§052 「最後だから今日は特別」
俺は広島電鉄の『宮島口』駅前の改札で希沙良を待っていた。
今日は待ちに待った花火大会の日。
広島で最も人が賑わうイベントである『宮島花火大会』だ。
宮島花火大会は、厳島神社の鳥居の沖合から花火が打ち上げられる。
花火を見るには、フェリーで宮島に渡るか、渡らずに対岸に場所を取るかとなるのだが、これは希沙良と事前に話し合って、「最初で最後の花火大会なのだからせっかくだし宮島に渡ろう」ということになっていた。
俺は駅の時計を確認する。
14:30……
希沙良との待ち合わせは『15:00』なのでちょっと早く着きすぎてしまったみたいだ。
宮島花火大会は『19:30』から開始されるのだが、この日のフェリーは、本当に沈没するんじゃないかというくらい混雑する。
さすがにあんな痴漢さんいらっしゃいみたいなフェリーに希沙良を乗せるわけにはいかないので、集合時間は早めに設定した。
幸いにも今日は平日だったことから、目立った混雑は見られず、俺はホッと胸を撫で下ろした。
「未知人……くん?」
「お……おぅ」
俺はその声に導かれるように顔を上げて、そのまま息を飲んだ。
白地の浴衣に淡い紫色と水色で彩られた蘭の刺繍。
帯は蘭の間を流れるせせらぎのような青色。
普段は腰まで伸ばしている髪は、両サイドで丁寧に編み込まれ、後ろのお団子には白い花がちょこんとあしらわれている。
今日の希沙良は、まるで別世界の人のように美しく、欲情するなんて感情がわいてこないぐらいに色っぽく、そして、触れたら壊れてしまいそうなほどに儚かった。
「あ~よかった未知人くんだ。いつもと雰囲気違うから最初わからなかったよ。浴衣着てくるなら先に教えておいてよね」
ほんのりと上気させた表情を浮かべて、希沙良はほっと安堵したように笑う。
「希沙良もすごい似合ってる……あの……その……すごい可愛い」
「ふふ、未知人くんが第一声で褒めてくれるなんて珍しい」
「たまにはいいじゃんか」
「うん。嬉しいよ。ありがとう」
素直な反応の希沙良が眩しすぎて、俺は照れ隠しに頬をポリポリと掻く。
なんだよその反応に、その笑顔。
いつもなら悪態が返ってくるのに、そんなに素直に嬉しいって言われたら、こっちも調子狂うじゃねえか。
「じゃあ先にその下に下着をつけてるのか聞いた方がよかったか」
俺は恥ずかしさを誤魔化すために、軽口を叩く。
「ちゃんと勝負下着を履いてますよ。バカ」
「なっ……勝負下着って……ちょおまっ」
「ふふっ。顔真っ赤にしてやんの~」
「だって、お前がアレなこと言うからだろ」
「未知人くんが言いそうなことは想定済みなの。何カ月あなたの彼女やってると思ってるの」
「じゃあ今日は予想外の角度から攻めてやるよ」
「そうやって急角度からパンツ覗き見るつもりでしょ。エッチ」
「希沙良はその浴衣の色がよく似合うな」
「……えっ」
「それにその髪型もすごく似合ってるよ」
「あっ……ありがとう。今日はいっぱい褒めてくれるのね」
「今日は素直になろうと思ってね」
「未知人くんもその前髪アップの髪型すごくいいと思うよ。かっこいい」
「マジか。この髪型は国分に教えてもらったんだけど、さすがの国分先生だな」
「未知人くんは髪型変えればもっともっとかっこよくなるから、次は私が髪型セットしてあげるよ」
「次って……」
そう口にしてから、俺は「しまった」と思った。
『次』があることを期待してしまったがために、つい口をついて出てしまった言葉。
きっと希沙良も同じ心境だったんだと思う。
その言葉を誤魔化すように少し寂しそうに微笑むと、俺の方に歩み寄り、スッと俺の手を取った。
「行こっか」
正直なところ、ちょっとだけ意外だった。
この『恋人のふり』の期間は、恋人らしいことはたくさんしてきたつもりだけど、どういうわけか手をつなぐことだけはしなかったから。
てっきり希沙良は手をつなぐのは好きじゃないんだと思っていた。
「今日は手をつなぐんだな」
自分でも野暮なことを聞いたと思う。
それでも希沙良からはすぐに返答が返ってきた。
「うん。最後だから今日は特別」
そう言ってニコッと笑うと、俺の手を引っ張って歩き出す希沙良。
「おい、浴衣なんだからそんなに急ぐなよ」
「今日が最後なんだから思いっきり楽しまなくちゃ」
最後か……。
そうやって言葉にされると現実に押しつぶされそうになる。
大丈夫だ。
今日までの間、いっぱいいっぱい考えた。
もう結論は出てる。
あとは俺にほんの少しの勇気があればいい。
絶対に後悔するんじゃねーぞ、数時間後の俺。
ぎゅっと手を握り合った俺と希沙良は、宮島へと渡るフェリーに乗り込んだ。
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