中井明日架のいつも通りの音楽-1

   【Blue】




 ギターの音。

 背後から心臓を叩くドラムのリズム。重たく骨まで震わせるベース。キーボードの心地よいサウンド。

 一生懸命考えてきた歌詞とメロディーが、少しずつ、自分の身体に染み込んでいくような感覚は、何十回、何百回とセッションしても、いつも未知の感覚のように、私の魂をゆすぶってくる。



「よし、いい感じだね」ラストまで演奏しきったあとのみんなの表情は、やり切ったという達成感に満ちている。「次のライブまでにもう少し仕上げたいな。ちょっと休憩して、あと少し練習していきたいな。どう思う?」



 みんな賛成してくれる。

 ふと時計を見ると、もう二時間近く休憩を挟まずに練習していたことになる。いつも練習に没頭しすぎると、時間を忘れてしまう。

 それでもよかったのだ。この時間、この感覚は、何度やっても素晴らしいものだから。






「明日架、なにかいいことでもあった?」



 秋良あきらがちょっと訝るように言った。私は休憩中、ひとりで水を飲みながらスコアに目を通しているころだった。

「別に。どうして?」

「今日はちょっと、リズムが走り気味だから。全体的に」



 自覚はあった。今日は起きたとき、歩いているとき、ギターのチューニングをしているとき、発声練習をしているときから、自分で、今日は身体のリズムが「走っている」ことに気が付いていた。だからできるだけ余裕をもって、周りのリズムに合わせているつもりだった。



「まだ走ってる?」

「ほんのちょっぴり、ね」秋良は私たちの中で誰より、音程やリズムのズレに敏感だ。「別に止めるほどじゃないし、だからみんなもついていったんだと思う。さっきの曲はアッパーな感じだしね、明日架の声にもばっちりハマってる。でも、明日架ならズレてることくらい、自分で修正するだろうし、私の方が遅れてるのかと思って」


「いや、私も明日架が走ってると思う」海音かのんがキーボードの鍵盤を拭きながら言った。「正直私は、ついていくのに必死だったよ。ノってるみたいだったから止めなかったけど」

「そっか……直した方がいい?」

「なんとも言えない。休憩空けたらちゃんとテンポ通りやってみて、それから決めればいいんじゃない。瑞穂みずほもそれでいい?」



 瑞穂はドラムセットに座って、ヘッドホンで何かをじっと聞いていたところだった。慌ててそれを外しながら、周囲をきょろきょろ見回して、私を、秋良を、海音を見た。



「あ……ごめんなさい。なんですか?」

「曲が走ってるから、次は直してやってみようって話」

「え、走ってましたか? 私は気付きませんでしたけど……」

「うーん、人それぞれだね」

「取りあえず次、テンポ重視でね」



 おのおのが勝手に返事をして、それぞれの作業に戻っていく。瑞穂はヘッドホンをかけ直し、海音はキーボードに指を置き、秋良は私に軽くウィンクをして休憩に戻る。

 私もスコアに目を落とす。

 いつもの練習。いつも通りの、メンバーとの風景。なのに、心にどこか引っかかるところがあるのはなぜだろう。たぶん、テンポが合わないのはそのせいなのだ。私が演奏に集中できていないから。



 休憩が終わり、ドラマーの合図で曲を頭から演奏しなおす。テンポを意識して、でも勢いを殺さないように。



「ちょっと、やめ」と、海音がふいに演奏を止めてそう声を挙げた。「明日架、やっぱり走ってるよ。もう少し、ゆっくり」

「まだ?」私はだんだん自分に苛立って来た。「ごめん。もう一回」



 しかし、何度やってもテンポは合わない。いくら意識しても、私がほんの少し、先に行ってしまう。



「明日架に合わせてやろう」フィードバックの時、秋良が手を挙げた。「私はそう思う。ちょっと難しいけど、明日架の歌とギターに私たちがついていこう。きっと、そういう曲なんだ」

「ううん。私は反対」

「どうして、海音」

「デモのときは上手くいってた。私はアレでばっちり、この曲のリズムだと思ってるから。今のままだと微妙にズレてる。サビの部分は音符の密度が濃いから、ここは流れないようにしっかり聴かせたいの」

「それは私たちがしっかり、一音一音、丁寧に演奏すれば済む――っていう話でも、ないんだよね?」



 海音は頷いた。



「そういう話とは違うと思う」



 私のほうを少し、責めるような目で見ていた。海音はとても繊細で、神経質で、几帳面だ。自分がこうと思ったことは、それを上回る演奏でないと納得してくれない。このバンドの舵取りでもあり、ブレーキ役でもあり、私たちにアクセルを踏むよう責め立てる存在でもある。



 そんな彼女に、「瑞穂、あなたはどう思う」なんて真顔で聞かれると、私たち三人より年下の彼女は委縮するしかない。でも、瑞穂はしっかりした、真面目な子だ。覚悟を決めたようにまっすぐ前を見ると、堂々と自分の意見を述べる。



「私は秋良さんに賛成します。ドラムから見たとき、ベースもキーボードも、明日架さんについていけるようになったとき、この曲はしっかり完成すると思います。でも海音さんの言う通り、デモのMDで聴いた時が一番ばっちり決まってた、っていうのも納得します。私もそう感じましたから」

「だから?」

「間を取っていくんです。デモの時より走っても、私たちはついていく。明日架さんは私たちを置いていかないように、徐々に速度を遅らせていく。そうやって全体のペースがそろうような、『良きところ』を見定めていくのがいいと思います」



 秋良は頷いた。海音も、それならいい、でも上手くいくか分からない、そういう不安げな表情をしていた。最後にみんなが私の方を見て、秋良が代表して問いかける。



「それでいい? 明日架は?」

「うん。瑞穂の言う通りでやってみよう――みんな、今日はごめん」



 みんなが私に声をかけた。大丈夫、とか、次はしっかり、とか。



「ライブは三週間後――この曲はメインにしたい。きっちり仕上げていこう」






「明日架はどうするの?」



 練習を終えた帰り道、ふと秋良が私に問いかけた。ひとり方向が違う海音だけは既に分かれていて、私と秋良、それに瑞穂の三人で駅へ歩いている途中のことだ。



「どうするって?」

「進路だよ」身体がこわばる思いがした。秋良は少し苦笑しながら、「私は一応、大学に行こうとは思ってるんだけどさ、東京の。でも、『Piscesピスケス』をどうするのかも考えなくちゃいけないなーって思って。リーダーはどうお考えですか」

「……、」



 父さんの顔を思い出した。いつもスーツで、いかつい顔をして、家でも仕事、職場でも仕事の父さんのこと。

 母さんの姿を思い出す。いつも私にアドバイスのような暴言を投げつけて、自分は全国をのうのうと走り回っている母さんのこと。



「なにも、決めてない」

「バンドを続けていくつもりなの?」

「それも決めてない。なにも……」

「都内に残ってれば、別に、大学や専門に通いながらでもバンドは続けられるよ。私はそのつもり」

「大学って、どういう感じの、ですか」瑞穂がおずおずと言った。秋良はうーん、と考えながら、

「そこまで考えてないけど、やっぱり将来のことを考えると、手に職はつけなきゃ。公務員とか」



 職。

 そんなことを考えるなんて、嫌だ。実感がない。想像もできない。



「瑞穂もそろそろ、進路のことを考え始めるころ?」

「いえ、いちおう、方向性はもう。なんとなく」瑞穂はかけている眼鏡にかかった前髪を払いながら、「英語の先生になりたいんです。私、英語だけは得意ですから、そこしか出来ることがなくて」

「へえー。あ、確かにたまに英語の音楽雑誌とか読んでるよね」

「はい、一応あれも、勉強と実益を兼ねて……」



 私はなにも喋ることができないまま、駅に到着して、それぞれ別の電車に乗り込んで帰路に就く。

 勉強したいこと。

 やりたいもの。

 なにひとつ、思いつかない。



「ただいま」



 うちに帰ると、「ああ」という発音の「おかえり」に出迎えられて、私は自分の部屋に向かう。

 父さんに感謝すべきことはいくつもある。父さんは、私がギターを始めること、バンド活動をすることを責めたり反対したりしたことはない。学業に支障が出ないように、と釘を刺したりすることはあっても、進路や将来のことで私が悩んでいることはきっと、重々に承知してくれている。だから、ああ、とか、素っ気ないことは言っても、「勉強しろ」「考えろ」とか、そういう母さんみたいなことは、ひとことだって言わない。



 だからこの間、バンドのことを「ほどほどに」と、言われたことは、後になって浮かび上がる青痣のように、私に小さくない衝撃を与えた。父さんはきっと、私に大学まで進んでほしいに違いない。まっとうに働いて、まっとうな人生を送ってほしいことだろう。



 バンド活動をして生きていけるなんて、自分でも思ってない。

 それで生活できるほど世の中は甘くない。

 結局、そうやってもんもんと考えているうちに夜は更け、私は参考書やセンター試験の過去問に目を通すこともなく、無為な夜を過ごす。その間は今日の練習の失敗のことが次々に浮かび上がり、声にならない声が、喉の奥から漏れる。

 こうして過ごしていられるのは、いったいいつまでなんだろう。

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