Hide and seek

麻城すず

Hide and seek

 ――村岡くん、隠れて。






 あの人の声が聞こえた気がしてうっすらと目を開くと、目前に広がるのは茶色く堅い板で、僕は驚いて顔を上げた。すると視界に入るのは見慣れた自室で、そこでようやく自分がうたた寝をしていた事に気付く。今日は仕事が早く片付き、三時過ぎには帰ってきたからたまには本でも読もうかと、読み掛けを持って久々に机に向かったのに結局2、3ページで睡魔に負けてしまったらしい。


 突っ伏した不自然な体勢での睡眠で、疲れは取れるどころか肩は凝るし、背中は痛む。もう若くない証拠のようで苦笑が漏れるが実際若くないので仕方がない。


 懐かしい夢を見た。


 外では子供達がかくれんぼをしているらしい。はしゃぐ声が聞こえているから、もしかしたらそれで思い出したのかもしれない。


 手の震えに気付いて僕はまた苦笑すると、机の引き出しから煙草とライターを取り出した。火をつけ、煙を胸の奥まで吸い込むと幾分か落ち着いたようで震えはもうやんでいた。


 かくれんぼ、か。


 もう二十数年も前のことをぼんやりと思い出す。あの人は今どうしているのだろうか。もう五十近いはずだが、記憶の中に残る姿は今の僕よりも随分若い。それはそうだ。あれきり僕らが会う事はなかったのだから。






 ――村岡くん、隠れて。


 耳に残る声。目を閉じればあの人の困ったような笑みが今でも鮮明に浮かぶ。僕はそれを見て小さく笑い、そして。






「あなたー、ご飯よー」


 間延びした、階下からの妻の声に思考を遮られる。たかが夢。けれど現(うつつ)との境い目が曖昧なのは、うたた寝特有の浅い眠りだったからかも知れない。


「ああ、煙草を吸い終わったら行くから」


 立ち上がり、煙草を咥えたまま本棚を漁る。つい最近開かれた同窓会の幹事をしたお陰で、連絡先を調べるために実家から送ってもらった高校の卒業アルバムがまだそこにある。一枚だけ、あの人の映った写真があるのだ。笑うあの人を見て、若いなと思う。あの頃は随分と大人に見えたのに。







 高三の年に赴任して来たあの人は音楽の教師で僕より八つ年上だった。半年以上前に提出していた選択教科の希望調査表に音楽を入れていなかった僕は、それでも入っていた吹奏楽部の活動で親しくなった。


 なぜ、あんなに夢中になったのだろう。確かに長い髪を一つに束ねたその細い後ろ姿は同級生にはない色香を纏ってはいたけれど。静かな声や落ち着いた表情、どれもが新鮮であったけれど。


 きっかけはもう覚えていない。僕らは自然と惹かれあい、求めあった。それまでに何度か彼女と呼ぶ存在はいたけれど、いつだって告白をしたりされたり、友達から恋人へ、そして恋人から他人への境界線は明快だった。だから、余計にあの人との付き合いは大人のもののように思えて夢中になった。


 あの頃、あの人は酷く周りを気にしていた。僕はあの人と一緒にいることを悪いとは思っていなかったのに。生徒と教師とはいえ、しょせんは男であり女、ただそれだけのこと。惹かれあうことに何故問題があるのだと、放課後の音楽室で抱き締める僕の腕を必死に諫めようとするあの人に食ってかかった。


「あなたに分からないのはまだ子供だからよ」


 悲しそうな表情でそう言って諦めたように俯くあの人を抱く腕に力を込めた。そして子供には出来ない事を僕はした。あの人に認めてもらいたくて。場所も時間も他人もその時の僕には関係なかったから。


 誰も来なかった音楽室に残る乱れた互いの息遣いを心地良く聞いた。あの人は服についた皺を何度も伸ばしながらぽつりと言った。


「あなたは子供なのよ」








「あなたー、まだなのー?」


「ごめん。今行くよ」


 痺れを切らした妻の声。思わず笑みが零れる。彼女とはいわゆる職場結婚というやつだ。一年半の交際期間の後、皆に祝福されて結婚した。何も煩わしさもない、当たり前の幸せを僕は得ている。


「ロールキャベツよ。好きでしょ?」


「うん、いい匂いだね」


 ダイニングテーブルの上には料理が所狭しと並べられている。子供達が「早く食べたい」と僕の着席を促す。幸せは今、僕の手の中にある。








 音楽室のグランドピアノの、大蓋を立てたその陰に隠れてキスを交わした。準備室に詰め込まれたホルンのケースの裏で抱き合った。立て掛けられたコントラバスに体を預けて、ティンパニーが作る死角で僕らは。


 まるでかくれんぼのようだった。一緒に隠れた友達と、見当違いの方向を捜す鬼をヒソヒソと笑いあうように僕らは睦事に興じ、そして。






 あの人は学校を辞めさせらた。






 同じ部活でやはりあの人を好いていた二年の男子が教頭に匿名の投書をしたのだと知ったのは、卒業してから二年も経ってからの同窓会の席でだった。


 僕は子供だった。


 あの人が学校を辞めたと知った時、本当は退学届けを教頭に叩きつけてやるつもりだった。なぜ僕にはなんの処分もないのにあの人にはこんな酷いことをするのだと詰め寄り、僕をこそ罰するべきだと。


「村岡くん。先生がここを辞めたのは君を守るためなんだよ。無下にしてはいけない」


 分かっている。他の生徒に漏れないよう全てを内密に済ませあの人だけが辞めたのは推薦枠で既に進学先が決まっていた僕に学校が配慮したからだ。


 けれど僕は守られなくたっていい。あの人と一緒にいることが出来ればそれで。


 そう言って退学届けを机に置き、職員室を出ようとした僕に教頭は


「君はまだ子供だ。年齢だけじゃない。考え方が」


 そう言って、置かれた封筒を破り捨てた。あの人と同じ言葉が胸に刺さった。


 連絡先を知る術はなかった。当時は携帯もなかったし、学校に来ればいつでも会えたから知る必要もなかった。一応依願退職という形にはなっていたものの、不祥事で辞めた者の連絡先が名簿に残されることはない。誰に聞いても教えてもらえることはなかった。そしてそれきり。







「ねぇ聞いてよ、今日颯太ったらね……」


 妻は短大を卒業し、二十歳で僕の働いている会社に就職した。


――村岡さんは、大人っぽくて素敵です。


――そりゃあ、君よりは大人だからね。


 まだ成人したばかりの彼女は、子供っぽさが抜けきれていない危なっかしい女の子だった。


 部で企画される飲み会や取引先との親睦会、アルコールに飲まれた彼女の面倒を看るのはいつの間にか僕の役目になっていた。酔った彼女はいつでも僕の側にベッタリだったからだ。


 ストレートな愛情表現。あの頃の僕とだぶった。あの人と一緒にいた頃の僕と。


 彼女と僕のように、何の障害もなくあの人と出会っていたなら、今隣に座って笑いかけてくる相手は違っていたのだろうかと考え、僕はまた苦笑する。


「ねー?颯太ったら酷いでしょ。あなたからもちゃんと言ってね」


 子供への愚痴を零していた妻は僕の笑いを自分の意見への肯定だと取ったらしい。こんな単純さを僕は愛している。


 きっとこの幸せは、あの人とでは築けなかっただろうと思う。


 かくれんぼをしているようなスリルはいつでもどこか片隅にあって、僕とあの人は追い立てられるように愛を交わした。もしそれがなかったなら、僕らはそんなに夢中になれたのだろうか。


 なびくカーテンにくるまって。ピアノが奏でる曲に併せて。マウスピースを指で弄びながら。誰にも見つからない秘密の場所を探して交わしたあのキスには背徳の味がした。急かす感情は燃え上がるにも勢い良く、冷めて燻るにも呆気ない。


 こんな風に深い愛情を持つには、僕は子供過ぎたのだろう。感情の嵐に翻弄されスリルに酔い、それを愛情だと誤解した。あの人はきっとそれを分かっていた。だから連絡先も知らせず、ひっそりと僕の元を去ったのだ。


「ねぇ、明日お休みでしょ。久し振りに遠出しない? 颯太と凛、あなたと遊べるの楽しみにしてたのよ」


 そうだ。明日は久し振りに取れた休み。遠出も良いけれど、でもたまには。


「近所の公園でかくれんぼもいいんじゃない?」


「えー、かくれんぼ? せっかくピクニックしようと思ってお弁当の材料も買って来たのよ」


 妻の不満げな声に何度目かの苦笑が出る。すると彼女は頬を膨らませ、拗ねた素振りを見せる。


「そうか、ごめん。じゃあ森林公園にでも行こうか」


「ほんと?」


 直ぐに満面の笑みに変わった彼女に、今度は苦笑ではない笑みが漏れた。


「また笑う。どうせ私の言うこと子供っぽいって馬鹿にしているのね」


 再び拗ね、今度は口を尖らせる妻に僕は正直な気持ちを伝える。


「違うよ。素直で可愛いなと思っているのさ」


「嘘。どうせ子供っぽいわよーだ」


 僕の言うことがどうやらお気に召さないらしい妻の頭を引き寄せ額に軽いキスを落とすと、彼女は機嫌を直したようで照れたように笑いながら「大好き」と抱きついてくる。


「颯太達が来たらどうするの。まだ起きてるんでしょう」


「いいじゃない。パパとママはラブラブなのよって言うわ」


 おいおい、と心の中でぼやきながらも僕は心地良い温もりにされるがまま、目を閉じる。





 あの時、あの人もこんな気持ちを抱きながら僕に体を預けていたのかも知れないなんてぼんやりと考えて、でも、もう思い返すのは止めにした。




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