第46話 夢を蹂躙せし魔者 -後編- (残・R)
「……アキラ、お前どうして?」
お弟子さんは、鬱屈とした曇天の下に突然現れた自分の姿を見留めると、警戒心を露わにしながら、去年と同じ、死を願われた時にも向けられた嫌悪に歪んだ表情を浮かべた。それは、さながら極刑に処されたはずの罪人が黄泉帰った場面を目の当たりにしたかのような驚きようで、そうまでして今度は何を企んでいるのかと訝しんでいる。
「……ごめん。コウタとの約束を破るつもりはなかったんだよ?本当に、もうここには来ないつもりだった」
そんな言葉も、そう遠くない未来に反故にする可能性は否定できないけれど。少なくとも、今はまだ未来と断言できるくらいには、この言葉に偽りはなかった。
しかし、お弟子さんの警戒の目は鋭さを増すばかりで、久しぶりの再会を喜んでくれている様子は微塵も感じられない。それもそのはずで、自分にとっては置き場所に困るだけのガラクタ同然だった銃であったり、もう片方も人間相手にエーテルを要求してくる厄介な魔杖でしかないが、側から見れば、これ以上物騒な代物を抱えた者はないと言うほどの危険人物だ。獲物を狩るための猟銃に非はない。人間の身では重り同然の刀も然り。さりとて両方を朝から挨拶のためだけに持ち出してくる者を常人と認めるのは、さしもの魔者とていささか無理のある話だろう。
更に言えば、さぞ異常に映ることだろうこの状況で、しかし、平然と喋ることを努めている自分の声は、目の前の彼らにより一層の不安を覚えさせているに違いない。
「……なら、何の用だよ。白の猟銃なんか持って、何をしでかすつもりか言ってみろ。どうせ、一人が寂しくなってクロを返して欲しいとか吐かすんだろ?……それか、クロを取られた腹いせに白の銃で俺を殺しにでも来たか?」
「酷くない?人のことを何だと思ってるのさ、コウタは」
「決まってる、人間だ」
「……そうだね。他のモノに成ってみたいと願った日もあったけど、自分は人間以外の何モノにも成れないみたい」
「何当たり前のこと言ってやがるんだ。誤魔化してないで、さっさと用件をハッキリさせたらどうだよ」
「おい、そう怒鳴るなコウタ。お前がそうだと、言い出せる話も言い出せなくなるだろう」
幸いなことに、鼻っから喧嘩腰のお弟子さんとは逆に、猟師さんは冷静さを欠いてはいないようだ。
「お前さんに、退っ引きならない並々ならぬ事情があることはわかった。だが、その理由を俺たちに説明してくれないのでは、コウタのように感じるのが普通だ」
「テツさんの言う通りです。隠すつもりはなかったんです、すみません。……でも、こう見えて自分も焦っているんです。なので、できれば気持ちが落ち着くまで、少し時間をもらえないでしょうか」
そんな自分の言葉を、果たして彼らが信じてくれるかは怪しい。しかし、今すぐに自分の目的を明かすこともまた難しかった。
……クロ。
姿が見えないと思っていた彼女は、スーツに身を包んだ見知らぬ男の背後で固まっていた。
その理由に思考を巡らせている最中、自分はふと事の始まりを思い出す。
「そうです。嫌な噂を聞いたんですよ。……この村の村長さんが、白い髪の半端者に大層ご執心だって話です」
「村長が、クロにか?ふざけた冗談だな。お互い初対面同士なんだぞ?あり得ねぇよ」
「さぁ、どうだろうね」
猟師さんに諌められても、なお煽るような言動を続けるお弟子さんに、自分は彼を相手することを放棄する。
この噂話の出どころは、自分を雇ってくれたお爺さんからだった。より正確に言えば、仕事で付き合いのある相手からの、品の悪い土産話が元になる。
ともかく、何を始めるにしても、まずは挨拶から手をつけるのが妥当だろう。
「あなたが村長さんですよね?はじめまして」
「ええ、いかにも私がこの村の村長ですが」
きちんと頭を下げるこちらに対して、相手の態度は実に素っ気ないもので、会釈もないどころか、言葉の端々から棘を感じるほどぞんざいな扱いだった。
「タチの悪い噂に振り回されていることには同情します。しかしながら、会って早々にその物言いはいささか失礼が過ぎる」
「確かにそうですね。根も葉もない真っ赤な嘘なら、誠心誠意失礼をお詫びするつもりですし、こんな風に会話することもしないで大人しく帰るつもりだったんですけど……」
「つまり、あなたは噂話を心から信じて疑っていないと言うことですか。それを本気で口にしているのなら、まったく不快なことです」
「…………なるほど」
……今、こいつは何と言った?
今の今まで、どんなに大層な理由があろうと、話し合いは冷静な状態で互いの心を尊重し合いながら行われるべきだと、そう考えていた。それなのに、この仕打ちは何だと言うのか。ふつふつと煮えたぎる心へと肌が焼け赤くなるのも厭わずに氷を放り続けていた手が、目の前の男の言葉に、遂に止まる。
「噂話?それは記憶違いではないですか?それに、他人の人生を弄んでおいて、その上悪びれずに不快だとは、この星の村長さんと言うものは随分と偉い役職なんですね」
「どうしても私を悪者に仕立て上げたいようですね。残念だが、茶番に付き合っていられる余裕はなくてね。すまないが、用件があるなら、また日を改めて屋敷を訪ねてきなさい。今回の誹謗中傷のような話以外であれば喜んで付き合おう」
自分の中で嫌な熱が囂々と迫り上がってくるのに対して、相手はそれを見て不意に笑みを浮かべたかと思うと、所詮子供の戯言相手だと余裕綽々と言った様子で、舐めた表情で一方的に話を切り上げようと動き始める。それがまた自分はひどく気に食わず、更に心の中の炎は音を立てて燃え盛るけれど、不運にも自分はその炎を吐き出せるほどの大きな火口は持ち合わせていない。それに、怒りに任せて罵詈雑言を一切の脈絡もなく勢い任せに吐き出しては、相手の思う壺だ。この場で自分が醜態を晒すことを、あの男は心から望んでいる。そんな状況下では、自分が取れる抵抗など、相手のペースに乗せられないことの他にないように思えた。
そんな折、頭に血が集まり鈍っていた思考に、打開策が自ら進んで歩み寄って来てくれる。
「あんたも怒ることあるのね」
神様は、本気とも冗談とも取れる調子で言った。それが、自分にとってどれだけ救いであったことだろう。神様の気の抜けた普段と何ら変わらない声音は、自分に幾分かの冷静さをもたらしてくれた。
「本当は怒りたくなんてないよ。気持ち悪くて吐きそうになるし、何を言ったって心は晴れないのに、どうしてこんな無駄なことしなきゃいけないんだ」
「大変ね」
「そう思うなら手を貸してよ、ソラ」
「……いいの?」
神様の問いに口で答える代わりに、自分は半ばで折れた打刀、魔杖の獏を仰々しく手に取って見せる。そして、バイオリン奏者が演奏を控えて弓を構えるがごとく、自らの左手首に厳かに鈍の刃を番えた。
今まで、自身に魔杖を使ったことはなかった。ただでさえ、神様の手で心から僅かにでも不安を取り去った時の解放感は異常なほどの快楽を伴い、名状し難い安心感に全身が支配されて夢現に惚けるのだ。そこへ、更に魔杖の力が合算されたならば、恐らく心は理性の枷から解き放たれ手前に都合の良い歪な形へと変形するに違いない。ましてそれが、乗算や累乗に似た性質の類であったなら、もはや生き物としての形に留まることも危ういだろう。
けれど、この体と心の安全を差し置いてでも、自分には辛抱ならないことがある。そして、目の前にある問題を満足のいく形で完全に解決するためには、脆弱で打たれ弱い自分の心は、不要とは言わないまでも邪魔でしかなかった。
「理性でまともに体が動かなくなる時点で、ここにくる資格はなかったのかもしれないけど……」
社会的体裁を気にして、勝算がなければ早々に諦めて、初めから何もなかったかのように振る舞える。それが自分という人間だ。そんな、戦うべきときに戦う勇気も振り絞れないような敗北を飲み込めてしまう心など、果たしてどれほどの価値があるだろうか。
「……でも、自分にだって、膝を屈する相手くらい選ぶ権利はあるはずだよね」
ともかく、今の自分には、
実の所、自分は半ば自暴自棄の末に至った賭けごとに臨むような心持ちで、獏の秘めたる力に大した期待をするでもなく、まるで賽を投げるかのように生殺与奪の機を一振りの鈍に預けただけの話なのだ。いわゆる他人任せの運任せである。
そして、そんな酔興に付き合わされるのは、流血を極度に嫌う神様だ。
「ごめんね、ソラ。君の記憶に、また赤色を塗り重ねることになっちゃって」
そう思っているのなら、どうして刀を置かないのかと、自分は自分を非難した。
けれど、そんなことをしたって、自分の答えは変わることはない。
自分という人間は、他人の力を頼ることでしか生きられない寄生生物に似ている。それも、生きたいと願うでもなく、ただ淡々と他人の生命力を奪って怠惰に生きる、ひどく悪しき存在だ。
そんな、生きる価値もない自分のために傷を負ってくれると言う相手に、果たしてどんな責任を自分は負えるだろう。きっと、それほど多くはないに違いない。
「……でもさ、ソラ。魔杖は道具だよ。主人の願いを叶えるのは、道具の義務だ。それとも、人間の言うことは聞かないとか言い出さないよね?そんな鈍だったら、今ここで粉々に砕いて捨ててやるから」
「……余計なお世話よ。それより、自分の体の心配をしなさい」
親によって賽は投げられた。ならば、その出目に従うのが子の義務である……。そんな上部だけの言い訳を、心が読める神様は全てお見通しかもしれない。それでも、何事にも格好をつけたくなるのは、男の性というものなのだろうか。
斯くして、神様は自分の代わりに魔杖を使うことを承諾してくれた。
間もなく、自分の心の中で逆巻いている赤黒い炎を喰らいつくさんがために、鈍の刀身が淡く光り始める。その様は、さながら百獣の王が弱き故に食物連鎖の底辺のそのまた隅で怯えるように縮こまっている獲物を前にして、天地を遍く恐怖させる自身の絶対的力に打ち震えながらニヤリと牙を見せほくそ笑むようだった。鋭いそれは小腹を満たすという些細な欲をも押して、全能故の優越感から溢れた唾液で怪しく不気味に輝いている。
……さようなら、弱い自分。
別に死ぬ訳じゃない。だから、躊躇いもない。
けれど、こんな幾らでも換えの利く自分を必死に守ろうと声を上げる者もいた。
「……あ、玲!?何してるの?そんなことしたら、怪我しちゃうよ!」
刀身で腕を引き切ろうとした瞬間、悲鳴にも似た叫びが耳を劈き、そのまま自分の心までもを真っ二つに引き裂いた。
こんな自分でも、傷つくことを悲しんでくれる人がいる。そう思うと、堪らなく嬉しかった。
けれど、もちろん、そんな身勝手な考えは、出過ぎた妄想だと一蹴するべき思考だ。
「……どうして、そんなことするの?わたしが悪いなら、謝るから……」
ならば、小さな君はどうして、今にも泣き出してしまいそうなほどに不安気な表情を浮かべているのだろう。胸が張り裂けるような痛みに耐えるかのように、頭を無理な力を込めてまで左右に振り目の前の現実を拒む様は、自分に頬をつねられたかのような痛みを届ける。今抱いている思考の全ては悪い夢であるべきだと、そう錯覚させられるほどの強い意志がそこにはあった。
それは何も、クロからだけではない。
「おい、やめろよ!冗談にしても笑えねぇ!」
「そんなことをしても何にもならない!折角助かった命だろう、大切にしろ」
お弟子さんと猟師さんも、クロと同じように自分の正気を疑い、それ以上に心配してくれていた。
「血迷ったか。その刀、魔杖だろう?貴様には宝の持ち腐れだ」
「どうして自分には魔杖が使えないと断言できるんですか?やってみなければわからないでしょう」
「魔者ならともかく、貴様は”人間”だ。魔法を使えるわけがない」
村長さんは、今更何をと言った調子で詰まらなそうに返してくる。
しかし、それを聞き捨てならない様子の者もいた。
「……おい、どういうことだよ村長」
「事実を言っただけだろう。何を驚くことがある?」
「だって……あぁ、おかしいだろ!?アキラは去年、七星祭の生贄にされて死んだことになってた!俺だって知ったのは最近なんだ。それなのに、どうしてあんたはそのことを驚かない?まるで、最初からこうなることを知ってたみたいな口振りだ!」
お弟子さんの言う事は尤もだった。生贄で死んだはずの者が目の前に立って普通に話しているにも関わらず、何よりも先に自分を人間だと決めてかかって嫌悪の視線を向けてくる村長さんの態度には違和感しかない。
「ミズキアキラ、だったかな?」
「すみません。自分は名前を覚えるのが苦手なんです、村長さん」
「構わないよ。皆からも一様に村長と呼ばれているからね。敬称をあえて拒むつもりはない」
「お心遣い、感謝します」
自分は魔杖を手首に添えたまま、膝を曲げて軽く会釈をしてみせた。別に他意はない。
「知ってますか?人間でも、魔杖を使う裏道はあるみたいです。と言っても、特別な魔杖でないと無理みたいですが」
「ほう。つまり、ミズキ君が今手に持っている魔杖は、その特別だと?」
「はい。百聞は一見にしかずと言いますし、此処でご覧に入れましょう」
そんな台詞に、村長さん以外は酷く怯えていたが、なんて事はない。刃は薄皮一枚を丁寧に切ると、その先はまるで実体がないかのようにするりと体をすり抜けるだけであった。
刹那、サーッと血の気が引いた。それでいて、怖くも震えることもないのだから不思議だ。むしろ、向かう所敵なしといった空に浮かぶ雲のように軽く飄々とした心持ちは、こうして地面に縛られている身にはこの上ない愉快さを感じさせてくれる。
だと言うのに、それだけでは飽き足らず、心が次に支配せんとするのは、こうして冷静を”努めて”装い思考する唯一の脳だ。脈が波打つ度に全身に送り出される快楽物質に体が火照り、気を抜けば自然と笑みが溢れてしまうほどの多幸感。それはもう、この世のどこを探しても得難い最高の感覚のように思えた。仮に何千何百もの物語を一呼吸で読破し、その濃密な時間もまた一時に圧縮され心が処理し切れず悲鳴を上げるほどの膨大な衝撃を与えようとも、これほど常軌を逸した快感に浸ることは叶わないに違いない。
自分は笑う。万能感に激しく喜悦した。
けれど、そんな自分をどうか許してほしい。何せ、社会的生物と呼ばれる者の心から、不安や恐怖、
「……不愉快だ」
自分の下卑た笑みを、村長はまるで汚物を見るような目で非難した。
しかし、自分の箍は既に深くヒビ入っている。
「……その言葉、そっくりそのままお返ししましょう」
「私が貴様と同類だとでも?」
「そんな!……私と同類だなどと、そんな滅相もない!私など、村長の足元にも及びませんよ」
「…………何だと?」
村長の琴線に火打ち石を投げつけると、チラリと青白い火花が散った。いや、実際は快楽に脳が
ともかく、村長の怒りの種火は意外と容易に燃え上がり、自分の欲した舞台のセッティングは一先ず完了と言ったところである。
「さて、少々昔話をいたしましょうか。なんて事はない、一人の村娘の一部始終でございます」
自分は、さながら劇の一幕のように仰々しく告げた。今ははるか昔に思える学園生活、そこでひと時の退屈凌ぎにと手を付けた中のそのうちの一つ、演劇を即興で披露することにする。
とは言え、ろくに演者の経験もなく、また実際は裏方でのらりくらりと好き勝手していただけの身だ。台本もまともに書いたこともなければ、いや、何度か書いた事はあるが、最後まで書き切るまでに飽きてしまっただけなのだけど、ともかく、自分の実力は、推して知るべき程度のつまらないものである。
しかし、普通の会話ではいささか妙な言い回しも、「そうら、これから劇が始まるぞ」と、大きく身振り手振りを合わせて観客を舞台に
「少女は、魔者と半端者の夫婦の間に生まれました。そうですね。ここでは仮に、Aとでも呼びましょうか」
「おい、それってもしかして……」
「コウタさん、幾ら先が気になって仕方がないとは言っても、ここでネタばらしをせがむにはいささか短気というものではないでしょうか」
コウタは、どうやら話の大半に見当がついているのだろう。それが、果たして自分の話の核心を待ち切れないのか、或いは耳を塞いで聞くことを拒んでいるのかはさて置いて、落ち着かない様子で事の顛末を明かすことを急いでいる。
また、露程も心は揺らがないまでも、しかし、理性的には悲しさを禁じ得ない罵倒も受けた。
「言わせてもらうけどな、気持ち悪いんだよ!さっきからそのふざけた口調はなんなんだ?お前らしくないぞ!」
「私の本質は変わっていませんよ。ただ、少しだけ。魔杖を使って余計な感情を切り落としただけです。ほんの少しだけ、形が変わっただけですよ。それも、しばらくすれば落ち着きます。それまでは、どうか辛抱下さい」
「……調子狂うぜ。ったく、勝手にしろ!」
「では、勝手にさせていただきましょうか。脱線はこれにて終いです」
コウタに向けてだけでなく、他の全員にも念を押す。この劇の
「Aは、半端者の親からの遺伝でしょうか、体に獣の尻尾が生えた容姿で生を受けました。もちろん、その程度のことでなんだと仰りたい気持ちも理解できます。何せ、神経に異常をきたしていて全盲であるわけでもなく、手足も不都合なく繋がっていて不自由なく動けるのですから、少なくともAは自由に大地を駆け回るくらいのことは叶うのです。しかし、不幸なことは、後にも先にも、Aの生まれたこの月という場所が、半端者を宗教張りに忌み嫌う魔者たちの巣窟だったことでした」
自分は、半端者の差別を先導した主犯格とは言わなくとも、確かに自らの意思で扇動した一人の男に向かって嘆きの言葉をぶつける。
けれど、未だ村長という男は、話の全貌を理解していないと見えた。それが堪らなく自分という人間は愉快に思えて、また同時に耐えがたいほど不愉快であった。
「半端者とは一体何かと申しますと、欲に眩んで人としての一線を超えた者たちへの蔑称だそうですよ。遺伝子を都合よく弄くりまわした人工の命だとか、豊かな大地を焦土と化す恐ろしい殺戮兵器だとか、そういった類のモノへ向けられる嫌悪と相違ありません。……ええ、皆々様がご存知ない道理はございませんでしょうが、ここばかりは間違えては欲しくない確かな事実だと言うことを念頭に置いて頂きたく、どうかご容赦願います」
「……何が言いたいんだよ。わかりにくいったらないぜ」
「おや、そんなはずはございませんよ。だって、何の理由もなく罪もない相手を貶めるような真似を、魔者が出来るはずもないでしょう?何も私は、あなた方が無用に民草を殺してまわる悪虐非道の愚王と同類であるなどとは思っておりませんし、むしろ半端者を嫌う道理には非の打ち所が見当たらず感心するほどです」
「それは、白が……!……Aが差別されていたのは仕方のないことだって、そう言ってるのか?」
「ええ、それで理解に問題はありませんね。とは言え、差別している人たちが定めた
「話にならねぇ!そんなの自分は関係ないと逃げるための、つまらない言い訳じゃねぇか!」
ええ、そうですとも。
だから、自分はコウタの指摘に何を言うこともない。
「さて、そんな半端者たちが、慎ましくも幸せそうに生活していたらどうでしょう?至極真っ当に苦しみながら生きている魔者たちの目には、どう映るでしょうか?さぞ目障りなことでしょう。どうか神隠しにでもあって存在ごと消えてはくれないものかと、そう切に願ったことでしょう。もし仮に、自分が彼らよりも辛い思いをしていたのならば、嗚呼、腑が煮え返るような思いで彼らを睨むでしょう。……そして、そんなありふれた怒りに身を任せて罪を犯してしまったのが、他ならぬAが住む村の村長なのでした」
そんな自分の言葉に、僅かに村長さんの表情が歪む。
「……確かに、私は一度過ちを犯した。……しかし、こうして今は改心をしている」
ようやく村長は自らの罪を告白してくれた。ただし、すでに償い終えたかのような軽い口調でだ。
「この口で何を言っても信じてもらえはしないだろうが、貴様のように人の努力を無い物のように扱う輩相手以外には、それなりの許しと信頼を寄せて貰っているつもりだ」
「ええ、ええ。本当に改心しているのであれば、誠に喜ばしい限りのことです!……ですが、違いますでしょう?だって、あなたは全く懲りていない!また、同じ過ちを繰り返そうとしているからこそ、この場にいるのですから」
「……貴様、何を知っている」
「それを、今話しているのですよ。あと、私はこれがこの村の話だとは、まだ口にしていませんよ?……心当たりがあるのなら、それこそ罪が貴方の中に実在するという証拠に他ならないとは思いませんか?」
「……………………」
この沈黙は、果たして図星か、はたまた呆れてものも言えないだけなのか。ともかく、村長は黙ってしまう。
その代わりに、コウタが話の進行に協力してくれるようだ。
「で、その村長が何をしたっていうんだよ。話を聞く限り、お前が怒ってるのはそこなんだろ?」
「怒っていませんよ。その手の感情は、おおよそ全てを獏に与えました。でなければ、今頃私は猟銃の引き金に指をかけていたでしょう。実際に撃つかどうかは、その時になってみなければわかりませんけどね」
「大人しいお前がそこまでするってことは、相当許せない行為だったんだな」
「……それはもう。全身の血液がどろどろに溶けた鉄になったようだ、と言ってご理解いただけるでしょうか。自分ではどうしようもない痛烈な怒りが冷めやらず、いっそ喉を掻き切ってこの命を絶ってしまおうかと真剣に悩んだほどです」
復讐が何も生まないとは言わない。だからと言って、何か得られるものがあるかと聞かれても、またそれも答えられないのだろう。いずれにしても、もうこの世にいない人のために、自分は他人を、それが件の加害者だとしても、傷付けるという選択肢はなかった。
けれど、罪には相応の報いがあって然るべきだとも思う。
だから、前触れもなく思いつきで、まるで通り魔が懐に隠した得物を音もなく取り出すようにして、村長に不意の一撃を喰らわせてやることにした。
「……よくも、白をストレスの捌け口にしてくれたな」
腹の底に溜まっていた憎悪を丸ごと浚い、人が持ち得る最大級の侮蔑を込めて、裕福を体現する村長の体に深く捻じ込むように言葉のナイフを一刺しする。
「お前の道楽のせいで、どれだけ白が苦しめられてきたか考えたことがあるか?……お前のせいで、一度は手に入れかけた普通を、彼女は泣く泣く手放したんだぞ!」
「……道楽だと?ふざけるな!貴様に私の何がわかる!!」
「だったら、教えてくださいよ。あなたの言い分が正当であること、ここで証明してくださいな」
「…………口車に乗せられたようで癪だが、いいだろう。所詮貴様は人間だ。話が終われば有無を言わさず監獄行きになる。冥土の土産と思いなさい」
「あいにく、あの世と呼ばれる世界を私は強く信じてはいないのです。ですが、ご安心を。この場で残さず全て消化いたしますので、どうか悪しからず」
村長は腹立たしそうな表情でこちらを睨みつけてくるが、未だに余裕が消える様子はない。それは、今先ほど相手が言葉にした通り、こちらが人間であるからに他ならなかった。村長がここでどれだけ大きな罪を告白しようとも、それが事実であるないに関わらず、村長には何らリスクは発生しない。魔者の、それも村の長たる者の主張と、何処の馬の骨とも知れない人間の言い分、果たしてどちらが信じてもらえるかなど、火を見るよりも明らかである。
しかし、それでも自分は、村長の口から話を聞きたかった。そこに、僅かでも良い。白に対する謝罪の念が垣間見えれば、それだけで自分の内にある怒りの炎もいくらか小さくできるのではと切に期待した。
なのに、叶わない。
「そもそも、全ての発端は”彼奴”だ。そうだよ、お前と同じ人間の方じゃないかっ!」
「……種族が同じだからって理由だけで、他人を
「だいたい私は、村長なんて務まる器ではなかった!だからと言って、代々我が血族が任されてきた仕事だ。我儘で手放すこともできず、失敗ばかりして冷ややかな視線を向けられもした。……それでも、耐えに耐えて、必死に皆の期待に応えようと努力した!」
そんな時分だった。私の見栄を小馬鹿にしてくる小僧が現れたのは。
そう言って村長が忌々しげに睨むのは、自分であって自分ではない。自分と同じように突如ふらりと村に姿を見せたと言う、一人の青年の面影だ。
「その日、私は自室で絵を描いていた。屋敷の中で、小高い丘から見晴らせる海原を想像しながらキャンバスに向かっていたんだ」
「……親父は画家にでもなりたかったのかよ」
「ああ、そうさ!馬鹿息子が日夜遊び惚けていなければ、当に私は自分の夢を叶えていたよ!……だが、その頃の私はあまりに見栄を重ね過ぎてしまっていた。村長の肩書きを失う恐怖の方が大きくなり過ぎて、もう夢など叶わないと諦めざるを得なかった。……なのに、あの男ときたら!!」
不意に、どっと村長の声に迫力が増す。それは、自身の犯した罪の懺悔に叫んだというよりは、自身を陥れた他人を糾弾するかのような息苦しいほどの怒りを孕んでいた。
「馬鹿だねと、彼奴は私を見て哂いやがった!村長の癖に、部屋で寂しく海の絵?親が忙しくて遊びに連れて行ってもらえない子供かよと、腹を抱えて見下してきたんだ!それだけじゃない、欲しい土地を他人から奪うなんて造作もないだろうになどと、私の努力と我慢を一笑に付しさえした!その時の私の気持ちが貴様らにわかるか!?」
激情に血走った村長の目はこれ以上ないというほど見開かれていて、試しにカチンと頭を小突けば眼玉がポロリと転げ落ちそうなほどである。
実際そうだった。
すうっと、夏の終わりにしてはあまりに冷たい風が通り過ぎる。すると、先ほどまで怒り狂っていた村長は、まるで憑き物が落ちたかのように大人しくなってしまった。
「……私は、確かに彼奴の言う通りだと、そう納得してしまった。彼奴への怒りが、自分を差し置いて幸せそうに暮らしている半端者や、そんな迫害されても誰にも文句の言われないような半端者を庇ってきた愚かな私に向いた。今までの苦悩の日々が、一瞬で無駄な時間に成り下がった瞬間、私はようやく目が覚めたよ。器などなくとも、私には最初から村を好き勝手にできるほどの大きな力がある。そう気付いた時は心から歓喜に震えた!」
村長は、心が弱かった。だから、半端者が迫害される様に自身を重ね、守れないまでも、執拗に叩くような言動は決してしなかったのだろう。けれど、実質半端者を擁護するような姿勢を見せる村長を、村民たちは息をするように安易に非難してきた。そして、そうやって自分自身が叩かれている間、半端者はと言えば呑気に楽しそうにお茶を楽しんでいる。そういう考えに至ってしまえば、村長の心が壊れるまでにそう時間はかからなかったに違いない。
「丘の上に今の屋敷を建ててからは、晴れやかな気分で仕事ができた。自分が居るに相応しい場所に立っている気がして、胸を張って堂々とできた」
「……おい、それじゃあなんだよ。あんたが半端者ばかり雇ってるのって、過去の罪を詫びるためじゃないってのか?」
「そんなことはない。私だって、人間の男に唆されさえしなければ、半端者を蔑ろにするような行動はしなかった。けれど、罪は罪だ。少しでも償いができればと、こうして屋敷を半端者の働き口として解放している」
そんな村長の言葉は、若干自分勝手ながら、恐らく偽りのない事実だ。微妙なバランスで成り立っていた心を悪意で突いたという人間の方こそ、村民が真に憎むべき対象であろう。
だが、自分は違う。
「……私が聞きたい告白が、まさかその話だなんてことは言い出しませんよね?」
自分は、おもむろに白の猟銃を村長へと向けた。散々待ちぼうけを食らっていた自分は、客観的に見てもかなり気が立っていたのだと思う。
「おい、アキラ!何してやがる!」
「あまり大きい声を出さないでください。驚いて引き金を引いてしまったら困るでしょう?」
「本当、お前は何考えてんだよ!一体何がしたくてここに来た!」
「そうですね。いい加減待ちました。村長はどうやら、自分の口で謝罪をする気がないようですね。では、今度は私からの不平不満をば」
ふと村長の姿を正面から見てみれば、大層怯えた様子で震えていた。
「……その震えは、銃口を向けられての死への戦慄からか?」
そんなはずは無い。なぜなら、魔者は銃で撃たれたくらいの傷は、容易く自然治癒で完治するからだ。
ならば、問い詰めよう。その手足の震えの正体を暴こうではないか。
自分は、酷く冷めた声で、執拗に蔑むでもなく、無用に哀れとも思わず、ただ淡々と相手の激情を観察し始める。
「いや、脆弱な人間風情が、魔者相手にどう一矢報いるか愉しみだと、そんな期待からくる震えでしょうか?」
違う。
「自分の境遇も事情も
何を。そんなことは微塵も思っていない。
「魔者を人間の魔の手から守るため、と言うのは流石に違いますよね。あなたにとってのそれは、少なくとも過去に一度、自らの欲を満たすためには踏み潰すことができた有象無象なんでしょうから」
そうだ。だからこそ、村長はこの場で震えている。
「……だとすれば、です」
自分の口から、ちりちりと神経を逆撫でする金切音を立てながら、起爆寸前の黒色火薬が血煙のように吐き出される。
「あなたが私と白の知る廃人のまま変わらぬと言うのなら、これからあなたは、挨拶も早々にクロを連れて屋敷へと戻り、常世で手折った若き桜を雰囲気や所作などまるごとすっ飛ばして香炉へと焚べてやる算段だったんでしょう。それが、私が現れたせいで足止めをくらい、ただでさえ興奮と渇きの波に気が触れそうで歯をかちかちと打ち鳴らすほど待ち侘び切望していたと言うのに、この期に及んで鼻先に人参をぶら下げられたまま延々とお預けを食らっていることに、心底
体の中身が空っぽになるまで全てを吐き出す。体が真空になり、全身が軋んで悲鳴を上げていた。
そして、自分は全力で深呼吸をする。たった今、この口で放った不味い黒煙を丸ごと全部嚥下してやる勢いで、肺が破裂寸前になるまで頑なに続けた。
そして、やり直す。
「全言撤回だ」
……どうか胸に抱いたそれを、口にはしないで欲しい。我ながら、自分でも不細工な感情のぶつけ方だとは思うのだ。けれど、こうでもしなければ、自分は白のために怒ってやることができそうになかった。だって、自分は所詮、何者とも言えない透明な読者に過ぎない。一度通り過ぎた場所に不満を抱いたところで、過去を書き変える力も権利も無いのだから。
「……は?何を今更」
「私は、もう二度と貴方を責めない。村長が白にした過ちを、見て見ぬ振りをすると誓います。……私と白は、他人だ」
「…………は、はは、はははっ!貴様、さては頭のネジが外れていると見える!!」
村長は笑う。けれど、酷く自分のことが面白くなさそうな表情であった。
「知らないと思ってるのか!白がお前の名前を出す度に、その時の表情を見せつけられる度に、私がどれほどの屈辱を味わったことか!!どの口で他人だなどと!お前と白は恋仲だったのだろう!!」
その言葉に反応したのは、意外なことに、今まで黙り込んでいたクロだった。
「玲、どうしてそんなこと言うの?あんまりだ。白がかわいそうだよ」
「……幻滅したかな。でも、ごめん。自分という人間の本性はこれみたいだ。なにせ、今は理性の箍が解かれているからね。どう頑張っても、どう繕っても、こればかりは自分でも否定のしようがない」
「なら、なおさらだ!どうして来たの?ここは魔者の村だ、玲のことをいじめる人がいっぱいいるんだよ?それでも、やっぱり玲は優しいから、だから、白のために頑張って怒りにきてくれたんじゃないの?なのに、どうして?……本当の言葉を、無かったことにしちゃおうとするの?」
「クロには言ったことがあると思うよ。ただ、怒るのがひたすらに嫌いなんだ。他人が怒るのも、自分が怒るのも。そこに例外はないよ」
クロの疑問への回答が済んだかと思えば、今度はコウタが出しゃばってくる。
「やっぱり白とは遊びで付き合ってたってことか!そうなのか!?答えろ!!」
「……遊びのために自分の命を捨てようとしたとでも?」
「……お前なら、やりかねない。それすら楽しんでてもおかしくない!」
乱暴で口が少々汚い節のあるコウタではあるが、決して他人のことを理由なく傷つけることはしない男だ。つまるところ、自分という人間は、それほど屑に映っているということなのだろう。
そんな彼も、本来なら幸せになれるはずの人だった。
「白は、コウタの告白を断ってしまった。その原因に自分が関わっていないと言えば嘘になる。………けれど、やはり一番は村長、あなただ」
「二度と私を責めないと言ったのは、どこの誰だったかな?」
「えぇ、責めませんとも。白のためには責めない。だが、コウタは生きている。なら、これは適用範囲外です」
コウタには知る権利がある。そして、答えを決めるのもコウタだ。
「村長は、白の未来の選択肢を狭めた。心と体に白は穢れを植え付けられてしまって、折角のコウタからの誘いに頷くことを躊躇ってしまった」
「おい、聞いてないぞ!まさかお前、俺に白を任せて死ぬ気だったとか抜かさねぇよな!余計なお世話だ!他人の命の上に成り立った幸せなんて、俺は欲しかねぇよ!!」
「死語の世界なんてろくに信じてはいないけれど、今の言葉を天国で聞けたのなら、さぞ気分が良かっただろうに。ともかく、失敗してしまった。村長に穢された白は、コウタの告白に素直に頷くことができず、死ぬべき人間のところなんかに戻ってきてしまった」
白やコウタに怒られるのは当たり前だ。自分のしようとしていた行為は、人の心を弄ぶのと同義なのだから。彼の言葉を借りれば、そう、遊びだ。全てが都合よく上手く運ぶようにと、そのために必要な犠牲の役を演じてみたに過ぎない。
その点で言えば、村長も自分に唯一の理解者を奪われた被害者なのかもしれない。とは言え、理解者だと思い込んでいたのは、彼の方だけであろうが。
「黙って聞いていれば、人のことをどれだけ侮辱すれば気が済むんだ!どう言い繕ったところで、貴様は自分の女に手を出されて頭に血が昇っただけの、どうしようもない一人の男だろう!」
「そんな、買い被りすぎですよ。そんな大層な勇気と覚悟は、あいにく前世で買い忘れたもので」
そうやって本気で怒ることができる時点で、村長が歪な心の持ち主だとは言え、白を大切にしていたことには変わりはないのだろう。事実、大金では無いが、白が仕事帰りにお土産として持って帰ってくる食事や金銭はとても一人の村娘が一夜で稼げるような額では無かったし、今思えば、普段はボサボサの髪や乾燥気味な肌艶の悪い細い体も、その日だけとは言え、人並みのレベルまで回復させるくらいには手をかけてくれていたように思う。白には悪いが、傍観者として二人を眺めてみれば、村長と白の夜の関係は、さながら持ちつ持たれつの共依存といった印象だ。
そうやって、気味が悪いほどに凪いだ心の中で思考に耽っている自分を現実に引き戻したのは、村長の苛立ちに満ちた近寄るものを軒並み拒む刺々しい言葉だ。
「それに、私と違って失うものが無い貴様に、何がわかると言うんだ。今だってそうだ。白が死んでも怒ることすらまともにできない貴様が、この私に何をさせたくてここへ来た!」
「……失うものがない?なら、私は何のために銃を持ってると思うんです?」
「そんなもの、私を殺すためだろう。…………ああ。そうなら、もちろん殺される覚悟もあるよな」
ここにきて突然
そんな物騒な様子を間近で見ていたクロは、言わずもがな、酷く怯えている様子だ。
「大丈夫だよ。安心して」
「……玲」
不安そうなクロを一瞥し、穏やかな笑顔を向ける。それだけでも心底嬉しそうに不器用な笑顔を浮かべて返してくるのは、きっと何も成せない無能な自分がまだ辛うじて人の形を留めているからなのだろう。
「私を、無視、するなぁぁぁっ!」
「…………っがあ゛あ゛っ!?」
しかし、次の瞬間には、村長の拳が自分の右腕に振り下ろされ、骨の砕ける音が辺りに響いた。避けられそうなら一度くらい泡を吹かせてやってみたいと、そんな淡い期待すら抱く間も無く、対抗心が粉微塵に粉砕される。魔者の並外れた身体能力の前では武器を構えることにすら用立たない体は、完全に戦意を喪失してしまっていた。
「……人間という生き物は、可哀想なほど弱いな」
それは、弱者への哀れみというよりは、新しい気付きに歓喜しているようにも聞こえる。自身を守るためにと手にしていた猟銃は、気付けば目を爛々と輝かせる村長の手中であった。
「人間の貴様相手に、わざわざ魔法を使うまでも無い。手前が用意した得物で十分だろう。まさか、私に奪われるくらいの想像をしていなかったはずもあるまい?」
村長は勝ち誇ったように、こちらへと銃口を向けてくる。物騒にも引き金には指がかけられていた。加えて、未熟な可能性を蒸発させて得られる昏倒するほどに甘いひと時を夢見て震顫する彼だ。ふとした拍子に引き金が引き切られてしまい、もはや最後にたったひとこと言い残すことも叶わず、無念にも地面に伏してしまうだろう確率は決して低くはなかった。
なのに、そうして更に自分を痛めつけることに何ら躊躇いを抱いていないは愚か、むしろ早急に片付けて一刻も早く帰路に着くことを考えているような人で無しと対していても、不思議と自分の耳に入る言葉は彼の放つような鋭利なものではない。
「玲は、嘘つきだっ!」
「…………ごめん、ね」
いや、嘘だ。クロの声は、言葉は、自分の心に骨折よりも死の恐怖よりも強い痛みを覚えさせた。
どくん、と。クロの苦しげな叫びに、心の熱が段々と戻りつつあることに気がつく。獏を使う前の弱い自分へと戻りつつある感覚に、悪寒で冷や汗がぶわっと吹き出してきた。
……耐えなきゃ。
自信を喪失したことで、偉そうに格好つけることも、虚勢を張ることも上手くできなくなる。加えて、理性がない間好き勝手していた自分への恥ずかしさが高波と押し寄せてきて、叶うことならばこの場から今すぐにでも逃げ出したい気分だった。
それだというのに、じくり、じくりと。隙を見せた心に追い討ちをかけるように、村長さんの腕、さりとて魔者の強靭な肉体から繰り出された殴打をもろに受けた腕が激しい悲鳴をあげてきた。それは、まるで鰐の強靭な顎が食らいついて離れていないかのようで、鋸歯での歯軋りが片腕を千切らんとして耐え難い疼痛を絶え間なく与え続けてくる。そんななんとも執念深い痛みは、耐えようときつく歯を食いしばってみたところで、腕から全力で送られてくる
……ぁ。
よく見れば、魔者の村長さんが振り下ろした拳は、腕の骨を折るにとどまらず、見るも無惨にこっ酷くへしゃげ、あらぬ方向を向いていた。他人のそれを見ても正気ではいられないのだろうから、それが我が身に起きたとなれば、いつ見っともなく発狂してもおかしくはない。
けれど、口をついて出たものはと言えば、真底くだらない諦めの言葉だ。
「……あ〜あ」
全くもって、わからない。が、兎も角自分は、どうしてか毅然と振る舞うことができているのだ。
……ああ、そうだ。これはきっと、身体が想定外の強烈な刺戟に驚いて、一時的に全身の生体機能が麻痺しているのだ。ならば、もういくつか数えもすれば、身体機能の再起動が自動で実行されることだろう。その時が来れば、今度こそ意識を保ってはいられまい。
「……わからないよ」
腕をへし折られた痛みという経験のない大津波が迫り来る中、嵐の前の静けさに戦々恐々としている自分に、クロはまた、いつものように自分の不細工を嘆く。
「ねぇ、玲。玲は、白が好きなんだよね?なら、どうしてわたしを助けに来たの?」
そう言うクロは、大怪我を負った弱い自分を心配して駆け寄ろうとしてくれていた。しかし、そこは何をしても鈍臭いクロだ。いとも容易く村長さんの手に捕まり、近寄ることは叶わない。
……よかった。
自分は、酷く安堵した。村長が腕を上げた瞬間、今しがた自分の腕を砕いたその腕がクロにも同様に凶器として向けられないかと心配していたから、本当に無事で済んで良かった。無意識に肩に入っていたのだろう、至急の緊張が解けると、力がすっと抜けて身体が明らかに軽くなるのがわかる。
「……どうして、か。それは難しい質問だね」
いいや、本当は何も難しいことなんてない。ただ、口にするのがとてもとても難しいだけで、最初からずっと目的は揺るぎなく明確だった。
……自分は、クロを助けに来たんだ。
一言、その台詞を言えたならどれだけ良かっただろう。しかし、魔杖の力を借りて可能な限り傲慢で無敵な自分を作っても、それでも、そのたった一言がどうしても言えない。クロに想いを拒まれてしまうのではと、もうお前は要らない存在なのだと、そう嫌われてしまうのが何よりも怖くて堪らなかった。
……ああ、そうか。
ふと、何の気無しに空を見上げてみる。あぁ、空だ。一人で望むにはあまりに広すぎる空が当たり前のようにあった。
自分はどうやら、最初からやり方を間違えていたようだ。
おもむろに、ぶらんとだらしなく垂れ下がる腕を見てみる。嗚呼、何とも痛々しいことだ。けれど、それだけだった。腕が折れた痛みなんかよりも、もうクロと一緒に絵が描けないことの方が自分はよっぽど悔しいのだと、そう気付く。もう一緒に料理をすることも満足に叶わないだろう。故郷の素敵な言葉たちをこの手で教えることも、もはや期待するだけ悲しいだけだ。今まで何気なくできていたことが、今はままならない。なら、それなら、嗚呼。再び空を飛びたいと願うクロの素敵な夢の応援をすることなど、夢のまた夢ではないか。
この腕は、守れたのだろうか。クロの未来をより良くするための糧とできただろうか。まして、穢れた地上に君を縛り付ける楔などになってはいないだろうかと、考え出したら全くキリがない。そもそも、自分がクロの役に立てたなんていう考えを持つこと自体、ひどく烏滸がましいのかもしれない。
けれど、人の心とは本当にままならないものである。
「……クロには、幸せな明日を迎えて欲しいから。君の未来は、明るくなくちゃいけない。だって、今まで頑張って辛い日々を耐えてきたんだ。だから、明日の幸福は望むまでもなく訪れる。嘘じゃない、本当だよ」
そう。自分の生き方は、初めから一つだった。自分が放つ言葉には、何の根拠も深い意味も存在しない。ただ、一つの想いから
「……思うんだ。どんな事情があったって、生きている人を蔑ろにしていい理由にはならないって。誰に批判されても、他ならぬクロが嫌がっても。今生きているクロよりも大事なことは、自分にはない」
「どう言うこと?わからないよ!玲はいっつも、わたしにわからないように言うんだ!」
”死者よりも生者を優先する”。これが、自分の正義であり、宗教だ。
誰に言われるまでもなくわかる。これは、想いを寄せてくれていた白に対する裏切りだ。
けれど、自分たちは、違う。最初から間違っていた。だから、きっと白も応援してくれている。そう、自分は”決めつけた”。
「おい、銃を捨てろ、本気で彼を殺す気か!」
そう叫ぶのは、どこから持ってきたのか、いつか見た黒曜石のような拳銃を両手で構えた猟師さんだ。村長さんが発砲することを止めようと威嚇してくれていた。
しかし、むしろ村長さんの心を無用に追い詰めるばかりで、決して良い策とは言えたものではない。
「私手ずから殺してやらずとも、この星には人間を嫌う魔者は五万といる。……が、あれだけの辱めを受けたんだ。五体満足で野放しにしておく気もない!安心しろ、クロは可愛がってやる。貴様はあの世で指を咥えて見てることだ」
「親父、相手は人間だ!もう歩くことだってまともにできる状態じゃない!それでも死体撃ちするつもりか?それが一村を治める長のすることなのか!」
「……黙れ」
「改心したんじゃなかったのかよ!アキラだって、言えば半端者みたいなもんだろ?人間ではあっても、過去の事件とは無関係だ!」
「…………黙れ、黙れ黙れ黙れ!何を知った風な口を!!貴様らだって私と同類だろう!!」
「そんなことして、クロがお前についていくとでも思ってるのか!」
「知ったことか!カゴに入れてしまえば小鳥も猛獣も変わらぬ愛玩動物だ!」
「クソがっ!どうしようもない下衆だなあんたは!!」
二人の説得に逆上して感情に収集がつかなくなってしまった村長さんは、可哀想なことに、遂に自分を撃つ覚悟を決めてしまったようだ。
その決定がなされるまでの暴力的な過程を、自分はと言えば、まるで他人事のように、或いは諦観の念を抱いて嘆きながら静観していた。
……痛いのは、いやだな。
元の持ち主のことなどとんと気にした様子のない猟銃の真っ直ぐなバレルの最奥には、自らの手で込めた大口径の弾薬が熱もなくこちらを見つめている。たった一発で大型の獣を行動不能にするほどの威力を持つ弾だ。人間の自分がまともに食らえば、強烈な衝撃に意識を失うこと請け合いだ。
けれど、何より悲しいのは、この場で怒っている魔者の中で、誰一人として自分のことを見ている人がいないことのように思う。最終的に出る答えを主観的に二極化するなら、決まるのは自分の生き死にだと言うのに、声を荒げる魔者たちは全員別の感情をもって言い争いをしていた。
けれど、それは文句を言っても致し方ないことだ。半端者を迫害した父親を頑なに許そうとしない猟師さんも、口ばかりの正義を振りかざす割には何の行動もしていないお弟子さんも、今まさにクロを拐おうとしている村長さんでさえ、全員が全員厄介な過去に囚われて逃げられない優しい他人たちだと、自分はそう思う。少なくとも、そう考えることが叶うのだ。
しかし、それはあくまで蚊帳の外にいる自分だからこそ至ることのできた答えなのだろう。なにせ自分は人間で、魔者でも半端者でもない部外者ではあるけれど、それ故に両者の間に面倒な感情を持ち込むこともなく、無根拠で無責任な思ったままの行動を悩むことなく実行に移せる立場にあるからだ。
自分は、お弟子さんのように、周囲の意見に流されずに自分の意思を貫徹する勇気はないけれど、ここが勇気だけではどうにも変わらない無慈悲な世界であること、また自身が無力であるがために、助けたい人を素直に助けられないという心の葛藤についてだけは、自分の中にも同じものがあった。
自分は、猟師さんのように、大勢の命を守るために想い人を自らの手で殺める選択を迫られたことはなくても、大切な人を自分のせいで無惨に殺されてしまった時の無念は痛いほど知っていたし、もう二度と同じ過ちは犯したくないという後悔から生まれた、強迫観念による武力行使を正当化するための大義名分に泥酔したくなる気持ちも理解できた。
自分は、村長さんのように、大勢の上に立ち責任を背負う立場を任されたことはないし、誰かに不安を吐露することで得られる気楽さも自分はよく知らないけれど、心が押し潰されそうな時に責任を他人に押し付けたくはなるし、他人の幸せを妬んだことも一度や二度ではない。
そう、自分は、この場にいる誰と同じ人生を送っていても何ら不思議のない条件が揃っていた。だから、どんな外法の論法でも構わない、救ってあげたいと願ってしまう。
でも、向こうはどうだろうか。これでも、ほんの少しも期待しなかったかと言えば、決してそんなことはないんだ。
けれど、人は皆自分の生ですらいっぱいいっぱいで、他人に割く余裕なんて持ち合わせていない。
でも、それは自分勝手な決めつけだった。
「……玲」
大の大人が、それも自分よりも一回りも二回りも体格の優れた男たちがだ。人の命を石を蹴飛ばすよりも軽い力で吹き飛ばすことができる武器を構えたまま、激しく言い争いをしている。そんな状況の只中にいるクロは、本来声を出して自分の存在に気付かれることさえ酷く怖かったに違いない。今は人間へと向けられている銃口も、弱々しいとはいえ、意識外から新しい風が吹けば、暴風はたちまち凪ぎ、一瞬で旗色が悪くなることだってないとは言い切れないと言うのに、それなのに、君が口についた言葉は、自分なんかの声が聴きたい、そんな間の抜けたささやかな願いだった。
……っ、自分は天邪鬼だな。
自分は笑った。この不幸を抱きしめながら大きく笑った。それはもう、この場の全員の注意と敵意を集めるほどに。
「っ!?何がおかしい!……そんなに殺して欲しいか!なら、その望み、叶えてやろう!!」
「恥を知れ!くそっ、せめて泣き喚いてくれるなよ、親父!!」
次の瞬間、二人は競い合うように銃の引き金を引いた。
猟師さんと村長さんの発砲のタイミングは、ほとんど同時だったように思う。違うのは、銃口が向けられる先と、弾薬の種類くらい。
そして、その片方は、当然自分に真っ直ぐ向かってくる。
「「…………っぐあ゛あ゛ぁ゛ぁぁぁぁ!!!!」」
「玲ぁぁぁぁぁぁっ…………!!」
弾は恙無く、片方は手負の人間の片腕を、もう片方は凶器を握る魔者の手を穿った。
「……嘘だろ。こんなこと、あって良いはずない……」
「…………間に合わなかった」
ああ、痛覚が壊れたままであればどれだけ楽だったろうか。奇しくも生半可に感覚が回復していたところへ起き攻めをするかのように襲いかかってきた爆発的な刺戟は、頭で理解するよりも前に、身体の方が先に苦悶の絶叫を上げさせた。
痛い。熱い。痛い。寒い。痛い。怖い。
「…………ぁ」
ふらふらと目線が落ちた先に、何かが落ちていた。懐かしくも悍ましい、血みどろの細長い肉塊だ。
「……………………ぁぁ」
体の芯が抜けたように力なく膝をついた自分の目の前には、自分の右腕だったものがあった。それが元々繋がっていたはずの肩には、何もない。代わりに、見えない腕が巨大なプレス機で満遍なく丁寧に押し潰されたかのような爆ぜるような痛みと、その付け根からは止めどなくぼとぼとと真っ赤な血が足元に流れ落ち、石畳の溝を詰まらせるほどの大きな血の溜池をつくっている。
二度目の叫びは声にならなかった。喉はまだ潰れていないはずだから、きっと大きな声を出そうと力み過ぎたせいだ。その代わりと言ってはなんだが、大量の血液が傷口から吹き出した時は、絶望よりも可笑しさが勝って僅かに笑ってしまった。
「玲!?玲!!やだ、死んじゃやだよっ!まだわたし、玲に何も返せてない!!」
いつの間に走って側まで来ていたのだろうか。クロは、石の床に叩きつけられようとしていた自分の体を小さな体で抱きとめては、朦朧とする意識をどうにか叩き起こそうと、泣きじゃくりながら必死に何度も体を揺すってくる。
「……く、クロ、あんまり激しくしないで」
「でも、でもっ!」
「一先ず、そこに寝かせてくれないかな?……この体勢、すごく恥ずかしい」
「…………」
クロは自分の言うことを聞いてくれなかった。むしろ、前よりもきつく抱き込まれてしまう。正直に気持ちを言った手前、さてどうしたものかと苦笑い。
でも、不思議と無視をされても悲しくはなかった。だってそれは、君が反抗的になったわけではない、自分の意思で物事を判断できるまでに成長したという何よりの証拠だと思ったから。
「俺はなんとかここで止血してみる、師匠は奥さんの通ってた病院に行ってアキラの治療を任せられる人を連れてきてくれ!」
「…………」
「おい、師匠!!聞いてるのか!ボサッとしてんなよ、人が一人死にかけてるんだぞ!」
「……ぁ、ああ、済まない。すぐに行く!」
少し遠くで聞こえるのは、お弟子さんの声だろう。正直を恥と感じてしまう偏屈な自分とは違い、動揺しながらも正しい行動を真っ先に取ることができる彼の、なんと格好良いことか。
だからだろうか。村長さんの不安と怒りが混じった叫びも、今ばかりはお弟子さんを引き立たせるための桜としか感じられない。
「何を馬鹿なことをしている、早く電話で病院に連絡をしろ!」
「あんたは良くても、病院は人間を治してはくれないだろ。それに、あんたの傷は放っておけば治る。こっちが優先だ」
村長さんもそれなりの大怪我を負っているのかも知れないが、こちらとは違って、生死を彷徨うほどの深傷でもないらしい。村長さんの提案は、お弟子さんに
しかし、村長さんがそんな理由で納得するはずもなく、人間のために無用に痛みに耐えろと言い切ったお弟子さんをいびり始める。
「私は村長だぞ、そこの人間なんかより私を治療する方が優先だろう!それともお前、人間の味方をするとでも言うつもりか?この魔者の
全く、黒いものは叩けば叩くほど埃が出るもので、それも他ならぬ村長さん自身がせっせと墓穴を掘るような言動を取り続けているとなれば、もはや滑稽の他に彼に贈る言葉が思いつかない。
加えて、村長さんが不幸だったのは、彼の選んだ脅し文句が魔者と半端者の関係を思い起こさせる差別的な言葉であったことだ。端的に言えば、村長さんはお弟子さんの逆鱗に触れてしまった。
「俺は、人間が、大嫌いだ!だが、それ以前にアキラは俺の友達なんだよ!友達の味方をすることの何が悪い!」
「……こ、後悔しても遅いぞ」
「はっ!そんなものはとうの昔に済ませたさ!……余計な気は起こすなよ、俺だってあんたにはキレてるんだ。耐えかねて俺があんたの口に銃口突っ込んだ後で泣いて謝っても許すつもりはないから、そのつもりでいろ」
お弟子さんの言葉は、とても冗談には聞こえない。村長さんも同じように感じたのだろう、それ以降は余計な口を開かなくなった。
「クロ、アキラを離してくれ」
「…………いやだ」
「……血を止めるんだよ、このまま血を失い続けたら不味い。だから、つべこべ言わずに早くそこに置いてくれ」
そう言ってお弟子さんは、焦りながらも手早く救急箱の蓋を開けると、中から手のひらほどの乳白色のピルボトルを取り出した。しかし、その間もクロは自分を両手で抱いたままで、どうしてか離そうとしてくれない。そんなわがままなクロを緊急時にいちいち相手にしなければならないお弟子さんだ。さぞキリキリと胃が痛んだに違いない。
「まぁ、いい、ひとまず魔者用だが、ペインキラーだ。お前まで水が欲しいとかわがまま言ってくれるなよ。ほら、口開けろ。これで痛みも少しは楽になる」
こんなことなら、もっと真面目に医学方面の魔法も勉強しておけばよかったと、お弟子さんは自身の怠惰を嘆いていた。
しかし、どちらにせよ栓なきことだった。
「……効かないよ」
「…………それは強がりか?経験からか?」
「それ、魔法薬だよね?前に間違って危ない薬を飲んじゃったことがあるんだけど、なんともなかったよ。それに、少し調べてくれた人がいてね。魔者用の薬は強さや種類に関係なく、人間には効果がないって言ってた」
「ったく、本当になんでお前は人間なんだよ!」
この
そんなことを呑気に考えていると、突然ぐらりと視界が揺れた。
「おい、大丈夫か!?」
「……はは、へーきへーき」
「あのな、こんな時までヘラヘラしてんじゃねぇよ!」
「……でもなぁ、そんなこと言われても、他にどうしたらいいかなんて…………」
……ぁあ、やばいかも。
お弟子さんの話に、一瞬でも痛みから解放される期待をしてしまったからだろうか。気が抜けてしまって、もう意識を保つのでやっとだった。
お弟子さんはまだ諦めていないようで、どうにか魔法抜きで止血ができないかと、家へと戻り道具を探しに行ってくれた。本人はこんな調子なのに、それでも本気で助けようとしてくれる姿に、何だかとても申し訳ない気持ちになる。
……死ぬのかな。
そんな何気なく心に浮かんだ縁起でもない予想は、近いうちに現実になるんだろう。
しかし、どこに悲しむ要素があるだろうか。ずっと、ずっとだ。この日が訪れることを祈り続けてきた。満願成就と言っても過言ではない。それほどまでに切望して、そしてようやく手に入れた”他人のために死ぬ”機会だ。この期に及んで、やっぱりもう少し生きたいなどと、そんなわがまま一つでこれ以上ないほどの散り際を邪険にできるほど自分の精神は図太くもなければ、もう一度このような花形を演じられる機会が巡ってくるともまた到底思えない。
でも、そんな死ぬよりも以前から屍人同然であった自分の中にも、人としての心があると言うのなら。ひとつだけ心残りがあるとするなら、何を差し置いても、自分のために泣いてくれる君のこれからのように思う。
「お願いだ、やだよ……。まだ、死んじゃダメだっ…………」
クロはそう言うけれど、もはや気合ではどうにもならない所まで来ていた。なのに、クロは自分を休ませてくれはしない。
その理由は、烏の頃からの知人が誰一人としていなくなり、天涯孤独のように感じられて寂しいからかもしれないし、人としてのあり方を教えてくれた少なからぬ時を共に生活した相手がいなくなることへの不安からかもしれない。いや、自分で言うのもアレだが、十中八九それで間違いないだろう。
けれど、そう高を括っていた自分に、クロは大真面目な顔で必死に言うんだ。
「それは玲の夢じゃない!」
「…………ゆ、め?」
夢。
何と陳腐で臭い言葉だろう。なのに、たった一言でどうしようもなく胸が熱くなる。
それが、まだ自分の中に叶えたい夢があるという証左だとは認めたくはなかった。格好つけてきたつもりだ。今となっては顔を覆いたくなるような気障な台詞を口にしたことも、月に来てから一度や二度ではない。でも、それは全てを最初から期待せずに諦めていたから平然とできたことだ。だから、本当の夢などと、そんなことを臆面もなく、他ならぬ君に指摘されてしまっては、一体これからどう振る舞えば良いのか途端にわからなくなってしまった。
「わたし、出来ることいっぱい増えたよ。楽しいって思えることが世界にはびっくりするくらいたくさんあるんだって、そう教えてくれたのは玲だ」
「……ちょっと美化しすぎじゃない?」
「そんなことない!わたしに初めて話しかけてきてくれた時も、木の枝でお絵描きを教えてくれた時だって。わたしはね、玲。とっても楽しそうに、笑顔で教えてくれる玲を、知ってるよ」
「……それは多分、クロの見間違いだ」
「ううん、いっぱい知ってる。短気で、ものすごく負けず嫌い、それなのに何をするにも自信がなくって、嫌なことがあるとすぐに物に当たるし、わたしがどれだけ一緒にいたいってお願いしても、屁理屈ばっかり言って逃げちゃう。なのに、自分がどれだけ大変でも、わたしが困ってる時、いつだって一番に隣に駆けつけてくれるのは玲だった」
「……それしか出来ることがなかっただけだよ」
……本当なら、もっと色々な物事を教えてあげたかった。でも、君と出逢ったその日の夜には自分はもう独房の中で、与えられるものなんて幾らもなかった。お腹を空かせた小さな君の胃さえ満たすことも満足にできない自分に、どれほどの憤りを覚えたことだろう。
なのに、君はわがままや愚痴を口にすることはあっても、一言だって自分に文句を言うことはなかった。
「……玲はいじわるだ」
「そうだね、ダメな男だ」
自分はそう断言した。気を抜いたら甘えてしまいそうで怖かった。
でも、ダメだ。君の温かい涙を湛えた銀色の瞳に見つめられると、心の底に押し込めた何かが暴れて、胸が痛んで、他愛ない些細な嘘さえつくことを許してはくれない。
「…………玲はいつだって、他人のことばっかりだ。わたしだって、玲にいっぱいして欲しいことあるんだよ?でも、わたしといたら玲が……不幸になっちゃうかもって考えたら。どうしたらいいのかわからなくなっちゃって、なのに玲は自分が悪いんだって、そればっかりだ。……わたし、もういっぱいだよ。玲の優しい気持ち、入らない。……だから、お願いだ。たまにはわたしの気持ちも受け取ってよ」
クロは声を苦しげに震わせながら、でも諦められないと困ったように願う。心の中身を曝け出す恥ずかしさに頬を赤らめ、想いを拒まれる恐怖に涙をこぼしながら、それでも、どうしても我慢できなくて、必死に、どうかこれだけはと、まるで祈るように優しい表情で微笑んだ。
嗚呼、叶うならば、君の声を、想いの全てを、一息に飲み込んでしまいたかった。触れ合った肌の温もりも、頬をかすめる雪のように白い髪の感触も、自分にどうしようもない苦しさをもたらすばかりで、切なくて。この子を誰にも取られたくない、独り占めにしたいと、そんな汚い欲が次々と湧き出てきて止まらない。
なのに、それなのに……。
「……クロ。こんな自分と一緒にいてくれて、ありがとう」
君は勇気を出して乗り越えたのに、自分は立ち止まったまま動けなかった。
もう体の感覚は残っていない。時と共に思考は鈍り、確実に意識が混濁していく。深く音のない漆黒へと沈みゆく中で唯一許されたのは、記憶の回想と後悔のみだ。
……なんと、もったいのない人生を歩んできたのだろう。
村長さんは銃撃で負った痛みに耐えていた。だから、こちらを機にする余裕はない。自分の手当てのために奔走するお弟子さんも猟師さんも、当分ここには帰っては来ないだろう。それに、もうじき銃声を聞きつけた村人たちが表へと出てくる頃合いだ。だから、少し強引だけど、今は君と二人きり。そして、きっとこれは、自分に与えられた唯一の奇跡であり、決して無駄にしてはいけない最後の機会だった。
……もう、いいよね。
そう自分に何度言い聞かせた。
残された左腕で頬を撫でたい。体は動いた。けれど、腕の感覚は皆無であるせいか、君には少し届かない。君は不細工に嗚咽しながら泣いていた。耳が聞こえずとも、頬をつたう涙が、滴り落ちてきた温かい雨粒たちが、自分の心に直接響いた。
だから、言葉が、想いが紡げないなんていう道理はないんだ。覚悟さえ決まれば、心が全力で望みを実現してくれる。
しかし、自分は目を背けるように身を翻した。
…………ああ、だめだ。やっぱり、言えないよ……。
悔しくて涙が溢れてくる。心臓は失血で止まりかけているのに、それとは関係なしに堪らなく胸が締め付けられて苦しい。
でも、これで良い。これが正しい。
……クロの夢を潰すことなんてできない。
君の言葉を借りるなら、心の中で暴れている獣こそが自分の本当の夢なんだろう。けれど、それはひどく歪で、君の夢をも喰いかねない灰色の化け物だった。自分の夢と、君の夢。その共存は叶わない。二つを天秤にかけた。傾く先は”当然の結果”だ。甚だ納得できるものではなかった。
だから、自分は最後の力を振り絞り、乞い願う。君が悪い夢から目覚め、羽休めを終えて力強く飛び立ち、空の世界へと舞い戻る、そんな未来を。
「……忘れて、幸せになってね」
「……………………っ!!」
何も聞こえない。でも、すごく怒っているのだけはちゃんとわかる。
でも、これで良いんだ。翼も無く、覚悟を決めて飛び込む勇気すら出せなかった自分は、君の夢には要らない。君の足枷になるくらいなら、自分は地上から空を見上げるだけの寂しい人間で良かった。
だけど、一言だけ。”君”から勇気と言葉を借りて、一度だけ心の内で小さく唱える。
ーーーーーー。
クロの耳には届かない。声にするつもりがないのだから、当然と言えば当然だ。でも、この想いが伝わってたらいいなって、そうも思っている自分もいる。
でも、それも願うだけ無駄なこと。時が経ち過ぎていた。ぞろぞろと魔者が通りへと顔を出し始め、自分たちはあっという間に包囲される。
そこから先は、よくわからない。突然の村人の動揺、感じたことのない強い衝撃、それからしばらくは上下に激しく揺すぶられていた。
虚ろな瞳に映った最後の景色は、奇しくもあの日と同じだった。燻んだ空から疎らに舞い落ちる白い雪は、どうしようもなく自分の不安を煽る。けれど、とうとう不安の正体を見ることはなく、意識は闇の中へと沈んでいってしまった。
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