あたしの霊符は効かなかったんだし、山犬は死にかけてるし、行くしかないし! 」

 覚悟を決めて自分自身に言い聞かせたのです。それから狐はうっそうと茂った草木をかき分け、村人の証言に沿って森の中をずんずんと進行してゆきました。更に進んでゆくと、四方から何やら異様な臭いと妖しい気配が漂ってきました。森に入った直後に狐が抱いた「すっごく厭な感じ」はもう極限に達していました。

「ついに来たか・・・」

 狐が呟くと、周囲からざわついた様子で様々な声が聞こえてきたのです。

「聞いたわよ、聞いたわよ、聞いたわよ」

「話したわ、話したわ、話したわ」

「人じゃない、人じゃない、人じゃない」

「狐だ! 狐だ! 狐だ!」

 いくつもの囁き声が狐の耳元をかすめました。狐は耳と首元をぞわぞわした感覚に襲われ全身に鳥肌が立つのを感じました。森に入った際も狐は、依然僧侶の姿であったので、正体を見破った囁きに対してゾッとしたのです。狐は歩を止め、恐る恐る辺りを見回して声の主を探します。次の瞬間、茂みの間から猿が次々と現れ出てきたかと思うと、あっという間に狐の周りを埋め尽くしてしまいました。狐は猿の群れによって完全に包囲された格好となってしまったのです。そんな猿の群れの中から一際目を惹く純白の長毛をもつ猿が中央で仁王立ちしています。しばらくして、その白猿は徐に前に出てきて、狐に話しかけたのです。

「これはこれは。僧侶に化けた狐がこの森に何用かな? 」

 それはしっかりとした人の言葉でした。そして、この異色の猿を前にして狐は考えました。通常、獣が人語を話すことは有り得ないことです。狐と山犬のようになるためには、多年の修行と目には見えない力を行使して世界に影響を与えることが出来る存在の後押しが不可欠だからです。その存在と言うのが、狐と山犬にとっては、師匠である観音菩薩や阿弥陀如来なのです。となると、この人語を話す猿は一体どういう存在なのか。

「どうしてあなたたちは人の言葉を話すことができるのですか? 」

 狐は疑問を投げかけました。すると

「お前こそ、狐の分際でなぜ人間の成りをして話が出来る? 」

 白い猿は高圧的な態度で狐の素性を問うたのです。狐は、自分の正体を一瞬で看破した上に、人語を操るこの猿は只者ではない、とみて正直に答えることにしました。

「私は観音菩薩に従事して多年の修行を積み、ようやく陽の出ている間だけ、人の姿に成ることを許されました」

「観音菩薩だと? それでは仏門の者か」

 白猿がそう言うと、他の猿たちがまた一斉にざわめきました。

「はい、人間に成れるよう修行中の身です」

「なぜそこまでして人間に成りたいのか? 」

「なぜ、って・・・それは、人間は私の憧れの存在だからです」

「人間に成ってどうする? 」

「困っていたり、苦しんでいる人々を救いたいのです」

「それは別に人間でなくとも可能ではないのか? 仮にお前が狐のままであっても森に入って薬草は探せるはずだ、違うか? 」

「どうして私が薬草を探しに来たとわかるのですか? 」

「この森で起こることは全て御見通しだ。今までも、そしてこれからも」

 それで狐は事の一切を理解しました。この白い猿は森の神なのだと。そして今、村中を苦しめている流行病は、神聖な森の猿を殺し、薬草を乱獲したことによる報いで、人々は森の神の怒りをかったのだと。

「なるほど。ではどうしたら私はこの森にある薬草を手に入れて人々を救うことが出来るのでしょうか? もっとも、あなた方の怒りが鎮まって、疫病を終息させていただければ、薬草を手に入れずとも、私は村に帰ることができるのですが」

「さて? 利口な狐よ。なぜお前は疫病が私の仕業だと断言できるのだ? 」

「それはあなたたちが〝猿〟の姿をしているからです。流行病の症状は皆一貫しています。まず、瞼が腫れて視界を完全に覆うほどになり、今度は耳の奥が腫れ出して聴覚が失われます。そして咳の症状が出て、喉が腫れだし、話をすることも、食べ物を呑み込むことも困難となります。腫れた喉が徐々に塞がれてゆき、やがては水でさえも飲むことができなくなり、死に至る―――。このことから、あなたは人々に〝見ざる・聞かざる・言わざる〟という三つの戒めを強いているのです。これが、薬草を乱獲した人間に対する報復なのか、それとも人類に対する天罰なのか、仏門の世界しか知らぬ私には計りかねるのですが・・・」

 狐は頭に浮かんだことを臆することなく堂々と言ってのけました。すると猿は

「そうさな・・・人間は、お前さんのように賢くなり過ぎた。賢くなった分、自然や時に天さえも恐れず見下すようになっていった。私は罰を与えた訳ではない、むしろその逆だ。即ち、見ない・聞かない・言わないでいれば、天や自然というものを敬い、もっと謙虚になれる。謙虚でいれば知恵を働かせて歯向かうことも悪事もなくなる」

 少し憐みを帯びた口調で言いました。しかし、狐は即座に疑問を投げかけたのです。

「果たしてそうでしょうか? 」

「何ぃ? 」

「目や耳や口を塞いでしまっては、何が傲慢で何が謙虚かの判断なんてつかなくなるでしょう。天や自然や人々にとって都合の悪いことも含めて、しっかりと見て聞いて考え話し合い、行動すべきなのです」

「では、何をもってその判断をつける」

「私は人々に仏の教えを広め、経を唱えることはとても有効だと思っています」

「くだらん」

 白い猿は吐き捨てるように言いました。しかし狐は一歩も引かずにこう続けました。

「目や耳や口を閉じて圧力を加えるばかりでは、しっかりと現実を把握することができません。波風立たぬ平穏は、確かに理想的です。しかしそれが永く続くにつれ、人々はやがて考えることや行動することをすっかり諦めてしまうでしょう。果たしてそれは人のためになるといえるのでしょうか」

「そうか。では試してみるがよい。お前の言う、その仏の教えとやらで、人間がどこまで賢く、そして謙虚になれるかを」

「その前に、人々の目や耳や口を解放していただく必要があります。〝見ざる・聞かざる・言わざる〟の状態ではいくら私が説法をして経を唱えたところで人々には届きません。これでは試しようがない」

 この狐の意見にはさすがに森の神も

「・・・どこまでも小賢しい狐よ。よいであろう。その薬草を持ち帰り人々に煎じて飲ませよ」

 こう言わざるをえませんでした。そして、鋭い眼差しで狐を凝視してからこう忠告をしました。

「だがな、賢い狐よ。お前のその賢さはいつか先々で仇となり、大きな問題をひき起こすことになるだろう。あまり知恵をひけらかさないことだな」

 その言葉が終わるか終らないかの内に、一斉に猿の姿が消え、気づくと、先ほど白い猿が立っていた場所には薬草が群生していたのでした。

 こうして賢い狐はまんまと疫病に有効な薬草を手に入れることが出来たのでした。

 狐は意気揚々と薬草を摘んで持ち帰りました。そして、真っ先に山犬に煎じて飲ませたのです。


 その夜、狐の夢の中に観音菩薩が現れました。

「霊符を用いた法術は功を奏せぬようでしたね」

「はい・・・観音さま、まだまだわたくしの修行が足りないことを痛感いたしております」

「山犬の窮状による訴えで様子を見に降り立ちましたが・・・今のところ、あなたのその高い知識と言動は人々のために働いているとは言い難い状況です」

「そんな、観音さまは何か誤解をしていらっしゃいます。私はこんなにも身を粉にして山犬と村人のために努力しているというのに・・・」

 そう言った狐の言葉に観音菩薩は

「僧侶の成りをして、いくら立派に経を唱えたところで、人々の信頼に値する者だといえる根拠はどこにもありません。哀れに思える境遇の人たちに対して〝見事な経を唱えてあげたから、あなたたちは私を信じて黙って言うことを聞いていればいいのです〟というのは、あまりにも横柄で傲慢で、人を見下した態度です」

 と、数日前に狐が見せた診療所での村人への対応を非難されたのです。しかし、狐も黙ってはいませんでした。

「僭越ながら・・・そのような苦情は、村人に〝見ざる・聞かざる・言わざる〟といった病をかけた森の神に申していただきたい。彼らは特別な力で、村人たちを苦しめているのですから」

すると、観音菩薩は狐にとって想定外のことを仰ったのです。

「あなたも自分の力を使って同じことをしたではありませんか」

「私が? まさか」

「あなたは私が蝋燭を与えた村の若い男に罰を与えましたね。なぜ、若者の光を奪うようなことをしたのですか? 私が何も知らないとでも? 」

「―――」

ずいぶん前に、欲にかられた人間に対して、狐が秘密裏に行った報復行為を観音様はご存じだったのです。観音様は尚も続けます。

「あの若者は毎日毎日、光が見えないことを嘆き悲しみ絶望の淵にいました。だから私は再び彼の目に光が射すようにしたのです」

 その言葉に狐は驚いて言いました。

「あの村人の悪意に満ちた所業を赦すのですか? 」

 狐にしてみれば、あの強欲な若者が光を失ったことは、観音菩薩や自分に対して行った卑劣な行為による自業自得だと信じて疑わなかったからです。しかし観音菩薩は

「〝天罰〟を下せるのは神の御業です。私たち仏門の世界の者は全知全能の神ではありません。そもそも、なぜあなたは人に対して罰を与えたのですか? あなたは人に罰を与えられるほどに偉い存在なのですか。そのような権限をいつ持ったのです、知恵と力があれば何をしてもかまわないと思っているのですか」

 いつもより強い口調で狐に詰め寄りました。

「いえ、滅相もございません」

「それでは、今一度問いますが、何のためにあなたと山犬は、人の姿となって地上に降りたのでしょうか」

「・・・困っていたり、苦しんでいる人々に経を唱え、心の平安を取り戻すよう仏の道を教え、救済するためです」

「しかし、あなたはその力を使って人に罰を与えました、何故です? 私たちの役目は人々に反省と後悔を促すための罰を下すことではないはずです。説法や経を通じて人々に仏の教えを受け入れてもらうことなのです。真言や法術はそのためにあるのです。罰を与えるのではなく希望や幸福を与えるのです」

 観音菩薩は熱心に狐に諭されました。しかし、狐は不承の態度は崩しませんでした。

「しかしながら・・・少々痛い目に遭わなければ理解できぬ一部の愚か者にはこれは有効だと思います。森の神もそう考えたからこそ、与えた天罰なのでしょう。森の神は、人々が〝見ざる・聞かざる・言わざる〟に至った原因は、賢くなり過ぎたことで天や自然の力を見下すようになったからだと申しておられました。しかし、この罰ともいえる病は善人と悪人の区別なく平等に広まりました。賢い人間が全て、天を見下し背いている訳ではないのに。むしろ天に、自然の力に敬意を払い畏怖の念を抱く者の方が多いというのに。この不均衡こそ、正すべきことではないでしょうか。そもそも、知恵を持ち賢くなることがそんなにいけない事なのでしょうか? 」

 狐はこれまで胸に抱いていたモヤモヤっとしたものを一気に吐き出すように言いました。すると観音菩薩は

「神々の真意は、私には解りかねます。しかし、失うことによって初めて間違いに気付くこともあるのです。ただし、それを行うのはあなたの役目ではないはずです。よいですか、いくら知恵をつけ、法術に長けていても、仏の教えから逸れてはなりません。あなたたちの役目は人々を罰することではなく、説法を理解してもらい、悟りを開くことなのです」

 改めて狐に自制と本来の役目を諭されてから、静かに天に昇ってゆかれたのでした。


 狐にとってそれはかつてないほどに目覚めの悪い朝でした。久しぶりに師匠と話ができたというのに、観音菩薩の言葉は狐に対しての叱責ばかり。狐はすっかり意気消沈してしまいました。狐としては、あの猿の姿をした森の神から薬草をうまく入手できたことに師からのねぎらいや、褒美の一言でもあるだろうと期待していたからです。それに対して観音菩薩は、大昔にしでかした、村人への報復行為の叱責と今回の疫病に対する狐の言動を批判されたのです。狐にとっては、非道な村の若者に、法術にて戒めたことをまさか観音菩薩が知っていたとは想定外でした。そして、これはあまり自覚はなかったことですが、法術に長けた自らの賢さに酔いしれ、周りの人々に対して横柄で傲慢な態度をとっている、という狐にとっては何とも耳の痛い指摘をされたことで、がっかり肩を落としてしまったのです。

「自分では無意識のうちに、そういう態度が出てしまうのだろうか・・・」

 狐は昨日苦労してやっと手に入れた戦利品である薬草の束をぼんやりと眺めながら、観音菩薩の仰った言葉を思い返してはしょんぼりとしていたのでした。


「ねえ、みて! すっかり病気が治ったみたい! 」

 狐がハッとして、声の方を見ると、そこには病魔に倒れるより以前の元気な山犬の姿がありました。山犬は嬉しそうにその貧相な黒い尻尾をブンブン振りながら狐の方に駆け寄っていきました。

「あのね、夕べ夢にかのん様が現れたんだ! それでね、色々お話ができたよ」

 山犬がはしゃいで話すのを聞き、狐はますます気分が沈んでいくのを感じました。

「へぇー。どうせ、あんたが泣き付いて呼んだんでしょうが。で、何か仰ってた? 」

 狐は、山犬が師匠にすがったことを推測し、その件にあまり関心がなさそうに返すと、

「うん。今回の疫病はもう私たちの力では太刀打ちできそうにないから、病気の間も必死でかのん様にすがるように観音経を唱え続けていたんだ。そしたら、本当に現れてくださったよ」

 山犬は師匠に助け船を求めたことをあっさり認めました。

「ふぅん。観音様に治癒してもらって、すっかり病も快気したわけだ、よかったね」

 狐は一切の感情を押し殺して山犬の快気を称えたのです。本当は苦労して手にした薬草の効果であってほしかったけれど、結果として山犬が元気に復活できたのだからそれでいいのだ、と。しかし山犬は頸を左右に振りました。

「違うよ。病気が治ったのは、狐が煎じて飲ませてくれた薬草のお陰だから、って、かのん様は仰ってた。だから、ちゃんと感謝しなさい、って。それから、山犬はもっと狐のことを信頼するべきだ、とも仰ってた。すでに師匠のもとを離れて、修行に出ているというのに、何か困ったことがある度に、師にすがるのは如何なものかと。修行を続けるうえで、もっと二人で互いを思いやり、信じることを学ばなければなりません、そうでなければ、どうして人々を救うことができますか? って・・・。きっと、狐の用意した霊符を疑っていたことが原因で、効験を遮ったことを悲しまれたんだと思う・・・。必死で病気を治そうと努力してくれていたのに、疑ったりして本当にごめんね」

 狐は、山犬の言葉にキョトン、としたまま動けずにいました。まさか観音様が山犬に薬草や霊符のことを伝えていたとは、まったく考えもしなかったことだったからです。

 観音菩薩は二人の弟子に対し、分け隔てなく、しっかりと修行の身としてとるべき道を諭されていたのです。


「山犬の病気が治癒に至ったことで、この薬草の効能が証明されたわけだ。早速、診療所にいる病人たちにも煎じて飲んでもらいましょう」

 狐は山犬の快気と薬草の効果を素直に喜んで、今度は村人のために役立てることを期待しました。山犬も同意し、

「うん、そうだね。でも、この薬草、どうやって手に入れたの? 」

 緩やかに尻尾を揺らしながら訊ねました。 すると狐は怪訝な表情で、

「観音様からは何も聞いてないの? 」

「うん、病気が治まったのは、狐が煎じた薬草のお陰、としか仰らなかったよ」

「そうなんだ・・・」

 そう言って、診療所へ向かう道すがら、老医師から教えてもらった万病に効くといわれる薬草の話から、白い猿の姿をした森の神とのやりとりまでを、かいつまんで山犬に説明したのでした。

「すごい! 森の神様と出会えたなんて! 」

 山犬は狐の薬草を手に入れるまでの経緯を、まるで冒険譚でも楽しんでいるかのような調子で聞いていました。狐はそんな山犬の無邪気な態度に呆れながらも、興味津々で聞いてくれることに気を良くして、少し愚痴っぽくなりました。

「何がすごいもんですか、すっごく威圧的で意地悪な猿だったんだから! 」

 とはいえ、狐は再びこうして山犬と会話のやり取りをできることが嬉しくてたまりませんでした。


 診療所では已然として多くの病人が臥せっていました。狐と山犬は早速医師と助手の元へ行き、持参した薬草を手渡しました。

「よくぞ御無事で・・・」

 老医師と助手は、信じられない、といった様子で、狐と山犬の無事を称え、薬草を提供してくれたことに深く感謝をしたのでした。そして二人は、助手と共に薬草を煎じて患者一人一人に服用させていったのです。薬効はすぐに現れ、翌日には服用したほぼすべての患者の熱は下がり、咳や腫れの症状は徐々に治まってゆきました。しかし、既に水さえも喉に流し込めない重篤患者は、薬草の服用がままならなかったので残念ながら命を落としてゆきました。

 すべてではないにせよ、村人を救えたことで、狐も何かに気付き救われた気分でした。それは、喪失しかけた信念や誇り、山犬からの信頼、これらを取り戻せたという安堵から生じたものだったのかもしれません。

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