僕は廊下が怖かった

Askew(あすきゅー)

帰宅直後、いつもの日課


 僕は廊下が怖かった。


 まだ夕方なのに薄暗いのが嫌だった。どことなくヒンヤリした空気が苦手だった。はっきりと聞き取れないTVの音が気持ち悪かった。廊下の左側にある部屋からなにかが出てきそうでたまらなかった。


 だから、僕は廊下を一目散に走り抜けて、正面のドアを勢い良く開ける。


 リビングに入ると同時に僕の背たけと同じくらいのゴールデンレトリバーが飛びついてくる。彼女は僕の肩に前足をかけ、しっぽをぶんぶんと振って僕の匂いを嗅ぐ。僕はあの子の体重に負けないようにふんばって、首と背中をわしわしとなでてあげる。


「おかえりー」

 お母さんが晩ごはんの準備をしながら声をかけてくる。「ただいまー」と気の抜けた返事をするのと同時に、ふと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。今日はからあげだな、とすぐに気付いた。彼女をなでるのもほどほどにしてキッチンへ行くと、じゅうじゅうと音を立てて油の中を鶏肉が泳いでいた。彼女はしっぽを振って僕のあとをついてくる。


「ねぇ、なんこか出来てるでしょ。いっこちょーだい」

「先に手を洗ってうがいしなさい。あと靴は揃えたん?」

 鋭い質問にぎくっとしながらも、聞いてないふりをして不満をもらす。

「えー、いいじゃん。風邪なんかひかないし」

「だめ。真っ赤な顔になって38℃の熱が出ることを風邪をひくって言うの。それでも校庭を走り回っていたのには呆れたけど……」


 僕は不満そうな顔を見せて手を洗う。「なんでこんなめんどくさいことを……」という気持ちは隠しきれない。が、だからといって雑にちゃっちゃと洗うと「洗い直し」の命令がくるので、仕方なくしっかり洗っている感じを演出する。声をだしてうがいもする。「うがいになってない」攻撃を回避するためである。


「これでいいでしょ?」

 と、僕が横にいるお母さんに問いかけると、やっとからあげを一つとってくれた。

「熱いから気をつけてね。ほら、あーん」


 さいばしでつままれたからあげを二、三度ふぅふぅしてほおばると、じゅう、と口の中の上の皮が焼ける音が聞こえた。ほふほふしながら、口にぐっと力をいれると柔らかい鶏もも肉がさける食感とともにじゅわーと脂が口の中に広がる。


「おいしい!!」

 

 あまりの美味しさにキッチンから飛び出すと、しっぽを振って彼女がついてくる。僕を見上げてくる彼女に向かってもう一度「おいしい!」と声をかけると、彼女も嬉しそうにしっぽを振るので、その場をふたりでぐるぐる回った。

 

 ぐるぐると回りながら「こんなにおいしいものを食べられないなんて」と、なぜか一緒によろこんでいる彼女を不憫に思った。あまりに可哀そうだったので飛び跳ねながら頭をなでてあげた。


「あーあ、せっかく手を洗ったのに。ご飯の前にもう一度手を洗いなさいよ」

 お母さんがダイニングから注意してくるので「はーい」と、てきとうな返事をして彼女と一緒に玄関へ走っていく。どこに行くにもしっぽを振ってついてくる彼女がいれば怖かった廊下も気にはならない。


 そして、脱ぎっぱなしになっている靴を揃えてやっと今日の日課を終えた。


 ひんやりとした空気に交じって、からあげの匂いが玄関までただよっている。次はどこに行くの、と僕の顔を覗き込む彼女にぎゅっと抱き着くと、ふわふわの毛の感触と共に温かい体温を感じた。数秒抱き着いたあと、僕は立ち上がってリビングを振り返る。薄暗い廊下の先で、四角い輪郭が真っ赤に切り取られていた。リビングの奥から差す夕焼けが、開けっ放しのドアとまっすぐな廊下を突っ切って、僕と彼女の目に飛び込んできていた。



 ○



 勢いよく走り抜けた5mの距離。

 かつてそこにあった恐怖。


 それを感じることは、もうできない。

 

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