中井明日架 / 鷺宮千夏-2

   【Blue】




 クウの元に戻ってきたときは、正直に言って満身創痍だった。身体の傷は『ライター』の魔力で自動的に治癒されるとしても、消耗した気力までは戻らない。でも、クウはその場にとどまって、ちゃんとギターケースを守ってくれていた。



「だ、大丈夫?」

「大丈夫じゃない……かな」



 最悪だった。

 あの魔法少女の持っていた『ライター』は、白かった。私の探しているものではなかった。でも、あの魔法少女は――



「強かった」どっと溜息が漏れた。びっしり汗をかいていた。「死ぬかと思った。でも、ありがとう、クウ。ギター、ちゃんと守ってくれてたんだ」

「クウにはお安い御用だよ。でも……もう、魔力が残り少ないね」

「大丈夫。その辺でグローパーを倒せば……それに、いざとなったら、東さんのところに行けばいい。きっと助けてくれる、あなたのご主人様は。そうでしょ?」

「う、うん……」



 クウはまだ心配そうだ。私はふらつく足をしっかり奮い立たせながら、ギターケースを背負った。ポケットから取り出した小銭で、自動販売機のお茶を買って、何気ない風に路地裏から出る。まるで、ちょっと歩くのに疲れたから、少し休憩して自動販売機に寄りました、という、女子高生を演じるように。

 ただひとつ違っていた。

 一度キャップを空けたお茶は、ひと口で半分も飲みきってしまった。

 冷や汗が止まらない。ひどく喉が渇いていた。なんとかしなくちゃ。




   ○



   【White】




「ただいま」



 家に帰ったとき、既に夕方になりかけていた。お父さんはまだ帰ってきていないようだった。夜七時くらいに帰ってくるだろうと勝手に想像して、私はひと足先に夕食の用意に取り掛かった。

 冷蔵庫にしまっていた肉や野菜を調理しながら、土曜日の夕方の、たいして面白くもないニュース番組を見ながら、今日の出来事を思い返しながら……



「なんでだろう」

 妙に疲れた気がする。

 頭がぼけっとして、身体じゅうに神経が通っていないような感じ。

 人参を切って、ガスコンロの火加減を調整して、それぞれがまるで現実味がないみたいに感じた。



「…………、」

 蛍光灯の光を反射してきらきら光る包丁が目に入った。

 洗剤でよく洗って、水で綺麗に泡を流し、キッチンペーパーでよく水気を吹き取る。それは、ごく自然な挙動だった。ガスコンロの上に乗せたお鍋から、ぽこぽこと、お湯が煮立っていく音が聞こえる。

 右腕の外側に、包丁の尖った先を薄く突き立てて、すっと、引っ張ってみた。

 痛み。一瞬遅れて、赤い筋が浮かんできた。

 痛い。

 でも、すっと、頭が冴えていくような気がした。

 すぐに水で傷を洗い流して、セロハンテープで傷を塞いだ。こうしておくと、早く皮膚が塞がるのだ。お父さんにこのことが知られたら、きっと、凄く心配するだろうから。放っておいてほしい、なんて思わない。お父さんのことが大好きだから、余計なことを考えさせたくないんだ。その為にも、まずは今日のご飯をめいっぱい、美味しく作るのだ。



「そうだ」何事もなかったかのような自分の声に少し驚きながら、「ご飯炊かなきゃ」






 お父さんが帰ってきたのは、ちょうどいろいろな料理のあれこれが終わって、食器にそれぞれ盛りつけようと思っていたころだった。玄関をくぐってきたお父さんは、普段の真面目な制服姿とはぜんぜん印象の違う、白と赤のライダースーツを着て、



「ただいま」

「おかえり。ずいぶん遠くまで行ってたんじゃない?」

「横須賀まで行っちゃったよ。たまの休みだからな」お父さんの額には汗が光っていた。とても楽しそうな笑顔だった。「なんだかいい匂いがするな。鍋かい?」

「そうだよ。たまの休みだから、お父さんに食べてもらおうと思って」

「そうか。ありがとう。でも、いま汗だくだから、先にシャワー浴びてくるよ」

「分かった」



 お父さんはそそくさとシャワーを浴びに向かった。私は鍋敷きを食卓に置き、その上にぐつぐつ煮立った鍋を置いた。とても、いい匂いがする。鶏肉も、水菜も、ニンジンやシイタケ、白菜、しらたき……どれも美味しそうだ。

 ちょっとだけ作った甲斐があるなと、そう思った。






「今度、またどこかに連れていってよ」



 シャワーを浴びてタンクトップ姿のお父さんと向かい合って、食卓を囲む。小さな、ふたりだけの食卓だ。私が切り出すと、お父さんはふと、箸をとめた。



「珍しいね。千夏が、そんな風に言うなんて」

「そうかな?」

「お前が小さい頃は、よくあちこち連れて行ったけど、最近はぜんぜん言わなくなったろう? もう飽きちゃったのかと思ってたよ」

「それは、お父さんが忙しそうだったから」

「そんな風に遠慮なんて、するもんじゃない。欲しいものややりたいことがあったら、なんでも相談しなさい。もちろん、」そこでお父さんはコップに空けたビールをひと口飲むと、「お父さんにも仕事や、人付き合いがあるから、いつも千夏の言うことを聞いてあげられるわけじゃないけれど、それでも俺は父親だから。娘のお前に、なんでもしてやりたい。この家だって小さいけど、実は、お前を大学に通わせてあげられるくらいまでの貯金はあるんだぞ?」

「お金の話なんていいよ。それよりも」面と向かってこういうことを話すのは、やっぱり少し恥ずかしい。「また、お父さんのバイクの後ろに乗って、海沿いの道を走りたい」

「じゃあ、さっそく明日、行こうか?」

「いいの?」

「今日は横須賀の方まではいったから、千葉の方に行こう。そうだな、一日かけていくなら、犬吠埼あたりまでどうだ? 四時間くらいかけて行って、帰ってくるんだ。途中で昼飯食って……」



 お父さんの方が爛々と、子どもみたいにはしゃいでいるのが、私にも嬉しかった。

 自然とお箸が進む。

 お父さんは今日のツーリングのことについて、私は大和と歩いた中野のアーケードのことについて、いろいろなことを話した。――もちろん、魔法少女のことなんて喋れないから、そのことについては黙っていた。どこの洋服屋に行ったとか、どんなものを食べたとか、そういう話をした。



 お父さんはすぐに大きな欠伸をして、ソファに横になって寝てしまった。警察官のくせに休みの日はだらしがない。でも、休みの日くらい、自分の家で好きにだらだらしたい気持ちも分かるのだ。そっと毛布を掛けてやったあと、私もシャワーを浴びてパジャマに着替えて自分の部屋に戻った。



 まだ夜の十一時。寝るのには少し、早いかもしれない。

 スマートフォンの通知を確かめる。大和からメッセージが来ていない。いつもは毎日送ってくれるのに。部屋の電気を消して、勉強机の電気スタンドの明かりをつけると、そこに腰かけて適当に目についた文庫本を手に取った。お父さんが昔買って読んでいたものを、私の部屋に置いておいたものだ。

 明日が楽しみだけど、なんだか目が冴えて眠れない。



 右腕のセロテープを剥がすと、じわっと、あの切り傷から血が滲んでいた。まだ塞がっていないんだ。痛みもないのに、血だけが止まらない。

 憂鬱だった。寝て起きるまでに、せめて血は止まっていてほしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る