第2章 第12話「緊張」

 『そういうこともあるものなのです。ライターとしての成功は全ては取材にかかっているんです』本番舞台上で台詞を発する。本居が私と舞台に立つために書いた脚本の台詞の一つだ。このステージには私と本居しかいない。

 『取材ばかりというわけにもいかないでしょう。執筆のために何かされていることはあるんですか? 巷ではライター塾などというものが老若男女問わず人気のようですけれど』本居の返答が来る。


 もちろん何度も稽古をしてきた脚本通りの台詞で、これまでと変わらない文言だ。演劇初心者の私の為に脚本を準備し、劇場を手配し、スタッフに声を掛け、チケットを販売してくれた。もちろん彼自身のステップアップの意味合いも込められているのだろうけど、私と芝居をする為にあれこれ配慮してくれたのは間違いない。そしてその為に稽古の時間まで割いてくれた。元々密着取材をするつもりで作っておいた時間があったので私としては何も痛くないどころか、むしろありがたい。ない時間をひねり出したわけではなく元々も本居の為に使おうと思っていた時間を向こうから埋めてくれたのだからこれ以上言うことはない。

 しかし、本日初舞台、初ステであり唯一の舞台だからということなのだろうか、稽古の時と異なる芝居をし始める。一人芝居の時と、私と一緒に舞台を立つ時とで本居の雰囲気は異なるものにはなっていたが、今日は一段と変わっている。本居は脚本に引きずられているような演技をする。緊張しているというよりは、むしろ力は抜けているのだが、どこか芯が入っていない。下手とは言い切れないが、普段と比べる格段にその迫力が落ちている気がする。観客にはどう映っているのだろうか。本居に受けた影響から常に観客のリアクションを気にしている私がいる。良い舞台を作るのに観客のことを気にし過ぎては冷めたものができてしまう一方で、観客のことを置き去りにしてはいけない。そのバランスが大切なのだと本居に教えられた。稽古の段階で多くのスタッフに演技を観てもらったが、その際に観られていることを強く意識した。意識していないようで意識をする必要がある。そのことを学んできた。

 それはそれとして本居の様子がいつもと違う。


 『全て自身の手足を使って得てきたものです。誰かから学んだというよりも必死に盗みまくった感じですね』

 舞台用の台詞なので大分語気が強くなる。それくらいでないと客席まで気持ちが届かない。もちろん本心は混ざってはいるものの、普段ここまで強い言葉で人に気持ちを伝えることはない。台詞に負けないだけの姿勢を心掛ける演技が要求される。

 それに対して本居の演技はどうだ。台詞に負けまくっている。

 『独学なんですね。俺も大体似たようなものです。師匠と呼べる人はいなくて、舞台の回し方をサークルの先輩たちから学んだだけで後は自身の力で勝ち取ってきました。どういう方針にしたら上手くいくだろうか、どのような環境に整えれば観客が舞台の世界に入って行きやすいだろうか。そんなことを基本の上に成り立たせれば粗削りでもきっとうまく行く。そんな確信があったんです』


 台詞は何一つとしてとちっていないし、むしろ滑らかすぎるくらいの発音ではある。それでもそこに気持ちがこもっていない。本居自身が考えていそうなことを口にしているのにこれだけ気持ちが入らないというのはどういうことなのだろう。稽古の時もゲネの時もこれ以上にないくらいに惹きつけられるものがあった。私もそれに負けないだけの演技をしなくてはないけないという焦りすらあったくらいなのに、今は私が舞台を引っ張る立場になっている。それくらいに本居に熱量が足りない。必死さが微塵も出ていない。はっきり言って最悪だ。私はまだしも、観客にとっては酷な時間かもしれない。

 しかし何だろう、熱量はないにしても私に語りかけてきているという感覚はある。


 『二人で舞台をやっていた時もそうでした。基本は忘れちゃいけないけど、何よりも観客に満足してもらうことが一番に来る。基本やこれまでのやり方に囚われて観客を置いてけぼりにするというのはダメなんです。そういうことを意外とみんなわかっていない。観客を喜ばせる方法はそれこそ無数にあるのに、みんなと同じ道を歩まないといけないという勘違いをしてせっかくの時間を無駄にしてしまうし、させてしまう』

 目はこちらを向いているし、体は観客に立ち向かっている。何もおかしい所はないのに、いつもと異なる。

 『さらに俺たちは常に新しいことをしたいという一心で動いてきました。だからこそ二人での活動を休止しました。そして今後も何かしらの形で新しいことに挑戦をしていこうと思っているんです』

 『そしてこの場もその挑戦の一環と言うわけだね』


 ここから突然本居の雰囲気が変わり始めた。

 『何も鴨間さんを試しているとか、俺たちの今後の活動の為の踏み台にしているとかそういうのじゃないんです。只、可能性を追ってみたい。その一心、知的探求心だけで動いているんです。打算は一切ありません』

 『私は素人同然だよ。そりゃ会ったこともない人にアポを取って会いに行って話を聞かせてもらって記事にすることを生業をしているからこそある程度の度胸はある。それでも予め仕込んでおいた台詞を大勢の観客の前で喋るなんていうのは専門外だ。正直、上手くやれるなんていう確証はどこにもない。もちろん、絶対に成功させるという意気込みだけは必要以上に持ち合わせているつもりだけどね。これを機会に役者としての道が開くかもしれないんだしさ』

 観客が笑ってくれる。舞台とはなんと気持ちの良いものなのだろう。本居の演技さえいつも通りであればこれ以上ないくらいなのに。そんなことを思いながらも本居の私に対しての視線、台詞の飛ばし方が強くなってきた。


 恐らく、今の本居に神が入っている。反応が本居っぽくないところにどこか違和感があった。その原因は本居が本居ではないからだ。


 『そういった思い、良いですね。上手くやれるなんていう確証はどこにもないけど絶対に成功させるという意気込みは俺もいつだって持っています。円とのコンビでの活動を休止したのも正直しんどいものがありましたよ。これから制作の裏方としてやっていくのか、それとも制作以外のポジションも一人で賄っていくか。そんなことを考えた結果、それなら役者も一人でやってみて、その他の技術スタッフはその都度探すことにして、それでひとまずやってみようって』

 『折口との最後の公演でちょっとした違和感があったというのを他の役者から聞いたんだけど、やっぱり初舞台は本居も緊張したりしたのかな?』台詞通りではあるが、本居の返答次第では神の本音を聞くことができる。神と直接会話をすることができる。

 『勝手が想像と違ったんでちょっと動転しちゃいました、正直。それでもやっている内に乗ってきましたよ。その乗り方が他の役者からはいつもと違うように映ったんでしょう。稽古と異なる感じにしてしまったのは俺の責任ですね』

 『なんなら今も違うけどね、稽古の時と』核心に迫る言葉を放つ。これは脚本にはない台詞だ。

 『久しぶりの一人ではない舞台だからでしょうかね。まだまだ鍛練が足りませんね。誰かと台詞のやりとりをするっていうのは一人芝居では培うことのできない素養でした』


 今になってわかったことがある。折口との芝居の時は神が稽古をして本居が本番の舞台に立った。そして今は本居が稽古をして神が中に入っている。はっきりとした根拠までは示せない。それでもこの雰囲気は間違いなく本居ではないし、稽古の時とは大きく異なる。折口の舞台で観た本居の演技は今回の稽古時の本居のものだった。これまで聞いた話を統合すると折口の舞台の稽古の時の本居は本居本人ではなかったことになる。そして今ここにいるのも完全なる他者になる。だが、何のために。

 

 『緊張にも何か原因があるのかな、例えば』一呼吸おいてそれとなく質問をしてみる。『今の私は相当緊張している』神の返答を待つ。

 少し考えたそぶりを見せてから神は答える。緊張はステップアップのためのロイター板のような役割を果たしていると神は言った。

 『ロイター坂って、あの跳び箱の前にあるやつ?』

 『全力で走り込むことでその効果は存分に発揮されます。助走をつけないと殆ど弾みません。緊張も似たようなもので、全力でぶつかればめちゃくちゃ弛んで次のステージに進む糧になります。でも適当に加減しちゃうと全然弾んでくれないんです』

 『つまり緊張を強く抱けば抱くほど、それに負けないくらい全力で挑む必要があるということかな。』

 『そういうことです。そして跳び箱にロイター坂がつきものなように、緊張も絶えず我々の前に存在しています。成功させてやるという思いが強ければ強い程、緊張も比例して大きなものになりますし、ぶつかった時の弛みも大きなものになる。意気込みっていうのはとても大切なんです』

 話の方向が逸れてきた。緊張を神に例えていたつもりが、神そのものの与えてくれる影響の話にすり替わっている。

 『緊張はその人の気の持ち様一つで大きさや形を変えるし、意気込みが全くなければそこに緊張があるはずなのに、全くないと感じてしまう。実は緊張というものは皆に平等に備わっている物で、思い込み一つであるように思えたり、ないと思えたりする。そういうわけだね』

 『その通りです。思いの強さ一つで現れたり現れなかったりすると言っても過言ではありません』

 『突飛な話にはなるけど、その緊張というのは芸術の世界とスポーツの世界では異なるものなのかな。短距離選手が全力疾走に必死になるのと、役者の演技が乗るというのは少し違う次元に属することなんじゃないかと思うんだ』

この神は芸術に特化しているのか、それともあらゆる世界に対応しているのか。何人もいるものなのか。答えはもしかすると帰って来ないかもしれない。私の目の前にいるのは紛れもなく本居で、その中身だって本居自身のなのかもしれない。舞台上に複数人が立つことによる緊張が今の本居の人格を形成している可能性だってある。神ではなく緊張だという見方もできる。私の追い求めていたものが私の発した言葉通りの緊張という一言で片づけられてしまうかもしれない。突然、そんな不安に襲われた。


 『異なる次元に属するもの、だと思いますよ』神は答える。やはり間違っていなかった。これは神だ。

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