第47話 「まようきみに、いっぱいのあんしんを」 (残・R)
どうしてか自分は、未だに生き繋いでいた。
初めに目に入ったのは、灰色の穴が空いた木製のボロ天井、その次にしんしんと降り頻る真っ白な雪だった。
まだ夏が終わったばかりだというのに、これほどの降雪とは珍しいもので、血を失い過ぎて凍えた体が見せる幻想とでも言われた方がまだ納得のいく光景は、しかし、少なくとも疲弊した心を癒すには十分な効力を発揮してくれている。
けれど、流石に体の方はそう暢気なことも言ってはいられないようだ。
「……ううっ」
耐え難い寒さに、不快感で呻く。上裸の自分の体の上には申し訳程度に藁が被せられていたが、薄っすらと積もった雪のせいか、大して温かくも感じられない。とても屋内だとは思えない冷え切った空気は、命の灯火が消えかかっている熱のない自分の一呼吸さえ悉く
そんな、なんてことないありふれた冬の風物詩ではあるが、少なくとも自分が実体を伴わない幽霊でないことだけは確かに教えてくれた。それはもう、痛いほどに体温を急激に奪う寒さに、全身がもれなく凍りつき、つまらない氷像が近いうちに一つ完成するだろうことが容易に想像できたほどに。
……さて、熱源を確保するためには早急に火を起こすべきか、ひとまず藁にくるまって体力を温存し季節外れの雪をやり過ごすべきか。どうせ火を起こすのなら、お風呂にも入りたい。雪のおかげで塩茹でにならずに済むのは大変ありがたいが、そもそも湯船に浸かりたいと思い立ったのは雪が原因であるから何とも悩ましい。或いは、屈強な漢たちを真似て寒中水泳に興じるのも面白いかもしれない。とは言え、言い得て妙かな、寒さに凍えているのに自ら進んで海へと向かう様は、まさに飛んで
とにかく、いよいよ寒さも限界が差し迫っている。鈍った思考をいくら回したところで出てくる解決策の質は高が知れているのだから、いい加減藁の褥から這い出ることも本気で検討しなければいけないだろう。
けれど、そんな雑念は、体を起こすなり飛び付くように肌を寄せてきたクロのおかげで、もれなく吹き飛んでしまった。
「……玲っ!?玲!!」
「…………クロ」
泣き腫らして顔をくしゃくしゃにしたクロが、躊躇いもなく抱きついてくる。
クロを受け止めた勢いで倒れそうになるも、咄嗟に”両腕”を後ろに引き突っ張り棒代わりにして何とか耐えようとした。しかし、片腕を無くしてまだ間もない体だ。勢いを殺しきれず、またバランスも上手く取れなかった自分は、見っともなく派手な音を立てて背中から盛大に倒れてしまった。
「「…………」」
お互いに何と声をかければいいのかわからず、二人の間にしばしの沈黙が横たわる。
……いや、そうじゃない。
不安に全身がひどく強張っていたクロは、目を覚ました自分を見て安堵すると、幸せそうに自分の体にゆったりとしなだれ掛かってきては、自らの体温を分け与えるかのように隙間なく密着してくる。どうしてか君は、出逢って間もない頃のように薄着でいて、その上、前はボタンの一つも止められていなかった。君のひんやりとしながらも微かに上気して赤らんだ柔らかな肌は、自分の肌に介すものなくもったりと重たく吸い付いて離れない。申し訳程度にコートを着てはいた。けれど、それもゆったりとした半端な着方でしかなく、仮に自分がその華奢な肩に悪戯に手を伸ばしたなら、たちまち君は一糸纏わぬあられもない姿になってしまうことだろう。
それなのに、クロを拒まず、まして咎めることすら出来なかったのは、ひとえに自分の慾が原因だった。一度死ぬような体験をしたせいか、頭のネジが外れてしまったのかもしれない。或いは、生物としての生存本能が暴走しているのが要因という可能性もある。でも、きっとそれはどちらとも真実で、それ以上に満ち満ちていく言い知れぬ感情もまた、君の非力な抱擁から離れ難い理由の一つだった。
次第にクロと自分との境目は曖昧になっていき、いつしか擽るように肌を撫でてくる生温い吐息だけが明らかな刺激となった頃、いつまで経っても離れてくれないクロに苦笑しながら、自分はクロごとゆっくりと体を起こした。その時の、君との間に空いた僅かな距離にさえ狂おしいほどのもどかしさを覚えてしまったのは、恥ずかしいので君には内緒だ。
「服、どうしたの?」
自分は、至極平静を繕ってクロに尋ねた。
自分の服がない分には何ら不思議はない。おそらく応急処置の際に邪魔であったか、あまりに汚れ過ぎていて不衛生であったとかで脱がされたのだろうとは思う。
実際、腕は不恰好にもしっかりと包帯が巻かれており、血も止まっていた。どこの誰の手によって施された処置かはわからないが、もしこれをコウタが自力で考えついて処置を施したのだとしたら、もはや天才としか言いようがない。
けれど、何も自分が知りたいのはそういうことではない。
自分の太ももを跨いでちょこんとおとなしく正座しているクロは、懐かしくも自分のワイシャツを着ていた。前が固定されていないせいで位置の定まらない身頃の衣擦れる音が、カリカリと自分の心を掠めるように引っ掻いてきて、堪らない。それに加えて、安物が故に薄手の生地から所々透けて見える肌色も相まって、いつ理性が吹き飛びやしないかと内心焦りっぱなしだった。早急に、かつ自主的に、クロを窮屈な服へ着替えさせるための真っ当な理由が欲しかった。
しかし、幸か不幸か、それは限りなく望み薄だ。
「……雪で、濡れちゃったから」
「転んだの?怪我はしてない?」
「…………」
クロは小さく首を振って否定する。でも、背中で揺れる尻尾は自信なさげで、それに両膝が霜焼けでとても赤くなっていたから、きっと派手にずっこけたに違いない。
それに、クロ用に作ってもらった服が部屋の隅に放られているのを見つけた。そのどれもがひどく水を吸ってぐしょぐしょで、全くどう転けたらこうなるのかと尋ねたくなるほどに泥の跳ねも凄まじく、とてもではないが、あの服をクロに着直せとは言えそうもない。それに、濡れた服を着て風邪をひいたとあっては、本末転倒もいいところだろう。
自分は仕方なく、己を律することでクロの信頼に応えることにする。
とは言っても、決して短くない期間クロの服嫌いと付き合ってきた自分だ。きっと、たぶん、おそらく、十中八九、九割九分九厘、平気だと思う。
……もしもの時は、ソラと獏のせいにしよう、うん。
そんな心にもない言葉でも、台詞として唱えればいくらか気持ちが落ち着くのだから不思議だ。
「無事でよかった」
気付けば、なんとも他愛ない言葉を自然と口にしていた。他にいくらでも言わなければならないことがあるだろうに、偉そうに冷静ぶったつまらない台詞が真っ先に出てきてしまうあたり、自分という人間は死に直面してもなお成長しない愚鈍な生き物だと言外に指摘されているようで凹まなくもない。
しかし、そこまで考えても、なお自分が言葉を変えなかったのは、客観的な人間性を押しても、クロがこうして無事であることが何よりもまず嬉しくて、ほっとしたからだった。
誰が動けない自分をこの悪天候の中で小屋まで運んできてくれたのだろう。魔法では治らないこの厄介な体を、しかし諦めずに最低限の手当を尽くしてくれたのは、一体どこの誰なのだろうか。そんな疑問たちは、ここで目覚めた瞬間から確かにあった。けれど、それよりもまずクロの安否を心配したのは、自分が意識を失った時の状況が理由である。
銃声を聞きつけて表へ出てきた村人たちがまず目にしたのは、果たしてどのような光景だっただろうと想像してみる。当然ながら、村長さんと自分が血を流して倒れているところだったことだろう。その時、一体どれだけの村人が自分を人間だと見抜いたかはわからない。しかし、村長さんが怪我をしていて、その反対側には死んだはずの人間と半端者の二人だ。どちらの味方をするべきかなど、迷うことすらなかったに違いない。
そして、そんな物騒な状況をいちいち静観していなければならないほど、魔者は一人一人が決して弱くはない。つまり、度し難い悪を前に、遅れてくる英雄を待つ理由など何一つないのだ。だから、村長さんに仇成した不届き者が現場から逃走を図ろうと動いたならば、当然捕縛しようと追いかけてきただろうし、仮に見失ったとしても、そう簡単には諦めてはくれず、血眼になりながらしつこく尻尾を掴もうとしてきたはずだ。
だから、そんな村人らをどのようにして巻いたのか、それもまた並々ならぬ興味がそそられる内容ではあった。
しかし、やはり、クロが自分のせいで暴力を振るわれて痛い思いをしてはいないかの方がよっぽど重要なことだった。
その点で言えば、目のやり場に困るほどの過度な露出も悪いことばかりではない。あまりまじまじと見るわけにもいかないが、村長さんや村人たちに暴行されていないかを確認する手段としては、他ならぬ自分の目で確かめるのが一番手っ取り早く、また信用ができた。
しかし、その肝心の自分自身も、信頼ならない点は少なくない。
「…………どうしたの?」
「ぁ、いや、なんでもないよ?」
そんな自分の動揺を見れば、流石のクロも自身を見つめる視線に気が付いてしまったようだ。
「…………うぅ」
クロは恥ずかしそうにもじもじと内股を擦り合わせながら、しかし急ぐでもなく焦るでもなく、そうっと前身頃を両手で掴んでは閉じ込むようにして抑える。
そんな一仕草を取っても、こうして改めてクロを近くで見てみると…………うん。以前よりも断然、色々な面が良い方向へと変わっていた。
元々は烏だったクロには、人としての生き方がとても窮屈だったのだろう。何を教えても大人しく言うことは聞いてくれはしたけれど、納得をしてもらうまでには長い時間がかかったことをふと思い出した。それに、言うまでもなく自分たちは貧乏だったから、今やどこの家庭にもあって当然なシャンプーやリンスさえ用意できずクロの髪ははね放題のボサボサだったし、栄養も満足に確保できていない食事のせいで肌の血色もかなり悪かった。
もちろん、そんなクロが嫌いだったなんてことはない。むしろ、はね放題の髪は仕立てる前の白無垢の糸のようでさえあって、そんなあどけないクロが不意に見せてくれる微笑みを自分は少なからず気に入っていた。
それなのに、少し顔を合わせていない間に、クロは驚くほどに女の子らしくなっていた。それはもう、息を呑むほどにだ。雪のように白くもどこか陽だまりの匂いを感じさせる飴のように艶やかな長い髪も、もっちりとしてきめ細やかな健康的な肌も、他の何を取っても、とても貧乏家庭の娘だったとは思えない。きっと、猟師さんとお弟子さんたちがクロにとても良くしてくれていたのだろう。やはり、自分はクロといるべきではなかったようだ。
容姿の綺麗さや人らしさといったものは、直接は君の夢には関係のないものだろうけれど、それでも、クロがこれから送る毎日を明るく華やかにしてくれる重要な要素だ。事態が落ち着くまで村へは帰れないにしても、クロが猟師さんたちと一緒にいた方が良いことは、もう明らかな事実となってしまった。
「……明日は晴れるかな?」
でも、追い返すにしても、クロには着る服が他にない。だからと言って、看病をしてくれていた相手を無理やり追い出すような鬼にもまたなれそうもなかった。だから、遠回しに、別れの叶う明日の晴天を密かに願う。
「……使う?」
そんなこととは露とも知らず、クロは律儀に首から下げている天気管を手に取り、自分がよく見えるようにと掲げてくれた。屋根の穴の下付近にいた自分からは、丁度それが影の中から宝石を乗せた白亜の手が伸びてきたようにも見えなくもない。さながら美術品といった様相に、果たして自分がこれに触れしまっても良いものかと悩まされもした。しかし、黙って動かない自分に、仄暗い影の向こうでクロが小首を傾げてきょとんとしているのが目に入ると、何を馬鹿なことを自分は真剣に考えているのだと思わず小さく笑ってしまった。
「……まだ遠い?…………これで見える?」
クロはおもむろに腰を浮かせて立膝になったかと思うと、ふらつきながらも数歩前へと進み出て、自分と同じ光の当たる場所まできてくれた。
「…………もっと?」
「……いや、もう十分」
「……わかった」
屋根から雪と共に差し込んでくる白んだ明かりが、天気管を包み込むようにして周囲を淡く照らし出す。上部に施されたリンドウの花を模した金属細工が、陽光を浴びた細氷のように儚くも力強く光瞬いていた。
君はいつだって、動けないでいる自分を見かねて近づいて来てくれる。なのに、自分はどうだろうか。君の優しさを素直に享受したいと思いながらも、その傍らで断る理由を探し続けている。
そんな矛盾する感情に挟まれた心が頼る先は、決まって自分が傷付かなくて済む未来を選ぶためのつまらない言い訳だ。
「晴れるみたい。とは言っても、確証はないんだけど」
天気管は、幸いなことに晴天の未来を示してくれている。
それでも、なお自分の心を覆う暗雲が晴れる気配を見せないのは……ああ。つまり、そう言うことなのではないだろうか。
…………何を今更。
認める訳にはいかない自分は、慣れた手つきで静かに件の矛を収め、脆弱な盾こそを不戦勝とする。
そうだ。今までも、これからも、それが自分という人間が選ぶことのできる最善手。だから、どうか早く。ボロを出す前に、何としてでも天には晴れてもらわねばならなかった。
なのに、一体どうしたことだろう。あろうことか天気管は、焦る自分を嘲笑うかのように突然未来の結果を翻した。
「……玲は、いじわるだ」
それは、クロが俯きながら天気管を胸元に引き寄せた時だった。唐突に、天気管の底に沈む深紅の結晶の模様が異様にどろりと脈打ったかと思うと、ほぼ透き通っていたはずの薬液が瞬く間に白く濁凝ってしまったのだ。
到底あり得ない怪奇現象を前に、しばらくは茫然自失として空いた口が塞がらなかった。催眠術か何かで幻を見ているのではと、そう真剣に疑いさえした。けれど、いくら確かめても、クロの指の隙間から覗いた天気管は無慈悲にも悪天候の前兆を変えることはない。自分の求めた晴天は、どうしてか望んだ途端から分厚い雲に覆われてしまった。
そして、その動揺の落ち着かぬうちに、君の寂しそうな声が頭にずんと重たく響く。
「……ねぇ、玲。何かわたしにして欲しいことはない?なんでも良いんだ。どんなことだって頑張るよ」
突然何の脈絡もなしに飛び出して来た言葉が孕む意味の全容を、恐らく君は正しく理解してはいないのだろう。
けれど、逆にそれがいけなかった。
……君こそ、いじわるだ。
クロの声は、いつだって自分の理性を溶かそうとしてくる。もちろん、君にはそんなつもりはないのだろう。けれど、自分が君を突き放す度に、わがままを許してくれない自分をなんとか籠絡せんと口にしてくる真っ直ぐな想いは、今まで他人の言葉を片端から冷めた目で突っぱねて来た自分の心を狂おしいほどに震わせてくる。純粋な心が至ることの叶う献身という境地は、けれど一歩間違えれば途端に嫌らしく感じられてしまう自己犠牲だ。そして人は、誰しも自分のためにしか生きられない。
だから、わかってる。これは違う、そうじゃない。
……でも、どうしても、ダメなんだ。君が寄せてくれている想いを、切なそうに泣き縋ってくる君の声を聞く度に、胸が張り裂けそうだった。たくさんの人に理由もなく嫌われていじめられていたのに、それでも自分のことよりも他人を本気で心配できてしまうような、そんなどうしようもないくらいお馬鹿で損ばかりしてしまう優しい君をだ、自分は一体どんな理由を以って無視しなければならないんだと葛藤したのも一度や二度ではない。面と向かって会話ができないほどの極度の人見知りなのに、それでいて落ち込んでいる相手には、つきっきりで寄り添い何の臆面もなく大丈夫だよと口にできる強かさがあって、わがままを言う時の上目遣いがあざとくも愛らしくて、とても心配性で臆病な性格だと言うのに、困っている他人があったら後先考えずに迷わず助けに行ってしまう。水面に映る月のような銀色の大きな瞳は綺麗だ、人ならざる猫の耳や尻尾も君を彩る魅力の一つだ。今は見えないけれど、背中にある烏の頃の名残りの黒い翼だって、君は見られるのを嫌がると思うけど、とっても素敵だなって思っている。良いところだけじゃない、頭を抱えたくなるような悪い一面だってそうだ。残らず全て、全部が全部大切で、本当は自分はこの手で守りたくて仕方がなかった。
でも、他ならぬ自分がそれを許せない。
「……ごめんね、クロ」
こんなどうしようもない人間は、君の側にいる資格がない。そういじけて悲しむくらいなら、ひたすらに自分自身の無力さを呪うべきだ。
だから、苦しむべきは自分一人でいいし、そうあらなくてはならない。
それなのに、自分の無力はいつだって他人を深く傷つけてしまう。
「……どうして謝るの?玲は、わたしが間違えそうになったから来てくれたんだよね?だったら、ごめんなさいをしなきゃいけないのは、わたしの方だ」
クロは自分は悪くないと言ってくれたけれど、果たして本当にそうなのか、甚だ怪しい。
今朝の出来事が、誰しもが認め疑わないほどに精巧な善人の皮を被った狂人の突拍子もない奇行であったなら、未然に防ぐことは叶わなかっただろう。
しかし、現実は違う。自分は白の仕事の内容に薄々勘づいていたし、その実態も遺された日記を読んでいたから知っていた。日によって明らかに違う筆圧が、白の感情の波を教えてくれた。特に仕事の前後は酷いもので、先数ページに渡って悲鳴と絶望に乱れた跡が深々と残るほどだった。時には紙が飲み物を溢したかのように皺になっていたり、穴が空いたり破れている箇所も少なくなく、不定期に現れる不気味な滲みの正体を想像すると背筋が凍った。そうして、やっとの思いで地獄の夜を乗り越えたとしても、束の間の平穏すら悪夢に侵食される日々だ。暗澹とした時を永遠と過ごし続ける中で、白の心が摩耗し擦り切れてしまうのは時間の問題だった。何も悲しいばかりの話ではない。このまま他人に甘いところを奪られ、その代わりにと苦汁を飲まされ続けるくらいなら、さっさと世界に絶望して生きることを放棄した方がよっぽど白は楽だったはずだ。そんな認め難い考えが、しかし脳裏に鮮明に浮かぶほどに、白は幼少期から絶えず他人の不幸を押し付けられ背負わされる毎日を耐え続けていた。
けれど、不幸にも白には心の支えがあった。どこかで拾ったのだろう新聞に見つけた”悪夢”を、白はとても大切にしていた。常人から見れば何の面白みもない記事だ。けれど、白はそれに、決して叶わないとは理解しながらも希望を持ってしまった。そして、今度は来ない救いを待ち続けるだけの寂しい時間が始まってしまう。
そんな、光のない生きつなぐためだけの夢を見るまでに至る原因を作り出したのは、他ならぬ村長さんだ。それなのに、白の運命を歪に捻じ曲げた彼の身勝手な蛮行が、自分はどうしてか根拠も無しに繰り返されないと思い込んでいた。
だとするならば、今朝クロが白と同じ地獄へと引き摺り込まれかけたのは、ひとえに自分の浅はかさが招いた結果とは言えないだろうか。
自分は、村長さんが冥土の土産と打ち明けた、罪悪感と言う名を借りた傲岸不遜極まりない呵責の念と、そんな精神的負い目を餌に醜く肥え育っていた逆恨みの心に気が付けなかった。自己防衛本能による罪の正当化を執拗に悪く言うべきではないだろう。しかし、それでも彼は一度罪を犯した。加えて、クロの容姿は白に遠からず似ている。本来なら、二度目を疑ってかかるべきだった。
なのに、自分はそうはしなかった。傍観者でいることを選んだ。白の味方も、クロの味方も、村長さんの味方もせず、ただ成り行きに任せて何も行動を起こさなかった。そんな人間を、とても善人とは呼べないだろう。
それなのに、自分のことを悪くはないと言い切るクロだ。きっと白と同じように、悪夢を見ているに違いないのだ。
けれど、君はいつだって、自分の心を見透かしたような優しい瞳を向けてくる。
「……わたしは、いけない子だ」
「どうして?」
「……まだ、わたしは玲に助けてもらえるんだ。そう思ったらね、嬉しくて、安心してる」
慈愛に満ちた瞳で悪戯っぽく微笑むクロに、堪らずどきりとさせられた。動揺を隠せずに視線を泳がせるも、それでもクロの瞳は自分の心をつかんで逃してはくれない。
「ありがとうじゃダメなんだ、足りないよ。ちゃんと玲が喜んでくれるようなお礼がしたい。それなのに、想いをちゃんと伝えられるお礼の仕方がわからなくて、だから……」
「だとしても、女の子が何でもお願いを聞くなんてことを言っちゃダメだよ。人は慾の塊だ。昨日まで善人だった人が、突然悪人になることだってよくあるんだよ。クロはお人好し過ぎる。もう少し優しくする相手は慎重に選ばないと」
自分は、何を言われても、何度その透明な瞳で上目遣いに懇願されても、クロのお礼を拒み切る自信があった。正論を引き合いに出して話を有耶無耶にするのは簡単だ。相手が無知で素直なら尚更効果覿面である。
しかし、意固地になっているのはクロも同じだ。
「……なら、悪人になって」
「…………え?」
「…………今の玲は、少し嫌いだ」
袖にされ続けて拗ねてしまったクロは、罰が悪そうに視線を落としたかと思うと、消え入るような声でそう呟いた。
それは、本当になんてことのない、幼い子供が口につく屁理屈のような他愛ない言葉だった。しかし、その一言が、まるで心臓に五寸釘を打ち込まれたかのような得体の知れない痛みを自分にもたらして、喉が詰まったかのように息ができない。
「……玲は良い人でも悪い人でもないのに、どっちにもなろうとしてる。それってすっごく変だ。だから、わたしのお願いを聞いてくれないし、自分のお願いも言ってくれないんだよね?」
善人と悪人を使い分けるどっちつかずな自分の態度に、クロはひどく困惑し憤っていた。
「別に、そんなつもりはないよ。ただ、良かれと思って……」
「……なら、たまには欲張ってよ。そうじゃないとわたし、いつまでもひとりぼっちだ」
相手に何も必要とされず、また求めても一つも願いが受け入れられないのなら、自分は相手にとって居てもいなくても変わりのない存在だと言われているようなものだ。そんな気持ちを自分は痛いほど知っていたはずなのに、気付けば同じ苦痛をクロに強いている自分がいた。全く笑えない冗談だ。これほど胸糞悪い話が他にあろうか。少なくとも、自分は自分の犯した過ちを到底赦すことはできそうもない。
「……ひとりはいやだよ」
クロの言葉が、少しずつ、しかし着実に自分の決意を曇らせていく。
だから、これ以上クロと真正面から戦ってはいけないと思った。
「そうだ、村でどんなことをしたか聞かせてよ」
クロは黙ったままで、何も答えてはくれない。
しかし、自分はめげずに戯言を続けた。
「村は楽しかった?屋根のある家はここよりも快適だったでしょ?」
その答えは、あえて聞くまでもない。君の容姿の変化や、ちょっとした仕草から見える心の機微が、村での日々が充実したものであったことを詳らかにしてくれている。
だから、この話の本題は、村での生活を気に入ったかを尋ねるものではない。むしろ、その逆だ。
「黙ってたらわからないよ。……もしかして、クロはコウタが嫌いなの?」
「……そんなことない!」
「なら、テツさん?それとも、新しくできたって言うお友達にいじめられてるの?」
「違う、違うよ!」
クロは激しく首を横に振って、自分の言葉を否定する。それは、自分の期待していた反応の一つだ。
「村が嫌いなわけじゃないんだよね?なら、良かった」
「どうしてそうなっちゃうの?いっつもそうだ。玲はわたしの知らないところで一人で納得しちゃう!」
「そうじゃない。勘違いしてるって、ただそう言いたかっただけなんだ」
おもむろに、自分は深呼吸をしてみせる。心を落ち着かせるためにではない。気の抜けた演技のためだけに冷気を胸いっぱいに吸い込んだ。
そして、ついでとばかりにその温度を利用して、突き放すような冷淡な台詞を君に偉そうに吐き出す。
「クロはこれから、たくさん大変な思いをすると思う。コウタも、テツさんも、お友達も、きっと君のことを放って置いてはくれないよ。クロが何を言っても、もう一人にだけはなれないんだ。だから、もう自分はひとりぼっちなんて言っちゃダメだよ」
「……でも、みんなは玲じゃない!!」
「そりゃあそうだよ。人は誰一人として同じ人はいない」
君が思っているよりも、世界はもっとずっと広い。だから、ここで拘るのはきっと良くない。目先の小さな幸せにばかり囚われていると、周りにある大きな幸福を逃してしまうから。
「いつまでも俯いてちゃダメだ。君は、もう昔の君じゃない。何でもできるし、それを応援してくれる味方がこれからもたくさんできる」
君は、少し寂しい思いをし過ぎた。だから、小さな光にさえ心は全力で縋り付き、また失ってしまうのではないかと不安を覚えて、こんな人間に繋縛されてしまっているのだから。
このままでは、君はいつか後悔する。どうしてこんな相手に縋り付いてしまったのだろうと、そして不意に隣にある幸せを見つけてしまい、何度も悲しみにため息を吐くことだろう。そんな君の姿を、自分は絶対に見たくない。
「……クロは、思い立てばどこまでだって飛んでいけるんだ。だから、ここにいる必要はないんだよ」
君の翼は、烏の頃には叶えられなかった夢を実現させるためにこそある。なのに、自分はまだ、一度だって君が空を飛ぼうと試みたところを見たことがなかった。
だから、自分は願う。君が再び空を飛ぶ夢を思い出して、何にも縛られずに幸せに生きていく日々を切望した。
でも、それでも。君が帰る場所に困ったのなら、その時は……。
「……こうしよう。クロが自分の夢を叶えてたくさん幸せになった時、もしさっき言ってくれた想いが変わってなかったら、素直にお礼をもらうことにする。……どう?」
幸せの絶頂に至った時、もしも気紛れに悪夢に憧れたなら、今度こそ君の言葉を素直に受け止めよう。
でも、その頃には君は手の届かない空の上だ。その両翼で大空を羽ばたき、海を越え、山を越えて、自分とは別の世界にいることだろう。ならば、君は絶対に自分を見つけることはできない。だから、これは約束ではない。時が解決する、悪夢の忘却その一点に期待した、叶わないことが前提の仮定の話。
「……嘘つき」
「嘘はついてないよ」
「…………」
「…………クロ?」
てっきりこれから不毛な言い争いが続くものと思っていた自分は、突然思い耽るように黙ってしまったクロが心配で、思わず声をかけてしまった。
しかし、沈黙はほんの一瞬のことで、今度は逆に不気味なほど優しい微笑みを向けてくる。
「……ごめんね」
クロが謝る理由が、意味が全くわからない。けれど、何かとてつもなく悪いことが起こる予感がして、ひたすらに警戒した。
なのに、君はと言えば、深刻な表情で身構える自分を揶揄うでもなく、一人勝手におどおどとしながら胸元の裾に手をかけたかと思うと、とても恥ずかしそうに顔を赤らめながら悪戯っぽく言うのだ。
「……あのね、玲。ちょっとだけ後ろを向いてて。お願いだ」
「……う、うん。わかった」
「……ありがとう」
動揺していた自分は断る理由がすぐに思いつかず、素直にクロに背を向けてしまった。
程なくして、布が擦れる艶かしい音が背後から聞こえてきた。思えば、烏の頃の生活習慣が抜けない無知奔放なクロに自分から目を背けることは多々あったが、クロの方から見ないでと言われたのはこれが初めてのように思う。そう思うと、途端にそわそわとして気持ちが落ち着かず、緊張で全身が石になってしまったかのように固まってしまい、もはや息をすることすらままならなくなっていた。
なのに、そこに追い討ちをかけるような不穏な言葉が、クロの声で耳に届く。
「……大丈夫だよ。わたしが、玲をひとりぼっちにはさせない」
それは一体どう言う意味かと、そう尋ねるつもりだった。
しかし、次の瞬間、逸早く自分の目に飛び込んできたのは、狂気に満ちた光景だった。
……なっ!?
屋根から差し込む乳白色の光が、背後にいるクロの姿を壁にシルエットとして映していた。自分を飲み込むほどに大きな影の正体が烏の翼であることは、考えるまでもなくすぐにわかった。だからこそ、わからない。そんな大きく立派な翼へと恐々と伸びていく長細い影が、何を思ってこれほど奇怪な姿勢をあえて取っているのか、その目的に全く見当が付かなかった。
けれど、その影が片翼の根本と丁度重なった直後、自分はクロのしようとしていることに気が付き激しく戦慄した。
「…………クロ!?」
咄嗟に振り向いた時には、もう遅かった。
「…………ぁ゛っ!?」
硬質な繊維質の束が爆ぜたような軽く甲高い音と共に、少し遅れてクロの重苦しい悲鳴が鼓膜よりも先に自分の心臓を貫く。
「クロの馬鹿!何してるんだよ!!」
自分が駆け寄りそう即座に問い詰めても、クロは目を見開き虚ろに視線を彷徨わせながら小刻みに震えるばかりだった。
肩から衣服を外して腰もとまではだけたクロの背中には、へし折れた翼の残骸が痛々しく垂れ下がっていた。
しかし、それでもクロは足りないとばかりに、背中の翼の付け根を握る手だけは決して離そうとせず、あろうことか、そのまま翼を捥ぎ取ろうと手を動かし始める。
「もうやめてよ!そんなことしても痛いだけだ!!いいからやめろ!!」
「……いやだ!やめないよ!!」
「……っ!?このわからずや!そんなことしたら死んじゃうよ!!」
一生のうちで初めて心から全力で怒鳴った。初めて自分から衝動的に女の子に飛び付いた。なのに、そこまでしてもクロは自分の言うことを聞いてはくれなかった。
自分に拘束されながらも、クロは宙ぶらりんの翼を意地でも捥ごうとじたばたと暴れ続ける。細い腕が翼を引っ張る度に、太い杭で体を縦に貫かれたかのように大きく四肢が跳ねた。
自分の胸元で喘鳴を漏らしながら苦痛にのたうち回るクロを覗くと、まるで火刑にでも架けられているのかと疑うほどに激しい脂汗をかきながら、息つく間のない激痛に顔を歪ませていた。大きく口を開けてえずくように喘ぎながら、それでも背中でだらんと垂れた翼を離そうとはせず、執拗に何度も何度も引っ張って無理矢理にでも千切ろうとしている。
しかし、いくら魔者が人とは比較にならないほどの力を持っているとは言え、無理な体勢では上手く力が伝わらず、しなやかで強靭な筋繊維はそう簡単に切れてはくれない。それをクロは捩じ切ろうと乱暴に捻り、今度は背中ごと剥がれてしまわないかと疑うほどに勢いをつけて思いっきり引き抜こうとするせいで、クロの爪の間には抉られた肉片がびっちりと詰まり、指先は血塗れだ。けれど、どんな手段を講じても、どうしても切り離すまでには至らず、そうして愚行を重ねる度に、艶やかな濡羽色の羽が無惨にバラバラと宙を舞い、いつしか足元に雪のように降り積もった羽は床を真っ黒に覆い尽くさんとしていた。
「……いやだ、やめてよ。だめだ、その翼がなきゃクロはどうやって空を飛ぶのさ」
ぼとぼとと音を立てて滴り落ちる真っ赤な鮮血と堆積していく黒い羽を見ていると、君と言う存在を構成する全ての要素が世界に溶けてしまい、次の瞬間には何一つ残さず完全に消えてしまうのでは思えてしまって、怖くて悲しくて気が狂いそうになる。
壊れた玩具の人形のように全身をガクガクと不規則に震わせるクロを、自分は失いたくなくて、誰にも取られたくなくて、ありったけの力を込めて全力で抱きしめた。それでも、時折襲いかかるのだろう、死を想起させる痛覚の限界を超えた凄絶な衝撃には到底敵わず、自分の言葉は死の恐怖の前には呆気なく搔き消されてしまい届かない。
クロは幾度も気を失いかけながらも、その度に歯を食いしばって耐え、再び背中の翼に手をかけるを何かに取りつかれたようにひたすらに繰り返す。それは、もはや勇気と呼ぶにはあまりに生温過ぎる。クロは、見るに耐えない悲壮な覚悟ただ一つだけもって、また翼を捥ぎ取らんと必死の思いで足掻き続けていた。
終わりの見えない地獄のような光景に、自分はもう何もかもが限界で、クロの手を無理やり捕まえて止めてくれと涙ながらに懇願した。けれど、いくらクロとはいえ、相手は魔者だ。本気の力勝負で叶うわけもなく、呆気なく振り解かれてしまう。
だから、せめてその痛みと苦しみを少しでも一緒に背負えればと、自分は子供のような駄々言でクロを止めるのはいい加減諦めて、いっそクロの手助けをしようと決意をする。
「……クロ、我慢してね。……死んじゃわないでね。絶対だよ」
「…………うん」
弱々しい返事に、本当にこれで良いのかとひどく迷った。けれど、これ以上クロを苦しめたくない一心で、クロの背中へと手を伸ばす。
無理に力を加えられたクロの翼は、触れることすら躊躇われるほどにぐずぐずに崩れていた。きっと指先が少し触れただけでも、人を発狂させるには十分な痛みがクロを襲うのだろう。
だから、やると決めたら手加減はなしだ。全力で臨まなければ、むしろクロを長く苦しめることになってしまうと腹を括る。
「……他にできることはある?」
「…………ううん、大丈夫」
そう言うクロは激痛の嵐にぐったりと疲弊していて、今にも芯が抜けたように倒れてしまいそうだった。
そんなクロに張り付いた狂気が少しでも安心で溶かせればと、自分は改めて密着するように片手で君を抱き寄せる。クロも、遠慮がちにだけれど応えてくれた。今この場で君の頭を撫でられたらどれだけ良かったか。ずっと無価値だと考えていた自分の体のその片腕は、しかし、大切な人に安心を届けるためには必要なものだったのだと気付く。
けれど、栓なきことだ。今は目の前で痛みに縮こまるクロのことだけに集中する。
「……いくよ」
「…………うん」
なるべく痛む時間が短く済むようにと、クロの呼吸が落ち着いくタイミングを見極める。
そして、自分は渾身の力を振り絞り、全力を以ってクロの翼を引き千切った。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ……………………!?」
耳を劈くようなクロの絶叫に、自分は祈るように天を仰ぎながら、全て受け止める覚悟でじっと付き合う。背中にはクロの指が折れんばかりの力を込めて突き立てられ、爪が肉を掘り起こすほどに深々と食い込んでいた。痛みに耐えようと力みながら抱きつくクロに力加減をする余裕などあるはずもなく、いつ背骨が真っ二つにへし折れてもおかしくはないほど体が激しく軋む。それでも、クロの苦痛が少しでも紛れればと願いながら、自分からもクロの震える小さな体を強く抱きしめ返した。
「…………ねぇ、玲」
しばらくして、少し痛みが落ち着いてきたのだろうクロは、血のついたままの手で頬を伝う涙をごしごしと拭ってから、どうしてか照れ臭そうに顔をあげた。つい先程まで自身の命に手をかけていたとはとても思えない表情に、自分もつられて肩に入っていた力が抜けていく。
クロの声は今にも消え入りそうなくらい小さく弱々しかった。強がってはいるけれど、今も翼を失った痛みで全身が痙攣していた。本当なら、こうして話すことだって辛いに違いない。そもそも、こんな短時間で痛みが引くなんて期待が持てるほど生易しい負傷ではなかった。
それなのに、クロはとても強かだ。君は苦痛に顔が歪むのを必死に耐えてまで、自分を心配させまいと笑顔を浮かべて気丈に振舞ってくれている。
そして、不意に自分にだけ聞こえるように、囁くように言った。
「……わたしは、ここにいるよ。どこにもいかない」
「……っ!」
クロは、より一層慈愛に満ち溢れた優しい微笑みを見せながら、努めて明るい声音で、また心から未来に期待するような幸せそうな表情で、寂しがり屋の子供を慰めるかのようにゆっくりと言葉を紡いだ。
その言葉の”意味”に気がついた時、自分は押し寄せる激しい感情の波に耐え切れず、大粒の涙を人目も憚らずにぼろぼろとこぼしてしまった。
君は、”そんなこと”のためにっ…………!
安い台詞だけれど、本当に嬉しかった。じんわりと胸に広がる熱が心から愛おしい。きっと、自分は一生をかけても、この気持ちを言葉で表すことは叶わないだろう。でも、この想いはどうしても伝えたくて、嬉しくて堪らず、もうどうにかなってしまいそうなほど幸せなのだと、そう君に信じて欲しくて。けれど、いつも気持ちを正直でいることから逃げ続けてきた自分には、自分の言葉で想いを伝えることが何よりも難しくて。もどかしくて、悔しくて、耐え難い痛みが胸に広がっていく。
なのに、それなのに、自分はどうしても素直に喜ぶことができない。
「……ごめん。ごめんね」
「……謝らないでよ。わたしは、玲と同じことをしてるだけだ」
「……なら、なおさら謝らなきゃだよ」
クロが翼を捨てることを選んでしまったのは、元はと言えば自分が口にした言葉が原因だった。他人に何かを求める時、まずは自分が相手の欲しいものを贈る。そんな他愛ない言葉一つが、クロの夢を叶わないものにしてしまったのだと思うと、過去の自分を憾まずにはいられない。
でも、なら、どうすれば良かったと言うのだ。自分ではクロをたくさん幸せにできないのに、それでもクロを引き留めても良かったのだろうか。そうしていれば、君をこんな姿にしてしまわずに済んだのだろうか。考えても考えても、答えはいつまでも出てこない。ただ、クロの夢を奪ってしまったという確かな事実だけが自分の心臓を握り潰さんと締め付けてくる。クロを抱くように背に回している手には、まだ筋肉が断裂した時の悍ましい感触が生々しく纏わり付いていて離れてはくれなかった。
自分は、犯した罪の重責に首を絞められるような息苦しさを覚えながら、それでも赦しを乞うようにクロに深く頭を下げる。
「……こんなことは、もうこれっきりだよ」
「……うん、わかった……………………」
体力が底を尽きてしまったのだろうクロは、その言葉を最後に泥のように眠ってしまった。
自分も正直、起きているのがやっとの状態だった。けれど、ここで寝るわけには決していかない。
「……これから、どうすればいいのかな」
泣き言を言っている暇がないことはわかっていた。それでも、頼れる誰かの助言が欲しくて、思わず弱音が漏れてしまう。
……クロ。
目の前で穏やかな寝息を立てる君は、しかし、翼の断端からは絶えず血が流れだしている。白く滑らかな背中はひどく冷たくて、みるみる熱を失っていく体に、君のいない世界を想像してしまい、恐怖で震えた。
魔者の自然治癒能力は異常だ。日常で負うような些細な怪我は、たちまち元通りに治ってしまう。
しかし、それも万能ではないことを自分は知っていた。去年の、丁度今日と同じように雪が降っていた日だ。白は、何者かに銃で撃たれて死んでしまった。だから、今のクロの状態を前に、とても楽観的な考え方はできない。魔者の自然治癒の限界がどこにあるのかは、人間の自分には想像することすらも難しい。失った血の量に応じて治癒能力も著しく低下してしまうのか、そもそも怪我の重度で明確な回復限界が存在するのか。ともかく、クロが非常に危険な状態であることに変わりはない。
そんなクロを救うために自分が選べる選択肢は、たった二つしかなかった。
「…………使っていいものなのかな、アレは」
クロのために取れる選択肢の一方は、自分の荷物の中にある。
一先ず身動きが取れるようにと、眠ったクロが痛みに起きてしまわないように気をつけながら、今は優しく抱きつく手をそっと解いて、慎重に体を横にしてやる。本当は、はだけている服もちゃんと直してあげたかった。雪が降り止む気配はなく、むしろ寒さは増すばかりだ。それに、大量にかいた汗を吸ったワイシャツも、初めは体温と同じだったが、今では氷水のように冷たくなっていて、君が風邪を引いてしまわないかと心配にもなる。けれど、替えの服はなく、着付け直すにしても傷口に服が擦れて不快な想いをさせてしまいそうで、そっと裾を寄せるだけに止めておいた。
部屋の角にあらかじめ見つけていた自分の鞄を確かめると、幸い中身は何も手をつけられていなかった。その中から自分は、筆箱ほどの小さなポーチを取り出す。
「……ありがとうございます、ミナトさん。お借りします」
このポーチは、ギアフロータスを立つ時、医者の彼女からお守りとして無理やり持たされたものだった。
中を開けると、マーカーのようなカラフルな細長いペン状のものがたくさん入っていた。これらは全て、負傷した魔者の救急医療用にと作られた魔法薬を投与するための軟質プラスチック製の注射器であると聞いている。
初めは人間には効果のない魔法薬など必要ないと、自分は彼女の厚意を無下に突っぱねた。しかし、それでもとしつこく押し付けてくる彼女に、自分は渋々ながら受け取ったのだ。その時の自分は、一刻も早く村へと向かいたいと言う焦りでひどく気が立っていた。代金は要らない、返してくれなくても構わないからと、素直に物を受け取れない自分のために身を切ってまで彼女は本気で心配してくれていたと言うのに、薬を受け取る時には心にもない嫌味を吐いてしまったように思う。
しかし、彼女言った通りだ。
“助けられるはずの命を助けられない。そんな後悔を君にはして欲しくない”
現実、こうして役に立つ機会が訪れた。それも、何よりも失いたくない相手の命を救う手段になってくれた。次に会うことが叶ったなら、心から感謝しなければならないだろう。
とは言っても、千切れた翼を一瞬で元通りに再生させられる、魔物元来の自然治癒速度を劇的に向上させるような高額かつ取り扱いの危険な薬は一つもない。それでも、ペインキラーや解熱剤、殺菌剤や止血剤、果ては抗凝固剤と言った特殊なものまで、応急処置に必要だろうおおよそ全てのものが丁寧に揃えてくれてあった。
一先ず、数多くある薬の中から、クロの容体に必要と思われるものを片端から手に取り、一緒に入っていた小さな手書きの注意書き読みながら眠るクロに薬を投与する。
「これで楽になるといいけど……」
もちろん、これはあくまで本格的な治療まで保たせるための対処療法に過ぎない。いくらクロが魔者だとは言っても、自然治癒だなんて言う見えない力を心から信用して信頼し預けられるほど、自分にとってのクロの命は決して軽くはない。
だから、自分は選ばなくてはならなかった。
視線を落とした先は、選択肢の片方だ。彼女から貰ったポーチの中に、一本だけ他とは違う不要に凝った嫌らしいデザインのものが混入している。
……”
街を出発する直前、村長さんのことを教えてくれたお爺さんは、どうしてか自分に非合法の
魔者の世界で最も強力な鎮痛剤とされる”
だが、それはあくまで例えであり、実際は別の製造目的で生まれた副産物である。そして、魔薬という黒く大きな広告の裏に隠されたその異常な薬効こそが、自分が今求めているものだ。
「……相変わらず悪趣味なデザインだ」
医者の彼女から貰った薬が実用性に長けていた一方で、この魔薬は嗜好品として人が手に取りやすいような嫌らしい工夫が凝らされている。手触りの良い金属の容器は、一見すると高級な万年筆のようにも見えるが、それはあくまで人の目を避けるための隠れ蓑だ。けれど、それも金属の容器に塗布された砕かれた青白い石の混じった塗料が、夜空を飾る雄大な銀河のように激しく存在を主張しているせいであまり意味をなしていない。
――この宇宙の全ての根源であり、また全てを破壊する小さな星屑たちは、直視すれば視力を焼き切るほどに煌々と輝く瑠璃色の光を放つ。
それは、魔薬を使用した者の一人が遺した言葉であり、ある意味的を射ていた。
お爺さんに渡された魔薬の正体は、何世紀もかけて行われる進化を一瞬で実現するための薬だった。大量の種族の血液から精製された遺伝子のカクテルを対象の細胞に打ち込み、同時に疑似龍血と呼ばれる毒薬で急速に細胞を死滅・再生を繰り返させることで、生物の精神状態や深層心理に浮かぶ願望に応じて、表層の意思に関係なく、強制的かつ連鎖的に遺伝子改変を誘発させる、人智を超えた人体改造魔薬。しかし、擬似龍血は他に類を見ない再生能力を保有者に授けると同時に、急速に人の命を燃やし尽くして殺してしまう薬でもある。擬似龍血に素早く適応できなかった魔者は、数秒と経たずに立てなくなり、数分後には心臓が停止する。その症状は、まさに老衰の一言に尽きる。
つまり、この魔薬があれば、クロが快復するに留まらず、失ってしまった翼を元通りに再生することは愚か、以前のように空を自由に飛ぶことさえ叶えられる可能性があった。
そして、どうしたことか、自分の手元にある魔薬は世間に流通している擬似龍血を使用した
「……こんなものに頼ってもいいのか?」
龍の血と呼ばれるものが如何なる物質を指すのかはわからない以上、求める薬効が新薬にあるとは断言できない。しかし、試すだけの価値がないと選択肢から外すには、あらゆる要素が魅力的過ぎた。
そこで、ふとポーチを渡された時に医者の彼女に言われたことを思い出す。
何を言っても薬を持って行けと繰り返す彼女に、自分はもうお爺さんに渡された新薬があるからと適当に断った。その時の彼女の口にした言葉が、自分の手を光の当たる場所まで連れ戻してくれる。
“この世界で新薬なんて大層な名前で呼ばれる薬の大半は、違法に製造された危険なドラッグだよ。この世に蔓延るおよその病は、その病理や対処法を微塵も知らなくても、魔法の一言で簡単に解決できるからね。あえて新薬を語るのなら、それは間違いなく魔薬だよ”
お爺さんの騙る魅力的な薬効と、彼女の指摘する明らかな毒性。今この場でどちらを信じるかなど、あえて考えるまでもなかった。
冷静さを欠いていたことに気が付き、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。焦りは禁物だと、クロの命がかかっているのだと、選択を間違えないように自分に何度も言い聞かせた。
「……でも、だったらどうすればいいんだ」
残された選択肢は、安直といえば安直だが、真っ当にクロを病院へと連れていくことだ。
しかし、それには何もかもが足りなかった。診察に必要な身元証明もできないし、そもそも、自分たちは人間と半端者だ。世間では悪人とまで言われ忌み嫌われている。治療費を払える当てもないし、自分たちにお金を貸してくれる魔者などいるわけもない。仮に全てが都合よく上手く運んでも、雪降り頻る中で裸同然のこの格好では、村や街に辿り着く前にお互い凍死してしまう。更に言えば、自分は片腕を失っているし、元々貧弱な体力もろくに残っておらず、またクロも眠ってしまっていて意識がない。常識的に考えて、無事に人里までクロを連れていけるわけがなかった。
「…………無理だ」
痛々しい姿で横たわるクロに、自分は焦りと恐怖を覚えて頭を抱える。答えは出ていた。自分たちは、きっとここで終わりだ。
それなのに、お弟子さんに言われた言葉が頭から離れない。
“それで見捨てたのか”
白を助けられなかった自分に、お弟子さんは蔑むような目を向けてきた。ここで逃げたら、また自分は彼に激しく非難されるに違いない。
「…………絶対に助ける」
もしもこの世界に本当に言霊といものがあるのなら、それはきっと外の世界へ奇跡を望み偶然にも叶うなどと言うオカルト的なものではなく、自分自身の切なる想いを言葉として形にし、他の何に代えても理想を現実にせんと死に物狂いで足掻く者への心の支えなのだろう。
「…………どれだけ時間がかかるとしても、君の夢を取り戻して見せる」
不安しかない心を何の支えもなしに無理やり奮い立たせ、自分は残った力を出し切る覚悟で村へ戻る決意を固めた。
荷物は全て無視して、身一つで目指すのは猟師さんたちの家だ。人間の自分が頼れる相手は、彼らの他になかった。
「…………ギアフロータスまで飛んでいけたらいいのに」
そんな弱音は、頭を振って外へと追い出した。
「痛かったらごめんね。ちゃんと後で謝るから」
背に腹はかえられないと、クロが凍えてしまわないようにはだけていた服を直す。その後は、片手でもクロの体を安定して支えられるようにと、自分の荷物や小屋の中に残されていたゴミ同然のものを組み合わせて、自分の体とクロの体を固定するための道具を即席で用意した。これを抱っこ紐と呼ぶにはあまりに頼りないが、それでも片手で人を背負えるようになれば十分過ぎる働きだろう。
「……よし」
脱力したクロを背負うのにかなりの時間を労しながらも、なんとかずり落ちないように固定してゆっくりと立ち上がる。
小屋の外は、いつの間にか一面の銀世界だった。
「さむっ……くない!」
気が緩めばボロボロと出てくる弱音に、負けまいと歯を食いしばりながらでも笑みを作る。
そうだ、自分は一人ではない。だから、無理難題を前にしても頑なに我を張ることができる。
思えば、今日は他人の言葉に助けられてばかりだ。意味のない空っぽな他人の言葉など下らないと考えていたのに、なかなかどうして、侮れない。
たぶん、人の選べる未来はただ一つに決まっている。目の前に見える選択肢などはあくまでも体裁だけで、その実進むことができる道は一繋がりだ。そして、人は自分を自らのみの力では変えることは叶わない。ならば、無力な自分を物語の主人公のように奮い立たせて幸せを諦めない道を歩かせてくれているのは、他ならぬ周りの人たちが自分に贈ってくれた数々の言葉のおかげなのだろう。人は誰しも物語の主人公になれると言うけれど、その本質はここにこそあるように思えてならない。
魔者たちは、自分という人間を変えてくれた。それが良い方向に変わったのか、悪い方に傾いてしまったのかは自分ではわからない。けれど、人は誰かと出逢い触れ合うことでしか変われないのなら、今の自分を、歩む未来を変えたいと望むのならば、現在の自分が常に勇気を振り絞って精一杯生きなければならない。生きるためだけに生きるのは辛い。でも、君と二人ならば、一人では見つけられなかった本当の夢を見つけられるような気がした。
しかし、世の中は決して物語のように都合よくはいかず、むしろ意地悪く困難ばかりを突き付けてくる。
今だってそうだ。
「痛みはまだないようだね。良かったよ」
「……ヒノキさん、どうしてここに?」
番傘片手に気味の悪い笑顔を浮かべ行く手を塞ぐのは、自分をこの場へと誘ったお爺さんだった。
「もしかして、この治療はヒノキさんが?」
「ああ、お前さんが背負うとる
お爺さんの目的が見えず、自分は何も言えずに立ち尽くす。困惑して動けないでいる自分をお爺さんはどこか愉しそうな目つきで眺めるばかりで、どうやらこの状況の説明をしてくれるつもりはないようだ。
「季節外れの雪とは、お前さんもつくづく運の悪い男じゃのう。まるで誰かに呪われてるみたいではないか。そうは思わんか?」
内容の一切無い場を繋ぐためだけのつまらない話題は、なおさら自分の思考を濁らせる。世間話に付き合っていられるほど、今の自分には余裕はない。それなのに、どうしてかお爺さんを無視して横を抜けていくということができなかった。
しかし、その理由もわかってしまえば心底下らないものだ。
「さて、”水城玲”君。お前さんは何を望む?その対価に、何を支払える?」
お爺さんが自分たちを助けてくれるかもしれない。そんな自分勝手で馬鹿馬鹿しい期待を、けれど心の何処かで少なからずしていたのだ。
しかし、自分の目の前にいる杖をついた老齢の男は救世主などでは全くなく、むしろ人の皮を被った悪魔のような最低の魔者だった。
「クロ君は、君の腕の”止血”のために”全て”を差し出したぞ。……当然お前さんは、それも買い戻すじゃろう?」
「……クロに一体何を吹き込んだんですか」
「何も特別なことはしてはおらんよ。その子にとってのお前さんは、そうまでして助けたい存在じゃった、それだけじゃ」
そんな台詞を平然と口にするお爺さんは、しかし、心底可笑しそうな表情を浮かべていて、自分の怒りを執拗に煽ってくる。
自分の否を咎められるだけならば、まだ耐えることもできた。自分の身体をぞんざいに扱った報いだと哀れまれ蔑まれるのなら、素直に首を垂れて早急に懺悔を済ませ、がめつくも身の程を弁えず救いを求める道もあったはずだ。
けれど、そんな自分の淡い期待さえお爺さんは抱かせてはくれなかった。
「強いて言うならば、そうじゃなぁ。これほど自然な
「……クロはそんなんじゃないですよ」
「いちいち怒るのも構わんが、もたもたしていると背中の子がダメになってしまうぞ?」
両目に嵌った濁り穢れた大きな眼が、タバコのヤニに汚れた粘ついた口元が、そして何より、先ほどから顔に張り付いたままの下卑た笑みが、お爺さんが日向に生きる者ではないことをありありと示していた。その全てが、まるで人のものではない。さながら死体を継ぎ接ぎして作ったような血の気の感じられない腐りきった体からは、遠くからでも鼻を刺すような吐き気を催す膿の臭いが薄まることなく強烈に漂ってくる。もはや正論を口にすることすら躊躇われるほど、目の前の老人は救いようがないほどのクズだった。
クロの優しさに付け込んだ非道極まりない行為に、お爺さんに対する激しい怒りが心から漏れ出して身体を乗っ取らんとしてくる。
そんな怒りを目にしても、お爺さんの態度は至って変わらない。
「或いは、わしの薬に頼ってみるか?見たところ、今は手元にないようじゃが……。なぁに、安心せい、薬効は保証するぞ。きっかり5%の確率で生還できる」
「ご、ごぱっ!?冗談ですよね、そんな危険しかない薬だなんて聞いてませんよ!!」
「……今のお前さんに物を選ぶ権利があるとでも?」
「くっ…………」
自分に他に策がないことも、魔者相手に抗う手段を持っていないことも、お爺さんには全て筒抜けだった。それを知った上で、あえて交渉の体を取るのだから、胸糞悪い性根である。
けれど、自分にはお爺さんの前で膝を折る他に取れる道がない。他ならぬ悪魔その人が、自分たちの唯一の真っ当な道を目の前で横柄な態度で塞いでいた。
「…………どうすれば、自分たちを助けていただけますか」
「ははっ!お前さんならそう言ってくれると思っておったわい!」
相手は常に用意周到で、かつ狡猾で頭の切れるご老人だ。例え勢いで断っても、何か対応できる完璧な策があるに違いなかった。それも、自分一人が我慢すればどうにかなるような単純なものではないだろう。人を弄ぶような言動を笑顔ながらに口にすることができるような者が、安直で抜け道のある手を使うわけがない。だから、自分はとうとう敵対することを心から諦め、お爺さんの求めているだろう愚かながらも命恋しと小賢しく媚びる犬を素直に演じることにする。
そんな物分かりの良い能無しの若者を、さぞお爺さんは気に入ってくれたのだろう。大層嬉しそうに声を上げながら一頻り笑うと、戦意を喪失した敵の目の前で懐から煙草を取り出しては、見覚えのあるオイルライターで火を付けて一服し始めた。
そして、口腔に溜まった文字通りの紫煙を大きく吐き出してから、締まりのない惚けた顔で嫌らしく口の端を歪ませながらに言う。
「一つだけ約束してくれればいい。そうすれば、お前さんの望みの全てをわしが引き受けよう」
そうご機嫌に告げるお爺さんは、けれど次の瞬間には別人かと言うほどに豹変する。頭のネジが外れた人で無しの老人は影を潜め、代わりに、薬物を吸い込んでもなお自暴自棄や快楽主義に走ることは愚か、僅かな現実逃避さえひどく毛嫌いし、圧倒的に優位でありながらも決して自惚れずにいる強靭な精神力を備えた、まるで元とは正反対の揺るぎない正義を持って行動する頑固男が自分の前には立っていた。
そんな男が真剣な面持ちで自分に要求してきたものは、しかし、人としてとても受け入れ難いものだった。
「――”魔王を殺せ”」
ふざけた調子は一切なかった。だから、なおさら男の言葉が不気味でならない。
「この世の理を何の代償もなく改竄できてしまう忌々しい神の鍵を簒奪し、人間が過去に殺し損ねた死に損ないの龍共を残らず屠り去って、この世界を人の手に取り戻す。そのために、君の体を灰燼と化すまで悉く使い潰させて貰うぞ」
咥えていたタバコを心底つまらなそうに雪の上に投げ捨て、さながら森羅万象を憎悪するかのような、底の見えない怒りを孕んだ声を吐き出す男の根底にあったのは、ただ普通に生きたい、そんな単純な望みだった。
自分は返事をしなかった。男は答えを聞くまでもなく、既に自分に背を向けて歩き出していた。それを自分は重い足取りで追いかける。今の老人には、以前のように気安く話しかけられるような雰囲気は影も形もない。そんな男の数歩後ろを、口を開かずに淡々とついて行く。
……ヒノキさん。あなたは、自分の未来を知っているんですか?
逃げても逃げても追いかけてくる未来の形が、今少しだけ色を変えたように思う。
まるで初めから自分の体が目的だったかのような男の口振りに違和感を覚えながらも、それでも悪虐非道なだけの魔王になるくらいなら魔王殺しの手伝いも悪くはないと思えた。或いは、魔王の非道こそが世界としては正義なのかもしれない。それならば、律に下された魔王という最悪の烙印の意味も変わってくるのではないだろうか。自分はクロを守る
自分は、迷いながらも歩き続ける。自分の未来は、お爺さんとの遭遇により捻じ曲がってしまった。これから先、どんな苦難が自分を待ち受けているのかはわからない。けれど、自分は背中にいるクロまでもを不幸に巻き込んでしまった。だから、せめて、君が今日のような苦しみを味合わなくて済むようにしなければならない。君に降りかかる全ての不幸をこの身で全て阻んで見せよう。
……君の幸せが、夜の中でも眩く輝く星のように、悪夢に負けることのない、みんなを魅了する素敵なものでありますように。
そんな願い、もとい祈りは、この世の誰にも届かないことを嫌と言うほど知っている。
けれど、言霊にしたいと強く望めば、いつの日か現実になるはずだとも思うから。
……”君を幸せにしてみせる”。
自分は、この体が朽ち果て灰になるその日まで、前へ進むことを決してやめない。そう、背中で穏やかに寝息を立てる片翼の君に固く誓った。
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