第107話 越後の昇りリュウ⑨
「はい、到着。あ、なんか踏んだ。……死にたい」
縦割れの目のように割れた空間から、白い手を出して現れたのは一人の少女であった。その少女は空間の裂け目からひょいっと身を乗り出すと、重力に引かれるままに落ちて、肉の鞭を展開していた隆治の頭を踏み潰して着地する。しかも、その少女の体重が思った以上に重かったのか、隆治の首はあらぬ方向に曲がったまま地面に深くめり込んでしまっていた。
そんな隆治の頭を平気で踏みつけて起き上がる少女の背は低い。
少女は低い背を誤魔化すかのように髪をポニーテールにしており、どこを見ているのか分からない薄弱とした瞳で辺りを見回しているようだ。服は首元で紐が交差する前掛けのようなキャミソールにグレーのミニスカートと黒のハイソックスを穿いている。
見た事のない娘だと絶が思っている中で、今度は聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「全く、何をやっとるんじゃ。空間転移は着地に気を付けよとあれほど言っておいたじゃろ? それが言ってるそばから事故を起こすとは……冗談としても笑えん」
そういって、空間の裂け目から現れたのはパッとしない黒のジャージの上下でありながらもやたらと見目麗しい少女であった。こちらの方には見覚えがある。
「一席……?」
「ふむ。久しいの、絶よ」
空間の裂け目からぱっと飛び出た大竹丸はふわりという表現が当てはまる優雅さで地面に着地――。
何でここに日本政府公認探索者第一席である大竹丸がいるのか。そんな疑問を顔に出しながらも、これ以上はない援軍の登場に絶はどこか安堵の気持ちを抱く。
だが、驚愕はそれだけに留まらなかった。
「全く。もう少し多忙かと思っていましたが、雑務は他に任せているから本人はそこそこ暇とは……嘆かわしい限りです」
「……え?」
そう言って空間の裂け目からひょいっと現れたのは沙耶であった。
これには、絶も甘粕も甘粕のパーティーですらも声が出ない。
「あ、あれ? 小島さん、死んだんじゃ……、なかった……、っすか……?」
「……お主、どんな退場の仕方をしたんじゃ?」
蒼褪めた表情と震える指先を甘粕から向けられる沙耶を見て、大竹丸が渋面を作ってみせる。そんな沙耶はどこ吹く風といった様子で、長い前髪で遮って表情を見せない。
「……ん? んん? どういうこと?」
更には絶までもが困惑した表情を見せている。
そんな様子に大竹丸は呆れた表情を向けていた。
「まさか何も説明しておらんのか?」
「悠長に説明している暇がありませんでしたので」
「まぁ、仕方ないのう。妾もこやつを最初に見た時は違和感を覚えるしかなかったからのう。何も知らぬのであれば、当然のように何も分からぬか」
そう。大竹丸が最初に沙耶に抱いた違和感は、何処かで見た事がある気がするであった。
だが、気付いてしまえば、答えは恐ろしく簡単だったのだ。
何処かというのは、毎日の洗面台や湯浴みの時に鏡越しに見ていたのである。
即ち――、
「こやつは、妾の分身体じゃよ」
「「――はい?」」
沙耶が長い前髪で覆っていた顔を見せると、そこには大竹丸と全く同じ顔があった。
★
「……要するに師匠は、百年前に各国の武術を修めさせるために放った、一席の分身ということ?」
未だ納得ができていないといった顔を見せる絶を前に大竹丸は「左様」と頷いてみせる。いやぁ、あの頃は若かったと邂逅する大竹丸であるが、彼女の見た目年齢は絶と大して変わりがないので違和感が凄まじい。
「他にも過去に沢山分身体を放っておってな。こやつには武術の修練を任として与えておった。妾は任を達成したあかつきにはこやつは消失して、妾の中で経験に還元されたであろうと思い込んでいたのじゃが……。どうやら長く妾と離れておると、妾をベースにした別人格へと昇華するようじゃ。そんなわけで、妾の分身体は小島沙耶を名乗り、妾とは違う道を歩んでおった。……じゃが、今回、自分だけではどうにもならない事態へと陥り、妾に経験と記憶を還元することで助けを求めてきたというわけじゃよ」
「……でも、師匠は消えていない?」
「お主との連絡に便利そうじゃしのう。それに、お主も今まで傍にいた者が急にいなくなったら寂しいじゃろう? じゃから、性格部分を還元された沙耶になるようにして改めて分身したのよ」
「感謝する」
「後、今の妾の経験値を上乗せして実力を底上げしておいたからのう。今の沙耶なら相当やれるはずじゃ」
「師匠が前よりも凄くなった?」
「そうですね。今ならあの外道アイドルにも後れを取りませんよ」
「――誰がっ、外道アイドルだぁ!」
隆治が土くれを撒き散らして跳ね起きる。ようやく頸椎損傷の傷から復帰したらしい。彼は怒りに顔を真っ赤に染めながら、得意の肉鞭を素早く繰り出す。一瞬の奇襲であったが、それを瞬間的に
「うっ!?」
先程とは段違いの切れのある動きに、隆治は全くついていけずに声を漏らすのみだ。沙耶は簡単に隆治の懐へと飛び込むと、ぴたりと隆治の胸に拳を翳して
「ひぎゃあ!?」
大樹に茂る葉を全て落とす威力のその一撃は、隆治の胸骨をひしゃげさせ、彼の体を地面と平行に吹き飛ばそうとするが、その体が突如として止まると弧を描いて空中へと舞い上がる。誰もが常識を逸脱した動きに驚く中、一人だけ冷静に指を繰る者がいる。
「面倒臭いことをしないで。帰る時間が遅れる。……はぁ、死にたい」
「なるほど。嬢の仕業か」
先程から一切会話に加わろうとしなかった
土蜘蛛と呼ばれる種の妖怪である嬢は目がほとんど見えない代わりに鋼糸を使って周囲の状況を確認する癖がある。恐らく空間の裂け目を通ってきた時点でここら辺一帯は嬢の
弧を描いて飛んだ隆治の体が地面に強かに打ち付けられる。その衝撃に隆治が動けなくなっているところを、すかさず嬢の鋼糸が拘束し、嬢はクンクンと臭いを嗅ぐ。そして、何かを確信したのかニタリとした笑みを浮かべていた。
「……クヒヒ。確かに大竹丸の分身体の言う通りだね。これは間違いないよ。虫だ」
「虫?」
その言葉に疑問を返す絶に、大竹丸が神通力を用いて大通連を作り出しながら言葉を返す。
「
元々、人間の体のことなのに虫を使う慣用句が多いことが気になった者はいないだろうか?
例えば、虫の知らせ、虫の居所が悪い、腹の虫が収まらない――これらは古くから人体に虫が棲んでいるという考えに由来する。
そして、三尸はその最たるものだ。
頭、腹、足(下半身)の三部位に一匹ずつ潜み、人間を殺そうと病や欲望に走らせようとしているとされる。そうすることで、その虫たちは人間を殺して、その体から脱しようとしているのだ。
隆治が変貌したのは、そんな虫と同じようなものが体内に潜んでいるからだろうと沙耶は看破した……心臓付近の傷の再生の際に普通に見えた……ことで、薬の専門家に伝手がある大竹丸を頼ったというわけである。
「……クヒヒ。随分と特異な奴だ。造るのに凄く手間が掛かったんじゃないかな? でも、残~念~。私の虫下しで終わりだよ。嗚呼、造った奴の悔しがる顔が見れないのが残念で、残念で。……死にたい」
大竹丸に復讐を果たす為にあらゆる毒物を研究してきた毒の専門家は、裏返って薬にも精通している。自分で作った毒を自分で解毒出来なければ危険だし、そもそも嬢は毒だけを作って解毒薬を作らないような片手落ちの仕事をする妖怪ではない。今回もあっさりと症状だけを見て原因を突き止める辺り、腕の良い薬師であることは間違いないのだろう。後はその底辺まで突き抜けているダウナー系の性格さえ改善されれば良いのだが……。
嬢の鋼糸に押さえつけられた隆治はどうにか鋼糸の束縛から逃れようとするが、暴れて糸が食い込む度に動きが鈍っていく。嬢はそんな隆治にチチチと指を振ってみせていた。
「駄目駄目。その糸には麻痺毒が塗ってあるからね。暴れれば暴れるほど動きが鈍るよ。……クヒヒ」
そう言いながら嬢が用意したのは、ひとつの素焼きの小瓶だ。それを少し考えてから絶に手渡していた。
「それを無理矢理飲ませれば治療は完了。他人の体に入って勝手やっていた虫が出てくる。精々頑張ってやってみせてよ」
「……何故? 私に?」
「大竹丸が嫌いだからだよ。……クヒヒ」
遠回しに大竹丸に花を持たせたくないと言っているのだろう。言葉のニュアンスの全てが理解できたわけではないが、これで隆治が治るのであればと絶は小瓶を受け取る。
ちなみに、素焼きの小瓶は嬢のお手製である。この間、火入れ前にミケとアスカと葛葉に悪戯されて変な形に成形されていたのを直して、まともな形に戻したものだ。……こう見えて、嬢は割と苦労性なのかもしれない。
嬢の鋼糸がしっかりと隆治を押さえる中で、絶が隆治に近付く。
興奮する隆治は怒りに目を血走らせて絶を睨み付けるが、それも虫のせいであるというのなら怖くはない。慈愛の心を持って絶はその小瓶の蓋を開ける。
「周藤隆治よ、お前は悪くない。悪いのはどうやらお前の中の虫らしい。だから――、自分を取り戻すんだ!」
そして、一息に隆治の鼻を摘まみ、小瓶の口を隆治の口腔へと突っ込む。小瓶の中のどろりとした液体が隆治の喉の奥に流れ込み、彼はあまりの不味さに白目を剥いて暴れ始める。だが、嬢の鋼糸はその程度で千切れるほどに甘くなく、隆治の暴れる動きは徐々に収まりをみせていく。
これで全てが終わった――。
――と弛緩した空気が流れる中で、突如として隆治の喉の奥から肉の塊が飛び出して、絶の身体が跳ね飛ばされる。油断していたといえばそうだが、虫が出てくると聞いていたため、もっと小さいものが出てくると考えていた絶は回避が遅れたのだ。
衝撃に絶の身体が回転するようにして宙を舞い、その身体が地面に落ちる前に沙耶がその身体を抱きかかえる。
「姫、大丈夫ですか?」
「芯に来た……。でも、あれは……?」
「虫、なんでしょうね。彼女が言うには……」
そこには屹立する巨大な肉の塔があった。怪獣映画に出てくる蛾の幼虫のような、ファンタジーに出てくる巨大なワームのような、とにかく不気味な肉の塊が塔のように聳え立つ。隆治の口の中から出てきたにしてはあまりに大きく、気色の悪い存在だ。
「どうやら虫下しに対する対策も虫の製作者は考えていたらしいね。防御用の仕掛けを用意していたようだ。はぁ、虫の製作者に嘲笑われているかと思うと……死にたい」
「まぁ、その対策に対する対策も用意しておったっちゅうことで、妾の読み勝ちということで良いじゃろ」
大竹丸が大上段で掲げる大通連が黄金色の光を纏っていた。その黄金色の光は成層圏までをも貫く巨大な光の柱となり、肉の柱よりも太く、大きい威容を以て誕生した肉の柱を出迎える。
その光の柱を目の当たりにして肉の柱が更に巨大になろうと膨張し始めるが、それを更に超える勢いで光の柱が、光の壁となって天空を埋め尽くす。
「嬢」
「はいはい。大竹丸に顎で使われるなんて。……死にたい」
大竹丸の一言で嬢が鋼糸を操り、隆治の体を大竹丸の背後にまで持ってくる。これで、目の前には肉の塔が一匹だけの状態だ。遠慮なく大技をぶっ放すことが出来る。
「塵も残さん。消えるが良い。――大嶽流奥伝、真鬼神斬!」
――光の壁が落ちた。
圧倒的な黄金色の奔流は肉の塊を塵も残さずに消失させていき、大竹丸の渾身の一撃は一瞬で彌彦ダンジョンの森林地帯の半分を何もない更地へと変えてしまったのであった。
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