第3話 狐の毛皮が狙われる!
子狐は大きくなるにつれ、その白い被毛は見事なまでの美しい豊かな毛並みを持ち、眩いばかりの輝きを放つようになりました。
狐が歩く度に純白の長く艶やかな尻尾が優雅に揺れ動き、いやがおうにも一際目を惹く存在となっていったのです。
そして、いつの世にでも、悪いことを考える人間はいるものです。
下界の人々に仏の教えを広め経を唱えるため、観音菩薩は再び地上に御出でになりました。もちろん、弟子である狐と山犬も一緒です。狐と山犬は観音菩薩が人々に教えを諭され、経を唱えるのを傍で静かに聴いていました。村人たちも観音様の有難い教えを拝聴していました。そんな中、邪心を抱きながら観音菩薩が連れている二匹の獣を凝視する不届き者がいたのです。
その日も、村の一角で観音菩薩が唱えるお経を拝聴しようと多くの人たちが集まっていました。村人たちは皆、観音菩薩の唱えるお経に集中し熱心に聴き入っていました。しかし、聴衆の中にいた村の若い男だけは観音菩薩の唱えるお経よりも、その後方に控えて行儀よく座っている二匹の獣に注目していました。
あれは、二匹の犬か? いや、黒い方は犬であっても、白いのは狐じゃないのか? そして、狐を凝視してこう思ったのです。
「何と! あの白い狐! 見事なまでに美しい! 煌びやかに輝く純白の被毛! 特にあの尻尾! どんな醜女でもあのフッサフッサの美しい尻尾を首回りに巻けば、華やかな美女に見違えるだろう。毛皮だ! あの白い狐を捕まえれば毛皮にして一儲けできるぞ! 」
男は、観音菩薩が経を唱え終わるの見計らい、観音菩薩に随行している白い狐を捕獲すべく、一人と二匹の後を追いました。男は見つからないよう注意を払い、物陰に隠れるなどしながら、何日も何日も狐を捕まえる機会をじっと伺っていたのです。けれども、待てど暮らせど白い狐が観音菩薩と山犬の傍から離れることはありませんでした。
そうして幾日かが虚しく過ぎてゆきました。さすがにもう諦めようかと考えはじめていた男に、絶好の機会がやってきたのです。
早朝、男が用をたそうと、たまたま川辺に出ると、あの白い狐が川で水を飲み喉を潤していたのです。辺りを見渡してみますが、いつも一緒に居たあの修行僧も犬の姿もみえません。これはしめたものだ、と村の若い男は即行動に出たのです。
懐から大きな麻の袋を取り出すと、狐に気付かれぬよう、息を潜めて狐の背後にまわりこみ、徐々に距離を縮めていきました。そして、狐が再度川面に口をつけた瞬間、一気に麻袋を振りおろし、狐を生け捕りにしたのです。
頭から麻袋を被せられたまま、狐は激しく抵抗し、断末魔の如く喚き散らしました。
すると、どこからやってきたのでしょうか、狐の異変に気付いた山犬が激しく吠え立てながら川辺に走ってきました。
山犬は狐を連れ去られまいと、男の足元に駆け寄りながら牙を剥き吠えて威嚇し続けたのです。若い男は執拗に吠え立て威嚇する山犬に怯みながらも、狐を捉えた麻の袋だけは絶対に離しませんでした。その間も袋に入れられた狐は、かろうじて袋から出ている後足と美しい尻尾をバタつかせながら、必死の抵抗を続けます。
一方の山犬は男の脚に今にも噛みつかんばかりの勢いで迫りました。
男はすぐさま、威嚇して牙を剥く山犬を振り切って駆け出しました。
それを見た山犬は兄である狐を連れ去られまいと、走り去ろうとする若い男を追いかけ、追いついたところで遂に男のふくらはぎにガブリ、と鋭い牙を立て噛みついてしまったのです。
男は堪らず悲鳴をあげました。そして、未だふくらはぎに喰らいついたまま離そうとしない山犬を、もう一方の脚で渾身の力を込めて蹴り飛ばしたのです。
「キャキャキャキャ~ン・・・! 」
腹を激しく蹴られ、河原にまで飛ばされた山犬は激痛のあまり口から泡を吹き、白目を剥いて伏してしまいました。
「山犬! 早く観音さまに、観音さまに知らせて! 助けにきて! 」
山犬は意識が遠のく間際、狐の必死の呼びかけをきいてはいたのですが、あまりの激痛に身体が痺れて動きません。やがて、狐の呼びかける声は徐々に遠のいて聴こえなくなってゆきました。
「山犬、どうしたのですか!? 大丈夫ですか!? 」
山犬が目を開けると、そこには心配そうに声をかける観音菩薩のお姿がありました。観音さまはその細い細い切れ長の目を、これまで見たこともないほどに大きくされて山犬の惨状に驚かれました。
山犬は起き上がろうにも身体が全く動いてくれません。頭だけでも起こそうとするも、頸から下の感覚が全て無くなっていて、動かせるものいえば瞳と目蓋だけだったのです。 かのんさま・・・
声も出せない山犬は、狐が連れ去られてしまったことを観音菩薩に伝えられず、絶望し、その瞳からは涙が溢れてきました。それをご覧になった観音菩薩は、
「まぁ、さぞかし痛く苦しかったことでしょう、可哀そうに」
そう仰ると、山犬の腹の辺りをやさしく撫でられ、空いた片方の手で印をつくられると、静かに呪文を唱えました。すると不思議なことに、ついさっきまでピクリとも動かなかった身体に、徐々に感覚が戻ってきて、やがて山犬は起き上がることができたのです。蹴り飛ばされた時に受けた激痛が嘘のように消えてゆきました。山犬は嬉しそうに尻尾を振り振り、自由に動かせるようになった身体を確認するかのように伸びをして欠伸をしてから、二、三度プルプル、と身震いをしました。
それをご覧になられた観音様は山犬に訊ねました。
「私が居ぬ間に、一体何があったのです? 狐は何処ですか? 」
山犬は、川辺で起きた出来事を一部始終、観音菩薩に話したのです。
「・・・そうでしたか。困ったことになりましたね。すぐに狐を探し出して助けにいかないと」
観音様はそう仰ると、山犬に穴を掘るように言いつけました。山犬は観音さまの言う通り、川辺から少し離れた所で前足を使って一生懸命に穴を掘りました。ある程度の深さまで掘ったところで、観音様は
「もうそのくらいでよいでしょう」
と仰り、ゆっくりと穴の底を覗かれました。やがて穴に手をお入れになり、土が粘土になった部分を少しだけお取りになられました。山犬は前足と鼻の頭を泥んこにしたまま、観音様のされることを見守っていました。観音菩薩は丁寧に粘土をこねて、細長い蝋燭の形に仕上げました。そして、出来上がった粘土の蝋燭を前にして両手を組み合わせ、静かに呪文を囁かれました。それから山犬に向かって仰いました。
「これで準備は整いました。さぁ、狐を迎えにいきましょう」
観音菩薩は連れ去られた狐を探すべく山犬と共に山を下り、村を目指したのです。
村に到着すると、山犬はすぐさま地面を嗅ぎ嗅ぎ、狐の匂いを辿りながら懸命に捜索を始めました。山犬は一件のみすぼらしいあばら家の前に近づくと、くるくる回りながら出入り口の方に向かって吠えはじめました。観音菩薩が近づくと山犬は飛び跳ねながら更に激しく吠えました。
「ここに狐がいるのですね? 」
観音菩薩が訊ねると、山犬は二度吠えてからあばら家の入り口扉を引っ掻くような仕草を見せました。そこは幸いにも小さな集落にある村だったのですぐに狐は見つかったのでした。山犬の様子をご覧になられた観音菩薩は頷いてから
「よろしい。山犬、あなたは下がっていなさい」
そう仰り、扉を数回叩いてからあばら家の主が出てくるのを待たれたのです。
しばらくして家の中から扉を抑えていた木枠が外される音がして、ほんの少し扉が開くと中から眠そうに欠伸をしながら目をこすっている痩せた男の姿が見えました。山犬はすぐさま空いた扉の隙間からあばら家の中に突進してゆきました。
「あっ! コラ、オイ待て! 」
男は驚いて山犬を追い払おうとしましたが山犬は疾風の如く家の中に入っていってしまったのです。
「何だよ、一体! いきなり犬なんか連れてきて俺に何の用だ!? 」
男は先ほどの眠そうな態度とはうって変わって激昂し、観音菩薩を睨みつけたのです。観音菩薩は男の態度にも怯むことなく
「先日、あなたが連れ去った狐を返してもらいに参りました」
と仰いました。
「は? 狐? 何の話だ? 」
男はすっ呆けてみせました。すると観音菩薩は部屋の奥を指さし
「ほら、あそこにいる白い狐のことですよ」
と仰って薄暗い家の中の唯一点だけを凝視されました。
扉が開いた途端に懐かしい匂いが漂ってきて、山犬はいても経ってもいられず暗い家の中を猛進してゆきました。山犬にとってそれは泣きたいくらいに愛おしくて切ない匂いだったのです。奥に進むほどにその懐かしい匂いは強く濃くなり、やがて薄暗い中に白く揺らめくものを発見したのです。
「いた! 」
山犬は兄弟子である狐の姿を見つけると喜んで駆け寄りました。が、しかし狐に近づくことは出来ませんでした。なぜなら狐は、逃げないようにと、この家の中に有る一番高い箪笥の上に乗せられた上に、頸には朱色の紐がかけられその紐の先は天上柱にしっかりと括り付けられていたからです。狐は窮屈そうにしながらも山犬が来たことを嬉しがって白い優雅な尻尾をフッサフッサと揺らしながら山犬を見下ろしています。山犬は少しでも狐に近づこうと、箪笥の下をくるくる周りながら時折両脚をかけて昇ろうとする仕草を見せました。
「山犬! 遅いじゃない。待ちくたびれたわよ」
「うん、ちょっと手間取ってたから・・・」
「あんた、あの男に怪我させられたみたいだけど、大丈夫なの? 」
「うん。かのんさまが助けてくれたから、もう痛くないよ」
「そう・・・よかった。ほんとに」
狐は山犬を見下ろしてから、戸口に居る男と観音菩薩の方に視線を向けました。
「あの狐があんたのもんだっていう証拠はあるのかい? 」
男は悪びれた態度もみせず平然と言いました。すると観音菩薩は静かに仰いました。
「証拠も何も、あの二匹の様子をご覧になれば一目瞭然。あの仔たちは幼い頃より兄弟同然で私が育ててきたのですから、間違える筈もございません」
「俺は川で水を飲んでいる白い狐を捕まえただけだ。捕まえた時、あんたはそこにいなかった。そして狐にはあんたが飼い主だって証明する物は何もついてなかった。だから捕まえた狐は俺のもんだ」
「なるほど。ではこうしましょう。ここに一本の蝋燭があります。これをあなたに差し上げるので私の狐は返してもらいましょう」
「たった一本の蝋燭で狐と交換しようってか? 笑わせるぜ」
「これはただの蝋燭ではありません。一度火を灯すと永年灯り続ける特別な蝋燭なのです」
「永年だって? 嘘をつけ。この大きさならもって半日だろ。それに、風が吹いたらすぐに吹き消されちまうにきまってる」
「疑うなら、今ここで火を灯してみせましょう」
観音菩薩はそう仰ると囲炉裏の方に近づいてゆき、未だ燻ぶり続けている木炭の下方に蝋燭をそっと近づけました。するとすぐさま蝋燭に火が灯ったのです。そして火の灯った蝋燭を男に手渡しながらこう仰いました。
「どうぞ吹き消してごらんなさい。どんなに強く吹き消そうとしても火は消えませんから」
「へ~、大した自信だな」
男は観音菩薩から手渡された蝋燭を眺めながらそう言うと、思いっきり息を吹きかけました。するとどうでしょう、観音菩薩が仰ったとおり、蝋燭の火は男が強く吹きかける息にもなんのその、炎が小さくなることすらなく、依然明るい光を灯し続けるのでした。そして更に不思議なのは、蝋が溶けてゆく様が一向に見られないことです。これは、目の前の人物が言うように、本当に〝永年灯り続ける特別な蝋燭〟なのかもしれない・・・。
男は腕を組みながら考えはじめました。あの白い狐の見事な毛皮とこの不思議な蝋燭。はたしてどっちが得になるのか・・・。
「ふん・・・いいだろう。それじゃあこの蝋燭とあっちの狐を交換しようじゃないか」
交渉は成立し、観音菩薩は男から狐を返してもらう代わりに自ら作成した特別な蝋燭を渡されたのでした。
狐はようやく狭い箪笥の上から下ろしてもらい、窮屈に締め上げられた赤い紐も外してもらえました。解放された狐は大きく四肢を伸ばすようにしてから身体を二三度プルップルッと震わせました。
すぐ傍でその様子を見守っていた山犬と観音菩薩と共に出口へと向かいます。男のあばら家を後にする際、狐は一度だけ振り返ってみました。
狐を連れ去った若い男は、未だ何か不満げな様子で観音菩薩たちを眺めていました。狐はこの男を一瞥し、観音菩薩と山犬と共に帰ってゆきました。
数日後、観音菩薩が人々が行き交う橋の上で托鉢を行っていると、狐を連れ去ったあの若い男が近づいてきました。びっこを引きながら。そして観音菩薩の前に立つと
「あの時は突然のことで言いそびれたんだがな、実は狐を捕まえた時、あんたの犬に足を噛まれたんだ。もうとっくに治ってもいい頃合いなのに、一向に腫れがひかない。おまけに熱まででてきた。これはきっと、あんたの犬から変な病気をもらったからさ。医者に診てもらうには金が要る。けどあんた、見た感じ金は持ってなさそうだな。それで考えたんだ。この前もらった、ずっと明りを灯す蝋燭、あれでいいからさ、もう何本かよこしなよ。それで示談にしてやるからよ」
そう言って男はニヤリと卑しい笑みを浮かべたのです。男の言葉を聞いた観音菩薩は
「なんと! 私の犬があなたの脚に噛みついたと・・・」
たいそう驚かれ、後方に控えていた山犬じっと見つめました。観音菩薩の視線を受け山犬は申し訳なさそうにうなだれていました。
観音菩薩はひとまず男に、
「今はあいにく、ろうそくを持っていないので、後ほど用意して家までお持ちします」
と仰り、一旦男に引き取ってもらったのです。
男が引き返した後、観音菩薩は山犬に向かって
「山犬、あの人が言ったことは本当なのですか? 本当に人に噛みついたのですか? 」
山犬に真偽を確かめました。山犬が河原にて観音菩薩に狐がいなくなった事情を説明した際、男に噛みついたことは話していなかったのです。
すると山犬は
「かのん様、ごめんなさい」
悲しげにポツリと呟きました。観音菩薩は心底失望されたご様子で
「山犬、あなたはまだまだ獣心が抑えられぬようですね。修行が足りません。どんなに心を乱されることがあっても、人に危害を加えることは断じてあってはならぬこと。なぜ経を唱え精進潔斎を心得ぬのですか」
と、山犬を叱責されたのです。山犬はただただ平身低頭し、しきりに反省しています。このやりとりを傍で見ていた狐は堪らずに、
「観音様、山犬はあの男が私を無理矢理連れ去ろうとしていた所を、命懸けで助けようとしたのです。どうかこれ以上山犬を責めないでいただきたい。悪いのはあの村の男なのですから」
と山犬をかばいました。けれど観音菩薩は
「たとえ、どのような理由があろうとも、人に危害を与えるような行為は決して許されることではないのです」
と、厳然と言い放ちました。それから観音菩薩は、特別なろうそくを新たにこしらえると、そのまま二匹を残して蝋燭を男の元に届けに行ってしまわれたのです。
山犬は後悔と反省の念を抱きながら、ずっとしょんぼりしていました。その様子があまりに気の毒で、狐は山犬にそっと声をかけました。
「ごめんね、山犬。あたしのためにしたことで、叱られちゃってさ・・・」
山犬は黙って首を左右に振りました。
さて、この一件が終わっても、男はその後も観音菩薩の前に度々現れ、脚の怪我の治りが遅いことを理由にろうそくを要求してきたのでした。
狐は卑しい男の言動を軽蔑しつつ、
「なぜ、あの男は一本の永年灯る蝋燭で満足できないのだろうか? 一人で一本、永久に明かりが得られるのならば、その家族も周りの人々も一緒に光の恩恵を受けられるというのに。寒い季節にしか用を足さない私の被毛なんかよりも、永年灯り続ける観音様のろうそくの方がよほど有難いに違いないのに。それをまだ何本かよこせ、だなんて何と人間とは欲深いのか・・・。下界での欲に囚われた人間は際限がない・・・」
と、山犬に嘆いて見せたのです。
しかし山犬は、狐が非難する男の言動よりも、自分があの男の脚を噛んでしまったがために観音菩薩に迷惑をかけているのだ、という反省と後悔の気持ちの方が強かったので、ため息交じりに頷いてみせるのがやっとでした。
観音菩薩のお気持ちを思うと心が痛み、ずっとしょんぼりしたままでした。
しかし、しばらくしてから
「ねぇ、ずっと気になってたんだけどさ」
山犬が狐に切り出しました。
「かのん様は村人に〝あなたの心が明るければ、ろうそくの火は消えることなく灯り続けることでしょう〟って仰ってたよね? 」
「うん。それがどうしたの」
「心が明るい、って、どういう意味? たとえば、楽しい話をたくさんして人を笑わせるとか? 」
「違うよ。性格の話をしてるんじゃないから」
「じゃあ、どういう意味なの? 」
「陰と陽の比率のこと。この地上界に光と影があるように、人間の心の中にも光と影、陽と陰の部分があるの。判り易く言うと陽が善で陰が悪。観音様はこの人間の心に有る悪の部分より善の方が多ければ、蝋燭はずっと灯り続けるっていうことを仰ったのよ」
「ふ~ん・・・心の中にある陰と陽か」
山犬は顎に手を当てながら呟いたのでした。
さて、賢い狐はこの出来事をきっかけに、欲どおしい人間を目の当たりにしてからというもの、欲に囚われる人間界を睥睨しつつ冷淡に世の中を見通すようになっていったのです。
観音菩薩の一行は、いよいよ明日の朝、別の村へ移動することとなりました。
この村での仏の教えは多くの人たちに広まったと観音様が判断されたのです。
観音菩薩と弟子たちは明日の早朝からの移動に備えて、その日、托鉢も早々に切り上げて身体を休めることにしました。
皆が寝静まる深夜、狐だけが眠れない夜を過ごしていました。やがて狐は意を決したように起き上がります。そして山犬を起こさないようにそっと寝床を抜け出して外に出たのです。
それは明るい満月の夜でした。
狐は月を眺めながら呼吸をひとつ整え、優雅な手つきで印を結び真言を唱え始めました。
オン・アロリキヤ・ソワカ・・・オン・アロリキヤ・ソワカ・・・オン・アロリキヤ・ソワカ・・・
やがて、観音菩薩に変化を遂げた狐は月明かりを頼りに、蝋燭を持って静かに村に向かっていきました。
欲深い男は今にも消えそうな蝋燭の火を眺めながら、あの犬と狐を連れた旅人に、今度はどのような無理難題を吹っかけて蝋燭を手に入れようか、と思案していました。と、そこへ、
とんとんとん
家の扉を叩く音がしたので男は、こんな遅い時間に一体誰だろう、と訝しく思いながら扉をほんの少しだけ開けて外の様子を伺ったのです。
扉の前にはなんと、あの旅人の姿がありました。旅人は扉越しから男に丁寧にお辞儀をして
「こんな遅い時間にお邪魔してすみません。実はお渡しした蝋燭が消えかけているのではないかと気にかかったものですから・・・」
と言うではないですか。その言葉を受け、男は内心、これは願ったり叶ったり、とばかり上機嫌で旅人を家の中に招き入れたのです。
狐が観音菩薩に化けてやってきたとは知らない村の男は早速、小さくなって消えかかっている蝋燭を指さしながら、
「あんたから、ずっと灯り続ける蝋燭、ってきいたんだがな、ご覧のとおり風前の灯火よ。あんた、俺に嘘をついてこんなインチキ蝋燭を渡してあの白い狐を俺からぶん取ったんだろう? 一体どうしてくれるんだい? こうなったら蝋燭をあと百本ほど渡してもらわないと割にあわねえな」
男は事前に考えていた無理難題を言ってみせたのです。すると、旅人に扮した狐は
「はい、それでは今回ご用意したこの特別大きな蝋燭に、その火を移し替えることができたなら、この大きな蝋燭はあなたにそのまま差し上げましょう」
そう言って、着物の袖から大きくて立派な蝋燭をひとつ取り出したのです。
男はその立派な蝋燭を見るや否や
「そいつはありがたい、こんな大きな蝋燭ならちょっとやそっとじゃな消えないだろうからな」
男はそう言って、今にも消え入りそうな蝋燭を慎重に持ってきて、その火をま新しい蝋燭に近づけました。男が小さな蝋燭の火を、新しい蝋燭の軸に近づけたその時でした。小さな蝋燭の火はまるで、動物の息が絶えるかのようにゆっくりと静かに消えてしまい、辺りは真っ暗闇となってしまったのです。
「オイ! 一体全体、どうなっちまったんだ? 火が、火がきえちまったじゃねえーか!すぐに新しい火を用意してくれよ! オイ! 」
男は慌てふためきながら、旅人に向かって叫びました。すると暗い闇の中から凛とした声が返ってきました。
「あなたは忘れてはいませんか? 私が蝋燭をお渡しした時に言ったことを」
男は狼狽しながら訊ねたのです。
「な、何をだ? 何のことを言っている? 」
「あなたの心が明るければ、蝋燭の火はずっと灯り続けることでしょう、と私は申したのです。しかしながら、火はもう消えてしまいました・・・どうやら、あなたはこの蝋燭を持つに値する人物ではなかったようですね。残念です」
その言葉の後に、扉が開く音が聞こえ、誰かが外に出ていく気配を感じた男は、置いて行かれることに何か言い知れぬ恐怖を感じ、すがるように泣き叫びました。
「オイ! あんた、旅のお方、悪かったよ。オレが悪かったから、もう一度火を、この蝋燭に火を分けておくれよ! 」
何度も何度も懇願しましたが、その声に応えるものはありません。
後に残された若い男はその日から何度陽が昇ろうとも決して光を見ることはありませんでした。邪な思考が大半を支配していた男の瞳に光が灯されることは二度となかったのです。
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