鷺宮千夏のいつも通りの日常-1

「ただいま」

 お父さんはまだ戻ってきていないようだった。私はスーパーでたくさん買った食材を、やたらと広い冷蔵庫に次々にしまうと、リビングのソファに寝転がってテレビをつけた。



「誰もいないの?」



 私の学生鞄から抜け出してきた、あの白い妖精が、周囲をふよふよ飛び回りながら呑気に言っている。



「ついて来てたの?」

「きみにいろいろ、話しておかないといけないことがあるんだって。ボクのご主人様が言ってたんだ、新しい魔法少女を見つけたら――」そこで妖精はぴたり、と会話をとめた。「ボクのことは、クウって呼んでほしい。きみの名前は?」

「千夏」

「チナツ、チナツだね。じゃあ、チナツ」



 さっそく馴れ馴れしく私の名前を呼ぶクウは、ソファで横になる私のすぐ近くに浮遊したままで言った。



「これからきみは、その『ライター』を使って、魔法少女としてあの怪物――グローパーと戦うことができるようになった。グローパーは罪のない人々を襲う、悪い怪物だ。でも、あの通り普通の人たちじゃ敵いっこない、とんでもないパワーを持っている。魔法少女であるチナツでなければ、やっつけることはできないんだ。わかるかな?」

「わかるよ」

 なんとなくだけど。



「それで、どうして私が戦わなくっちゃいけないの?」

「別に誰でもよかったんだ」



 クウの答えはあっさりしていた。



「そうなの?」

「魔法少女は若い女性なら誰でも変身できる。たまたまボクが見つけたのが、チナツだったって、それだけの話だよ」

「そうなんだ」

「どうしたの?」

「てっきり、魔法少女っていうのは……もっと、選ばれたとくべつな人がなるものだと思ってたから」

「ああ、ご主人様も言ってたよ。漫画や作り話ではそうなんだって」でも、とクウは声色を少し変えて、「別にきみは選ばれた人間でも、特別な何かを持っているわけでもない。もし、魔法少女として戦うことが嫌なんだったら、その『ライター』をボクに返して。ボクは新しい魔法少女を探しに行く。別にきみを追いかけ回したりする必要はないし、『ライター』を手放したからといって、きみになにか不利益があるわけでもない。どうする?」

「それは、いま決めないと駄目なこと?」

「ううん、いつでもいいけど――できれば早い方がいいな」

「じゃあ、少し返事を待っててもらえる? 今すぐ決めるのは、少し、むずかしい」



 冷静になって思い返せば、いろいろ、おかしくてとんでもないことが立て続けに起こった。何で私は、あんなことがあった帰り道で、冷静に今日の晩御飯は何にしようと献立を考えながら買い物をしていたんだろうと、そう思うくらいに。



「じゃあ、それまできみのそばにいるよ。分からないことがあったら聞いて」

「それじゃあ、さっそく聞いていい?」

「いいとも」



 頼られたクウはどこか上機嫌で、自慢げだ。私は学生鞄から、例の『ライター』を取り出し、クウに見せた。



「これ……中のオイル? が、少し減ってるんだけど。これが無くなったらどうなるの?」

「ああ、それは魔力だね」

「魔力?」

「きみを変身させるための力だよ。チナツが魔法少女に変身して、戦って、魔法を使うたびに、それは少しずつ減っていく。それが無くなっちゃったら、もちろん魔法少女に変身することは出来なくなってしまうんだ」

「じゃあ、どうやって補充するの?」

「簡単だよ。グローパーを倒せばいいんだ」クウはくるくると旋回しながら、「グローパーの体内には、汚染された魔力が渦巻いている。きみも見ただろ? あの、赤黒いあれさ。『ライター』には、汚染された魔力を浄化して、その中にため込む機能が備わっている。つまり……」

「あの怪物をやっつけて、この中身を奪い取るってことね」

「話が分かるね。きみ、思ったよりセンスがあるよ。これは、いい人を見つけちゃったな」



 怪物を倒すために、魔法少女になる。魔法少女になるために、怪物を倒す。



「まあ、ほかに方法がないわけじゃないんだけどね。それは、あまりお勧めできないんだ」

「どういう方法があるの?」

「生き物を殺して魔力を奪い取ればいいんだ。人間が一番いいんだって。体液――まあ、血や唾液、精液なんかだね。それを『ライター』で浄化すればいいんだ。でも、きみたちの暮らしている社会では、人を殺すのはいけないことなんだろう?」

「そうだね。いけないこと」

「だから、お勧めできないって、そういうこと」



 玄関の方からがちゃ、と扉が開く音、ただいまー、という声がした。



「ここに入って、隠れていて」



 クウはおとなしく従った。学生鞄の中に入り込むのを確認して、『ライター』もその中に押し込んだ。私はテレビを見るふりをしながら、リビングに入ってきたお父さんに、



「おかえり」

「先に帰っていたんだね。千夏」

「いま、ちょうど晩御飯を作ろうと思っていたところ」






 私には実の両親がいない。

 いま、私が「お父さん」と呼んでいるこの人――鷺宮さぎみや政人まさとは、孤児だった私を引き取って養育してくれる養父だ。義理の父親。鷺宮という苗字も、千夏ちなつという名前も、この家も、お小遣いも、ヘッドホンも、制服も、ぜんぶこの人からもらったものだ。血は繋がっていなくても、私はこの人のことをお父さんだと思っているし、お父さんも、私のことをちゃんと娘として愛してくれている。それをお互いに感じている。



「今日は、大和と一緒に新宿に行ってきたの」

「新宿?」

「そう。画材屋さんに買い物に行くっていうから――あ、大和っていうのは私のクラスメイトの子。手帳とか、ノートとか、材料を集めて自分で作っちゃうんだよ。私も一冊、ノートを作ってもらったの」

「へえ……それは凄いな。それで? 千夏は何か買ったのかい?」

「かわいいボールペンがあったから、それを一本だけ」

「それだけか?」

「それで充分だよ」



 ふたり分のうどんが茹で上がるまでの間、私たちはリビングでテレビの音をバックに、他愛もない話をして過ごす。ずっとそうやって生活してきたのだ。

 いつも、お父さんは仕事が忙しくて、なかなか家に帰ってこない。あるいは、帰ってくるのは私が寝ているとき、学校に行っているとき。一緒に食事までできるなんて、滅多にない。



「お父さんは」新聞を広げる背中に、「最近、仕事、どうなの」

「ああ……まあ、だいたいいつも通りだよ。交番で落とし物を受け付けたり、自転車でパトロールをしたり……そのくらいかな」

「そうなんだ」

「今日は、やけに機嫌がいいね。千夏」



 ねぎを切る包丁が止まった。



「そう?」

「そんなに新宿が楽しかったのかい? その、大和くんっていうお友達は、あちこち連れて行ってくれるんだろう。いい子じゃないか。でも、あまり羽目を外し過ぎないようにね。千夏が何か事件に巻き込まれて、お父さんが出動しなきゃならないなんて、ごめんだからな」

「ありがと。でも、大和は女の子だよ」



 ははは、と豪快な笑い声がリビングに響く。

 それが嬉しかった。

 でも、私が機嫌がいいのは――きっとそのせいじゃないと思う。






 夕飯も終わり、お風呂に入って、お父さんにおやすみを言ってからベッドに潜る。

 私はヘッドホンで音楽を聴きながら、右手にあの『ライター』を握りしめていた。



 ――このことはお父さんには内緒にしなくちゃ。

 そっと、枕の下にそれを置いた。明日は土曜日だ。何をして過ごそうか。

 スマートフォンのメッセージが鳴った。真っ暗な部屋でいきなり画面を開いたから、目が痛くなる。差出人は大和だった。



「明日、どこかに遊びに行かない? どことは決まってないんだけど」



 いいよ。

 と、返事を送信して、私は眠りについた。

 大和はきっと私が断らないことを知っている。楽しみだった。

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