鷺宮千夏のいつもとちょっと違う放課後-2
ビルからビルへ、屋根から屋根へ、時には電信柱を蹴ったり、地面に降りたりすることもあった。その猫は電線の上を軽快に走り回ったり、狭い場所へすいすい潜り込んだりして、なかなか捕まってくれない。
私があいつへ追いつけないのは、脚の速さだけじゃなくて、あいつが西へ西へ――つまり夕陽の方へ走っていくからだ。そろそろ陽が沈む。影の力を使えないと、捕まえるのは相当難しくなる。あと少しというところで、そいつは突然姿を消した。
「どこ?」
そこは背の高いマンションの屋上だった。ペンキが剥げていない、新品同然の真っ白な手すりが、人が落ちていくのを防いでいる。隣接した、いくぶん背の低いアパートの屋上を見下ろしても、まだ高くて恐怖を感じる。その間の、せまい路地裏――
下は暗く、地面まで見通すことが出来ない。
「どうする?」
クウは不安げな表情だ。でも私は剣に手をかける。
「どうするって、行くしかないんでしょ、私は魔法少女だから」
乗り越えて、路地裏へ落下する。刀を抜いて、ぐっと意識を集中する――路地の闇の先にではない。むしろ逆、自分の身体の内側のほうに。
路地は思ったよりも深くて、私は何秒かの自由のあと、ゆっくりと着地した。そこには何もいない。
見失った?
暗くて狭い路地裏は、ひとがふたり、肩をすぼめ合ってようやくすれ違えるくらいの幅しかない。太陽の光は差し込んでこないから、影があらわれない。
「どこ?」
路地の奥の方へ進んでみる。十字路に差し掛かって周囲を見回しても誰もいない。
見失ってしまった。
「こういう場合、どうするべきだろう」
「追いかけるべきだと思うけど、こう入り組んだところだと難しいね」
適当に路地を右に曲がるとそこは行き止まりだ。
踵を返して左に曲がると、その先にはさらに十字路が見える。
私は壁を蹴って、マンションに隣接したアパートの屋上へ戻る。見通しの悪い路地裏より、こっちの方が分かりやすいだろう。だが、そこにいたのは私が探しているようなものではなかった。
それは女の子だった。真っ赤な空の中にぽっかり空いた穴のような、黒くて細いシルエット。こちらを振り返ると、ふん、とつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「なんだ、魔法少女か」
そいつは、二の腕まで覆う真っ黒な手套に隠れた細い指先に、黒いライターを引っかけていた。足元には、ステンドグラスを粉々に砕いたような破片が散らばっている。
「参ったな。グローパーだったら嬉しかったんだけど――ん、」と、私の肩辺りに目をやって、「お前は……そこで何してる?」
「クウ、知り合いなの?」
「いや、見たことがない」クウは妙な表情をしていた。「でも、へんだ。あの魔法少女から感じる魔力――あれはまるで、グロ――」
耳元を何かが通り抜ける音がした。
少女の左手の手套、その指先が針のように伸びていた。私の肩の辺りに浮かんでいたクウが、その針に貫かれていた。傷口から光が漏れ出し、一瞬で消滅する。
針はすぐ少女の手元に戻っていく。
「ちょうどいいや」その魔法少女は指の骨をぽき、ぽき、と鳴らしながら、「あんたのライター、ちょうだい。『純正品』が手に入るなら、そっちのほうが都合がいい」
「どうしてクウを殺したの?」
「あんたに関係ないでしょ。余計なおしゃべりしたくないの、イライラするからさ」
私の影がぎゅんと伸びた。地面を這って少女の足元まで届くと、ぬっと手のひらが持ち上がって足首をぐっと掴んだ。
「っ、なんだよ!」
少女の手套が瞬時に変形して、手刀に変わった。半月型の刃が手首から生えているような――影の手首を切り裂いて、拘束を振りほどく。
高くジャンプして、隣接した隣のアパートの屋上へ着地した。私も刀を構えて、その少女を見上げた。いつの間にか手首に生えていたはずの刃は、もとの手套へ戻っている。
「妙な力を使うんだね」少女の言葉には答えない。余計なおしゃべりはしたくない。「面倒くさい――ただでさえ、この辺りはグローパーが少ないっていうのに。余計な苦労はしたくない。おとなしくライターを渡してよ」
「イヤだ」
前もこんなことがあったな、と私は思った。
ちっと少女は舌打ちをした。
「じゃあ、力尽くでいくから。あんたが悪いんだから」
「あなただって魔法少女なら、自分のライターを持っているはずでしょ。なんでわざわざ、私のものを取ろうとするの?」
「うっぜーなぁ」また手套が手刀に変わった。「うだうだ喋ってないでさあ、死ぬか寄越すかどっちかにしろよ!」
高い所から弾丸のように飛びかかってくる。
手刀をXの字にして、私の首を目がけて切りかかってくるのを刀で弾き落とす。少女はアパートの屋上へ叩きつけられた。
「っ、」
私が視線をやるのと、少女が跳び下がるのは同時だった。地面から影の槍が何十本も突き出てくるのを見て、少女はにや、と犬歯を見せながら笑う。
手刀がいつの間にか消えていた。
両手の手套がそれぞれ、スライムのように変形していく――左手のは半月の形に。右手のは、大きな矢印の形に。
それは弓矢だ。
ということに気付いた時、矢は既に放たれていた。慌てて躱しても、少し遅い。肩に黒い矢がどすっと突き刺さり、重たい声が漏れた。その勢いのまま、私は後ろへよろめく。
矢が引き抜かれ、血が噴き出した。
でも、その傷はみるみるうちに塞がっていく。
あの少女の弓矢はいつの間にか元の手套に戻っていて、その手套はまた手刀に変わった。
「やっぱり『純正品』を使ってると、傷の治りも早いし、魔法の精度も段違いね」ひとりごとのように少女は言った。私の方を見ていない。「ますます欲しくなっちゃった。運がいいわ、あんた、チョロそうだし。あの『銃の』のやつ……それから『緑色の炎』のやつより、ずっと弱っちそう」
傷が治りきる前に駆け出す。少女は手刀を構えて、私の刀を受け止めた。
何度もぶつけあう。
その度に金属音がして、白と黒のかけらがぼろぼろ崩れていく。時どき、刀の切先が相手の頬や腕、お腹の辺りを切り裂いて、薄い傷をつける。それは私も一緒で、時どき頬や手の辺りに、熱い切り傷がつけられては塞がっていく。
不意に少女が飛びずさり、追いかけようとする私に弓矢を突き付けた。
「――気持ち悪い」矢を放つ気配はないまま、「なんで笑ってるの、あんた」
「え?」
その時だった。西の方から、ぱん、ぱん、と、花火のうち上がるような音がした。少女がそちら側を見た。私が飛びかかって首元を斬ろうとすると、ぴょーんと月の兎みたいに跳躍して飛びずさり舌打ちした。
「時間か。残念だ」ばっと手を広げると、水に落とした墨汁のように手套が膨らんで、「魔法少女のライターを奪えれば……と思ったけど、それはまたの機会にしよう。『白い刀』、ね。覚えておくわ。次こそあなたのライターを貰ってやる」
それは巨大な翼だった。
猛禽類のようなそれをはばたかせ、風を巻き起こしながら浮かび上がり、とてつもないスピードで飛び去って行く。
「待て!」
追いかけようとした私の前に、空からなにか、巨大な塊のようなものが落ちてきた。地面が揺れる――古びたアパートの屋上には亀裂が走り、建物を軋ませる。
巨人だ。数メートルはありそうな図体のグローパー。目はぎらぎら光っていて、手は鉤爪のように鋭い。振り下ろされた爪を刀で受け止めると、身体じゅうの骨といっしょに、この建物まで潰されてしまいそうな錯覚に陥る。
「っ、この――」
腕を振り払うと、そいつの細い脚ではバランスを保てずによろめく。私は心臓目がけて飛びかかり、そこに埋め込まれたライターを狙う――その時、グローパーの肩の辺りから、自動車同士が激しく正面衝突したときのような音と共に、細くてヌルヌルした腕が飛び出してきた。
私の首を勢いよく掴む。
一瞬、呼吸が止まり、意識が飛びかけた。次の瞬間、既に巨大な拳が私の目の前まで迫っていた。目をつぶる。身体に拳がぶつかる音、衝撃、痛み。コンクリの建物に叩きつけられ、転がる私。あちこちすりむいて、ちょっと冷たい。
薄い目で見たとき、屋上は真っ赤に染まっていた。私の身体から流れた血が、そこら中に飛び散っていた。
痛みや傷はみるみるふさがっていく。
グローパーは相変らず建物を軋ませてゆっくりとこちらを振り返る。私も立ち上がる。刀を握りなおしたとき、足元からずるっという感覚があった。
大地がずれた。
「建物が崩れる……!」ここは三階建てのアパートだ。わずかに見えるベランダには、洗濯物がかかっているのが見える。「住んでる人が下敷きになる前に、あいつをやっつけないと」
グローパーはそんなことを気にせずに両腕を振り回す。脇の下から伸びた腕はいつの間にか金属質の鱗に覆われて、ほんものの腕と見分けがつかない。こちらへ振り下ろした腕を刀で受け止め、反対側の腕を影の剣で切り落とす。その間を駆け抜けて、心臓を狙う。
ぬっと私の頭上から影が差した。
「そんな――」
ちょうどうなじの辺りから、五本目の腕がこちらへ伸びていた。
ほかの腕とは比べ物にならない大きさ――まるで蚊でも潰そうかというように、手のひらで私を抑え込もうとしている。
咄嗟に刀を構える。
たぶんこのままだと建物ごと潰される。私はたぶん大丈夫――魔法少女の身体はそこまで弱くない。でも下に住んでいる人たちはどうなる?
思考がそこで止まった。
手のひらが刀に触れる。じゅうう、と何かが焼ける音がした。私は屋上に叩きつけられ、そのまま押しつぶされる――
唐突に、私の上に覆いかぶさった腕の重量と熱が失せた。
そのまま風に吹かれ、霧散していく。よろめく足で立ち上がろうとして、左手に力が入らないことに気付いた。指の一本も動かせない――骨や筋肉がぐちゃぐちゃになっているのだ。
小さな子どもが立っていた。
きらびやかなエンブレムの帽子。映画に登場する騎士が纏うような、スマートなシルエット。真っ赤に翻るマント。
「おねえちゃん、大丈夫?」
その声も幼かった。
振り返る。その目は大きくて、唇は薄い。
両手に抱えた、まぶしく光る大剣を構えて、
「もう、大丈夫だよ。あいつは、僕がやっつけるから」
グローパーが立ち上がった。
赤いマントがたなびいて、舞台に立つヒーローみたいに剣を持っていない左手を翳す。すると怪物は苦しみながら両腕でもがき、頭を押さえるようなしぐさをする。
「ふんっ」
という可愛らしい声と共に左手を握ると、グローパーの頭が音を立てて粉々に砕け散った。悲鳴を上げ、暴れ回り、両腕を掲げ襲いかかってくる――その子は、自分の身長よりも大きな、輝く剣を右手で軽々と振り回し、振り下ろされる拳を、もがく手首を、叩きつけようとする腕を、次々に切り落としていった。
首も腕も無くなって、怪物は声もなくもがく。
その子は両手でしっかりと剣の柄を握り、大きく振りかぶる。
息を吸う音。そして、
「やあああああああああああ――――!」
振り下ろされた剣の、真っ赤な炎のようなきらめきに見とれているうちに――
あの巨大な怪物は、影も形もなくなっていた。
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