井荻リサのいつも通りの人間関係

 身体の痛みは、既に消えている。

 香苗さんは、ぼろぼろの私と、震える女の子に肩を貸すようにして、東さんの工房へ連れてきた。東さんは私たちを奥の座敷へ上げ、ゆっくりと休むように言った。



「無茶するのね、明日架」香苗さんは、自分の持っていた緑色の『ライター』から、私の青い『ライター』へオイルを移し替えながら、「こんなに魔力を枯渇させるなんて、あなたらしくない。最近、どこか調子でも悪いのかしら?」

「そんなことは……」ない、と言いかけて黙った。「そうかもしれない。最近は随分、疲れていたから」

「はい、どうぞ」



 自分のライターから半分、オイルを移し替えたものを私に手渡した。香苗さんはビジネススーツのポケットに、自分のライターをしまい込みながら、私ににっこり微笑んだ。



「たまたま、私が近くにいて良かった。あなたを助けることができたんだもの」

「ありがとう。ほんとうに……それよりも」



 私たちは座敷の隅っこで、まだ震えている女の子を見た。

 その目の前には、黄色の『ライター』が差し出されるように置かれている。



「あの子を助けてくれたことの方が、良かった」

「ひばりちゃんの二の舞になるのが、嫌だったんでしょう?」



 うなずいた。香苗さんの言葉は、私の心の奥にするする入り込んでくる。心地よい声だ。きっとジャズバラードでも歌わせたら、それは様になることだろう。



「困ったときは、お互い様。私たちは魔法少女として、グローパーを倒す。仲間どうしよ。もっとも――」と、香苗さんは照れくさそうに前髪を分けて、「私はもう、少女、っていう歳でもないけど」

「すまない、待たせたね」



 奥の台所から、東さんが四人分のお茶を、お盆にのせてやってきた。

 女の子はまだ、緊張している。

 無理もないだろう。






「それじゃあ」東さんはお茶のお替りを湯呑に注ぎながら、「君はグローパーから――ええ、その怪物から身を守るために、半ばやむなく魔法少女になった、と」

「はい。そうです」女の子の声は震えてはいるけれど、しっかりしていた。

「怖い思いをしただろう。だが、私の話を聞いてほしい」



 私と香苗さんは、横で黙って、その話を聞いている。東さんは、私やひばり、そして恐らく香苗さんにもしたであろうことを、とうとうと語る。



「この街には、表立っていないだけで、君を襲ったような……あの怪物がたくさんいる。実際に、罪のない人々が襲われて、傷を負ったり、命を落としたりしている。中には、君が出会ったクウのように奴らに食われ、吸収されてしまう者も……」

「……、はい」

「まるで、絵本のなかの世界みたいだろう。でもそうじゃない。これは現実だ。でも、決して表立った騒ぎにはならない。そうしてきたんだ、彼女たちが」



 彼女は私たちを見た。



「それが、魔法少女、ですか?」

「そうだ。そして、ここからが本題だ」



 息をのむ。東さんは努めて淡々と話しているように見える。

 本当は胸が張り裂けそうな思いなのだ。



「君が望むなら、私に――私たちに、力を貸してほしい。魔法少女として、あの怪物たちを倒すんだ」

「あの怪物たちは、いったい何なんですか?」

「詳しくは私にもよく分からない。だが、奴らは人間を襲い、無関係な人々を傷つける。……ここ数年、特に奴らの数が急増している。そのことに関わっていると思しいのが――君と、明日架が出会ったという、ギロチンを振るう魔法少女だ」

「あの人も、魔法少女なのですか」

「昔、明日架と共に戦っていた魔法少女がいた。村山ひばり――とても優秀で、心優しく、正義感にあふれた少女だった。だが、あるとき彼女を何者かが襲撃した。そして、彼女の持っていた『ライター』を奪い取り、そのまま――ひばりは、今も眠ったままだ」

「その『ライター』を使った魔法少女が、あの怪物たちを引き連れている」

「いま活動している魔法少女は、明日架、香苗、ギロチンの少女、そして明日架が出会ったという刀の少女の四人――数の上では二対二だ。きみが加わってくれるのならば、我々は数の上では優位に立てる」



 沈黙。東さんは続ける。



「――ただし、無理強いはしない。君はその『ライター』を手放してもいい。それを失ったからと言って、君はそのほかに何も失わない。平穏な日常に戻ることもできる」

「やります」






 彼女は力強い口調で言い放った。



「やります――やらせてください。魔法少女として戦って、それで、無関係な人が傷つくことを防げるのなら……私の、大事な人だって守れるのなら」指先が震えているのが分かる。でも、彼女は言葉を止めない。「戦います。魔法少女として」

「……、分かった」



 東さんは長い髪に隠れた横顔で、ぐっと、下唇をかみしめていた。

 本当は彼女が直接出向いて闘いたいはずだ。

 なのに、その身に受けた呪いのせいで、彼女ひとりではろくに戦えない。そのことを知っているから、私たちに――魔法少女に頼るしかない。そのことを一番つらく思っているのは、ほかならぬ東さんなのだ。



「君の名前を教えてくれ」

「リサです。井荻リサ」

「リサ。ありがとう。私たちと共に、戦ってくれて」



 ふたりはしっかりと見つめ合い、握手を交わした。

 私と香苗さんは、横目で挨拶するように一瞥を投げ合った。






 香苗さんは一足先に帰った。最後に、あの少女――リサになにか、優しそうな表情で声をかけていた。出ていくとき、振り返って私にウィンクをした。

 あの人はいつも目が笑っていない。

 柔和な眼差しを見せていても、目の奥が闇を抱えているような、その表情が私は苦手だった。



「あの、明日架……さん」



 リサが私におずおずと声をかけた。



「その、私……頑張ります。魔法少女として」

「頑張らないで」わたしに出来るアドバイスはそれだけだ。「無理をしないで。あなたはいつでも魔法少女であることを投げ出していい。そのライターを手放して、ここに戻しにくればいい。それだけで」

「ありがとうございます。心配してくれてるんですよね」


 でも、とリサは言った。


「私、戦います。そうしなきゃいけないんです。私の……大切な人のために」






 リサが工房を出て、私は少しだけ、座敷で身を休めていた。

 身体の傷は治っている。でも、精神に負った「傷を受けた」ということへの傷が、まだ治っていない。時刻は午後六時半を過ぎる。バンドの練習まで、あと少ししかない。



「そろそろ、行かないと」



 でも、その前にここに寄らないといけなかったのだ。






「ひばり……」



 工房の奥の奥、小さな四畳半の部屋。そこに敷かれた布団で、じっと、白い顔を眠らせている少女。



「もう、少しだから。待っててね」



 襖を閉じる。



「明日架ちゃん、もういいの?」



 ポケットから、赤のライターを抱きかかえたクウが、不安そうな目で私を見上げていた。



「いいの。ひばりのためにも、早くあいつを……」

「これ、使えばいいのに」

「それは駄目。ひばりがまだ目覚めないのには、きっと理由があるんだ。それは多分……」

「そっか……魔法」

「あの魔法少女には、人間の精神に働きかけるような、そういう能力があるのかもしれない。現況を取り除かないと、きっといつまでも目覚めないままだと思う」

「明日架ちゃん、でも、無理はしないでね。また今日みたいなことになったら……」

「大丈夫だよ。今日は、ちょっと油断しただけ」私は指先でクウのおでこを撫でた。「危ない目に遭わせて、ごめんね」



 東さんに別れを告げ、赤のライターといっしょにクウを預けて、私は工房を出た。

 スマートフォンを取り出すと、何件か、着信の履歴が残っている。バンドのメンバーから、お父さんから……

 折り返しの電話をしなくても、誰が何を私に言いたいか、それは分かっていた。



「まずは、今日の練習に、集中しなくちゃ」



 いつまでも、魔法少女のままではいられない。

 傷は癒えているんだ。やらなくちゃ。

 やらなくちゃ。そう、誰でもない私が。




   ○



   【Yellow】




 魔法少女――

 小さいころ、テレビの中で踊り、戦い、可憐な笑顔を見せていた、そのくらいの遠い存在だと思っていた。まさか自分が、高校生にもなって、その魔法少女になってしまうなんて。



 黄色いガラスのようなライターの中には、なみなみと透明なオイルが注がれている。

 身体が震えている。しびれている。あの蜘蛛のような怪物と戦ったとき――はじめて、あのライターのスイッチを押したとき。私の身体がかっと熱くなって、脳裏にいろいろな光がよぎって……でもやっぱり、駿介の言葉がよぎったのだ。



『通り魔だよ。男ばっかり狙った通り魔』

『ゴシップなんかじゃないよ。実際に襲われてる人がいるんだ』

『先輩が襲われたんだ。……ある日突然、部活に顔を出さなくなったんだ。家にも帰ってない、連絡もつかないって。そしたら警察から連絡があって、四丁目の公園で、先輩の財布と鞄が見つかったって。今も連絡がつかない』

『許せないよ。俺に、何かできるとは思わないけどさ』



「私がやるんだ」



 通り魔と、あの怪物。

 ギロチンの魔法少女。

 きっと無関係じゃない。そう思った。私には戦う力がある。例え関係ないとしても、それでも、きっと駿介の――力のない人たちの力になれる。



「私が、みんなを守るんだ」



 もう夕日が沈む。

 ポケットのなかのライターを握りしめた。やるんだ、私が。

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