第170話 鬼、魔の一分間を託さんとす。

 その瞬間、何が起きたのかは茨木桐子には分からなかった。


 だが、その場で思考を止めて足を止めなかったのは僥倖だったのだろう。


 大竹丸の分身たちが一瞬で起きた異変に足を止めた瞬間に、神が闘技場の砂を踏む。踏んだ砂が瞬間的に鮮やかな煌めきを放って舞い上がったかと思うと、その場で連なり複数の糸が現れる。


 三面六臂の神は持っていた得物を簡単に放り捨てると、それぞれの腕で糸を掴み、それを周囲に向かって一斉に振るっていた。


 周囲にバラバラに広がって伸びる細い線は実に避けにくく、不規則に動き、まるで生き物のように周囲に居た大竹丸の分身に襲い掛かる。


 そこで、動きを止めた者と止めなかった者の明暗が別れる。


 大竹丸の分身たちは不規則な軌道で迫る糸に咄嗟に対応しきれず、切断される者が続出。


 切断された大竹丸の分身は、血を噴出させて死体となった瞬間に、それが幻であったかのように姿を消す。


 一方の茨木は的を絞らせなかったのが良かったのか、姿勢を低くして速度を上げる事で追い縋る糸の攻撃をギリギリで躱す。


 少しでも足を止めていたら、胴体と泣き別れになっていたかと思うと、ぞっとしない思いの茨木である。


(何て攻撃だよ。自称、神を名乗るだけはあるねぇ)


 近付くのも躊躇わせる程の力を見せた神を前にして、茨木が次にどう攻めようかと攻めあぐねていたところで、神の動きが止まる。


「何人か、消えたな」


 神の言葉に素早く視線を巡らせる茨木は、共に戦っていたはずの味方の姿が無い事に戦慄する。


(裏切られた?)


 一瞬、そんな思いが脳裏を過るが、彼女が敬愛する天堂寺という男はそこまでケツの穴の小さい男ではない事を思い返し、心が折れそうになるのを防ぐ。


(いなくなったのは、天堂寺くんと、大嶽丸、あとは葛葉ちゃんか)


 その三人に共通する点は、いずれも強い神通力を持つ者だという事だ。


 茨木も鬼の中では強い神通力を有する方ではあるが、あの三人と比べると格が一段落ちる。


 とはいえ、だ。


 茨木の特徴は神通力の強さではない。


 彼女の武器は、天堂寺や大竹丸には無い部分にある。


 それは、頭の回転の早さだ。


(葛葉ちゃんは分からないけど、天堂寺くんや大竹丸はこの場から逃げ出すような性格をしていないんだよね。だったら、何らかのアクシデントか、事故にでも巻き込まれたか? 此処で神と正面切って、ボクだけで戦って何とかなるものかね? ふむ、答えはノーだ。だったらどうする?)


 神の動きを見据えながら、茨木は心の中で即座に結論を下す。


(よし、逃げよう)


 この場から逃げてしまえば、待っているのは人類の滅亡なのだが、茨木一人ではどうしようもない事態である事も彼女は理解していた。


 だからこそ、敵前逃亡を即座に選択できたのである。


 とはいえ、神を倒す事を諦めたわけではない。


(最悪、やすなちゃんと合流出来れば、まだ対抗出来る。とにかく、神は一人で戦う相手じゃない。此処は逃げの一手だよ)


 茨木がそう考えた直後、神の一対の視線が茨木を捉える。


「逃げる気かね?」


 ぞくり、と茨木の背が震える。


 まるで茨木の行動が全て見透かされたような言葉に、思考を読まれている――そう感じたからだ。


 いや、違う。


 茨木は寸での所でその考えを打ち払う。


 彼女の体は思考に追随するように、ほんの僅かではあるが重心が後ろに掛かっていた。その重心の移動を見て、神は茨木に攻撃する意思が無いと考えたのだろう。


 攻撃しないのであれば、どうするのかといえば、後は逃げるぐらいしか選択肢がない。


 だから、神は茨木の行動を言い当てたのではないか。そう彼女は推察する。


「ボクの考えが読めるのかい?」


 だが、茨木はあえて、そう神に尋ねる。


 尋ねた理由は二つ。


 もしかしたら、神は本当に人間の思考を読む事が出来るのではないのかと思ったのと、神がこの質問にどう返すのかに興味があったからだ。


 ちなみに、茨木は前者については『無い』と考えている。


 何故なら、人の思考を読む事が出来るのであれば、自分たちとの決着はもっと早くについているはずだからだ。


 神の攻撃は強烈無比。


 相手の思考を読んで、避ける方向が分かっているのであれば、その攻撃を造作もなく当てる事も出来るだろう。


 だが、事はそこまで簡単に進んでいない。


 だから、茨木は神に人の思考は読めないと判断していた。


 そして、神は興が乗ったのか茨木の質問に答える。


「人間の思考を読めると言ったらどうするね?」


 あえて、肯定でも否定でもなく、相手に答えを預ける形の回答に、茨木は見下されていると感じた。


 そこから受ける印象は傲慢で自信家。


 だが、それを裏付けるだけの実力があると、散々に分からされてもいる。


 神には、油断も隙もある。


 だが、そこを例え突いたとしてもひっくり返せないだけの力がある――そう、茨木は分析する。


 それだけに、彼女は正攻法では通じないと考えていた。


 何か、この場を逃げ出すためにも良い方法は無いかと、思考を巡らせながら神との会話を続ける。


「それは嘘だね」


「どうして、そう思う」


「今のボクの思考が読めているなら、君はきっと怒りだすだろうからだよ」


 傲慢な自信家と揶揄されて、笑って流すような度量を神には感じない。


 だからこその言葉であったが、神は何を勘違いしたのか「はっはっは」と楽し気に笑う。


「なるほど。簡単に証明する手段があったか。はっはっは」


「楽しそうだね」


「何だ。楽しくないのか?」


「楽しいわけがあると思う? こんな命の掛かった場面でさ?」


「気の持ちようの違いだな。多くの人類は、自分たちのこれからの未来が知らない所で決しようとしているのだ。だが、君はその場面に丁度居合わせている。それは凄く幸運な事だし、光栄な事だとは思わないかね」


「見解の相違だね。ボクには早く死ぬのか、遅く死ぬのかの違いにしか思えない」


「そうか。分かってもらえるかと思ったが、残念だ」


 次の瞬間、神の視線が茨木の脚へと向かう。


 そして、一瞬で睨まれた空間が歪曲したかと思うと、ぼきりっと乾いた音が響いて茨木の左脚はあらぬ方向へと捻じ曲げられていた。


「あ――ぐあああぁぁぁぁぁっ!」


「ふむ、逃げられてしまっては面白くないのでな。脚を折らせてもらった。これで、自慢のスピードも出せまい」


「う、ぐぅぅぅぅぅ……!」


 押し寄せる激痛に脚を抱える茨木だが、その行動が更に痛みを悪化させ、彼女の喉からくぐもった悲鳴を響かせる。


 神は、そんな茨木の悲鳴を心地の良い音楽か何かのように聞きながら、ゆっくりと茨木に向けて歩を進めてくる。


「さぁ、この極限の状況で輝く逆転の一手を打ってみせよ。そして、私に示してみせよ。完璧な私にすら想像もつかない真理の綻びを覗かせてくれたまえよ!」


 そんな逆転の一手があれば、とっくに使っている。


 茨木はそう口に出したかったが、食い縛った歯の隙間から漏れ出るのは骨折した足の痛みによる苦悶の声だけだ。


 そんな茨木の髪を掴み、神が彼女の体を片手で持ち上げる。


 そこに隙を見出したのか、残っていた大竹丸の分身が一斉に神に斬り掛かるが、神は三面六臂の利を活かし、襲い掛かって来た大竹丸の分身たちを即座に斬り捨てる。


 結果、闘技場に残るのは脚を折られて呻く茨木と、ダメージが抜けずに倒れたままのアスカという状態になってしまった。


 神はその状態を見て、嘆かわしいとばかりに首を振る。


「ふむ。先程までは賑やかだったのに、随分と静かになってしまったものだな。さて、私はこの状況を絶望的だと思うのだが、君はどう思うかね?」


 次の瞬間、茨木の目が大きく見開く。


 一瞬の早業で自分のスカートの裾から苦無を取り出すと、掴まれている自分の髪の毛を切り捨て、そのまま自由落下に身を任せつつ、苦無を神に向かって投げつける。


 超至近距離の苦無投げ。


 機動力を削がれた茨木が脚の痛みを堪えながらも、考え抜いた最後の攻撃手段だ。


 自分から近付く事が出来ないなら、相手に近付かせる。


 そういう策であった。


 だが、


「狙いは悪く無いが、直線的に過ぎる」


 神はその攻撃すらも無駄だとばかりに、たったひと睨みで苦無の軌道を捻じ曲げて闘技場の地面へと突き落とす。


(これでも、届かないのか……)


 茨木の顔が絶望に染まる中、神がどこか悟ったような笑みを浮かべ――……その顔が唐突に歪む。


 神の顔を歪めたのは、空間から飛び出た一本の腕。


 その先に固められた拳が神の頬を衝撃に歪め、その勢いのままに神の体を闘技場の砂の上へと勢い良く転がす。


 何が起こったのかと目を見開く茨木を前にして、空間が割れるようにして裂け目が広がり、そこから一人の青年が闘技場の砂を踏んでいた。


「おう、悪いな、茨木。遅くなった」


 伸び放題の髪に無精髭だらけの顔。それなりに伸びた身長に黒い胴着のような物を身に付けた、山篭もりでもしてきたかのような武闘家のような風貌。


 茨木には、その男に見覚えが無かったが、その声には聞き覚えがある。


 だから、彼女は安心したように相好を崩す。


「……遅いよ、天堂寺くん。もう少しで死ぬところだったんだからね?」


「そりゃ、済まなかった。けど、もう安心して良いぜ。ここからは、俺たちが受け持つ」


「俺たち……?」


 茨木の言葉に答えるようにして、次元の割れ目からゆっくりと出てくるのは、肩にジャージを引っ掛けるようにして悠然と歩み出てきた運動服姿の黒髪の美女だ。


 彼女は両手で印を切りながら、声が何重にもブレて聞こえる発声を行いつつ、ニヤリと笑う。


「さて、それでは第三ラウンドといくかのう? 今度の妾たちはちぃっと手強いぞ。……封神結界起動!」


 そう言って黒髪の美女――大竹丸は自信ありげに術を起動するのであった。

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