第40話 いっちょうら -後編-

 通された部屋には、お洋服を着せられた人型の像がたくさん並んでいて、少し不気味な雰囲気だった。


「他のお店とは雰囲気が違うでしょう?私のお店は、既成服は取り扱ってないの。お客様一人一人の理想を叶えるためのオーダメイドが売りなのよ」

「……その分、値段が高いんだよ。だからお客さんがなかなか来ないんだ」

「ハーちゃん、変なこと言わないの!……クロちゃんはハーちゃんのお友達だから、安くしておくわね」

「……あ〜、ヤダヤダ。胡散臭いったらないよ」

「だって、そう言うしかないじゃない!うぅ、ハーちゃんなんてもう知らないんだからっ!」


イロハの指摘に、顔を赤くして半泣きで逃げていくチハルは、かわいそうでとても見ていられない。


 でも、チハルの涙は、ちょっとしたお芝居だったみたいだ。


「はぁ……。もう、ぐずぐすしてないで、早くお仕事始めてよ!」

「……ハーちゃんはつれないわ。少しは付き合ってくれても良いのにぃ」


イロハは、チハルの涙を嘘泣きだと見抜いていたのか、一人で先にお仕事の準備に取り掛かっていた。それを見て、少しも構ってもらえずに寂しそうだったチハルも、渋々ながら手を動かし始める。


「まずは、寸法を採るよ」


わたしは初めに、イロハに体の大きさを測ってもらうことになった。


「服脱がすけど、大丈夫?」


恐る恐る頷くわたしを見て、イロハは笑顔を作って安心させてくれる。


 けれど、その笑顔は数分と持たない。


 それは、窮屈だった翼を思い切り広げた時だった。


「うわっ!……えっ!?背中に翼?!」

「…………わたし、カラスだから」

「は?猫なのに、カラス??白いのにクロ??……なんて言うか、その……。半端者って難しいんだね……」


複雑な表情を浮かべながら言葉に困ってしまうイロハに、わたしは、なんだか恥ずかしくなって、翼を静かに折り畳む。


 ……魔者になっても、黒いわたしは人に好かれないんだ。


 そうわかると、嫌いだったお洋服も着直したくなる。背中の黒い翼を今すぐにでも隠したい。そうすれば、また綺麗な白いわたしに戻れる気がして、イロハがわたしを嫌いになる前にと一人焦った。


 でも、スズメだけは、むしろ嬉しそうに微笑んでいるように見える。


「へぇ〜。通りで僕と話せるわけだ!ようやく納得がいってスッキリしたよ!」


しかし、スズメが黒を受け入れてくれたとしても、醜い方のわたしを見られたくはなかった。

 

 今まで隠してきたからだろうか、本当の自分を見せるのがとても恥ずかしい。黒の姿に自信が持てず、今に視線の色が嫌悪に染まるのではと怖くて、堪らずその場で縮こまる。


「…………スズメ」

「ん?……おっと失礼!僕は席を外してるよ。終わったら呼んでおくれ!そうそう、さっきの言い訳の件も忘れないでおくれよ!」


スズメは、わたしのわがままに嫌な顔一つせず、リビングへと器用に飛んで行ってくれた。


 しかし、イロハの視線からは流石に逃げられそうもない。


「…………なんでっ!?」


イロハはわたしに向かって、信じられないと言った様子で怒った。


 その怒りの原因を、わたしは初め、隠し事をしていたからだと思っていた。決して騙していたわけじゃないけれど、イロハにはそんなことは関係ない。だから、黒いわたしを見て、きっと気分が悪くなったんだって、そう考えていたけれど。


 でも、イロハが声を荒らげて怒る理由は、わたしには思いもよらないことが原因だった。


「クロお姉ちゃん!何、その草臥れた下着は!?ダサ過ぎだよ!全然っ可愛くない!!」

「…………し、下着?かわいい??……イロハ、黒いわたしを嫌いになったから怒ってたんじゃないの??」

「は?そんなのどうでも良いことだよ!私はね、クロお姉ちゃん!そのだらしない格好が、猛烈に許せないのっ!!」


わたしの格好を見て、がっくりと肩を落とし、大きくため息を吐くイロハだけど。わたしには、彼女の言いたいことがよくわからない。


 本当は、この肌着だって着ていたくはなかった。でも、人として生きていくなら着ないといけないって、そう玲に言われたから、こうして仕方なく身につけているだけだ。なのに、そこを怒られてしまっては、わたしは一体どうすれば良いのだろう。肌着は着ないとダメと言う玲。でも、この肌着じゃダメと言うイロハ。二つのダメに挟まれてしまって、何が正しくて、何が間違っているのか。わたしは、答えが見つけられずに、ひたすら困ってしまった。


「……どうして、これじゃあいけないの?どこか間違ってる?」

「…………本気で言ってるの?……いや、ともかく。こんな、日用雑貨店で売ってるような、可愛いのかの字もないキャミソール、私は絶対に認めないから!それより、クロお姉ちゃんは、これをどこで見つけたの?そして、なんで買っちゃったわけ?お願いだから、私が納得のいく説明を聞かせてよ!」


そう言って激憤するイロハがわたしは怖くて、咄嗟に近くにいたチハルの背に身を隠す。


「また始まったわよ……。それで何人のお客さんが逃げていったことか……。ごめんなさいね、クロちゃん。ハーちゃんね、いつも自分のお洒落を他人にも強要するのよ」

「そこ、言い方っ!善意だから!あと、これは絶対にクロお姉ちゃんのが悪いから!」

「はいはい。わかったから、一旦落ち着きなさい」


冷静にチハルは、興奮する彼女を諭すように言う。


「ねぇ、ハーちゃん。ここはお店で、クロちゃんはお客さんよ?なら、そうやって怒るんじゃなくて、他に方法があるわよね?そうでしょ?」


そう言いながら、背に隠れていたわたしを見るチハルは、どうやらイロハと同じ意見みたいだ。


「クロちゃんは、アキラくんからいろんなことを教わったのよね?」

「……うん。玲は物知りなんだよ?わたしが知らないこと、何でも知ってるんだ」

「ふふ、すごいわね。……でも、彼だって全部を知ってるわけじゃないのよ?間違うことだってある」

「……玲も、間違うことがあるの?わたしみたいに、失敗しちゃうことがある?」

「ええ、そうよ。だから、そう言う時は、クロちゃんが、ダメだよって、教えてあげないとね」


人は誰だって、過ちを犯してしまうものよ。意図していなくても、勘違いしていることだってある。間違いを間違いと理解していても、それを強いられることだってあるかも知れないわ。


 そんなチハルの言葉は、決して玲を褒める言葉ではない。


「これはね、クロちゃん。男の子には教えようがないことなのよ」


誰にだって得手不得手がある。それは、あえて口にするまでもない、ごぐごく当たり前のことなんだろう。


 でも、わたしには、玲が完璧に見えたんだ。本当は違うってわかってるのに、無理をしてるって知ってたのに、ずっと見て見ぬふりを続けてきた。


 それはまるで、玲に出逢う前の一匹の鳥だ。


 勘違いや思い込みで距離を置かれて、誰からも優しくしてもらえない。そんな、寂しさばかりが溢れて止まない黒い烏の頃の記憶が、わたしの胸に鋭利な刃を突き立ててくる。


 ……わたしは、バカだっ!


 白は、玲の幸せを願って、新しい人生をわたしにくれた。


 そんなわたしに、玲は、溺れてどうにかなってしまいそうなくらいに、たくさんの優しさをくれたんだ。


 彼と共に過ごす時間は、本当に幸せだった。


 そして今は、コウタやテツ、スズメ、チハルに、イロハたちと、たくさんの人たちに囲まれて、賑やかな日々を送っている。


 でも、その中に、玲だけがいない。


 “わたしは”、幸せになった。


 他人の幸せを願える彼に、わたしは背中を押されてここまで来た。


 でも、今になって、ようやくそれが間違いなんだと気がつく。


 ……ごめんなさい。ごめんなさい。


 わたしの中の怒り狂った黒が、心臓を引き裂いてでも悲しみを決壊させようとしてくる。無理矢理心の隙間に嘴を捩じ込み、執拗にこじ開けようと暴れていた。

 

 その痛みを、わたしは昔を鮮明に思い出すために、ジクジクと痛む胸を両手で押さえながら、素直に苦痛を受け入れる。


 そして、わたしはふと想うのだ。


「……玲、喜んでくれるかな?」


それは、きっと玲以外には誰も答えることができない。


 でも、わたしの心はもう決まっているみたいだ。


「任せてよ!クロお姉ちゃんのために、最高の一張羅を、私たちで仕立ててみせるから!」

「えぇ、そうね。”彼の想いに負けない”くらいのを作らないとね。腕がなるわ!」


そんな頼もしい二人の言葉に、わたしはたくさんの勇気を貰った。


「……でも、怒らないでね?」

「あら。ハーちゃん、クロちゃんに怖がられてるわよ」

「だってさ!……こんなに良い服を着てるのに、中身はなんで雑なままでいるの?それが私にはわからなくって」

「な、中身……」


白く偽っていたことを責めているようなイロハの言い回しに、一瞬、またわたしは戸惑う。


 でも、冷静に考えると、彼女に他意がないことはすぐにわかった。


「……イロハはなんで拘るの?これって、肌を隠すために着るもの?……なんだよね?誰にも見せないのにお洒落を頑張るのは、少し変だ」

「甘い!さっき食べたラスクより甘いよ、クロお姉ちゃん!」

「……ラスクは甘いけど、わたしは食べても甘くないよ?」

「……ド正論をどうも」


苦笑いを浮かべているイロハは、何でわたしとラスクを比べたのだろう。


 ともかく、美味しかったラスクよりも、わたしの方が上だって言ってくれるのだから、決して悪い意味ではないに違い。


 イロハは、わたしでもわかるようにって、丁寧に説明しようと努めてくれた。


 けれど、それ以上に、わたしは人としての基礎知識に穴が多すぎる。


「本当はちゃんとした理由があるんだけど、クロお姉ちゃんの解釈でも別に大丈夫。でもさ、それじゃあ、ただの防具だよ。鎧と同じ。動きにくくなるだけの重たい服なんて着たくないでしょ?」

「……うん。窮屈なのは、嫌だな」

「それに、服って言うのはね、自分を表現するものでもあるんだ。クロお姉ちゃんは、アキラくんに喜んで欲しいんだよね?……なら、相手が喜びそうな服を考えて着なきゃ」


イロハの台詞は、相変わらず桃色な雰囲気を纏っていた。


 でも、どうしてかわたしは、彼女の言葉を否定できない。


「色っぽさのいの字もない服を着て、女の子とも思ってもらえず、見向きもされない人になりたい?折角なら、ドキドキしてもらいたいでしょ?好きになって欲しいよね?」


そして、あわよくば……。


 そう口走ったイロハの頭に、チハルの拳骨がまたもや落ちる。


「……とにかく、私が思うに、アキラくんは多分、クロお姉ちゃんのことを妹とかそんな風に思ってるんだよ。そうじゃなきゃ、放っておく訳ない。……だから、彼の前ではいっぱいお洒落してさ!あなたを意識してるんですって、気付いてもらわなきゃ」


イロハの言っていることは、少なからずわたしと玲の関係を言い当てていた。


 玲は、無条件にわたしに優しくしてくれるけれど、それは多分、わたしに興味がなかったからなんだと、彼女の指摘で気が付く。


 でも、それではわたしじゃない、他の誰かでも良いってことになるのではないかって、わたしは堪らなく不安になった。


 優しさのお返しに、玲に喜ぶ何かをあげたい。漠然とそう思っていたけれど。それだけじゃダメだ。わたしは、玲に優しくしてもらえるように、人一倍頑張らなきゃいけない。


「一番手っ取り早いのは、危うそうで守ってあげたくなる雰囲気を作ることかな。庇護欲っていうんだっけ?そう言うの」

「本当、どこでそんな言葉を覚えてくるのかしら……」


大真面目に他人の興味を惹く定石を語るイロハに、チハルは両手で目を覆って恥ずかしそうにしていた。


 そんな母親のことなど気にも留めず、イロハはおもむろに人差し指を立てて続ける。


「でも、諸刃の剣なんだよね。ひらひらで可愛い格好をしてると、変な男まで近づいてくるから怖いんだよ。あんたたちはお呼びじゃないっての!ってね。気持ち悪いったらない」


だから、ちゃんと自己防衛もしないといけないよ。


 そう指摘するイロハは、思いついた服のコンセプトをメモにまとめて、信頼の眼差しと共にチハルへと両手で差し出した。


「お母さん。クロちゃんには、隙がありそうで、でも軽くない。頭が沸いた変態が近づくのは躊躇うけど、それでいて、男も羨ましがるくらいの格好良い服をお願い!もちろん、可愛くね!」

「……今回は一段と無茶を言うわねぇ」

「だってわたし、今回は本気だから」

「……そう」


イロハの熱意のこもった言葉に、チハルはなんだか嬉しそうに目を細めていた。


 イロハは、他人に子供に見られたくないと言っていた。でも、胸を張って堂々と意見を言った今の彼女のことを、子供だと笑う人なんていない。


 そして、次はわたしの番だ。


「クロちゃんはどう?嫌なところがあるなら、意見はハッキリと言わないとダメよ?」


これは、わたしの夢を叶えるための第一歩だ。


 なら、わたしが手を抜いてはいけない。遠慮をしてはいけない。それは、二人に対する侮辱だと思うから。


「……明日までに考えてくる」

「そうね。それが良いわ」


そう言ってわたしは、チハルたちとまた明日会う約束をした。


「でも、折角だから採寸だけでもさせてもらおうかしら。……そうしないと、今夜ハーちゃんが興奮しっぱなしで寝付けなさそう。付き合ってくれる?」


こくりと頷くわたしに、チハルはありがとうと感謝の言葉をくれた。


 その最中も、イロハは絶えず何やらぶつぶつと独り言を呟いている。


「……翼があるから着にくいのはダメ。無難にブラかな?でも、クロお姉ちゃんは窮屈なのは嫌い……。今はキャミソールの後ろの邪魔な部分を切って着てるんだよね。ぇ、処理綺麗。縫製上手くない?……じゃなくて。うん、一先ずはベアバックのキャミソールかな。あぁ〜、でも一回はブラも身に付けてみて欲しいし……」


うんうんと唸りながらわたしの周りをクルクルと歩き回るイロハは、見ていて少し面白い。


「……お母さん!クロお姉ちゃんの下着も一緒に作ってあげられない?」

「はいぃ?何言ってるの、私は肌着は専門外よ」

「でも、クロお姉ちゃん翼生えてるし!既製服じゃ選択肢がなくなっちゃう!それに、村の半端者向けの服を作る練習にもなるじゃない!」


この村には、半端者の数も少なくない。採算が取れない挑戦ではないと、イロハは強気に訴えた。


「半端者には、上と下のデザインを合わせるのは難しい。クロお姉ちゃんなら、上は翼で背中を開けないといけない。でもさ、下は自由なんだよ。その人の個性によって、バランス良く、でも凝ったデザインを提案できれば、特に女の子は喜ぶと思うんだ!」


そう熱弁するイロハは、なぜそこまで他人のお洒落にこだわるのだろう。その理由の一つに、イロハに流れるチハルの血があるのは疑いようもなかった。


「なら、イロハが作ってみなさい」

「……え?いいの!?」


今までは、布にだけは触ることすら許してくれなかったのに。


 そう驚くイロハは、チハルの言葉が信じきれないのか、冗談を言われているのではないかと疑っていて、そわそわと落ち着かない様子だ。


「上着は私に任せてちょうだい。だから、ハーちゃんは、クロちゃんの下着の方をお願いね。……できそう?」

「…………」


チハルの質問に、イロハは黙り込んでしまう。


 でも、覚悟がないからではない。むしろ、自分の中に宿っている熱意の種火に、優しく風を送っているようだった。


「私は、クロお姉ちゃんの力になりたい。それを叶える形の一つが、このお仕事だって思う」

「だから?」


そうチハルに尋ねられたイロハは、おもむろにわたしに向き直ったかと思うと、姿勢を正して言った。


「私にやらせて下さい、任せてください!……クロさん、どうかお願いします!」


勢いよく腰を折って頭を下げて頼み込んでくるイロハに、わたしはひどく驚いた。お願いしたいのはわたしの方なのに、どうして彼女が下手に出ているのか、わからない。


「クロちゃんは、ハーちゃんを信用してくれるかしら?」


チハルは、わたしの答えを待って不安そうにしているイロハの肩に手をやり、柔らかな笑顔で尋ねてくる。その笑顔は、わたしに首を縦に振ることを強要するようなことはない。ただ、あるがままを受け入れると、そんな広い海原のように穏やかな表情を浮かべていた。


 でも、二人は心配のし過ぎだ。わたしは初めから、彼女たちの腕を疑うつもりは全然ない。


 だから、わたしはイロハに言う。イロハがわたしにしたように、深いお辞儀でお仕事を頼んだ。


「…………イロハ。かわいいの、お願いします」

「やったぁ!!お母さん聞いた?初仕事だよ!!」


両手をバッと上げて喜びに声を上げるイロハは、とっても幸せそうだ。その場でぴょこぴょこと飛び跳ねる彼女を見ていると、なんだかわたしの胸も熱くなってくる。


 もちろん、チハルにもきちんと頭を下げた。


「わたしには、人のおしゃれとか、かわいいとか、よくわからない」


……でも、ちゃんとしたお洋服を着て、玲に褒めてもらいたい。


 そして、いついつまでも、わたしのことを見ていて欲しいって、そう思うから……。


「……だから、わたしのことをちゃんと見てくれたあの人を安心させてあげられるような、春のおひさまみたいにあったかい気持ちにさせられるお洋服を、お願いします」

「はい、承りました。完成までには少し時間をもらっちゃうけど、必ず素敵なお洋服を完成させて見せるわ!」

「……ありがとう」


わたしのわがままな注文を、二人は快く引き受けてくれた。


 そしてそれは、決して今回のお仕事が簡単だからと言うわけではない。


「……二人に迷惑をかけてるのに、わたしには何もできることがないよ……」

「……いいえ、そんなことはないわ。必要な時になったら、ちゃんとクロちゃんの力も借りるから」


つい甘えたくなってしまうような優しい言葉をかけてくれるチハルに、しかし、わたしはいっぱいの申し訳なさで深く俯く。


 そんなわたしの遠慮に、チハルはひどく悲しそうな表情を浮かべる。


「クロちゃんのそんな顔が見たくて、このお仕事を引き受けたわけじゃないのよ?」

「……でも」


わたしは、どうしても納得できない。


 それは多分、イロハやチハルが、半端者のわたしを助けてくれる理由に、見当がつかないからだ。


 言葉にしなければ伝わらないこともある。その逆もまた正しいのだと、わたしは知った。


 でも、だからって、相手がわたしのことをどう思っているかと自分から尋ねるのは、とっても恥ずかしくて、勇気がいることだ。そんなこと、わたしにはできそうにない。


 黙り込むわたしを見て、イロハが心配そうに近づいてくる。それなのに、咄嗟に彼女から逃げてしまうわたしは、やっぱりまだまだ子供だった。


 そんな、無知で可愛気のない子供に手を差し伸べてくれるのは、大人のチハルだ。

 

「確かにお仕事は大変よ?投げ出したくなる時だってある。でもね、私はこの仕事、気に入ってるの。やりたくてやってるのよ」


そうやって心底楽しそうに語るチハルは、けれど、わたしの考える楽しいとは違う、愉しいという感情を教えてくれた。


「私たちはね、この世に一つと無いデザインを生み出すためにいるんじゃない。奇抜さも、目新しさも確かに大事だけど、必要なわけでは無いのよ。足りないものを補うために、見せたく無いものを隠すために。そして、着た人が自分に自信が持てるように。そんな、たくさんの勇気を込めた服を作ってあげることが、私たちの責務であって、誇りなの」


胸を張ってそう言い切ったチハルにとってのやる気と自信の源は、必ずしも自分の技術力に依るものではないんだろう。


 それは、困っている人に頼られたり、あなたなら任せられると強く信じてもらえる嬉しさを糧にして、全力でやり遂げようとする気概から生まれた誇りだ。根拠も、確証もない不安な未来に、自分はどこまでできるものかと、実力を試すような強気な行為は、わたしには簡単に真似できそうにない。


 でも、相手が喜ぶ姿が見たいから、だから頑張る。そんな一部分だけは、わたしもチハルと全く同じ気持ちだった。


 そして、イロハもだ。


「ハーちゃんも、勘違いしちゃダメよ?クロちゃんとハーちゃんの趣味は違うんだから」

「わかってるよ!だからお説教はやめて!」

「本当にわかってる?お母さん心配だわ」

「折角格好良いなって思ってたのに……」

「あら?今の!ハーちゃん、聞こえなかったからもう一回言ってちょうだい!」

「あぁ、もう!ウザイ!」


ワーワーと叫びながら戯れ合う彼女たちは、一見すると歪み合っているように感じられる。けれど、言葉の節々に意識を向ければ、根っこでは深く通じ合っているんだとすぐにわかった。


「……ほら、早くしないと晩御飯の時間になっちゃう!私は採寸始めてるから、お母さんはサンプルの布でも取ってきて!」

「……でもぉ!」

「クロお姉ちゃんを採寸するからって引き留めたのは私たちなんだよ?わかったなら、ほらあっち!」

「うぅ、ハーちゃんが私に冷たいわぁ……」


もっとイロハに構って欲しいのか、しくしくとまた嘘泣きをするチハルだったけれど、イロハは先ほどと変わらない対応だ。


「下から採っていくね。その方が緊張しなくて良いでしょ?体は楽にしていて良いから」


テキパキと手を動かしお洋服を作るのに必要な値を揃えていく姿を見て、チハルもついに諦めたのか、渋々カラフルな布の収まった棚の方へと行ってしまう。


「…………」


イロハは、無言で真剣にメジャーを使ってあちこちの長さを測っては、紙へとつぶさに値を書き記していく。肌に掠めるように触れるイロハの手は少しくすぐったくて、思わず翼を羽ばたかせてしまった。


 でも、それでも真剣に作業を続けている彼女を見ていると、なんだか段々と頭がぼうっとしてあったかくなり、妙に心地良い感覚がしてとても楽しい。


 あまりの気持ちよさに、何を考えるでもなく惚けていると、不意にイロハが作業の手を止めてこちらを見上げてきた。


「……ねぇ、クロお姉ちゃん。これなに?」


イロハが目を輝かせながら指さしたのは、わたしが首から下げていたガラスのアクセサリーだった。


 下半身の採寸を終えたイロハは、わたしの胸の周りの長さを測ろうと、メジャーを背中に通そうとしていた。その時に、玲に無理やり着せられた下着の隙間から覗く首飾りに気がついたんだろう。


「どこで買ったの?何か透明な液体が入ってるけど。細かいけど、白い結晶も沈んでるよね」


イロハはアクセサリーに興味を持ったようで、顔を近づけて観察しながら、重ねてそう尋ねてくる。


「……玲の大切なもの、だと思う」


何も隠すことはない。この小さなガラスのアクセサリーは、玲から預かったままになっていたものだった。


「ってことは、具体的に何なのかはわからないの?」

「……うん。でも、玲はよく空を見上げてた」


しかし、それ以上のことは、わたしには何もわからない。むしろ、わたしが教えて欲しいくらいだ。


 あまりにも肌に馴染んでいたせいか、あえて手に取ることもしなかったけれど。改めてよく見てみると、ガラスの中にはイロハの言う通り、細かい白い結晶が沈んでいた。


 そして、その中に一つ。色の違う大きな宝石みたいな結晶が、雪のような白い結晶に埋もれている。小指の先ほどもある濃い赤色の石は、嫌にぬらりと光っていて、ガラス管の中では異質な存在感を放っていた。


「アクセに巻き付くようにくっついてる飾りのモチーフは、リンドウの花かな?どんな花言葉だっけ?……う〜ん、出てこないや。ごめん」


そう口にしている間も、イロハの手は、わたしの胸元で揺れるアクセサリーへと伸びている。


 でも、このアクセサリーの用途が気になっているのは、わたしだって同じだ。


 だから、イロハが何かに気がついてくれるかもしれないと、とっても大切なものではあるけれど、静かにされるがままになっていた。


「それにしても綺麗。ちょっと違うけど、あれ?占いに使う水晶みたいだよね?ペンデュラムっていうんだっけ」

「……前に見た時は、白く濁ってたり、葉っぱみたいな模様がたくさん生えてたよ」

「えぇ〜、嘘だぁ!勝手に形が変わるってこと?信じられないよ」

「…………」

「あ、いや、違うから!やっぱり信じる!だから、しゅんっていきなり落ち込まないで!」


信じてもらえずに悲しい気持ちになったわたしを見て、イロハはたくさん慌てながら、誤解だと何度も繰り返す。


「…………なに?クロお姉ちゃん、天然っていうのはわかってたけど、冗談すら通じないタイプなの?」

「……冗談?」

「あぁ、気にしないで、独り言だから。それより、お母さんが戻ってきたら聞いてみようよ!もしかしたら何か知ってるかもしれないし!」


わたしたちは、しばらくの間、ガラスの中の様子を観察することにする。繊細で綺麗な雪のひとひらにも見える結晶には、一体どんな意味があるんだろう。そう考えるだけで、不思議と楽しい気持ちになれた。


 そこへ、タイミング良く、見本の生地やお洋服を両手に抱えたチハルが帰ってくる。


「……あら、クロちゃん、珍しいものを持ってるのね」

「お母さん、これが何か知ってるの?!」

「え?えぇ。こうして実物を見るのは初めてだけど。知ってるわよ?」


帰ってきて早々に期待していた返事をくれたチハルに、イロハは詳しい話を聞かせて欲しいと頼み込む。


 けれど、イロハにばかり都合の良い話は、チハルが許してくれない。


「でもそれ、今の時代には無用の長物よ?」

「もう、そう言うのはいいから!さっきは私が悪かった!……だから、勿体つけてないで早くこれが何なのか教えてよ!」


先程の言い争いでへそを曲げてしまったチハルに、イロハはイライラした様子ではあったけれど、それでも最後には頭を下げてまで頼み込む。


 そして、長めの仲直りの握手を済ませた後、機嫌が直ったチハルは、わたしたちにガラスのアクセサリーの正体を明かしてくれた。


「それはね、天気管って言うのよ。中にできた結晶の形状で、この後の天気がわかるの」


今夜は星が見れそうね。


 天気管の様子を見て、楽しそうに笑顔を浮かべたチハルは、しかし、彼女自身、つゆほども天気管を信じていないように見える。


 でもそれは、話を聞いていけば、仕方がない反応だとわかった。


「こんな小さいアクセで、そんなすごいことができるの?」

「使えなくもないって程度かしら。そもそも、必ず当たるわけではないもの。それに、わかるのも半日とか、もっと先の天気のことだから、あまり役には立たないのよ」

「へ〜。勉強になったよ。面白いもの持ってるんだね、クロお姉ちゃん」


そう言って玲の天気管を物欲しそうに眺めてくるイロハに、わたしは盗られてしまうんじゃないかって不安で、警戒してそっと両手で隠す。


 でも、イロハに対してそんなことをする必要は全くなかった。


「……あ、まだ採寸の途中だった。ごめんね、何回も脱線しちゃって。これっきりだから許して」

「……気にしないで。わたしも天気管のこと知れてよかったから」

「ありがとう。さて、これからアンダーとトップを測るから、少しだけ手を退けててくれる?」


手を前に組んでいたら測れないからと言うイロハに、わたしは素直に腕を下ろす。すると、今度こそイロハは、わたしの体にメジャーを一周させて、胸のあたりの長さを測定し始めた。太ももやお腹の時もくすぐったかったけれど、今回は特にひどい。まるで羽毛が肌を掠めるように撫でているようで、ゾワゾワとして無性に落ち着かない。


 そんな、わたしの胸を僅かに締め付けていたメジャーが、おもむろに緩んだ。他の場所に比べると、いくらか早く終わった測定に違和感を覚えつつも、解放された喜びに静かに浸る。


 しかし、どうやらイロハは、測定が終わったからメジャーを緩めたわけではなかった。


「……え、クロお姉ちゃん、意外とおっきい……」


メジャーを持ったまま固まるイロハは、ひどく驚いた様子でボソリと呟く。


「着痩せするタイプなのね」

「そう言う問題?!」

「あら、形も良いわね。崩れないように、なおさら良いのを作らないとね、ハーちゃん」

「…………くっ!!私の中の悪魔が唆してくる!天使よ勝って!お願いだから!!」

「大丈夫よ。ハーちゃんもお母さんの血を引いてるんだから、大人になればちゃんと成長するわ」

「そう言う優しさが一番人を傷つけるって知ってる!?」


何について言い争っているのか見当がつかないわたしは、二人がおしゃべりに満足するまで大人しく黙っていた。


 それなのに、突然イロハの怒りの矛先がわたしの方へと向く。


「ねぇ、やっぱり好きな人に揉んでもらうと胸が大きくなるもの?」

「……っ!?玲はそんなことしないよ!」


あまりに衝撃的な内容を口にしたイロハに、わたしは大きく首を横に振りながら、咄嗟に防御体制を取った。


「えぇ〜、ホントにぃ?男の子はみんなエッチだし、クロお姉ちゃんは無防備で天然だから、適当な理由をつけてされててもおかしくないと思ったんだけど。……わきわき」

「……言いがかりだ!玲はそんな破廉恥なことしない!!」


イロハは、わたしが、玲に胸を触らせていたと本気で思っているようで、否定しても穿鑿屋の目でじりじりとこちらに詰め寄ってくる。どうしたらそんな奇怪な発想が生まれてくるのか、わたしは不思議でならなかった。


 でも、すぐにそれどころではなくなってしまう。


 …………ぁ。


 わたしは、想像してしまった。無意識のうちに、イロハの思い浮かべただろう光景を見てしまう。


 その瞬間、心臓はドクドクと激しく鼓動し始めて、体が熱くなって、落ち着かない。ありのままを見られるのはとっても恥ずかしい。それなのに、なぜだか無性に疼く心は、まるで自分のものではないようにさえ思えた。

 

 そして何より、イロハの指摘で、玲のいたずらをどこか期待しているわたしがいることに気がついてしまって、それがまたものすごく恥ずかしくて、耐えられない。


 それに加えて、ジロジロと胸元を眺めてくるイロハの視線だ。もう恥ずかしさでおかしくなりそうなのに、彼女はわたしをそっとしておいてはくれない。顔なんて今にも燃えそうなくらい熱かった。それでも、まだまだ温度は上がっていく一方で、天井が見えない。


「……うぅ。イロハは、玲のことなんだと思ってるの!?」

「オオカミだけど?クロお姉ちゃん、気を抜いてたら、いつかパクって食べられちゃうかもね」

「……………………」

「……あら、クロちゃんは満更でもないみたいよ、ハーちゃん」

「なんだよ、くそうっ!やっぱり好きなんじゃんか!……いいもん!いつか私も、みんな羨むくらいの超絶格好良い男見つけてくるんだから!」

「……なら、その言葉遣いを直すところから始めましょうね」

「だから、いちいちうるさい!」


イロハやチハルにはそう茶化されたけれど、わたしにとってはとっても大事なことだった。


 今までずっと、他人の温もりに飢えて生きてきた。

 

 だから、わたしのことを、他の人たちと同じように大切にしてくれる人のそばにいられれば、それだけで満たされて幸せになれる。そう信じて、ただそれだけを願い続ける日々だったように思う。


 でも、実際の幸せは底なしだ。いくらもらっても、飽きることはなくて、むしろ、もっと欲しいと、わがままに心は乾いていく一方で、怖い。

 

 初めは、玲が構ってくれなくても、一日平気で耐えられた。けれど、次第に半日、一時間と、温もりを求める間隔は、確実に短くなっていく。


 でも、玲はもう、わたしに触れてはくれなくなってしまった。


 烏の頃のわたしになら、玲は手を出してくれたかもしれない。優しく、いたずらに、思いつくままにわたしをくしゃくしゃに撫でてくれただろう。それに、自分の弱いところやダメなところも、本当に時々ではあったけど、わたしに打ち明けて見せてもくれたりした。


 けれど、今のわたしは、人だ。そんなわたしに、玲が興味を持ってくれるのか、手を伸ばしてくれるのか、自信が持てない。


 ……昔に戻りたいよ。


 ふと、自分の中にそんな欲望があることに気がついて、わたしは驚く。


 黒いわたしは、孤独以外は何も持っていないと思っていたのに、今のわたしは昔を羨んで嫉妬しているみたいだ。


 しかし、元の姿に戻ってしまったら、玲に感謝を伝える術を失ってしまう。玲が困っている時に、助けてあげられなくなってしまう。


 だから、わたしは、変わらなければいけないんだろう。わたしにとってのお洒落は、きっとそのためにあるんだ。


 イロハの興奮が落ち着いた後、再びわたしは、お洋服作りのための採寸を受ける。


 じっとその場で動かず立っているのは、思いの外体力を消耗する。途中で他人に肌を見られる恥ずかしさを覚えてからは、同性の二人しかいないとはいえ、それでも羞恥で精神面の方もごっそりと削られもした。


 けれど、それも今測っている箇所が終われば解放される。


 そして、待ち焦がれた時は訪れた。


「……よし、お疲れ様!これで全部終わったから、もう服着ても大丈夫だよ!」


わたしは、疲労のあまり腰が抜けて、すとんと床に座り込んだ。


 そんなわたしを見て、二人はクスリと笑う。


「本当にお疲れ様。初めてなのによく頑張ったわね、クロちゃん」

「そうそう!大人でもここまでじっとしてるのは難しいんだから!クロお姉ちゃんは自信を持って良いよ!」


励ましの言葉をかけてくれるイロハの手を借りて、わたしはゆっくりと立ち上がる。そこへ、チハルは親切に、わたしのお洋服を持ってきてくれた。


 お洋服は綺麗に畳まれていて、シワひとつ見つけられない。転んだ時に付いた汚れも同じだ。お仕事の片手間にお洗濯までできるなんて、私にはとても真似できそうもない。

 

「……あ、もう暗くなるから、早めに帰らないとだよね。クロお姉ちゃんは着替えてて!その間に、お気に入りの漫画から貸すのを選んで持ってくるから!」

「何、いつの間にそんな約束をしてたの?」


イロハの言葉で時計に目をやると、もう短い方の針が真下を通り過ぎて、左へと少し傾いていた。もういくらか経てば、コウタとテツがお仕事から帰ってくる時間だ。


 お洋服を着直すと、不思議と安心感に包まれる。今までは窮屈で不快でしか感じなかったのに、羞恥を覚えてからは、むしろ、この重みや拘束感がないと落ち着かなくていけない。人の姿になってから、もうすぐ一年が経とうとしているけれど、玲の下を離れて、ようやくわたしは、彼がお洋服を着ることを強要した理由に辿り着くことができたみたいだ。


 でも、わたしにはもう、このお洋服を気持ち良く着ることはできない。それが悲しくて、辛くて、申し訳なくて泣きなくなる。


 そんなわたしを、チハルはどうしてか抱きしめてくれた。


「……チハル?」

「クロちゃんは愛されてるわ。私が保証してあげる」

「……チハルも、イロハみたいなことを言うんだね」

「えぇ、そうね。親子だから。……でも、これは本当よ。嘘なんてつかないわ」


妙に真剣な様子のチハルが何を言いたいのか、わたしにはさっぱりわからない。


 だから、彼女が、おもむろにわたしの背中へとまわしていた手をもぞもぞと動かし始めた時は、驚いて逃げ出したい衝動に駆られた。

 

 それに加えて、チハルはわたしの服の中へと手を入れてきた。そして、何かを探すように動き回った後、わたしの翼の付け根を掴んでくる。

 

「……チ、チハル?」

 

あまりに突然のことに、わたしは驚きを通り過ぎて、ただただ恐怖を感じていた。


 けれど、チハルからは敵意は感じなくて、むしろ、謝罪の時に浮かべるような表情で、申し訳なさそうにしている。


「痛かったら言ってね」

「……何をするの?」


その質問に、笑顔だけで返してくるチハルは、不気味な言葉を一方的に口にした後、わたしの折り畳んである翼をその手で勝手に広げてきた。もう訳がわからず、ひどく混乱したわたしは、ついにはぎゅっと目を瞑って暗闇へと逃げる。


 けれど、背中には特に痛みはなく、むしろ優しくどこかへと導かれるようにそっと伸ばされた翼は、気付けば窮屈さから解放されて自由になっていた。


「……これ、どうして?」

「違うのよ。本当はね、こうだったの」


チハルから返してもらったお洋服には、わたしの翼を外へと出すための縦長の穴が二つ、新しく開けられていた。試しに翼を思いっきり広げてみても、今までみたいにつっかえたり、引っかかったりすることはない。翼が自由に動かせる、たったそれだけで、お洋服への嫌悪感が一気に和らいだように思う。


「私は、勝手だった。思い込みで、間違いだって決めつけちゃったの。だから、今はこれで許してね」


そしてチハルは、わたしの頭に手を乗せたかと思うと、丁寧に優しく撫でてくれた。


「そして、信じて。この服は、あなたのことだけを想って彼は作ったって。あなたが気持ちよく、伸び伸びと動けて、何をするのにも邪魔にならない。だけど、静かに危険から身を守ってくれる。だから、そんな想いを、どうか嫌わないで欲しいの」


そう悔いるように話すチハルの言葉を、やはりわたしは理解できそうにない。


 でも、漠然とだけれど、わたしは、玲のくれたこのお洋服に勝手な勘違いをしていたのかもしれないと、そう思い直させられる。


「どうせなら、髪の色も教えて欲しかったわ」


まぁ、クロちゃんに言っても仕方がないわよね。


 そう愚痴を言っては、クスリと可笑しそうに笑いを漏らすチハルは、それでもとっても楽しそうに見える。


 そんな彼女を見ていると、嫌いになってしまったこのお洋服のことが、また少しだけ好きになることができて嬉しかった。




「おかえり、クロ。随分と遅かったな」


家の玄関の扉を開けると、そこにはコウタが不安そうにわたしの帰りを待ってくれていた。


「……ただいま、コウタ」

「一人で平気だったか?村の奴らに何もされなかったか?」

「……うん、平気だよ。それにね、今日はたくさんお友達ができたんだ」

「友達か、そうか。うん、それは本当に良かった!」


まるで自分のことのように喜んでくれるコウタに、わたしは少しだけ恥ずかしくなった。イロハの言う子供扱いとは、きっと今のコウタみたいに、普通の出来事を贔屓目で大袈裟に喜ばれることを言うのだろう。彼女がそれを嫌がる理由を、わたしは身をもって体験する。


「まぁ、なんだ。お疲れ様。腹減っただろう?夕飯あっため直してくるから、クロは先に席に行って待ってな。あ、手洗いうがいは忘れるなよ」


そう言ってパタパタとお台所へ走っていくコウタに、わたしは言われた通り、洗面台のあるお風呂場へと向かうことにする。


 お風呂場の扉の前に立つと、内側から微かに光が漏れ出ていた。それと、すうっと抜けるような爽快で涼やかな香りもだ。


 ともかく、わたしは汚れた手を洗うために、中に入ろうとドアノブを捻る。


 そこには、ちょうどお風呂から上がったところのほかほかなテツが、タオルで体の水気を拭いていた。


「おう。……その、なんだ。おかえり、クロさん」

「ただいま、テツ」


挨拶を済ませたわたしは、目的を忘れないうちに、洗面台を借りていいかと尋ねる。それに、テツは快く頷いて、道を開けてくれた。


「今日は新しい服を買いに行ったんだったな。気に入ったのは見つかったか?」

「うん。でも、また明日お店に行かないといけないんだ」

「ほう、と言うと、チハルさんの店か。見る目があるな、クロさんは」


そんなテツの言葉は、わたしだけではなく、チハルのことも褒めてくれていた。それが何だか嬉しくて、少しだけくすぐったく感じる。


「そうだ、チハルさんには何か言われたか?」

「…………?」

「いや、彼女からないなら、俺から改めて言う必要もないだろうさ。変なことを聞いてすまない」


お互いに用事を済ませると、わたしたちは二人でお風呂場から出た。


「先に風呂をもらって悪いな。嫌じゃなかったか?」

「…………ううん、平気だよ」


わたしは口ではそう言ったものの、内心ひどく焦り、またホッともしていた。


 昨日までのわたしは、どうかしていた。深く考えることもなく、純粋にコウタやテツと一緒にお風呂に入りたいと願っていた。


 でも、今はそれが、人として普通ではない恥ずかしい行為だと知っている。


 二人に対して願いを言葉にしたわけではない。でも、心の内で一度でも願ったそれをテツに知られてはならないと、さりげなく彼から顔を逸らした。


 その甲斐あってか、テツにはわたしの内心を悟られずに済む。


「今日は入浴剤を入れておいたから、それで勘弁してくれると助かる。疲れた体には、炭酸は効くぞ。まぁ、入る時のお楽しみだな」


先ほどの清々しい香りは、その入浴剤の効果なのだろう。ただでさえ気持ちの良いお風呂だ。それに加えて、良い香りがして、炭酸なるものまで付いてくるなんて、そんな贅沢がわたしに許されるのだろうか。


 とにかく、テツの言葉はとっても魅力的だった。今ここでお風呂場へと引き返そうかと

、真剣に考えたほどだ。


 けれど、今はリビングからする美味しそうな匂いの方が、空腹のわたしを強く惹きつけた。


「夕飯はテーブルに用意してあるから」

「……コウタは?」

「あぁ、これから道具のメンテだ。何かあったら呼んでくれ。じゃあ、おやすみ」


帰ってきても、まだ忙しそうに動き回るコウタは、きっと働き者で良い人だ。


 でも、彼が、わたしの体を気にしてくれるのは嬉しいけれど。そんな彼自身、無理をしているように見えてしまって、少しだけ心配になる。


 一先ず、わたしはコウタが作ってくれたお夕飯を頂くことにした。


「いただきます」


かちゃかちゃと、不器用なわたしが食器を鳴らす音だけかリビングに響く。


 そんなわたしと同じ場所にいるテツは、何をするでもなく、ボーッとわたしの食事を眺めていた。


「……テツもお腹空いてるの?」

「いや?そんなことはないが」

「でも、ずっと見てるよ?」

「あぁ、そうだな。……歳を食うと限界が早くて嫌になる。もう半分寝てるみたいだ」


そう口にするテツも、コウタと同じだ。眠たいなら、寝てしまえばいい。なのに、こうして無理して起きているのは、どう言う訳なんだろう。


「さて、俺はテレビでも見るかな」


リモコンでテレビに電源を入れると、箱の中に人の姿がぼうっと現れる。


 しかし、それも一瞬のこと。テツはガチャガチャと無造作にボタンを押して、チャンネルをぐるぐると回す。


「明日も晴れると良いが」


ボソリとそう呟くテツは、明日の天気を知るためにテレビをつけたんだろう。


 しかし、どうやら彼の欲しい情報を教えてくれる場所とは、今この箱は繋がっていないみたいだった。


「クロさんは見たいものあるか?」


わたしが首を横に振ると、ダメ押しにもうしばらくチャンネルを回した後、テツは諦めてテレビの電源を切った。


 そこでわたしは、ふとチハルとの会話を思い出す。


「……明日ね、きっと晴れるよ」

「……?そうか。そうだな。晴れると良いな」

「……うん」


テツがわたしの言葉を信じてくれたのかはわからない。


 だけど、晴れて欲しいと願う気持ちは同じだから。


 ……明日がお天気になりますように。


 そんな願いを、玲から預かっている天気管へと密かに込めてみる。テツが望む快晴の夢を、小さなガラスにそっと託してから、わたしは途中だった食事を再開した。

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