第122話 決戦桜島ダンジョン!⑭

 ぬらりひょん――。


 創作物の中では妖怪たちの総大将として扱われることの多い妖怪だが、それは間違いである。


 蛸のような巨大な頭部を持ち、和装をしていることで知られている件の妖怪は、その風貌と人を小馬鹿にした悪戯をすることから、悪行を企む悪の親玉としての役割を与えられることが多いのである。


 そもそも、日本三大妖怪といえば、酒呑童子しゅてんどうじ玉藻前たまものまえ大嶽丸おおたけまる(もしくは、鬼、天狗、河童)であり、そこにぬらりひょんの名前はひとつも出てこない。


 では、ぬらりひょんは大したことのない妖怪なのか――というと、意外とそうでもなかったりする。


「くっ……! 当たらない……! 何故!? ……ゲホゲホッ!」


「ヒョホホホ」


 景が振るう大鎌がぬらりひょんに当たるかと思った寸前で、ぬらりひょんはその鎌の一閃を上半身を反らすだけでひょいと躱す。その体を目掛けて鎌の刃が空中で翻り、更にぬらりひょんの体を捉えようとその切っ先が振り下ろされるが、スカンッと軽い音を立てて橋のアスファルトを穿つだけで、ぬらりひょんの体には届かない。


 景の凶刃を軽い様子で避けたぬらりひょんは急ぐこともないとばかりに、ゆったりとした歩みで景に無防備に近付いてくる。


 それを危険だと感じた景が素早く後ろに下がるが、その瞬間を待っていたとばかりにぬらりひょんが刹那で加速していた。その速度に景の顔が驚きに歪む。何という緩急の付け方の上手さだと思った次の瞬間には、ぬらりひょんに懐に入られてしまう。


「ホイ、とな」


「ゴッ――……ブッ!?」


 下がる景に追いついたぬらりひょんが、避けることも躱すことも無理なタイミングで景の腹を打つ。水の入った袋を捩じったようなみちみちぃっといった異音が響き、景は思わず喉の奥から込み上げてきた血と吐瀉物の塊を口腔の外へと吐き出していた。


「脆い。脆いのう、人間は」


「が、がはっ……ゲホゲホ……!」


 血反吐を路面へと吐き出しながら、景は震える腕で自分の脇腹にある緑色の光点を強く押し込む。それだけで痛みが引き、グチャグチャになったであろう臓腑が辛うじて息を吹き返したようだ。腹の奥でちくちくとした痛みが後を引くものの、景は口内に残る血を勢いよく吐き出しながら、大鎌を片手に立ち上がる。


「はぁ、はぁ……」


「ほう、立ち上がるか。じゃが、まぁ、立ち上がったところでどうにもなるまい」


 ぬらりひょんがその辺を散歩するかのような遅い歩みで景に向かって近付いてくる。その動きを見た景が腹の痛みを堪えながら、最速最短の軌道で鎌を振り下ろす。


 だが、その鎌の先端をぬらりひょんは何事もないかのように、ぬらりと躱し、景の懐へと入ってくる。


「いかんのう。若者よ、儂はぬらりひょんぞ。


 ぬらりひょんの妖怪としての特徴は、決して捉えることが出来ないという点にある。捕まえようとしてもぬらりくらりと躱して、攻撃全てが無力化してしまうのだ。即ち、防御においては妖怪の中でも最強――。


 ぬらりひょんとはそういう存在なのだ。


 対して、如月景は一撃必殺を体現する存在である。当たれば、相手は確実に切断されるだろうが、その攻撃が当たらないのであれば話は別である。


「ひょほほ、躱さねば死ぬぞ?」


「ぐっ……!?」


 痛みが足を引っ張る中で、景は慌ててぬらりひょんの拳を躱す。ぬらりひょんの攻撃自体は大したものではない。近付いてきて拳を打つ――それだけだ。躱すことも難しいことではないだろう。


 だが、その拳は人の身で受けるにはあまりに重かった。


 景は必死になってぬらりひょんの攻撃を躱しながら反撃を試みるが、絶対に当たるタイミングで放った攻撃もぬらりひょんには当たらない。ぬらりくらりと、まるで体の中に骨が無いかのような自由な動きで景の攻撃を躱す。


「それ、隙ありじゃ」


「ぼぐっ……!?」


 ゆっくりと動いていたぬらりひょんが突如として上げた速度についていけずに、景は腰に拳を受けてしまう。腰椎がびきりと音を立てて軋み、景の体が浮き上がって吹き飛ぶ。声も出せない痛みが景を襲う中、背中が激しく地面を叩く衝撃だけが景の意識を繋ぎとめる役割を果たしていた。


「うぐぐ……」


 痛みに耐えながら、景は腰にある緑の光点を強く押す。


 だが、甚大なダメージを受けた為か、痛みはすぐには引かない。景は荒い息を吐き出しながら、自分はこんなところで何をしているのだろうと茫洋と考えてしまっていた。引かない痛みから思わず現実逃避したくなる気持ちが押し寄せてきたのだろう。言う事を聞かない体を無理矢理駆使しながら、それでも立ち上がろうと足掻く。


(何で、俺はこんなところでこんな……。何で公認探索者なんて続けてるんだ……? こんな事続けていれば、死んだっておかしくない……。それは分かっていただろう……?)


 立ち上がろうと藻掻き、膝立ちになる景の目の前に、待ち構えていたらしいぬらりひょんが笑顔を見せて立っていた。その拳が固く握られている。


「ようやく殴り易い高さになってくれたわい」


 そして、その拳を景の顔面に向けて放つ。


 それを本能的な恐怖を感じて首を回して、頬で受ける景。


 景の体が浮き、その体が二メートルの高さにまで飛んで、橋の上へと叩き付けられていた。景の頬は紫に腫れ上がり、眦には涙が浮かぶ。


 痛いという思いは強い。


 悔しいという思いも浮かぶ。


 だが、それよりも何でという思いが強い。


(何で、俺は戦っているんだろう……?)


 それは生死を前にして、景の脳裏に思い浮かんだ根源的な問題だったのかもしれない。ある者は金の為、またある者は戦うのが好きだから、またある者はダンジョンを攻略するという使命感――彼らは彼らなりの戦う理由がある。


 だが、景にはそれがない。


 自分が特殊な力を持っていたから、その力に悩んでいたから、そんな理由に踊らされるようにして、自分の意志とは関係ない部分で戦いの中に身を投じていた。そんな覚悟の軽さが土壇場になって、彼に軽い混乱をもたらしていた。死の恐怖に抗うだけの強さが彼の芯にはなかったのだ。


(戦うのが好きなわけじゃない……。血を見るのが好きなわけじゃない……。でも、相手を斬ることができるから、それが人の役に立つから……)


 だから、公認探索者を引き受けて続けていた。


 だが、それは本当に景自身の意志だったのだろうか?


 大学では無理矢理にダンジョン攻略を付き合わされ、その後は敷かれたレールに乗るが如く、とんとん拍子に話が進んで行き、今はこうして死に掛けている。


 そこに果たして如月景という意志は存在していたのだろうか?


「終わりじゃ、小僧」


 小柄な足を振り上げ、ぬらりひょんがニタリと嗤うのが見える。それを整理のつかない表情で見上げながら、景はあの足が自分の頭に振り下ろされたのなら、流石に死ぬんじゃないかと、どこか他人事のように考えていた。


 意識が朦朧とし、自分の体の痛みも、自分のおかれた状況も、どこか遠い世界の中の話のように感じる中で、景の意識はゆっくりと深い闇の中に落ちていこうとする。


 だが、絶望の暗闇が彼の意識を包み込むよりも早く、一陣の風が景の耳元でそよぐ。


『景、死んじゃ嫌だ……!』


 それは耳鳴りではない。聞き違いでもないだろう。


 神の力を借りた超常的な力が景に彼女の言葉を届けたのだ。


 その瞬間、景の脳裏にアミの泣き顔が刹那でフラッシュバックする。


 朦朧とした意識が正常へと立ち戻り、ぶれていた目の焦点が定まる――。


 そして、景は力いっぱい振り下ろされるぬらりひょんの足の裏に向けて、力なく中指を向けていた。


 それは、体中が痛みで悲鳴を上げる中で、景に出来る精一杯の抵抗。


 ぬらりひょんはそんな景の行動など歯牙にもかけずに、その足を思い切り振り下ろす。


「ギャアアアアァァァァァ!」


 だが、その直後に悲鳴を上げたのは、足を振り下ろしたはずのぬらりひょんであった。彼の足の甲は景の頭蓋を割るよりも早く、景の指先によって指先大の穴を開けられ、その傷口から血が飛び散る。ぬらりひょんは突如として自分を襲った激痛に悶え、慌てて景から距離を離す。その顔は語るべくもなく、憤怒に彩られる。


「小僧、お主……! 良くも……!」


「思い出した。北海道旅行の時のことを……」


 景は自身の体の所々に輝く緑の光点を見つけては押して、何とか自分の体を動かせるようにしていく。その景の手の中指の爪だけが丁寧にヤスリがけされており、鋭い――まるで刃物のような――爪となっている。ぬらりひょんの足に穴を開けたのは、あの爪だろう。


「俺はこの力を使って人の為になりたいって考えていたんだ……。だけど、それは漠然とそうなりたいって思っていただけで、実際にどういうことをすれば良いのか、良く分からなかった……」


 それは子供の頃の将来の夢に良く似ている。


 漠然と宇宙飛行士になりたい、ヒーローになりたい、科学者になりたい、アイドルになりたいと憧れることはあっても、具体的にはどうすれば良いのか。そういったビジョンを持っている者は少なかった。そして、恐らく景もそういう漠然とした希望だけを抱いて、今までを過ごしてきたのだろう。


 だから、追い込まれた時に縋る者もなく、憤ることもなく、絶望することもなく、ただただ混乱してしまったのだ。


 無様な自分の様子に景ははっきりとした頭で思わず苦笑いを浮かべる。


「じゃあ、結局何がやりたいのか。何をやればいいのか。それをはっきりと定めるべきだったんだ。そして、それは単純な方が分かりやすいし、強い。特に、俺が単純だからそっちの方が合うと思うんだ……」


「何を言うておるのか、良く分からんぞ? 血迷ったか?」


「簡単なことさ。俺は死なないことにしたってことだよ。人に迷惑を掛けたくないんでね……」


 ぺっ、と血の色しかない唾液を吐き出しながら、景は転がっていた自身の大鎌を拾い上げる。大鎌は先程から血を吸えていないことに怒っているのか、どことなく不機嫌そうにも景の目には映った。そんな大鎌を宥めるようにして、軽く振るう。


「出来ぬことは言うものではないぞ、小僧。そのボロボロの体で今更何が出来る?」


「貴方の足の裏に穴を開けるくらいは。でも、そのおかげで分かったこともあるね。そう、アンタの防御は決して無敵なんかじゃないってことだ……」


 ぬらりくらりとまるで物体が当たらないぬらりひょんではあるが、その実、彼自身がずっと物体と接触している部分がある。


 足の裏である。


 その部分だけは、ぬらりとしていてはきちんと立てなくなるため、普通に攻撃が通ったのだろう。だから、景の中指に用意されていた刃物のように磨かれた爪によって穴を開けられてしまったのだ。それを景は理解していた。


「アンタの弱点はずばり、足の裏だ。どうだい、当たっているだろう?」


「それが分かったところで、だからどうしたといったところじゃのう。弱点をわざわざ晒す阿呆なんぞおらんじゃろ。儂がお主の目の前に足の裏を向ける間抜けか? そもそも、それが分かったのであれば、ますます警戒して足裏をお主に晒すことなぞあり得んて」


 ぬらりひょんが余裕の笑みを浮かべる中、今度は景がゆっくりと歩みを進める。


 一瞬、虚を突かれたぬらりひょんであったが、彼も笑みを深めて景に向かって歩みを進めていく。


 二人の姿が間近に迫り、互いが互いの間合いに入る間際となったところで、景がぽつりと言葉を零していた。


「……転べ」


 瞬間、ぬらりひょんの足が何かに取られ、彼の体が突如として浮き上がる。重い後頭部が災いしたか、その体勢はしっかりと景の目の前に足の裏を晒し出す形となっていた。ぬらりひょんの顔が驚愕に彩られる。


「ま、待て! 小僧! 貴様、人ではないな!?」


「先祖返りの鎌鼬だそうだ。……騙したようで悪いな」


 足の裏に映る稲妻のように伸縮を繰り返す赤い線に、いとも容易く景の大鎌の刃がするりと入っていく。そして、次の瞬間には魚の開きのように両断されるぬらりひょんの体。彼の顔が呆気に取られたかと思った次の瞬間には、光の粒子となり、ぬらりひょんの体は中空へと溶けて消えていた。


「ごふっ……、ごふごふ……」


 肺腑の奥から流れ出てくる血の塊を口外へと吐き出しながら、景は片膝をつく。頭の中をぐるぐると回るような気持ちの悪い痛みが体中を駆け抜けている。痛みが、彼の体を貫いて離さないかのようだ。


「はー……、はぁー……、キッツ……」


 大鎌の柄を杖のように突き、体を預ける姿はとてもではないが勝者の姿には見えない。それでも、景は生き残った。それを密かに喜ぶ。良く勝てたと自分で自分を褒めてやりたいぐらいである。


(い、一応……、死にませんでしたよ、アミさん……)


 そんなことを心の中で報告しながら、景の体がぐらりと揺れる。自分で吐いた血の海の中に倒れ込みながら、景の意識は徐々に薄れていっていた。


 意識を手放す間際に、アミの悲痛な声を聞いた気がしたが、景はゴメンと謝る間もなく、あっという間に意識を闇の中へと沈めるのであった。

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