第5話「希望」
珍しく円は驚いた顔を浮かべたが、すぐにまた元通りのいかめしい顔に戻った。
「翔らしくない事を言い出すんだな」
長期で押さえているこの稽古場に急用ができたと言って円を呼び出し、役者をしてみたいという旨を伝えた。もう一人の俺に論破されたわけではない。ただ不思議な事態に陥っているのは間違いないので、この出来事を最後まで見届けたいと考えただけだ。それに一度くらい役者をやってみるのも悪くない。
「まさか主役をやらせろなんて言い出すんじゃないだろうな」
大柄な体躯だが動きは機敏だ。長髪にしているが不思議と不潔な感じはしない。その物の言い方にはどことなく威圧感と愛嬌じみたものが共存している。
「その主役をやらせてほしい。勿論、オーディションはきちんと受ける。制作の仕事も適任者を見つけてきちんと引き継ぐ。俺のノウハウを手取り足取り教えてミスのないようにやらせるし、交渉事のような劇団のこれからを左右することに関しては俺が前に出る。脚本に関してはいつも通りオーディション前に書き上げる。俺以上に演出プランを練ることのできるやつはいないだろうから、もし主役をやらせてもらえるんなら、舞台に立つ人間の中でも俺が一番作品への理解があることにもなる。だけど、今回は脚本の生みの親として役者をやるというわけじゃない。単に俺自身の可能性の幅を広げて、未知の世界に挑戦したいと思ったんだ。何もお前に変わってお前以上に近い距離から他の役者に指導しようと言うんじゃない。一度だけ、挑戦させてくれないか」円の目をじっと見て話す。
捲し立てるようにして一気に説明する。俺みたいな貧相なタイプの人間はこういう時に少しでも背伸びをしないと大柄な人間には勝てない。手の内を知られていない相手であればもう少し理詰めでゆっくりと説得していくこともできるだろうが、何せ相手はずっと一緒にやってきた円だ。信頼できる相棒である一方で、無謀なわがままを通すには一筋縄ではいかない強敵でもある。
「挑戦が目的なら主役である必要はないだろう」円が含みのある言い方をする。
「どうせやるなら大きくが俺たちのモットーだろう」すかさず言い返す。
「わかったよ。お前の演技は見なくても良いし、オーディションを受ける必要はない。ただしオーディションで来てくれた人たち全員を見た上でお前の提案を受け入れるかどうかを決定する。選ばれなくても、たとえ主役にならなくても後悔するなよ?」
円には人を見る目がある。演出のプランは俺が裏で糸を引く形で付けるが、役者の選出は全て円任せだ。円はカリスマ性に加えて、その人の底力を見出し最高地点まで引き上げる能力がある。対人スキルで円の上を行くやつは未だかつて見たことがない。
そんな円は俺を主役として今回の作品に引き上げてくれた。
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