鷺宮千夏の友だち-3
路地裏から感じた、かすかな気配。
ここは入った事のない場所だった。かなり複雑に入り組んでいて、階段やタラップまで張り巡らされた、立体的な迷路のようだ。
日当たりも勿論悪い。影は、周囲の闇に紛れてもう見えない。
ポケットの中のライターを握りしめた。近くにいる。でもこの気配は――人間のような、グローパーのような。
からん、と、ビルの屋上から何かが落ちてきた。
私の数メートル後ろ。それは、ほこりをかぶっていた、古い花瓶だった。煉瓦色は褪せて、すっかり脆くなってしまっている。
ぞくぞくした。
前のめりに倒れると、私のすぐ横のビル壁が粉砕され、地面が激しく揺れた。
「惜しいナァ」しゃがれたその声の主は、手にした巨大なハンマーのようなものをくるくる回しながら、「もうちょっとだったのに。お嬢ちゃん、こんなところに一人で入って来ちゃア、危ないだろ」
見た目は普通の男だ。特別に体格が大きいわけでも、かといって小柄なわけでもない。髪の毛は短く刈り揃えられている。ぼろぼろの青い作業服のようなものに包まれた腕は、まるで魚の鱗のように、細かいガラス片で覆われていた。
胸に突き刺さっているのは、黒いガラス瓶のライター。
目は真っ赤に燃えている。
「変身――」
すると同時に駆けた。刀を引き抜いて、首元を目がけて斜めに切り裂く。
「そんなっ、」
思い切り振り抜いたはずの刀は、男の首筋で止まっていた。
「へへ……そんなんで俺が倒せるかよォ!」
まるで電柱か何かを切りつけたような――胸の辺りに鈍い衝撃。男の突き出した足に吹きとばされ、すぐ近くの壁に背中から叩きつけられた。
「オイオイオイオイ、こんなもんかァ? 魔法少女ってやつは」
男はピアスのついた長い舌をちらちらとのぞかせながら、ハンマーを振り上げる。咄嗟に片手で受け止めた。
ベギベヂ。
骨の砕ける音。激痛。思わず漏れた悲鳴。
脳天をガツンと殴られ、一瞬だけ視界が暗転する――目が真っ赤になる。頭から血が出ているのかもしれない。爪先が脇腹に突き刺さって、その勢いのままに転がっていく。
砕けた骨や頭の痛みは、見る見るうちに元に戻っていく。
立ち上がり、近くに転がっていた刀を手に取って構えた。強い――今まで見てきたグローパーとは何もかも違う。刀じゃ倒せないかも知れない。
「こうなったら――」一か八かだ。余裕を見せてゆらゆら動く男の隙を見て、ビルの壁を蹴り、手すりを蹴り、屋上へ。ちょうど、陽が沈んでいくところだ。そして屋上には、真っ黒な私の影が現れる。
あの時を思い出すんだ。
あの青い魔法少女と戦った時のことを――
「お願い、わたし」影に呟いた。祈るような気持ちだった。「力を貸して、私に……」
でも、影はうんともすんとも言わない。喋ったり、震えたりしない。
「ねえ!」
影に気を取られていたのがまずかった。いつの間にか屋上へ登ってきていた男のハンマーが、私のこめかみと耳の辺りを打ち抜いた。
地面に倒れる。
頭がガンガンする。視界が揺れる。耳の奥が痛い。
「つまんねえの」男はしゃがみこんで、私の顎を掴み上げた。朦朧とした視界で、顔が見える。「良く見りゃかわいい顔じゃねえか。ああ、まずったな」
そして、私を押し倒すと、そのままひざを折ってのしかかってきた。
服の胸元に手をかけ、襟を掴んで服を引き裂いた。肌に、冷たい風が入り込んでくる。
「見えないところ、殴っとくんだったよ。ガキだからって――――」
○
「 、 」
「 ! !」
「 …… …… ……!」
○
突然だった。意識が明瞭になると同時に、男の身体の中から、黒くて鋭い棘が何本も突き出て、はりつけにするみたいに宙へ持ち上げたのだ。
それは地面から伸びている。
私の影から。
「そういうことか」あまりに拍子抜けする答えだった。「別に、私は何とも思ってないのに。あなたのことを」
男はじたばたもがいている。まるでクモの巣にかかったトンボみたい。喉の辺りを貫かれているので、声が出ないのだ。
私は立ち上がる。いつの間にか手元からなくなっていた刀が、私の影の中から吐き出されるように飛び出てきた。身体の痛みは既に、跡形もなく消えている。
鞘から刀を抜く。鍔の辺りにあるライターのオイル。残量はあと少ししかない。
影が一瞬で地面に引っ込むと、男は空中でもがきながら落下してくる。
「こうやって……」影からぬっと鋭い剣が飛び出し、
「こうして……」男の身体を斜めに真っ二つにして、
「こう、するのか」剣は何百本もの糸になって、男の身体を地面に縛り付ける。
コツは掴んだ。
「や、やめろ……やめてくれぇええぇえ」
みっともない声だ。
みっともない表情だ。
あんなことをしたのに。
「男のくせに」
「俺は、俺はただ、」
もう聞こえなかった。男の身体は風に乗って、どこかに消えていく。
後に残ったのはライターだけ――いつも通り。
なんだか不完全燃焼だった。ライターの中身、黒いねばねばのコールタールを私のライターへ移し替えながら、
「そんなに気にしてたんだ、あなたは」
影はもう答えない。
当たり前だ。私の影は、勝手にしゃべったり動いたりしない。だって影なんだから。
「別に、私は何とも思っていないのに」
○
「ただいま」
「お帰り、千夏」
珍しくお父さんが先に帰ってきている。
「あれ、今日、早番の日だっけ」
「急にそうなったんだ」
「そうなんだ。珍しいね」
「千夏」
お父さんの声に、私はどきっとした。
聞き覚えがある声だ。
私が昔、お父さんと喧嘩して、遠くまで家出をしたとき――警官に保護されて交番で泣いていた私に、心配したんだぞ、と、言ったような、そういう声で。
「なに?」
「最近、何か、悩み事でもあるのか」
なんだ、それ。
距離感の計れない父親みたい。思春期の娘を持った父親みたいな、あまりに台本通りなせりふ。
「あったよ」でも私は正直に答える。「夢見が悪かったの。でも、もう大丈夫」
「どうして、もう大丈夫なんだ?」
「大和に相談したら、なにか、嫌なことがあるんじゃないかって言われて。それで、ルーズリーフにいろいろ、嫌だなあ、忘れたいなあって思うことをたくさん書いて、びりびりに破いて捨てたの。それだけ」
お父さんの眼差しは真摯だ。
怒っているんじゃない。私を責めたいんじゃない。
私が心配なのだ。だから私もこういうんだ。お父さんが大好きだから。
「お父さんが心配するようなこと、なんにもないよ」
「……、ああ。わかったよ」
お父さんは安心したように、表情と声色を緩めた。
私は台所で、夕食の準備をする。お父さんはテレビの電源を付けて、新聞を広げる。
今日は意味もなく贅沢なご馳走を作りたい。週の真ん中だとしても。
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