エピローグ 「からっぽのくすりゆび」
季節外れの大雪に見舞われたあの忌々しい出来事から、気付けば二年近い年月が経過していた。
新しい生活の拠点となっているギアフロータスは、もう時期に春になる。とは言え、吹き荒ぶ潮風と微かに届く波の音のせいか、まだまだ上着なしでは出歩けそうもない。それでも、海洋を悠々と回遊するギアフロータスでは滅多に雨は降らず、また積雪に至っては記録の残っている限り観測されてはいないのだから、陸地よりかは越冬に適した環境ではあるのだろう。
ふと眼下に拡がる街並みに意識を向けてみれば、二年と言う時の長さを改めて実感させられる。高台から見渡す景色は、以前と比べると随分と美しいものへと変わった。特に中央部の開発などは、あらかじめ区画整理した上で開発されたことで、一見すれば高級住宅街とも勘違いしてしまうほどだ。
そんな変化は、全て魔王が原因だ。
魔王の排除に助力することを
しかし、魔王について知れば知るほど、自分の
魔法を私的に悪用し、人に害をなす人でなしの魔者たち。そんな悪虐非道の魔者たちから、神の如き力を秘めた鍵なる超常物質を回収する。それが、檜さんから命じられた自分の果たすべき義務であり、クロを取り返すために背負った生涯を以て返さねばならない負債であった。
幸いなことに、自分らの暗躍は意外にも早く、社会の形を変化させることに成功していた。活動の拠点としていたギアフロータスの街は、いつしか魔王撃滅のための大規模な協会の本部が置かれる海上移動要塞へと作り替えられ、現在までに四人いるとされる内の魔王の一人を既に席から引き摺り下ろすという大きな成果も上げている。回収された鍵も協会の資金後援をしている王国に預けられ、私利私欲で悪用されないようにと魔法で厳重に封印されているそうだ。
けれど、そんなことは、もはやどうでもいいことだった。
自分は、既に檜さんからは解放されていた。もうこれ以上、魔王を殺すための努力は必要なくなったのだ。
ともかく、自分たちを取り巻く全てのものが変わってしまった。もはや元の形がどんなものであったか忘れてしまうほどに、多くの人の願望が自分たちの魂に嫌らしく絡みついてきて、離してくれない。
……今だってそうだ。穢れた願望の一つが偉そうに近づいてきては、自分の大切なものを壊そうと目論んでいる。
「……村長さん、いい加減クロに付き纏うのはやめていただけませんか?」
これほど再会したくない相手もいないだろう。けれど、世界はそう言う相手に限って、何度も何度も困難と称して面白半分で巡り合わせてくるのだから腹立たしい。
「出会い頭に何を言い出すかと思えば、そんな下らないこととはな。……勿論断る。そう簡単に彼女を諦めるわけがないだろう」
「……だと思いました」
反省することなくクロを求め続ける村長さんとは、正直自分は話すことすら苦痛であった。心優しいクロの体に、彼の穢れた手が僅かにでも触れる。それを一瞬想像しただけでも、全身が粟立ち抑えがたい怒りに思考が支配されそうになる。
けれど、今の自分には守りたい人がいる。
「……玲」
「大丈夫だよ。すぐに追い返すから」
心配そうに顔を見上げてくるクロを、自分は村長さんから遠ざけるように背中へと隠した。翼を折ってまで隣にいてくれると言ってくれた君が、自分の身を心の底から案じてくれている。そんな君の優しさが、怒りに任せて無茶な行動をしようとしていた愚かな自分を冷静にさせてくれた。
「私を追い返すとは、なかなか面白いことを言うではないか。人間の貴様が、魔者である私に何ができると言うんだ?」
「クロのことを、綺麗さっぱり諦めさせることです」
「ほう?……なら、その腰にある二本の剣が飾りでないのであれば、抜いてみせるといい。今度は腕だけではなく、その口から二度と戯言を垂れ流すことがないように首も折ってやろう」
村長さんは、目敏く自分が帯刀しているのを見つけると、すぐに無駄な足掻きだと愉しそうに顔を歪めて腹を抱えながら笑った。
確かに、自分は一度、村長さんに成す術なく右腕を叩き折られていた。いくら檜さんの治療で再生したとはいえ、叩き折られた時の恐怖は決して癒えることはない。今だってそうだ。必死に恐怖を我慢しているのに、けれど、どうしようもなく体は小刻みに震えていて、村長さんを調子に乗らせてしまうばかりである。
だが、今と昔では状況があまりにも違う。
「……怪我しちゃ嫌だよ」
「……うん。ありがとう、クロ」
恐怖で震える自分の手のひらを、クロが小さな両手で優しく包み込んでくれる。クロの応援があれば、自分は何だってできる気がした。
それに、この二年間の日々で、自分は武器を扱う訓練も積まされたのだ。決して強くはない。けれど、以前のように容易くやられるつもりもなかった。
「ソラ」
「いつでもいけるわよ」
「それは良かった」
神様の返答に、自分は腰の横に帯びていた紅白一対の魔杖の内、白い魔剣「
「……ただの剣ではないようだな。それに、以前の物とも違うようだ」
「幻月。
ゆらゆらと揺らぐ実体のない刀身を持つこの魔杖は、ミナトに鍛造してもらった二本の魔剣の内の一振りだ。ソラが憑いていた獏を砕き、それを材料にして新たに作られた幻月は、依然として切れないものを切ることができると言う破格の性能を有していた。
絆を切り、縁を切り、可能性を切る。そうして自身の望まぬ未来を否定することが叶うこの幻月は、この世に本来存在してはならない、文字通り因果を断つことができる危険な魔の剣だ。
だから、当然使わないに越したことはない。
「……クロの夢の邪魔をしないでくれませんか?それだけ約束していただければ、自分はそれ以上は求めません。何より、この刀も使わずに済みます」
武器は人を傷つけるための道具だ。いくら相手が胸糞悪い男であったとしても、無闇に振るうことを良しとしてはいけないと思う。
しかし、残念ながら相手の考えは自分とは真逆のようだ。
「なぜ私が引く必要があるのだ?私は貴様よりも圧倒的に強い。それなのに、どうして私の方が諦めなければならないのか、納得のいく説明をしてくれ」
力を持つ者が、どうして弱い者のために我慢をしなければならないのかと、村長さんは苛立ちの混じった不満を口にする。それは、誰しもが心の底で僅かなりとも感じている不快感なのだろう。かくいう自分も、彼の考えを否定する言葉を持ってはいない。
けれど、村長さんが声を大にして垂れた真っ当な文句は、多くの人が思ってはいても表に出さずにいる感情でもある。彼は、他人に対する思いやりの心が欠如しているようだった。
「あなたは我欲を満たすためばかりにクロが欲しいだけで、クロを幸せにするつもりが微塵もないじゃないですか。そんな人にクロを預ける気はありません」
村長さんは執拗にクロを求めてやまない。けれど、彼は何か大きな勘違いをしているように思う。
クロは、断じて物ではない。誰かの手に収まることなど、天地がひっくり返ってもあり得てはならないのだ。
もし仮に、村長さんが全てを承知していて、その上で人を物のように扱っているのだとしたらどうだろう。その悪戯に背徳感と優越感を覚えて愉しんでいるのだとしたら、どうだろうか。そんな極端な想像を、しかし完全に否定できない以上、村長さんには絶対にクロを渡すわけにはいかない。
そんな自分の言葉は、どうやら村長さんの癇に障ってしまったようだ。
「……幸せか、夢か!またそれを言うか貴様は!!いい歳して気色が悪いぞ!……何か?魔王にでもなるつもりか!!」
いざという時のために魔剣を構えながら説得を試みていた自分を、村長さんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、目を見開いて威圧するようにきつく睨みつけてくる。その瞳には、嫉妬の炎がちらついているようにも見えた。
……魔者のあなたが、人間の自分の何に対して嫉妬することがあるんですか。
けれど、プライドが無駄に高い村長さんだ。指摘したところで、どうせ否定されるのが関の山だろう。
そんな風に、冷めた目をして何ともないように聞き流す自分に、村長さんの怒りは勢いを増す一方だ。
「まさか、あの女の真似事か?人間の分際で、”鍵無し魔王”に憧れでもしたのか?だとしたら救いようのないほどの
必死に自分の心を折ろうと罵倒を浴びせてくる村長さんの言葉は、どれも正論で否定をする余地はなかった。
けれど、どうしたことか。自分は村長さんの罵詈雑言の中に、新しい夢のあり方を見つけてしまう。
「……………………そうですね。それも、いいかもしれません。“運命は自分で選ぶ方が気持ちが良いでしょうし”」
ひょんなことから魔王殺しの義務から解放された自分は、もう魔王に固執する必要はなくなっていた。けれど、自分の運命はどうしようもなく魔王に向かって一直線だ。どれだけ足掻こうとも決して道から逸れることは叶わず、誰しもが自分を魔王に仕立て上げようと密かに画策し動いている。
ならば、自ら望んで魔王を目指そう。そんな捻くれて心底馬鹿げた幼稚な考えは、けれど自分の頭の隅から隅までをゆっくりと確実に満たしていき、次第に無視できないほど大きな夢へと成り代わっていく。
「神の鍵を人間の自分が使えるかはわかりませんけど……。それでも、どんな願いでも叶うと言うのなら、自分はこの月を優しい世界へと変えていきたい。そのためになら、人間だとバレて殺されるリスクを背負ってでも、協会の魔者に混じって魔王を倒してみせますよ」
他の魔王を魔者たちと協力して悉く滅ぼした暁には、白が、自分たちが望んだ優しい世界だって実現できるはずだ。それができるだけの力を、神の鍵は確かに秘めている。
「人間は魔者と違って力が弱くて、怪我をしてもすぐには治らない。それに魔法だって、誰かの助けがないと全く使えません。……でも、そんな自分だからこそできることがあるかも知れない。そう期待することを、自分はまだ諦められないんです」
そうは言ってはみたものの、自分の手元にあるのは紅白二本の魔杖だけだ。それに、幻月が使えるのは、自分の命をソラが魔力に変換してくれているからであって、決して無尽蔵の力ではない。切れないものを切れるとは言っても、世界を変えるほどの大きな力はこの魔杖にはあっても、残念ながら自分にはないのだ。
けれど、神の鍵は違う。世界を司る神への謁見すら叶うとされる超常の鍵を全て集めることができれば、世界の形をほんの少しだけ半端者にも優しいものへと改竄することだってできる。
だから、自分は魔者と共に悪しき魔王の根絶に協力しよう。そして、四つの鍵が全て揃ったその時、自分は持てる力の全てを以って鍵を盗み出し魔王になってみせよう。必ず魔王に成り上がり、いつの日か全員が笑って過ごせるような素敵な世界を、自分はこの月の上に確実に実現してみせる。
そのためには、少なからずこの手を血に染めることになるだろう。けれど、その血は未来に必ず流れる血でもある。ならば、無視をせず、全力で奪うのが筋と言うものだ。そんな覚悟を示すように、自分は相手を脅すために大きく幻月を構え直す。
「……ようやくやる気になったか」
「投降してはくださいませんか」
「早速協会の奴らの真似事か。だが、貴様には私を拘束する力も権限もない」
「確かにそうかもしれません。……でも、自分には助けてくれる人がいる」
手に握る幻月を撫でながら求めるのは、神様の助けだ。
「ソラ。念のために、少し多めに魔力をお願いね」
「わかった。なるべく影響が少ない部分から貰うわね」
「うん、ありがとう」
「……お礼は上手くいった後にして頂戴」
「……そう」
次の瞬間、体がふっと軽くなる。それは、”何度も味わった”自分の命が幻月に喰われる感覚だった。
そして同時に、幻月の纏っていた霞が晴れて刀身が実体化する。
「散々夢だの幸せだのと綺麗事を口にしておきながら、自分の欲のためになら大勢の魔者を不幸にすることを厭わない。他人の善意を利用して魔王を倒し、最後の最後で手のひらを返して鍵を奪う腹積りとは、流石人間だ、全くいい度胸だよ」
「別に、自分とあなたが違うとは言いませんよ。むしろ、自分は嫌われていてよかった。開き直ることができましたから。あなたみたいに自分を守る必要はなかったし、コウタみたいに相手の心を探るまでもなく、魔者の抱いている自分への感情は決まりきっていました」
けれど、これだけは言わせて欲しい。
「あなたは、自分が他人を不幸にすることを悪いことのように言いますけど、それは違いますよ。人は誰だって、少なからず人を不幸にしてしまうものです」
「だから仕方がないとでも言いたいのか?私につまらない説教をしておいて、自分のことは棚上げするつもりか?……ふざけるなよ」
「……あなたはまだ、自分の存在が汚れることを恐れてる。いい加減現実から目を逸らすのはやめたらどうですか?」
村長さんの心は、もうとっくに取り返しがつかないほどにどす黒く濁りきっている。それなのに、彼は頑なにそれを認めようとしない。
「不幸にしてしまったのなら、幸せにしてあげればいいんです。ただ、それだけのことじゃないですか」
心の底にある淀んだ欲望は、いくら浚っても綺麗になることは決してない。だから、人は自分の悪い部分を、認め難くとも素直に受け入れるしかないのだ。
けれど、村長さんは直視することを未だに拒み続ける。
「どれだけ他人を馬鹿にすれば気が済むんだ!この私が汚れているだと?ふざけるな!私は嫌と言うほど辛い目にあってきたのだぞ!」
そして、遂に村長さんは、自分の首をへし折らんと笑みを浮かべた。
「貴様が言ったのだからな。私の不幸は、彼女の幸せで辻褄を合わせる」
「屁理屈を言わないで下さい」
「それも、人間の十八番だろう?」
潮風に乗って、場違いが甘い香りが漂ってくる。それは、腕を折られた時にも微かに感じた、村長さんの香水の匂いだった。
「精々天国で私がクロといるところを指を咥えて見ているがいいさ!」
「……またそれですか」
香水の香りがこちらに届くと同時に、村長さんが自分を殺そうと凄まじい勢いで迫ってくる。
けれど、不思議と心は落ち着いていた。
……この二年を無駄にはしない。
自分は、冷静に刀の切っ先を村長さんの方へと向ける。
「柊一刀流」
「……なにっ!?なぜ香水で精神支配された状態で動けるんだ!?」
多くのものを失った自分だが、それでも得たものだってたくさんあった。この剣術もそのうちの一つである。
この刀を振るえば、いよいよ後戻りはできなくなるだろう。けれど、自分が身につけた力の存在意義を考えれば、人を切ることに罪悪感はあれど、決して後悔だけはしないと断言できた。
「忘れてしまったんですか?魔力のない人間には魔法は効かないんですよ」
「くそっ!こんなところで終わるわけにはっ……!!」
魔者の全力を以って猛スピードで突っ込んでくる丸腰の村長さんは、自身の常用している香水の魔法が効いていないことを知り、ひどく焦っていた。手足を地面につけて必死に勢いを殺そうと試みてはいるが、鼻から魔法がすっかり効いている前提で、思う存分こちらの体を叩き潰そうとしてきていたのだ。いくら手を打ったところで今更止まれるはずもなかった。
だから、今回に限っては、あえて自分から行動を起こす必要もない。
「
そっと横に倒した幻月の刃が、村長さんの体の真中を音もなくするりと擦り抜ける。因果を切るのに、痛みに喘ぐ声はない。それが、この幻月を自分が遠慮なしに振るえる理由の一つでもあった。
「……悪夢から覚めて、新しい夢が見つかることを祈ってます」
ばたりと、意識を失った村長さんが倒れる音が後ろから聞こえてくる。人間だからと侮られていたおかげで、自分は奇跡的に無傷で済んだ。
それでも、君は心配をして駆けつけて来てくれる。
「……怪我してない?どこも痛くない?」
「自分は平気だよ。村長さんは膝を擦りむくくらいはしてるかもだけど……。やっぱり難しいな。割り切らないといけない時だってあるのにさ、それでも人と本気で喧嘩するのは苦手だよ。今だって、ギリギリまで戦う気になれなかったし……。これじゃあ、口ばっかりの嫌なやつだね」
「…………ごめんなさい」
「どうして謝るの?できれば、ほら。かっこよかった〜とか、超クールだった〜とか、そう言う感想が聞きたいな〜、なんて」
「…………知らない」
「ぁ、うん……。なんか、ごめん……」
「……どうして謝るの?全部わたしのせいなんだよ?あの人に嫌だって、わたしがちゃんと断れなかったから、また玲に迷惑をかけちゃった。ごめんなさいをしなきゃいけないのは、わたしの方なんだよ」
クロは自分の再生した右手に手を伸ばしたかと思うと、触れる直前で電気の流れた鉄条網にでも阻まれたかのように身体をびくつかせて、震えながら今にも泣きそうな表情を浮かべる。
「……玲がまた痛い思いをしたらって思うと、息が苦しくなった。今度は話してもくれなくなるんじゃないかって思うと、すごく怖かった。それに、また忘れてだなんて言われたら、わたし、もう……」
「……クロは何も悪くない。腕も治ったんだから気にしなくて良いんだよ。こんなことでクロのことを無視はしないし、全部忘れてお別れだなんて、そんなことは二度と言わない。…………約束だ」
「……でも、でも…………」
耐え難い不安に自分に抱きついてきては、申し訳なさそうに俯いて顔を見せてくれないクロに、自分は恐る恐る空いている左手を伸ばして怯える君の頭をそっと撫でてみる。
そして、ほんの少しだけ、クロの優しさに甘えさせてもらうことにした。
……いや、付け入ると言う表現の方が正しいだろう。
「なら、二人のせいってことにしない?」
「…………うん」
「人はよく、誰かのためにって言葉を口にするよね。でも、それは言い訳だ。人は自分以外の誰かのためには絶対に動かない」
「……でも、玲はわたしを助けてくれたよ?」
「クロには、自分がどう見えてるのかな。もしも自分のことを、ピンチに必ず駆けつけてきてくれる白馬の王子様だなんて思ってるのなら、それは大きな間違いだよ。まぁ、自分で言うのもおかしな話だけどさ」
「……わたしは、そんなのいらない。玲がいれば、それでもう十分だ」
「本当かな?それは、ただの諦めなんじゃないかな?」
自分はクロの言葉を有無を言わさず否定する。
「人を助けることに躊躇しない生粋の英雄たちなら、きっと檜さんや村長さんを格好良く倒してくれたと思うよ?あの人たちは、それだけのことをした。だから、彼らを倒したとしても、英雄を咎める人は誰もいない」
悪いことをしたら、相応の報いを受ける。その道理に対して、人はひどく従順で、また盲信的だ。そして、それは全く正しい。誰が何と言おうと、その場に生きる者が必死の思いで下した選択を非難することは、外の誰にも許されることではないのだから。
だから、自分は他人の英雄には絶対になれない。
「正義は、嫌いなんだ。理由があるからって他人を傷つけることが正当化される。誰もが社会の目に怯える中で、感情のままに相手を思い切り殴りつけることが、あたかも格好良いことのように人の目には映ってしまう。それは、すごく気持ちが悪いことだよ」
「……わからないよ。正義のことも、玲が何に悩んでるのかも、わたしには難しくてわからない」
「わからないように難しく言ってるからね。仕方がないよ」
「……玲はたまにいじわるだ」
クロは不満気に言う。けれど、自分には遠回しな表現しか感情を表に出す術がなかった。
でも、近道が必ずしも遠回りとも限らない。
「笑わない?」
首を傾げるクロを、自分はおもむろに抱き寄せる。顔を見られたくなくて、少し強めに抱きしめた。
「……クロにだけは、嫌われたくない。ただ、それだけなんだ」
そっと、心を縛っていた鎖をおもむろに解いてみる。
けれど、今までずっと蓋を被せてきた想いだ。そう簡単には言葉にできなくて、幾重にも重ねられたフィルターを掻い潜ってようやく出てきた言葉は、元の想いの形とは遠くかけ離れた的外れなものだった。
「……どうしてそんなことを言うの?今日の玲は、少し変だ」
突然の告白に慌てふためくクロは、腕の中でもぞもぞともがいて自分の”拘束”から脱出すると、顔を上げて訝しげな目線を向けてくる。その表情は、何かにひどく怯えているようにも見えた。
そして、その見当は、あながち間違いでもないのだ。
「……何でかな、クロには隠し事をしてもすぐにバレちゃう」
クロのガラス玉のように透き通った銀色の慧眼は、自分がひた隠しにしていた思考を鋭く見抜いているのだろう。
「……知ってる?自分がどう言う人間か。そう、前にクロが言ったように、何をしても人並み以下の価値のない人間だ。すごく短気で、自分に都合の良い妄想ばかりしてて、努力をしない割には多くの物を望んで、上手くいかないと他人のせいにする。……改めて言葉にすると本当にひどい人間だね」
「……でも、それだけじゃない!玲は自分に悪い部分しかないように言うけどね、そんなことないんだよ?玲には良いところもいっぱい、いっぱいあるんだ!」
「量があったところで、質が悪ければ無駄なんだよ。絵が少し上手だったところで、他人を魅了するような絵描きにはなれない。話を書くのが好きでも、面白い話が書けるかと言ったらそんなこともない。つまり、自分の持ってるたくさんなんて言うものは、全部誰しもが持っているガラクタ同然のものだよ。その上、磨いても光らない河原の石ときた。なのに、魂すらも入ってない。そんな空っぽな石ころを、あんまり過剰に褒めないで欲しいな」
努力とは可能性を現実にするために必要なことであって、地面に転がっている石はどう背伸びしたってダイヤモンドにはなれない。それと同じように、自分という人間は、どれほど努力したところで、君の隣にいる資格は絶対に手に入らないのだ。
けれど、人は欲しいものに手が届かないと気付いた時、手近にある劣等品で妥協しようとする。手の内が空っぽであることにどうしようもなく不安を覚え、代用品を探しては離すまいときつく握り込んでは、あたかもそれが宝石であるかのように背中に大事に隠して、目をつむって自分にも他人にもこれが本物だと嘘を吐き続けるのだ。
だから、自分はクロが現実を受け入れるまで、何度でも真実をこの口から伝えなければならない。
「……もう、自分という人間の価値の天井は見たつもりだよ。この二年間で、自分がどうしようもない人間だって思い知った。だから、クロの考えが間違っていることだけはわかるんだよ」
檜さんに連れて行かれた先、いきなりクロと離れ離れにされ、施設に軟禁され地下から出ることを禁じられていた忌々しい二年間の記憶が瞼を瞑っても鮮明に瞳に映り、決して忘れることを許してはくれない。その思い出の数々と共に、心臓が握り潰されるような痛みと苦しみも同時に蘇ってくる。それは、自分が犯した罪への罰なのだろう。
だから、断言しよう。
「……白と同じだ。クロも、同じ悪夢を見てる。そして、悪夢は醒めなくちゃいけないものだ」
自分は、君にとっての石ころだ。いつかその小さな手からこぼれ落ち、君をつまづかせて傷つけてしまうだろう。初めは膝を擦りむく程度で済むのかもしれない。けれど、蹴つまずいた小さな不幸は、まるで池に投げた石のように波紋を生み、いつか避けることのできない大きな不幸を引き寄せることだってある。自分という人間は、君にとってそう言った不幸であり、所詮は人の皮を被った化け物なのだ。
でも、君はそれを知らない。
「……何を言ってるの?もういいよ、早くお家に帰ろう?ミナトが会いたがってたよ。コウタも謝りたいってずっと言ってた」
「そういえば、今は三人で生活してるんだっけ。ミナトとコウタは上手くやれてるのかな?喧嘩してないと良いな」
「……二人は、ずっと怒ってばっかりだ」
「……それは、良かった。喧嘩するくらいには仲が良いんだね」
「…………おかしいよ」
クロは辛そうに顔を伏せる。
でも、それも一瞬のことだ。
「帰ろうよ、玲」
クロは改めてそう言いながらも、どうしてか自分から少しずつ離れていく。
「家まで送るよ」
遠回しに断ると、またクロが一歩後ずさった。
その距離を詰めるように、自分は淡々とクロを追いかける。
「一緒がいい!やっと会えたんだ、また何年も会えなくなるのは嫌だよ!」
「そうだね」
「なら、お願いだっ……!」
一歩、また一歩。後ろ後ろへと自分に怯えながら逃げていくクロは、しかし、建物の壁にぶつかり、それ以上後ろへは下がれなくなってしまう。
けれど、諦めきれなくて、一縷の望みに賭けるように、必死にクロは上目遣いで祈るように自分にねだる。
「……お願いだから、その刀をしまってよ!」
この世の終わりを見るような表情を浮かべて震えながらに懇願してくるクロに、しかし、自分は酷い笑顔を浮かべながら、期待を裏切るように幻月の切っ先をクロへと向けた。
「…………ぁ」
クロは、恐怖と悲しみに小さく喘ぐ。
けれど、そんな、不安で震え両手で目元を覆いたくなるような耐え難い時間も、もう終わる。
……これでいい。こうあるべきだ。
クロは、不幸者だ。ずっとひとりぼっちで、誰とも縁を結ぶことが叶わなかった。けれど、寂しがり屋の君は諦めず、いつかきっと自分と仲良くしてくれる人が現れると信じて、小指の先に数え切れないほどの糸を結びつけて救いが来るのを待っていた。それなのに、どうだろうか。何年も、何十年も、糸を手に取ってくれる相手は現れず、ただ風に吹かれて揺れる様を見るだけの悲しい日々だ。挙げ句の果てに、最初にクロの糸に触れてしまったのは、未来に罪を犯すことが確定した人間だ。そして、あろうことか、他の人と結ぶはずだったたくさんの糸を、おっちょこちょいなクロは早まって、誤って全て自分の小指へと結んでしまった。
けれど、今自分の手には、やり直すために必要な全てを断ち切ることのできる幻月がある。
これから先の未来、クロが多くの人と縁を結ぶためには、また糸が必要になる。それに、魔者たちと交友関係を広げるのには、自分との縁は邪魔にしかならない。だから、クロにとってこれは終わりなどではなく、むしろ始まりだ。
幻月を使えば、怪我をすることなく、また努力も要らず、時間もお金もかけずに簡単に人生をやり直すことが叶う。まるでゲームのリセットボタンのように、気軽に危険なく都合の良い結果を得られるその時まで、何度でも要らない縁を切り捨てることができる。
そして、今のクロにとっての不要な縁は、人間である自分一人だけだ。
自分は、幻月を大きく後ろへと振りかぶる。縁を、因果を切ること自体には勢いは全く要らない。けれど、それでも自分にはどうしても必要なことだった。
「やだ、やだやだやだっ!やめてよ、ひどいよ!!これは、わたしの大切な思い出だ!勝手になかったことにしようとしないでよっ!」
記憶ごと縁を断ち切らんと怪しく光り打ち震える雪色の刀身に、クロは怯えて喉を詰まらせながら喘ぎ、たくさんの涙を大きな瞳から溢れさせる。そのガラス玉のように綺麗な銀色の瞳を覗くと、不幸の権化だ。真っ黒な化け物の姿が一人映っていた。
「……お別れだ。ばいばい、クロ。今まで一緒にいてくれて、嬉しかった」
「……嘘つき!!」
クロの中に巣食う悪夢に対して、自分は笑顔で幻月を振り下ろす。
「忘れて、幸せになってね」
「ばかっ!玲なんて嫌いだ!嫌い、嫌い、大っ嫌いっ…………!!」
幻月は、クロの身体を霞を切るように擦り抜ける。けれど、そこには何かがぶつりと切れる確かな感触があった。それは、クロの翼をこの手で捥ぎ取った時の感触に似ていて、とても生々しくて、ひどく胸が痛む。
「……おやすみ、クロ。次はもっと良い人を探すんだよ」
記憶を奪われたショックで意識を刈り取られ、力が抜けて膝からがくりと崩れ落ちるクロを自分はそっと抱き止める。
はらり、と。不意に艶やかな美しい白髪が頬をかすめた。そんな些細な出来事に幸せを覚えている自分がいることに気がついて、嗚呼。苛立ちを隠せない。何様だと、心の中の慾を奥歯へとあてがい、切歯し音を立てて粉々に粉砕し嚥下する。そうして最後に残った感情は、ひたすらに後悔だけだった。
「…………ごめん」
涙でぐちゃぐちゃなクロの顔を袖で拭ってやる。安らかな寝息を立てるクロは、もう自分とは関係を結ぶことが叶わない赤の他人となってしまった。一度切ってしまった縁は、二度と繋がらない。だから、これが君との最後の時間だった。
「…………ごめん、なさい」
泣き腫らして憔悴したクロの表情を見ていると、ダメだ。もう我慢の限界だった。
海に浮かぶ金属で溢れた魔者たちの街に、温かな一陣の風が吹き抜ける。長い長い冬がようやく終わり、蕾が膨らみ花咲かせる出会いの季節が近づいてきていた。
けれど、その中に自分はいない。自分は一人、現実から目をそらすように冬の中で立ち止まる。心を揺らす他の何もを見たくなくて、救いを求めるように灰色に塗りつぶされた曇天を仰いだ。
今にも花を咲かせようとしている艶やかなクロに、自分は今後触れることは許されない。そんな現実を今更ながら実感して、何度でも後悔し、一人雪に身体を埋めて声を押し殺しながらひたすらに泣き続けた。
もう二度と、君が自分の名前を呼んでくれることはない。これから自分は、ずっとずっと一人ぼっちだ。
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