第44話 やくそくのよる
夕方になってお祭りの本番が近づいてくると、わたしはイロハたちの協力を得て、こっそりと村から抜け出した。
屋台で買ったおいしいものをお土産に持って、急足で小屋のある場所を目指す。運動音痴なわたしだけど、今頑張った分だけ向こうで彼との一緒の時間が増えると思うと、走るのも苦には感じない。
それでも、着く頃にはすっかり日は沈んでいて、辺りはもう真っ暗になっていた。
「……冬だよ、玲」
ここしばらくの間、村で不自由のない生活を送っていたからだろうか。人の気配のない自然の奏でる音色だけで満ちているこの場所は、ひどく寒々しい所のように感じられる。そうでなくても、ここは半分海の上だ。時折吹き付けてくる痛いくらいに冷たい風を遮るようなものはないし、お日様のお陰で地面に溜まった熱も冬の張り詰めた静寂を和らげるには心許ない。
それでも、雨風もまともに凌げない穴だらけの小屋に無性に安心感を覚えるのは、ここがわたしの初めてのお家だったからだと思う。
「……ただいま」
きっと、ここに住みたいと羨む人は、村の中にはいないんだろう。誰もが近づくのを避けるくらい、生きるには問題が多い場所だ。
けれど、懐かしい光景にわたしが思い出すのは、不思議と楽しい記憶ばかりだ。
「……玲」
わたしは、思い出だけでは満足ができなくて、小屋の戸を開けようと手を伸ばそうとする。
けれど、不意の痛みに襲われて、すぐに手を引っ込めた。
「……痛ぃ」
荷物を落としてしまった空っぽの手のひらを見てみると、夜でもはっきりわかるほどに真っ赤に霜焼けを起こしていた。今まで経験したことがない痛みに、わたしは思わず顔を歪める。
雨に降られても、寒空の下で幾夜過ごそうと、わたしにはそれが日常だった。霜が降りようが、雪が積もろうが、関係はない。その場で蹲り、目をつむってじっと静かに耐えていれば、時間が全てを解決してくれる。そう信じて、わたしは今まで日々を過ごしてきた。
だから、我慢するのは、わたしにとっては数少ない得意なことのはずだった。
なのに、今のわたしは、痛いのを我慢できなくなってきている。少しずつ弱くなっているようで、取り柄が一つ消えたように思えて、急に怖くなった。
そんな不安を消したくて、悴んだ手を吐息で温めようと、両手を口元に持ってくる。
そして、はぁ〜、と。体の熱を漏らすように、そっと優しく手に吹きかける息は、白い煙になったかと思うと、潮風に連れられてゆらゆらと流れて消えていった。
そんな、雲のような姿へと形を変えた息が、淡くたなびき夜に溶けていく様を目で追いかけながら、わたしは目前の小屋の戸を叩く勇気を今更ながらに探している。
「……怒られるの、やだな」
前にもこうして村を抜け出して、こっそりと玲に会いに来たことがあったけれど。その時は、”どうして”来たのかって、そうきつく叱られてしまった。
それでも、聞き分けのないわたしに説教をしている間は、玲は穏やかな表情で微笑んでいたように思う。
だから、たまにならここに来ることを許してくれるかなって、わたしは期待した。
なのに、最後には、二度と来ちゃいけないよって。微かに震えた声で、悲しそうな表情を浮かべて、わたしに強く言うんだ。
「……ねぇ、玲。君は、わたしのことをどう思ってるのかな?……時々わからなくなるんだ」
君は、わたしにどうして欲しいの?
ふと、明るくなり始めた空に向けて、わたしは無意味に問いかける。お昼寝の時、玲といつも並んで見上げた空は、今はたくさんの星々で満ちていた。
「早くしないと、始まっちゃう……!」
徐々に輝きを増し始める空に、わたしは焦った。けれど、欲しい勇気は、まだ見つけられていない。
それもこれも、大事なことは何も言ってくれない玲のせいだ。
……いじわる。
玲はきっと、自分の感情を上手く隠せてるって、そう信じてるんだと思う。だから、わたしが君の顔を見て、どうするのが正解なのか迷っていることに、きっとこれっぽっちも気付いていない。
「“どうして”?……そんなの、決まってる!」
そうじゃなくても、理由がないと来てはいけないのかって、そう泣きたくなった。でも、それを言っても、きっと玲は何も答えてはくれない。しつこく聞けば嫌われてしまいそうで、何も言えなかった。
だから、いつにも増して寂しさが込み上げてくる夜の中、誰もが納得する確かな理由を考える。いつも屁理屈で逃げてしまう玲でも、笑って思わず許してしまうような、そんな楽しい言い訳を必死に探した。
けれど、その必要はないのだと、わたしは気付いてしまう。
「…………ばかっ」
今度こそ中に入るんだと、地面に落としたままだったお土産の袋を持ち上げようとした時。いつか、わたしが熾した焚き火の跡が、不意に目に入った。
それは、最近使われた様子はなくて、手入れもされず、雨ざらしの状態で放置されている。ご飯作りの時は、必ずと言っていいほど火を使っていた玲だ。ここには、もう彼は居ないのだと、そう知った。
「……ねぇ、夢って何?」
わたしは、ボロ小屋の裏手に周って崖の端に一人座り、盛り上がりを見せる鮮やかな星空を見上げながら答えを探す。
「頑張るって、どうすればいいのかな?わたしは、自分のことで精一杯だよ。……なのに、どうして玲は、わたしの夢を応援してくれるの?」
……何も返せないわたしに、優しくしてくれるのは、なんで?
その理由は、他ならぬ彼自身が、その口で答えていた。
だからこそ、わたしは頭を抱える。
「……玲は、他人に優しくしてもらいたいんだよね?……だったら、どうして?なんで、一緒にいちゃいけないの?」
理由と矛盾する行動をとる玲は、一体何を考えてそうしているんだろう。もしかすると、何かを誤魔化すためについた嘘なのかもしれない。
でも、今度はその誤魔化した理由が分からなくて、また行き詰まる。
結局、わたしは彼のことを何も知らなかったんだと痛感した。
それでも、わたしの心の奥底にある想いは、どうしてか揺らぐ気配はない。
「……会いたい。君の声を、聞きたい……」
波が打ち寄せ、崖にぶつかり砕ける音に、わたしの声は飲まれて消えていった。誰に届くこともなく、真っ黒な海の中へと落ちていく。けれど、どうしてか、それが自然なことのように思えてならない。
「……あの頃に戻りたい」
わたしは、眼下に広がる漆黒の海を恐る恐る覗き込んだ。黒いわたしならなんとも思わない高さだけど、今は怖くて体の震えが止まらない。
漠然として光のない明日が、不安だった。失敗した時の恥ずかしさや、他人に失望されるのが、たまらなく怖い。でも、目の前の海を見つめていると、そんな不安がちっぽけなものだって思い知らされる。世界が、”死ぬよりは楽だろう”と。そう語りかけてきているように感じて、不快だ。そんな熱のない、淡々と繰り返される言葉がわたしは嫌で、ぎゅっと強く耳を塞ぐ。
世界は、嫌な音ばかりだ。
立ち止まることを責め立てるように、鳴り止まない時計の針の音。
悲しい気持ちを慰めるでもなく、静かに感情の熱を奪っていく波の音は、いつからこんな風になってしまったのだろう。
そして、わたしを見下ろす星だ。きらきらと瞬く様は、まるでわたしを笑っているように見えて、なんだかとっても惨めになる。
けれど、世界は前と何も変わってはいない。だから、変わってしまったのは、わたしの方なんだ。
「…………また、ひとりぼっちだ」
これからどうしようかと俯きながら悩んでいると、嫌な音の隙間から、こちらへ近づいてくる足音が微かに聞こえた。
「……玲!?」
自分でも、心臓がとくんと勢いよく跳ねるのがわかる。胸の奥が熱くなって、嗚呼。堪らなくなった。
どうしてか、急に呼吸の仕方がわからなくなる。でも、心臓は激しく暴れていて、苦しくて。だから、白い吐息の消えぬ間がないほどに、わたしは肩を上下させていた。
それでも落ち着かなくて、髪の毛をいじったり、足を擦り合わせてみたりして、なんとか気を紛らわせようとする。
でも、そう都合の良いことが起こるわけもない。
「……悪いな。俺だ」
振り返った先、小屋の影から出てきたのは、仕事着に身を包んだコウタだった。
「……ごめんなさい」
「謝るくらいなら、初めからやらないで欲しい。……心配したんだぞ」
「…………。」
コウタの言葉が図星だったわたしは、顔を背けるように俯く。
本当は、玲じゃないってことくらい、最初からわかってた。彼は、例えひどく不機嫌でも、大きな足音を鳴らして歩くような人じゃない。むしろ、足音を殺してひっそりと近づいてきては、急に声をかけてきて驚かしてくるような意地悪な人だ。だから、ここには万に一つの可能性しかなかった。
でも、ダメだ。もしかしたらって思うと、それだけでもう、おかしくなる。
それでも、こうして答えがはっきりわかってしまえば、思いの外冷静になるのは早い。むしろ、あり得ないことが実現することを期待して、そして叶わず落胆しているわたし自身がひどく滑稽で、ともすると笑ってしまいそうで、不快だった。
「クロと別れた後、野暮用で村を歩いてたら、ガキ連中とたまたま鉢合わせてな。一緒にいない理由を問い詰めたら、ここだって聞いた」
コウタは、いきなりわたしの隣に座って、不躾な態度で聞いてもいない理由を答える。その一言で、わたしを心配をしていたと言う理由は、本心ではないのだと知った。
でも、まるっきり嘘でもないんだろう。だからこそ、そんな建前を真っ先に口にしたコウタが許せなくて、苛立ちを感じずにはいられない。
……コウタは、わたしなんて見てないよ。
ここまできて、わたしは、自分がコウタを快く思っていないことに、ようやく気がついた。
……怒っちゃ、ダメ。…………だよね、玲?
わたしは、心を落ち着かせようと、大きく深呼吸を繰り返す。手が焼けるほどの凍てつくような冷たい空気も、血が上った頭を冷やすには丁度良かった。
そして、感情の波が穏やかになると、一つの疑問にぶつかる。
……わたし、何に怒ってたんだろう。
大事にとっておいた自分のご飯を取られたわけじゃない。暴力も受けていないし、悪口だって言われてない。それなのに、まるで宝物を盗られたかのような、大切にしているものを侮辱されたような、そんな感じがしたんだ。叫びたくなるほどの気持ち悪さが、胸の奥で暴れていたように思う。
でも、今は息を潜めてしまっていて、正体をつかむことは叶わない。
だから、今まで通りを努めて話す。
「……新しいお洋服、見せたくて」
そんな言葉が真っ先に出てくる時点で、わたしはコウタと同じだ。本音を明かしたら、相手に嫌な顔をされるのがわかっている。それでもと、相手に正直になろうとするのは、とても難しいことなのだと知った。
「なぁ、クロ。どうしてアイツなんだ?他にもいるだろう。なんで、そこまでこだわる?どこから来たかもわからない、素性の知れない人間のアキラに、何があるって言うんだよ。教えてくれ」
「…………」
「……言いたくない、か」
大きなため息を吐くコウタが怖くて、わたしは小さく縮こまる。
そうして逃げようとする背中を見ても、コウタはめげてくれない。
「なら、言わせてもらうけどよ。俺には、クロがアイツに依存しているようにしか見えない。何を決めるにも、自分じゃなくて、玲の考えで動いてる。……違うか?」
「……だって、わたしは何も知らないんだ。そんなわたしに、玲は人として生きるために必要なことを教えてくれた」
「確かに、そうかもしれない。……けどな、アキラだけでもないだろ?師匠や俺、チハルさんやイロハだって、クロにたくさんのことを教えられる!何より、俺たちは魔者同士だ。アイツにとって都合の良いことばかりを吹き込まれてた可能性だって、否定できないはずだぞ」
コウタの言う通り、ここは魔者の星だ。人間の価値観や考え方が、月でもまったく同じかと言えば、そんなことはないんだろう。
でも、それでもわたしは…………嬉しかった。
わたしは、玲と共に過ごしてきた日々に想いを馳せながら、胸元の天気管へと手を伸ばす。それだけで不思議と勇気が湧いてきて、黒いわたしにちょっぴりの自信を持てた。
「……中には、間違ってることもあったのかもしれない。……嘘も、うん。いっぱいあったよ。……でもね、コウタ。初めにわたしを見てくれたのは、呼んでくれたのは、玲だ。だから、わたしは、その優しさを信じたいって思うよ」
「っ!?クロ、それは盲目って言うんだ!一度優しくされたからって、相手に全てを委ねるなんて、絶対間違ってる!」
「ううん、違うよ。わたしは、いろんな玲を知ってるよ」
「なら、尚更わかるはずだ!!」
コウタは、わたしの考えを改めたいのか、必死に諭すように説得してくる。
「……自分のために、他人が常に全力を尽くしてくれると思うか?人付き合いなんて、面倒なことばかりだ。口を開けば、半端者だ、人間だって、すぐに差別が起こる世の中で、自分のことすら危ういアイツに、一体何を期待してるんだよ!?」
魔者の世界で正体を隠して生活をする人間に、半端者の面倒を見る余裕なんてない。そんな言い分は、全くの正論だった。
それに、と。コウタは憤りを露わにして、半ば怒鳴るようにわたしに言った。
「クロは知らないかもしれないけどな、アキラは、白を騙してたんだぞ!?人間であることを隠して、一人でも精一杯だった白の家に転がり込んで、平気な顔で一緒に暮らして。最後には、白は人間を庇って、銃を他人に向けてよ!そんな無茶をしたせいで、白は……っ!!」
コウタは、その場に自分がいればと、強く後悔しているように見えた。銃を扱うのが得意で、腕っ節には自信があって、白を想う気持ちは人一倍強い彼だ。そんな、助けられる手段を持っていた彼だからこそ、いざと言う時に蚊帳の外にいた自分を憾まずにはいられないんだろう。
「……クロだって、いつアイツのせいで死んでもおかしくなかった。長く一緒にいたせいで、クロにはわからないのかもしれない。でもな、二人が一緒にいるべきじゃないってことだけは、俺は断言できるんだよ」
一緒にいたいと思うなら、相手の幸福に責任を持つべきだ。
その言葉は、音もなく、他ならぬわたしの心に深々と痛みを伴い突き刺さる。引き抜こうにも、自分に落ち度があると感じているからか、上手く力が入らなかった。
けれど、続くコウタの言葉に、わたしはそれどころではなくなる。
「相手に降りかかるだろう危険の全てを払い退ける力と覚悟があって、初めて一緒にいる権利がある。……でも、玲は何もなかった!アイツはただ、身勝手な後ろめたさだけで白を選んだ!」
「……どういうこと?」
コウタの言いたいことがわからず、わたしは混乱して頭を抱えた。
「アイツの目には、何も映っちゃいないんだ。まるで俯瞰するような、自分とは関係ないものを見てるような、あの達観した目だよ。……アイツは、きっと俺らとゲーム感覚で接してる。そう感じるくらい、アキラからは全く熱を感じなかった」
「……熱って、それはないといけないものなの?」
「当たり前だ!遊びで他人の人生に手を出すなんて、人としてあっちゃいけない」
「……遊び」
思えば、玲は気まぐれな人だった。
好奇心の塊みたいな人なのに、何をするにも無気力で、全力を出したところは一度も見たことがない。言い訳ばかり口にするし、好き嫌いも頻繁に変わり、趣味趣向が逆転することだって珍しくなかった。
そんな彼を、得体の知れない、と表現するのは言い過ぎなのかも知れない。
でも、一年も一緒にいたのに、玲のことが何もわからなかったのも事実だった。
……わたしとは、遊びだったの?
あの日、わたしに声をかけてくれたのは、玲の気まぐれだったのかも知れない。そう思うと、なんだかとても悲しい気持ちになって、泣きたくなる。
「相手の喜ぶ言葉を渡すのは、誰だってできる。それこそ、赤の他人でもだ。……それでも、相手は笑ってくれるんだろうよ。……実際、俺は白に振られたからな」
苦虫を噛み潰したような苦悶に満ちた表情で言うコウタは、しかし、何度でも玲を否定し続ける。
「でも、いつか絶対に気付かれる時が来る。ああ、そうだ。そんなこと、アイツがわからないわけがないのに、それでも適当なことを言いやがったアイツが、俺は許せないんだ」
他人の気持ちをオモチャみたいに弄ぶアキラは、人で無しだ。
そうまで言い切ったコウタに、わたしも考えさせられる。
「……わたしは、ひとりぼっちだった」
「クロも、白も。何も悪いことはしてねぇのに、なんで除け者にされるんだ?世の中、本当におかしいよ」
「……わたしの普通は、みんなから見ると、嫌なことだったのかも知れない。だから、嫌われてたんだと思う」
「……多分、アキラは、困ってたり弱ってる相手を助けるのが好きなんだろうよ。そんな優しい自分に酔ってるんだ」
確かに、玲は他人を喜ばせることが好きだった。自分のことなんてそっちのけで、いつも白やわたしのことを気にかけてくれて。相手が魔者でも、半端者でも、例え言葉を交わせない鳥だったとしても、玲は区別なく温かな優しさをくれた。
しかし、それは本当に微々たるもので、そこに熱い思いや信念、こだわりのようなものはなかったのかもしれない。他の誰でも構わないと言った、まるでいい加減で無差別な思いやりだ。コウタに非難されても仕方がないような、そんな粗悪な代物だった。
でも、そんな優しさと相反した妙な冷たさに、わたしは惹かれていたようにも思う。
「……コウタが思うほど、玲はいじわるじゃないよ」
わたしは自然と、そんな言葉を口についていた。
すると、コウタの表情が苛立ちに歪む。
「どうしてそう思うんだ?こうして何も言わずに置いていかれて、どうせ他の場所で新しい友達でもつくって楽しくやってるんだろうよ。そんなアイツに、どうしてそんなことを言える?」
行動に想いは無く、責任を取る気概もないように見える玲は、コウタにとっては悪者なのかもしれない。
でも、何ができなくても、頑張って他人を幸せにしようとするのは、そんなにいけないことだろうか。むしろ、何もしてくれない普通の人や才能のある自信家、損得勘定で物事を判断する人たちにはできないことではないかと、そう思う。
他人の痛みを思い、癒したいと願う。もちろん、そんな力は自分にはなくて、すぐに失望されて嫌われてしまうかもしれない。そんな不安を抱きながらも、恐々と伸ばしてくるその手には、たった一欠片の幸せだ。けれど、切望しても誰もくれなかった幸せでもある。
不器用でぎこちない優しさは、空っぽのお腹を満たすには全然足りない。でも、玲がわたしを抱きしめてくれた時。今日は長い夜を一人で過ごさなくても良いんだと思うと、心の底から安心できた。
そんな、他人の幸せを心から願える玲だ。わたしには、コウタが言うほど、彼が悪者だとは思えない。
「……玲は、気まぐれで優しくしてくれたのかもしれない。だから、気が変わっちゃって、別の場所に行っちゃってもおかしくない」
でも、わたしは玲の寂しさを知ってる。黒いわたしに、泣きそうになりながら優しくしてくれた彼の、諦めに満ちた悲しい笑顔が今でも忘れられない。
「……でも、それはお互い様だ。わたしも、初めは同じなんだよ」
苦しそうに笑う彼を、どうにか笑顔にしたいと思った。
……君は、わたしでもいいの?
黒いわたしは、彼の手を握ることさえできないのに。ぎゅって抱きしめることも、言葉で慰めることも叶わないのに。
だから、きっと彼の心の隙間を埋めるには、わたしでは足りない。
でも、彼を安心させられるような存在になりたいと、心から願ってしまった。
「誰だって、他人の生に責任なんて持てないんだ。だけど、だからって見捨てるのは、諦めるのは違うって、わたしは思うよ」
「…………」
「だから、わたしは、頑張りたい!また優しくしてもらうために、今度はわたしが玲に優しくする番だ!それで玲も幸せになってもらえたら、もっと嬉しい。それって、とっても素敵なことだって、わたしは思うな」
そんな想いを、自信を持って、笑顔で言う。
何も持っていないからこそ、相手にかけがえのない何かをあげられる特別になりたい。
それは、わたしがずっと探し求めていたものだった。
コウタは、手で目元を覆って黙り込んでしまう。そんな彼が、どこか玲に似ているように感じられてならない。
「コウタ。海に降りようよ。少し歩こう」
わたしは、星空の下での散歩にコウタを誘う。
「……冬に海水浴ってか?風邪ひくぞ」
「……ううん。大丈夫だよ」
「何がだよ。馬鹿は風邪をひかないってアレか?言っとくが、自分の体調に気を配れないほど、俺は馬鹿じゃないぞ」
「うん。コウタは、強いよ。コウタは、たくさん頑張ってた。……だから、もう、休んでもいいんじゃないかな?」
「…………休む、か」
きっとコウタは、過去の失敗を悔やんでいる。大切な人を失ってしまって、立ち止まったままなんだ。
でも、そのままでは、コウタはずっとひとりぼっちだ。
だから、今は胸が痛んでも、後ろめたくても、進み続けなきゃいけない。わたしたちの心は、どんな時でも生きたいと叫び続けている。決して立ち止まれるようには、できていないから。
「前を向くのは、とっても難しいことだ。それに、頑張るコウタを悪く言う他人だっていると思う。でも、それでも、わたしは元気なコウタが見たいんだ」
無責任な言葉だって言うのは、わかってる。コウタの嫌いな気遣いだって、わかってるけど。
それでも、わたしは彼を応援したいって、そう思うから。
「星は、目に見えるよりもたくさんあるよ。一つに見えたり、消えて無くなったように見えたりするけど、世界は数え切れないくらいの夢で溢れてる」
誰しも、星の数ほどの夢の中から、誰のものでもない自分だけの光を探しながら生きている。
でも、例え見つかったとしても、必ず手が届くとは限らない。掴みかけた瞬間、初めからなかったかのように跡形もなく消えてしまうことだってあるだろう。そんな時、人は迷ってしまうんだ。目指していた光を見失って、足を止めてしまい、夢を見ることを諦める。その先に待っているのは、生き苦しく仄暗い日常だ。都合よく手を差し伸べてくれる人なんて現れず、ただ一人で耐え続ける毎日が待っている。わたしは、叶うならば、コウタにそんな思いをしては欲しくない。
でも、わたしは白の代わりにはなれないから。
「たくさんある星だけど、同じものだけは絶対にないんだ。……だから、コウタは、我慢しなきゃいけない。白を、諦めなきゃいけない」
「……諦めろ?もう、死んでるのにか?」
「コウタは優しいから、白のことを忘れたみたいに過ごすのはできないかもしれない。でも、自分にも優しくしないとダメだよ、コウタ。……そうじゃないと、いつか疲れちゃう」
投げやりな言動をするコウタに、わたしは、心の底から湧いてくる思いを形にする。
「わたしは、コウタがどんな答えを出したとしても、応援するよ!……だから、コウタ。未来を怖がらないで」
辛い時は、弱音を吐いてもいいんだ。
男の子だからって、泣いちゃいけないわけじゃないよ。
だから、忘れないで欲しい。
「わたしは、コウタを嫌いにはならないよ」
コウタの味方であり続けると、わたしは約束する。そんな意味を込めて、コウタに微笑みかけた。
「……どうして、そんなことを言える?クロは……。アキラの悪口ばかり言う俺に、なんで優しくできるんだ?」
「玲も、きっと同じことをするから」
「男の俺にか?」
「うん。あの人は、欲張りだから。……誰にだって優しくしちゃうんだ」
「……そう言われれば、そうだな。気持ち悪いとか言って突き放したりしたら、ある日突然女になって出てきても不思議に思えないから怖いぜ」
アイツは、なんつーか。ああ、何に関しても中途半端だった。
そう言うコウタは、玲の女装姿を想像したのか、お腹を抱えて笑った。意外と似合いそうだとか、そんな言葉が出てきた自分が嫌で、頭を振って。そこまでしたのに、今度は髪型や格好の話をして、またくすくすと笑う。その表情は晴れやかで、とても清々しい気持ちの良いものだった。
「やっと笑ってくれた」
「……いきなり変なこと言うなよな。恥ずいだろ」
「恥ずかしくないよ。笑うことは、良いことだ」
だって、今のコウタは、とても生き生きとしてる。前よりも格好良くなって、少し頼もしくも見えるから。
だから、わたしは心から願うんだ。
「コウタが、そうやって笑顔でい続けられるようにって、わたしは願ってるよ」
そして、どうか、コウタが幸せな夢を見つけられますように。
胸元のお守りを、わたしは祈るように握る。そうしていると、難しい夢でも、叶うような気がして不思議だ。
「……何の恥ずかし気もなくそんな台詞を言えるなんて、誰の入れ知恵だよ、まったく」
コウタの勘違いに、わたしは首を横に振る。
「違うよ。これは、わたしが考えて見つけた答えだ」
「……そ、そうか。悪い」
「うん。だから、一緒に頑張ろう?わたしじゃ頼りないかもしれないけど、邪魔にだけはならないように気をつけるから」
偉そうなことを言っても、わたしは変わらずわたしのままだ。そんな自分が、コウタのお荷物になるんじゃないかって、今更不安を感じてしまう。
「……ぁあ!わ〜ったよ!!」
「……え?」
力なく俯くわたしに、コウタは勢いよく立ち上がり言った。
「俺の負けだ!行きゃ良いんだろ、行けば!……その代わり、クロも笑えよな!隣でそんな辛気臭い顔されちゃ敵わない」
「……わかった」
コウタは、前を向くことを決めた。なら、わたしも立ち上がらなきゃいけない。
わたしたちは、小屋の建つ丘を降りて、二人で砂浜まで移動する。
当たり前のことだけど、海辺には他に誰もいなかった。
「なんだかなぁ〜。もう、怒るのも馬鹿らしくなってきた」
「……怒るのは、良くないことだよ?」
「俺はそうは思わない。……でも、今日ばかりは無粋だな」
わたしたちは、どちらからともなく靴を脱いで、波打ち際で一緒に空を見上げる。寄せては返す波は思いの外温かくて、強張った体からすっと力が抜けていった。
「それに、折角の綺羅星で、二年続けて気持ちの良い空模様だ。織姫と彦星に聞かれたら、泣いて羨ましがることだろうよ。それだけは勘弁だからな」
そう言うコウタは、しかし、声を潜めることはしない。
「……雨は嫌いなの?」
「いや、別にそう言うんじゃないさ。鼻っから見れないとわかってれば、諦めもつく。まぁ、つまり、そう言うことだ」
年に一度の七星祭は、ずっと一人の犠牲の上に成り立っていた、偽りの平穏だった。
けれど、今日からは違う。
「楽しまなくてどうする。祝わなくてどうするってんだよ。俺らは、何のために生きてる?何のために犠牲を払ってきた?」
「……夢だ」
「あぁ、そうだ。クロは、俺の目を覚まさせてくれた。……だから、俺は上を向くぜ。この目にはちっと眩し過ぎるが、なんてことない。すぐに勘を取り戻せる。そう今なら思えるよ」
ここには、今にも降り出しそうな重苦しい雲はなく、薪を燃やし煙を吐き出す簡素な作りの煙突も、窓から漏れる明かりや賑やかな家族の談笑さえ存在しない。
七色の光が月の地上に降り注ぎ、暗い夜を鮮やかに照らす。それを邪魔するのは、ただ一つ。誰しもが心の奥にしまい込んでいる、夜の怪しげな闇よりも不気味で、水底に淀み首を緩慢に締めつけるような、捉え所のない黒色の鎖、その擦れる音。
でも、それは、自分だけで決して解けない。自分が、自分の意思で巻きつけ縛ったそれは、言い換えれば覚悟に近いものだと思う。ほんの少し緩めようとすることさえ、驚くほどにままならない。
それでも、わたしの拙い言葉でも、コウタを助けられたみたいだった。
「俺は、白を騙した玲を許せない。でも、こんな結果になった原因の一つに、その中心に俺はいたんだよな。それを棚に上げて、自分の命を張ってまで白の世界を変えようとしたアイツは、あぁ。文句なしに格好いいやつだったよ」
「…………なんでかな」
わたしは、誰にともなく呟く。
でも、ここにはわたしと、コウタだけだ。
「玲は、偽善でも他人を救えるって、本気で信じてるような気がする。そうじゃなきゃ、誰彼構わず優しくなんてしないし。…………こうやって、簡単に手を離すわけもないんだ」
コウタは、わたしの空になった手を包み込むように握った。伸ばしても夢に届くことのない寂しい手のひらに、決別のための紛い物の温もりを貸してくれる。
いや、正直に言えば、寂しくも、少し間違っているのだけれど。
それより、わたしは悲しくてならなかった。
……なんで、その言葉を玲に直接言ってくれなかったの?
その言葉が、行動が、玲を救ってくれたかもしれない。コウタの尊敬が、信頼が、彼の心を縛り付けている鎖を、千切れなくとも、緩めることくらいはできただろう。
なのに、コウタは、わたしに向けて言うんだ。
「クロのおかげで、俺は腐らずに済んだ。”だから”、クロに何かあった時、俺は必ず助ける。今度こそ、躊躇わない。それが手向けで、俺の答えであり、新しい夢だ」
ありがとう、クロ。
その言葉を素直に受け取ることはできなかった。
だから、代わりにわたしは、コウタの手を握り返すことにする。この感謝を受け取って良いのかを、じっくりと確かめた。
ほんのりとあったかくて、表面は硬くも、それでいて優しくて。そんな、頼もしい男の人の手の感触に、わたしは少なからず安心を覚えた。
でも、違う。
そう思った次の瞬間には、咄嗟に彼の手を解いていた。彼の優しさが、まるでわたしの羽を、それも綺麗なものだけを選んで引き抜くための都合の良いものに思えてしまって、悲しくなる。
「……クロ?」
もちろん、そんなものは、わたしの被害妄想に過ぎなくて、こうしてひどい態度をしたわたしなのに、コウタは変わらず優しい言葉をかけてくれた。
…………あぁ、わたしは、悪い子だ。
わたしは俯き、悪い夢を見る。この星の誰もが夜空を見上げる中、わたしは一人、暗くて緩い闇へと体を浸けた。
「ぉ、おい、クロ!?何してんだ、冬の海に入るなんて、風邪ひくぞ!」
コウタは目を見開いて驚愕していたけれど、今は彼に見せられる顔は持ち合わせていなかった。
浅瀬ではあっても、座り込めば腰ほどの深さだ。大きな波が来れば肩まで海水を被ることになる。いくら海水が冬の空気よりも温かいとは言っても、それも潮風が吹けば簡単に覆る程度の些細な差しかない。常に海水に体が浸かっていれば当たり前のように体温は奪われるし、体の震えは歯を食いしばっても止まらなくなる。
それでも、わたしは確かめなきゃいけない。
「……コウタには、わたしは
わたしの体は、気付けば淡く発光していた。けれど、コウタのように明るく鮮やかな色ではない。ひどくつまらない無彩の光だ。
コウタは、わたしの才能を見て、また驚く。今度は苦しげで、答えに窮したように頭を抱えていた。
そして、一言。
「……気にするな」
そんなコウタの答えは、予想通りの期待外れ。
それもそのはずだ。
「……わたしは、”一緒にいる人を不幸にしてしまう”んだね」
「…………」
その沈黙が、何よりの証拠。
「…………きっと、白もわたしのせいだ」
「それは違う!あれは、玲が人間だってことを白に隠してたからで……!とにかく、クロが責任を感じる必要なんてない!」
「ううん、そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ、コウタ…………」
責任のありかを探すのなら、目を逸らさないで聞いて欲しい。
どこから始まって、誰が元凶なのか。それは、改めて問うまでもなく、すでに答えはコウタの中にあるのだろうけれど。それでも、本当の意味で理解しているのか、確認をしなければならない。
「もし、もしだよ?」
わたしは、単調でつまらない波の音に乗せて、諳んじた物語の一節を淡々と謳う。
それは、聞くに堪えない、灰色の記憶だ。
「白は全部知ってて、それでも一緒にいたとしたら?普通としての生活を捨ててまで、他の何よりも、玲と一緒にいることを選んだんだとしたら?」
人の本性を暴く、息を飲むほどに美しい極光が煌めく舞台は、それでも、決して罪の告白のために用意されたわけではない。
しかし、わたしにとっては、間違い続けた関係をやり直すための絶好の機会でもあった。
「……嘘、だろ?白は、厄介ごとを自分から引き入れたっていうのか?悪い冗談だよな、そうだろ?」
コウタは、動揺に頬を引き攣らせながら、気分が悪そうに笑う。受け入れ難い事実を突きつけられたかのように、わたしが前言を撤回するのを心待ちにしているように見えた。
「……わたしは、コウタを困らせたいわけじゃないんだ」
コウタの表情が、自分のせいで歪んでいる。そんな現実に、今すぐにでも海の泡沫と消えてしまいたくなるほど罪悪感で体が強張った。
だけど、それでも悪者は、また懲りずに願ってしまうんだ。
「でもね、コウタ。それで玲を嫌ってるなら、その嫌いを、わたしはもらいたい。その不幸は、わたしが背負うはずのものだから」
強がるわたしに、海水をたらふく吸ったコートが肩に重たくのし掛かる。ぴったりと体にへばりついてくるお洋服は、濡れて色がくすんでいた。
けれど、そんな窮屈に限って不快とは思わず、むしろ安心感のようなものを覚えているわたしは、きっとどこかに頭のネジを置いてきてしまったんだろう。体が冷えて、まともに動けなくなってしまう。そんな感覚が近づいて来ているにも関わらず、夜の冬の海からあがる気にはなれなかった。
おもむろに、真っ暗闇の中に浸かっていた手のひらを、ゆったりと慈しむように掬い上げてみる。波の綾は絹織物のように七色に輝いているのに、わたしの体の周りだけは、ぽっかりと黒い穴が開いていた。
だから、当然のように、手の中には空に瞬くような光はなくて、それどころか、遠い星の輝きを湛える間もなく、指の隙間から止めどなく海水は溢れていく。
だから、わたしはきっと、夢を見る度に、何度でも同じ過ちを犯すんだろう。
「……わがままだって言うのは、わかってるんだ。……だけどね?玲は、それでも良いって言ってくれた!みんなに嫌われてて、何の役にも立てないおバカなのに、そんなわたしを嫌いにならないって言ってくれた!」
黒く穢れた手で、はた迷惑にも他人の幸せを願う。それは、誰にも望まれない、自分勝手な思いやりなんだろう。
でも、そんな小さな優しさで、救われた心があった。思い描いたような幸せとは違ったとしても、夢みたいに満ち足りた時間を送れるんだって、そう教えてくれた人がいる。
なのに、そんな彼は、最後には決まって一人になってしまうんだ。
初めてわたしに話しかけてくれた時、彼は、最初から全てを諦めているように見えた。それでも、諦めきれず、なのに藁に縋るでもなく、ただこの手が光に届かないことを確認するように、わたしに気まぐれに優しくしてくれたんだ。
そうやって、わたしに温もりを求めるほどに寂しがり屋な君だ。何を失っても、平気だ、気にしてないって、彼はそう言って笑う。でも、その声が、眼差しが、痛いほど寒さを叫んでいるのが、わたしにはわかる。わたしにわかるんだから、彼が褒めてくれたわたしの歌や絵みたいに、彼の嘘も同じようにひどく下手くそだ。
なのに、誰も、自分の幸せだけで精一杯で。見つけた夢に、心から嬉しそうに玲の元から走り去って行く。
そんな人たちを、冷たいと少しでも非難したなら、きっと玲はひどく怒る。そして、みんなはその言葉を真に受けて、彼は自分から一人になってしまうんだ。
だから、改めて想う。
「わたしは、他人の側にはいちゃいけないのかも知れない。……それでも、もうあの人を一人にするのは、嫌なんだ」
わたしは、今は乾いた空っぽの手を、天高く伸ばして祈る。
それでも、心からは信用のできない、空の向こうの相手だ。
「……ねぇ、神様?才能って、何のためにくれたの?」
誰にも平等に三つの才能をくれると言う神様だけど。これがわたしのためだって、眉一つ動かさず真顔で返してくるなら、わたしは些細な願い一つだって神様を頼りたくはない。
「正直、才能っていう概念自体、あやふやなもんなんだよ。だから、クロのそれが、周りにどんな影響を及ぼすか、俺にはさっぱりわからない」
無言を貫く空の代わりに、コウタがわたしに手を差し伸べてくれた。
「ともかく、才能のことはあんま気にするな!今まで一緒にいても、何も起こらなかったじゃないか」
「でも…………」
「そもそも、クロが気にしてるだけで、偶然不運が重なっただけの方が可能性としては高いんだ。その責任をクロに押し付けるのは間違ってるし、背負うのも見当違いだろ」
立ち上がる勇気を持てないわたしに、コウタはさりげなく海の中へと腰掛けながら、優しく慰めてくれる。
「そんなに心配なら、思い切って打ち明けてみれば良いさ。何、俺だって謝らなきゃいけないことがある。不安なら付き合うからさ、な?」
そんなコウタの提案は、わたしにとっては、何よりも魅力的だった。それでいて、決して頷くわけにはいかない魔の囁きでもあって、悩まずにはいられない。
きっと、玲は、わたしが頼めば、二つ返事で許してくれるんだろう。綱渡りのような賭けをするまでもなく、当然のように欲しいものを与えてくれる。
でも、その後は決まって、黙って綱を切り落とすことを、わたしは身をもって知っていた。
「……できないよ。言いたくない」
そもそも、他人の命運を握るのは、人にはあまりに重過ぎる役目だった。だから、強がりだとしても、相手のためにとなんとか貫いていた彼は、本当に心優しい人だ。
そして、優しいからこそ、彼は諦めてしまう。長い悪夢から覚めて新しい夢に向けて歩き出すのを、その邪魔だけは絶対にしたくないと、そう強く願っている。
そうやって、すぐに繋がりを絶とうとする彼に、黒い秘密を打ち明けて、また優しい言葉をかけてもらうのは簡単だ。けれど、他人を縛って、自分だけ楽をしようだなんて、あっちゃいけないことだとわたしは思う。
……ずるい子は、嫌な子だ。
そうだ。こんな偉そうなことを考えてはいても、結局一番怖いのは、彼に嫌われてしまうんじゃないかって、ひたすらにそれだけなんだ。
だから、続くコウタの言葉に、わたしはひどく動揺させられる。
「どうしてだよ!他ならぬ玲だぜ?ちゃんと説明すれば、きっとアイツだって……!」
「……っ!?ゃ、やめてっ!!」
気付くと、わたしは声を荒らげながら、コウタの肩を全力で揺すっていた。
冬の寒さでも奪えなかった心の奥の熱が急激に消え失せていく感覚に、血の気が引いた。これは本当に自分の体かと疑うほどに、寒さに激しく慄く。
「いゃ、言わないで!お願いだ!!やだよ!な、なんでもするよ!どんなお願いだって、叶えられるように頑張るから!!だから、それだけは許して!!!!」
自分でも驚くほど大きな声に、しかし、焦った心がまだ足りないと、限界を超えて喉を潰す勢いで酷使する。
「やだ、寂しいよ、一人にしないで!置いてかないで!わたしは悪者で、玲は良いって言ってくれて……。でも、これはダメなんだ!」
急に、何も見えなくなった。目蓋はちゃんと開いているはずなのに、ぐちゃぐちゃと崩れた景色だけが世界を塗りつぶしている。
「ちょ、落ち着けよ!急にどうしたって言うんだ?今日のクロ、なんだかおかしいぞ?」
「わたしが嫌いなら、意地悪するんだったら、わたしに暴力を振るってよ!だから、お願いだから、玲だけはわたしから取らないで!」
わたしは、必死にコウタに頼み込む。秘密を玲に知られたくなくて、なりふり構わず喚き散らかした。
雛鳥が親にご飯をねだるよりも卑しく、道理の前に感情を吐き出すほど浅ましく、気が触れた勢いのまま懇願し続けたわたしだけど。ここまで来て、ようやく自分が涙を流していることに気が付く。
「……おねがいだ」
玲に秘密を知られると思うと、生きた心地がしなかった。意識が朦朧としてきて、背後から冷たく黒い波が迫り来るような感覚は、他の何をおいても敵わないほど恐ろしい。
「わ、わかった!相談はなしだ!玲には話さない、秘密にする!!約束だ!だから、落ち着けよ、な?」
「……わたしは、わたしは……」
小刻みに震えるわたしを、コウタは抱きしめてくれた。背中に回した腕がわたしをキツく締め付けてくる感覚に、彼の言う約束の堅さを知って体からたくさんの不安が抜けていく。
「…………いつだって、才能の一番の被害者は、他ならぬ自分自身。……ちっ、面白くない話だよ」
そう悲しそうに呟くコウタに、わたしは顔を上げる。
すると、彼は困ったように、目を逸らした。
「俺といるのが嫌なら、はっきり言えばいい」
「……そんなことない!」
「それこそ、口では何とでも言えるさ」
「どうして?コウタに嘘なんてつかないよ!」
「いや、この言い方は意地悪だったよ。ごめん」
何度も否定するわたしに、しかし、コウタの声は依然と暗いままだった。
「……これでも、俺は良かれと思ってクロを村に連れてきたつもりだ。だから、ちゃんとした理由があって、俺ら魔者といるよりも安全だって言えるんなら、村にいることを無理強いする気はない」
「でも、あれは玲がわたしと一緒にいたくないからで……」
「んなわけねえだろ。玲はクロの才能を知らないんだろ?」
「……うん。たぶん」
「まぁ、知ったところで、特に変わんない気もするが」
……約束したのに。
コウタの口の軽さがわたしは不安で、彼の肩を問い詰めるように前後に揺する。
なのに、コウタは、わたしの頭を撫でるばかりで、まともに相手をしてくれない。
「俺はアイツには勝てないよ。気の利いたことは言えないし、”他人”の幸せのためだけに命を投げ出すなんて、やろうと思ってできることじゃない」
それでも、と。コウタはわたしの手を丁寧に退けると、おもむろに立ち上がり、悲しい笑顔を向けながらに言った。
「……でもさ!俺には、クロが楽しんでるように見えた。俺は間違ってないんだって、そう思ってたんだよ。……なのに、どうして戻りたがるんだ?そんなに、俺のことが嫌いなのか?」
「嫌いになんてならないよ!コウタは、初めて会った時から、わたしにとっても良くしてくれた!あったかくて、美味しいご飯を作ってくれた。お仕事が忙しくても、疲れてても、遊んでくれたよ」
「なら、ちゃんと考えてくれないか?義理とか、恩返しとか。そういうの、全部抜きにしてよ」
そう訴えるコウタは、いつにも増して真剣で、それでいて複雑な表情を浮かべながら辛そうに笑う。
「……雰囲気や流れだけで無視されるのは、もう耐えられない。……だから、これは俺からの頼みだ」
コウタの感情を気安く理解できるとは言えない。それでも、わたしの過去と重なるものがあって、胸が苦しくなる。
けれど、過去を未来の足枷にはしてはいけない。まして、悲しみに俯いて立ち尽くす理由を空の星に押し付けるようなことは、一番しちゃいけないことだ。
だから、これは、お互いに良い機会だったんだと思う。
「クロは、これからどうしたいんだ?今ここで、はっきりと言葉にしてくれ。それが、秘密を守るための条件ってわけじゃないけどよ。それくらい、俺には大事なことなんだ」
「……わたしの、夢」
「高尚な理由なんて要らない。ただ、クロがしたいことは何なのかを知りたいんだ。そうすれば、明日から迷わずに済むと思うんだよ」
ずっと、ずっとだ。わたしは、いつかの夜に捨ててきた夢を、この月で探し続けていた。
それは、水溜りに落とした透明なビー玉のようで、近くにあるのは確かなのに、なかなか見つからない。いっそ、川や海に落とした方が、まだ諦めがつく。もう手元には戻ってこないんだって、素直に新しい夢を探せたんだろう。
それでも、水溜りに落としただけで見失ってしまうような、そんな小さな夢だけれど。わたしにとっては、大切な思い出の詰まった宝物だった。だから、未練がましくも、今も叶わない夢を見続けている。
でも、それが許されるのも今日までだ。何度も問われてきた質問に、ついに答えを出さなければならない時が来てしまった。
……約束。
そう、約束だ。
「…………お仕事がしたい」
七星祭の日の夜までに、新しい夢を見つける。
そんな玲との約束を、わたしは少しだけ破ってしまったけれど。それでも、諦めずに頑張った結果なら、きっと玲は許してくれる。
「仕事とは、また唐突だな。どうしてだ?」
「……大人になりたいんだ。他人に頼ってもらえるような、悩みを打ち明けてもらえるような人になりたい」
「……意外だ。漠然とした目標だが、クロもちゃんと考えてたんだな」
「うん。いっぱい、いっぱい考えたよ。大変だった。たくさん遠回りもした。でも、もう迷わないよ」
玲と出逢ったその日から、君はわたしの夢だった。君みたいに、他人を救える人になりたい。優しい人になりたいって、ずっと考えてたように思う。
この世界には、わたしを嫌う人がたくさんいる。それは、きっといつまでも変わることのない現実なんだろう。
でも、わたしの手を取ってくれる人もいる。そう思うと、不思議と勇気が湧いてきた。
「ありがとう、コウタ」
「ああ。こっちこそ」
今はまだ二人だけだけど、それはきっと、わたしの頑張りが足りないからだ。
だから、わたしは、背伸びをして、必死に見栄を張ろうとした。勇気付けられてばかりは嫌で、それでもどうしようもなくおバカなわたしだから、イロハに借りた漫画の主人公の真似をして、コウタを励まそうと考える。
でも、まだまだ敵わない。
「上を向いてみろよ、クロ」
星明かり揺蕩う海面に小さな勇気を探していると、コウタに、折角のお祭りなのに俯いているのは勿体無いと、そう諭されてしまう。
わたしは、彼に言われた通り上を見上げてみた。虹色に輝いているはずの空を、目を細めながら恐る恐る仰ぎ見てみる。
………………あぁ。
そこには、この世の全てがあった。
「…………きれいだ」
良いものも、悪いものも。全部が入った箱をひっくり返したかのような、まるでこの世の写し鏡にも見える夜の空に、わたしは何度でも魅了される。
落ち込んだ時、眩いまでの輝きが執拗に煩く感じたこともあった。捉え所がなくて、追いかけても届かない場所でキラキラと瞬く星が、意地悪で嫌いになったこともある。
けれど、どんなに寂しい時も、大変な時も、ずっとわたしを見守ってくれていた。夜も、昼も、気付かないだけで、わたしを密かに照らしてくれる。そんな優しさは、わたしが求めて止まないあの人の温もりに似ていた。
「海も綺麗だけどさ、クロ。”本物は空にしかない”んだぜ?」
コウタの言葉に、わたしは立ち上がる。
そして、星の煌めきの一つに向かって、思いっきり手を伸ばした。
「……ずっと、広過ぎる空も、賑やかな夜の星も、寂しくなるから苦手だった。どうしても昔を思い出して、悲しくて、辛かった。……でも、違ったみたい」
星空にかざした手のひらがたくさんの星灯りを受けて、柔らかく色鮮やかに光っている。
そんな明かりは、しかし、わたしの黒い才能のせいで、空に浮かぶ星の輝きよりは見劣りした。
でも、そんな中途半端な姿であることが、わたしの憧れる不器用な夜空を思わせて、堪らなく嬉しい。
「……コウタ!わたし、見つけたよ!これが、本物の夢なんだね!」
笑顔で言うわたしに、コウタも一緒に笑ってくれた。
「見つけたなら、その夢を絶対に見失うなよ、クロ。この世で一番難しいことは、夢を見続けることだ」
わたしとコウタは、ようやく見つけた夢を見失わないように、並んで夜空を望む。夜の闇が目を覆い、心に景色が焼き付くまで、願いの叶うその瞬間を夢に見続けた。
そして、いつしかそれは本当の夢へと静かに移り変わる。
「…………おやすみ、クロ」
夢の中はふわふわとして、まるで雲の上を飛んでいるようで心地よい。
けれど、夢の中でさえ、あの人が約束を守ってくれることはなかった。
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