人と食事と巨大生物。それと便座カバー

白井直生

人と食事と巨大生物。それと便座カバー

 便座カバーってのはいいものだ。何しろケツは冷えないし、座り心地が良くなる。汚れたら外して洗えばいい。

 今時のトイレは大体便座にヒーターがついているが、あれは電気代を食う。それに、個人的にはあの生暖かさがあまり好きじゃあない。


 アイツに何度か「ヒーターつきの便座に変えて」とは言われたが、そんなのはごめんだった。まったく、新しいものが好きな女だ。昔からそうだ。正直、俺はそれが気に食わなかった。


 さて。そんなことをウダウダと考えているのは、俺が小一時間ほどその便座カバーにケツを晒しているからだった。

 何度目かとなる後悔の言葉を、俺はため息と共に吐き出した。


「あんなもの、食わなきゃよかったな……」


 後悔先に立たず、ってのはよく言ったもんだ。

 まぁ、こういうことは実はよくある。それは俺の趣味、嗜好のせいなんだが、止めるつもりは毛頭なかった。


 何しろソイツは、他では快楽なのだ。

 趣味と実益を兼ねてるし、時々腹を壊すくらいのリスクは屁でもない。まぁ、屁どころか便を垂れ流す羽目になっているが。


 治まらない腹痛に悶絶しながら、ふと目に留まったのは一輪の花。

 トイレの片隅に飾られた、真っ赤なバラだ。もらったものの自室に飾る気には全くなれなくて、窓のないトイレに少しでも清涼感がもたらされるならよかろう、という投げやりな理由で置いてある。

 定番の真っ赤なソレに当てられた花言葉は、たしか――


****************


「次は、いつ帰ってくるの?」


 重たいリュックサックを背負い玄関で靴を履いた俺に、アイツがそう訊ねてきた。


「いつもどおりだな」

「はいはい。帰れるときに連絡入れてちょうだいね」

「ああ、わかった」


 慣れ親しんだやり取りだ。仕事の期間はいつも未定、最低一週間はかかるから、必然的にこのやり取りしか起こらない。それでも毎回確認するのは、一体何故なのか。


「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい。気を付けてね」


 俺は特段の感動もなく、いつもどおりの挨拶を投げて外に出た。


 玄関を出た俺を出迎えるのは、無機質なコンクリートに囲まれただだっ広い通路だ。じめっと不愉快な湿気が俺にまとわりついてくる。

 等間隔に配置された照明は朝の光を再現しているという話だが、やはり自然の太陽と比べるとどこか物足りない。

 人工太陽を作るなんてプロジェクトも動いているらしいが、果たしてそれが実現するのはいつになることやら。


 ――そう、ここには陽の光が届かないのだ。

 いや、『ここにも』と言った方が正確か。今や人類は、自由に太陽の下を歩けない。


 ほぼ全人類が地下に移住してから、かれこれ十五年。

 急ピッチで造られた巨大地下シェルターは、継ぎ足しに次ぐ継ぎ足しで複雑怪奇な迷路のように張り巡らされている。


 しかし住めば都とはよく言ったもので、慣れきった今では目を瞑ってでも歩ける。特にいつもの通勤路とくれば尚更だ。


「おはようございます」


 目的地に辿り着き、俺はいつもどおりの挨拶を交わす。


「ああ、おはよう。こっちはもういつでも行けるが、どうする?」


 そう問いかけながら整備士が顎で示したのはヘリコプターだ。

 今からこれに乗って『職場』に向かう訳だが――


「では、すぐ行きましょう」

「相変わらず仕事人間だねぇ。この先一週間は地に足の付かない生活だってのに、それも単独で」


 即決した俺に、整備士は感心した声を上げる。


 それは大いに間違っている。仕事そのものが好きな訳ではない。

 とは言えわざわざ訂正はせず、「慣れてますから」と当たり障りのない言葉を返す。


「こちら三〇七番機、これより地上へ離陸する」

『こちらコントロール、了解。付近に”ノア”の反応なし、安全確認ヨシ。ハッチオープン』


 狭い機内に乗り込むと、そんなやり取りが聞こえてきた。

 ヘリの壁に寄りかかって見上げれば、俺たちの上に覆い被さっていた天井が二つに割れ、円形の穴へと姿を変えていく。


 その穴から覗く青空を見上げ、どんどん大きくなるヘリのローター音を聞きながら、俺はこれから向かう先に思いを馳せた。


 ――俺たちからこの空を、地上を奪った、その元凶に。


****************


 眼下に広がるのは、うっそうと茂る森林。

 樹齢何百年を迎えたのか、という巨木たちがその身を寄せ合い、時には絡み合いながら、我先にと太陽へその枝を伸ばしている。

 一体どこまで育つ気なのやら。成長期が長過ぎだろう。


「いつも見ても不思議ですよね。たった二十年でここまで変わるなんて」


 パイロットにそう話しかけられ、俺は改めて視線を走らせる。

 うっそうと茂る森林――その隙間から僅かに見える、コンクリートやアスファルトの名残。


「ここが東京だったなんて、未だに信じられません」

「『ノア』の排泄物は植物の成長を異常促進させますから」


 そんなうんちく――俺の職業からすれば常識――を語っている間に、その実物が視界に入った。


「相変わらず意味の分からない大きさですね……一体どうやってこんなモノが生まれてきたんだか」


 パイロットがそう漏らすとおり――それは余りにも巨大だった。

 こそが、俺たちを地中に潜るミミズのような生活に追いやった存在だ。


 ありのままにその外見を言い表すなら、直径一㎞のマシュマロ。真っ白でフワフワな、重力で少し潰れた球体。

 だがもちろんマシュマロではない。それはれっきとした、紛れもない生物。


 そう、巨大生物なのだ。


「地球の防衛機構とか神の救いの手とか……いろいろな説はありますがね」


 その発生についてはようとして知れない。今から二十年前、突然に世界各地で湧いて出たのだ。しかも大量に。

 当然世間は大パニック、やれUMAユーマETイーティーだと騒がれ、ロシアだかの軍隊が早々に排除を試みたが、殺した瞬間に死骸が腐ってえげつない災害をもたらしたらしい。


 動きこそ緩慢なものの、その巨大さ故に生きているだけで邪魔。さらに大きな口を持っていて、そこに入るものは全て食べ散らかすという無類の大食漢。そのうえ殺せば大災害という三重苦。


 正に煮ても焼いても食えないといったところだったが、どこかの頭のおかしい誰かがとある事実に気がつき状況は一変した。


 ――コイツ、煮ても焼いても、何なら生でも食えるぞ、と。


 そう、巨大生物は食えた。何なら美味かった。化学的に分析したら、完全栄養食ですらあった。

 つまり、人類はコイツの肉で食いつないでいけるのだ。


 人類を狭い地中に追いやりはするが、種としての存続は許す。文明を全て食い尽くすが、代わりに緑豊かな土地へ作り変える。

 その性質から、コイツらはかの有名な神話になぞらえて『ノア』と名付けられた。


「では、行ってきます」

「了解です、お気を付けて」


 俺はパイロットにそう告げて、ザイルの準備を始めた。

 手すりに括り付けるとスリングの座席を作り、降下の準備を整える。この作業も慣れたものだ。


 ドアが開くと、勢いよく空中に飛び出した。

 真下には『ノア』の白い巨体。みるみる近付くそれにぶつかる直前で、ザイルを握りしめて減速。危なげなく着地する。


「さて……」


 長い仕事の始まりだ。


*************


 俺の仕事は医者だ。一応、獣医ってことでいいのか。


 『ノア』が食えるということに気が付いた人類は、方針を変えた。コイツらを排除するのではなく、上手く利用することにした訳だ。

 どちらかと言うと、利用したってとこか。まあ、共生ってヤツだな。


 やっていることは畜産に近い。『ノア』を育てて肉を食う。

 これだけの巨体なので多少肉を切り取っても死なないし、コイツらは再生能力が高い。永遠に肉を生産する工場みたいなものだ。


 ただし、繁殖方法は今以て不明なので増やすことはできない。だから、今生きている個体をどれだけ長生きさせられるかが鍵になる。


 そこで、俺のような『ノア』専門の医者が生まれた。


「ふう……よし」


 大人一人が辛うじて通れる狭い穴を抜けて広い空間に出た俺は、慎重にそこに降り立つと安堵のため息を吐いた。

 ヘッドライトに照らされたそこは、一面真っ白なトンネル状の空間だ。足元は見た目より固く、畳の上に使い古した布団を敷いたような感触。


 『ノア』の体のメンテナンスは、基本的に内側から行う。それは文字通り、体内に入ってという意味で。

 口から入るともれなく消化されるので、比較的肉の薄い部分に穴を開けて侵入する。


 ヘリコプターの力を借りて数メートルの器具を突き刺し、周囲の肉ごと引き抜いてもらうというかなり荒っぽいやり方だ。

 もっともコイツらのスケール感で言えば、注射を打たれたくらいの傷だろう。特に痛がる様子もないし――そもそもコイツらが意志を見せたことはないが――、引き抜いた肉がそのまま食えるのでこの手段が定着した。


 唯一恐ろしいのはその再生速度で、侵入に時間をかけると再生しきってしまう可能性があるということ。そのまま肉に埋まって帰ってこれなかった奴も中には居る。

 仕事を初めて十余年になるが、俺もこの時ばかりは毎回緊張して事に当たる。


「ま、入りさえすれば後はラクなんだけどな」


 都合の良いことにそこは人間で言う気道に当たる部分で、他の臓器と違い空気で満たされ安定している。

 『ノア』は呼吸をしないのに何故気道があるのか、というのは未だ解明されない謎の一つだが。


 しかしまあ、俺としてはどうでもいいことだ。後はここでしっかり準備をして、じっくりのんびり、中を見て『診察』すればいい。

 そして、


「早速発見、だな」


 『患部』を見つけたら切除、それを延々と繰り返すのみ。専用の探知機があるから、見つけるのは簡単だ。


 どういう訳かコイツらは、放っておくと体の内側が自然に腐る。

 それは徐々に広がっていき、全身を蝕むと例の『大災害』となってしまうのだ。


 それを防ぐために、腐った部分を見つけて切除してやるのが俺たちの仕事。

 切除はメスでなく大振りのナイフで雑に切り取ってやればいいから、医者と言いつつ医療的知識は必要ない。

 どちらかと言えば、体内を動き回って一週間以上彷徨うサバイバル術が必要だ。何しろデカいから、見て回るだけで途方もない時間がかかる。


「よし、切除完了」


 あっさりと本日第一号の『施術』を終え、切り取った患部を銀色のトレーの上に置く。

 そして――


「さて……それじゃあ早速、」


 ここからが、俺の趣味であり嗜好。



 大雑把に切り取った患部の端のほうに、俺はそのまま食らいついた。ガブリと音がたつほど勢いよく、豪快に肉片を食いちぎる。


 口の中に広がるのは、得も言われぬ快楽。甘味、塩味、苦味が複雑に絡み合った濃厚な味が、舌を介して俺の脳を殴りつける。

 暴力的なまでの旨味。最初にコイツを食おうと思った大馬鹿野郎に、俺は敬意を表したい。


「さて……残りは流石に焼くか」


 端のほうの比較的腐敗の浅い部分を食べ終わると、俺は口元をぐいと拭う。


 そして手早くカセットコンロを用意し、銀色のトレーごと残りの肉を火にかけた。

 じゅうじゅうと耳を楽しませる音が聞こえ、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻腔を満たす。口の中には自然と唾液が溜まった。


 俺たちは、体内で『ノア』を食うことが許されている。何しろ生でも食える完全栄養食。長丁場になる仕事において、手軽にエネルギーを補給する手段なのだから当然だ。


 だが、他の奴らは分かっちゃいない。普通にそこらへんの肉を切り取って、「取れたての新鮮な肉だ」と喜んで食う奴ばかりだ。本当に分かっちゃいない。


「大体のもんは、腐りかけが一番美味いんだよ」


 火を通せば、腹を壊す心配もぐっと減るしな。

 焼き上がった肉を口に入れると、生とは違う食感がまた俺を楽しませる。外はカリッと、中はジュワッと。喉に落ちる肉汁が腹の底からの満足感に変わる。


「ふぅ……」


 あっという間に切り取った患部を食べきった俺は、心地いい倦怠感に身を委ねた。

 その場にだらしなく座り込み、食事の余韻に浸る。


「こんな美味いもんを知らねぇなんて、可哀想な奴らだ。ま、自業自得だけどな」


 食の好みには、ソイツの人間性が表れるもんだ。納豆が嫌いな奴は大体ケツの穴が小さいし、塩辛が嫌いな奴は話の分からねぇガキばっかりだ。


 それと、無闇矢鱈に新鮮さをありがたがる奴。ああいう奴らは、物事を深く考えることをしない。

 ――まあ、アイツがそうなんだが。


「ま、どうでもいいけどな」


 嫁はちょっと馬鹿なくらいがいい、って話もある。何よりアイツは美人だ。


「……さて、仕事だ仕事」


 別に不満はない――今のところ。そんなことより、目先の仕事はまだまだ始まったばかりだ。

 下らない考えを投げ捨てて、俺は探知機を取り出した。


****************


 結局今回の仕事は、二週間の長丁場だった。


「お疲れ様でした。今回は長かったですね」

「ありがとうございます。腐敗が思ったより進んでまして。でも、あらかた切除できたはずです」


 迎えのヘリに回収され、そんな会話を交わす。

 さて、アイツに帰りの連絡を入れるか――と、スマホを取り出したところで。


「どうかされましたか?」


 ふとした考えが頭をよぎった。『一体何故なのか』、という。


「いえ、別に」


 パイロットにそう返し、俺はそのままスマホをしまった。


 地下シェルターに戻ると、俺は黙々と自宅に向かって歩いた。

 頭をよぎった考えは消えず、俺の中でどんどん膨らむ。


 ――食の好みには、ソイツの人間性が表れるもんだ。


 自宅の見える角まで来て、俺は立ち止まった。そこから見た自宅のドアは、ちょうど開いていて。

 なんてタイミングだ、と思わず笑いそうになった。


 見つけたのは、笑顔でアイツと会話を交わし、歩き去る若い男の姿。

 見覚えはない。少なくとも、俺の記憶にはない。


 ――無闇矢鱈に新鮮さをありがたがる奴。


 新しいものが好きなアイツのことだ。それは十分にあり得ることだった。

 俺の考えが、一つの結論として像を結んだ。


「ただいま」

「え!? お、おかえり。びっくりした……もう、帰るなら連絡してって言ったでしょ。お風呂、入れてないよ」

「……ああ、忘れてた。今回は特に長かったから、疲れてて」

「そう……おつかれさま。すぐに入れるから」

「ああ」


 目に留まったのは、下駄箱の上に飾られた真っ赤な花。


「これは?」

「……ああ、あなたへのプレゼント。誕生日だったでしょ?」

「ああ、そう言えば……」


 それは間違っていない。二週間の間に過ぎてはいたが。

 ……信じるかどうかは、また別の話だ。俺は思わず口角を吊り上げた。


 さて、この女。


****************


 真っ赤な花を恨めしげに睨みつけ、思い出す。

 バラの花言葉――「あなたを愛しています」、だったか。よくもまあ。


 未だ治まらない便意に、俺は深くため息を吐いた。

 今日ほど便座カバーがありがたかった日もない。座り心地が良いのが、せめてもの救いだ。


 腹の中で猛威を振るってくる肉。

 きっとそれは、腐りかけなんてもんじゃなく――


「結局、もう腐ってたって話だな」


 ま、美味かったんだけど。


――END――

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