中井明日架のいつも通りの悪夢-1

   【Blue】



 昨日はまったく眠れなかった。



 身体がほてっていたのかもしれない。ライブが終わったあとも上がった息と頭痛が治まらない。誰もいないひっそりした家に戻ってから、服を全部脱ぎ捨てて、半ば裸になりながら、ベッドに横たわった。



 いつも通りの私の部屋。

 白い壁。

 ポスター。

 壁に掛けられているのは、私がはじめて曲を作ったときに弾いていたギター。ボディもネックもぼろぼろで、もう使い物にならなくて、でも捨てたり売ったりするには覚悟が足りなかった、思い出の詰まった大切なもの。



 今日のライブは最悪だった。

 喉の調子も、指のコンディションも、メンバーとの息の合わせ方もぴったりだった。観客も盛り上がってた。初めて生で披露した新曲も、ばっちりキマってた。でも、私はそれを覚えてる。まるで――機材操作卓から座ってみているオペ主みたいに。

 ぜんぜん、演奏に集中できてない。

 このままじゃだめだ。スマートフォンにひっきりなしに届く通知音。バンドのみんなに心配をかけている。でも、もう返信する気力もわかなかった。

 サイレントモードにして、私はそのまま沈むように眠ろうとした。でも、脈打つ心臓と、鈍い頭痛で、ちっとも眠れたもんじゃなかった。






 ふらふらとリビングの扉を開くと、そこに父さんがいた。



明日架あすか。顔色が、良くないな」

「ちょっと出かけてくる」

「またバンドの練習か?」



 関係ないでしょ。と、いう気力もなかった。父さんは新聞を広げながら、パソコンを広げてせわしなく指を動かしていた。



「ほどほどにな。もうすぐ受験なんだから」

「わかってる」

 行ってきます。返事はなかった。



 電車に揺られながら、ガラスに写る自分の姿を見た。目の下には濃いクマが浮かんでいる。大きなギターケースを背負っていることに、自分では気が付かなかった。いつの間に持ってきてしまったんだろう。今日はそんなつもりないのに。



「明日架?」



 電車を降りたとき、ふと、私を呼ぶ声が聴こえて振り返った。バンドメンバーの秋良あきらが、ベースのケースを背負ってそこに立っていた。



「大丈夫? 昨日から、なんだか調子悪いみたい」

「大丈夫……」たぶんいま私は笑っている。少しだけ。「昨日はゴメンね。最後のフレーズ、ちょっとトチっちゃった。次からはミス、なくすから」

「あ、うん……」

「それじゃ、私、ここで」



 何か私を引き留めるような声が聴こえた気がした。でも、頭にもやみたいなものがかかって、とても足を止める気にはなれなかった。

 駅の改札をくぐり、しばらく大通りを歩いてから道を逸れ、楽器店やら古本屋やらが立ち並ぶ寂れた商店街を抜けて、そのはずれにひっそりと建つ、骨董品店。私は足元に転がる金物や、茶碗をうっかり踏まないようにしながら、



あずまさん」返事はない。「東さん、いますか」



 やがて奥からのっそりと、その影は現れた。歳は三十代くらいの、髪の長い美人。



「明日架。どうした?」

「すみません、また……お願いします」

「……、あがりなさい」






 東さんが用意してくれた粉薬を、温かい白湯で流し込む。すると、意識がすっと晴れていくような気がした。身体が軽くなっていく。



「ありがとうございます」

「最近は特にひどいね。まあ……無理もないか。もう五年近くだものな」



 東さんは柄にもなく心配そうだ。

 骨董品店の奥は、東さんの生活スペースを兼ねた座敷になっている。六畳間の漆喰の壁は、びっしりと本棚で埋め尽くされている。背表紙に見なれない言葉の本が、ずらりと並んで、手入れの行き届いた畳の香りと合わさって、何とも言えない雰囲気を醸している。



「症状が悪化しているとみるべきだな」東さんはきっぱり言い放った。「明日架の身体はもう、悲鳴を上げているのかもしれない。今はまだ、特製の粉薬で症状を抑えることができているけれど……今後どうなるかは、正直、予想ができない」

「すみません」

「謝ることじゃないよ。むしろ……任せているのは私の方なんだから」



 東さんは少し落ち着いた様子の私を見て、少しだけ気が晴れたようだった。小さな卓袱台の上に置かれた煎餅をぼりぼりと音を鳴らして食べ、

「食べる?」

 と、私にも差し出してきた。私はそれを手で制して、軽く頭を下げた。



「ひばりの様子は、どうですか?」

「うん、だいぶ落ち着いて来たよ。目を覚ますのを待つだけだ……奥で休ませてる」

「そうですか……」



 ほっとする思いだった。東さんは私に少しだけ身を寄せて、



「見つかった?」

「いえ、まだ……ここ最近は、あいつらの数もやたらと多くて」

「向こうの活動範囲が大きくなっている証拠だな。肝心のもうひとりのほうは、あまり成果が見られないし……でも、必ずこの近くにいるはずなんだ。ほとんどすべて明日架に任せきりなのは、とても申し訳ないけどね」

「いえ、そんな」



 東さんは小さな木箱を取り出し、その中身を私に見せた。



「これを使ってでも、彼女を止めるべきかもしれない」

「そんな……駄目です。私一人で、なんとかやってみせます」

「明日架ちゃんの言うことももっともだ。でも、正直負担が大きすぎる」



 何も言い返せなかった。東さんは続ける。



「症状の進行を薬で抑えるのにも、限度はある。今後は、根本を解決しようとしない限り、改善は見込めないだろう。つまり……」



 それを聞いて、私は少し悲しくなった。

 それと同時に、とても悔しかった。

 自分がやらなければならないことを、何一つ全うできていない自分のことが。



「分かりました」

「三人目と四人目を見つける必要がある。それは、こっちの方でやっておくから……それまでは明日架。済まないけど、頼んだよ」

「はい」






 そのまま帰るのもなんとなく居心地が悪くて、昼過ぎくらいまで駅の近くをぶらぶらしようと思った。昼間の空気を吸って、少し気分転換がしたかったのだ。休日の街には活気があふれ、若い人たちがウィンドーショッピングやデートを楽しんでいる。

 ふと、目が留まった先は楽器店だった。こんなところにお店があったとは。

 中に入ってみると、黒いTシャツを着た店員のほかにいた客は、大柄でスキンヘッドのいかつい男がひとりだけだった。とても大きいその身体をすぼめるようにして、音楽雑誌を立ち読みしている。私はギターケースをぶつけないように注意しながら、新しいストリングを何本か見繕っていた。

 別に買いたいわけじゃないけど、こういう瞬間だけは幸せだ。脳が、ひとつのことに降りきれているような気がして……すっきりする。



 結局何も買わずに店を出ると、少し遅れて、一緒にいたスキンヘッドの男も出てきた。私の数メートル後ろを、同じ方向に歩いていく。やたらと威圧感のある男で、振り向かなくても気配に気が付くほどだった。その男は商店街の十字路を私が直進したところで、左に折れていった。



「あの人……」



 その時だった。こっち、こっちだよ。呼ぶ声に呼応して半ば反射的に、私は路地を折れて、人気のない自動販売機の置いてある路地へ入り込んだ。そこには私を呼んだ声の主がいた。



「どうしたの、クウ」

「あのね、あっちのほうでね……」小さな妖精は手足を必死にばたつかせながら、「大きな男の人がね、怪しい女の子に……」

「怪しい女の子?」

「そうだよ。女の子だった、確かに。このクウは嘘をつかない」

「そうか……」私は重くて荷物になるギターケースをその場に置くと、「これ、見てて。邪魔になるから」

「えっ、クウが?」

「そう。大切なものだから、ちゃんとお願いね」



 渋るクウにギターケースを押し付けた。自動販売機の隙間にそれを立てかけるようにして置き、クウの指し示した方向に向かった。人の波をかき分け、こっそりと。ごく自然に迷い込みました、という風に装って。

 不安や恐怖はかけらもない。いつも通りやるだけだ。路地に入っていって、ポケットの中に手を伸ばす。



 あの男がいた。さっきまで楽器店にいた、あのスキンヘッドの大男――咄嗟に曲がり角に身を潜めて、様子をうかがう。大柄な背中に隠れて、狭い路地の向こう側はよく見えない。けれど、誰かと会話をしているような声と、うなずいたりする仕草が見て取れる。男はポケットから札束を取り出し、その身体の向こう側にいる何者かに渡した――



「なんだろう?」



 こんな白昼堂々と取引が行われているとは意外だ。そもそも、取引によって流通しているとも思わなかった。

 男は右手に持ったそれを、わざわざ見せびらかすように天に掲げた。真っ黒に粘った、コールタールみたいな液体の詰まった『ライター』。銃身のない拳銃のようなそれを、男はおもむろにポケットにしまい込んだ。



「やっぱり……」



 そのまま方向を変えて、こちらへ向かってくる。まだ、角に隠れている私のことには、気が付いていないみたい。

 十メートルほど先には、既に大通りがある。一瞬迷ったけど、

「やるしかない……」






 ポケットから取り出した、青い半透明の『ライター』のスイッチを握り入れた。






「変身」



 それは、気合を入れるための、魔法の言葉。

 身体じゅうがかっと熱くなる。骨に電気が走り抜ける感覚。何度やっても痛快で、現実離れした感覚。

アニメや漫画の世界で、どうしてわざわざ決め台詞を言うのか。

 今ならわかる。

 彼らも、彼女らも生きている人間だからなのだ。

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