第39話 いっちょうら -前編-
結局、イロハが家に着くまでの間、わたしは玲との関係について穿鑿され続けた。
「わたしの家ここだから。じゃあね、クロお姉ちゃん」
イロハが立ち止まったのは、玄関に花模様の細工が施されたお洒落なお店の前だった。
終わりの見えなかった質問責めからやっと解放される。そう思って、ほっと一息ついた私は、しかし、意図せずガラス越しに見えたお店の中の商品に意識を奪われてしまった。
綺麗に陳列されたそれらに見惚れていたわけじゃない。ただ、遊びにうつつを抜かして忘れていた用事を、今更ながら思い出したのだ。
「お洋服、どれも可愛いでしょ?」
「……イロハのお母さんが作ったの?」
「そうだよ!村には他に三件の服屋さんがあるけど、お母さんはその中で一番縫製が上手なんだ!」
イロハは興奮しながら、とても無邪気な笑顔を浮かべる。自信満々に、そして誇らしそうに語る彼女だ。きっと、お母さんのことが大好きなんだろう。
「そうだ!クロお姉ちゃんもお母さんに服作ってもらおうよ!きっと似合うよ、うん!」
そう提案してくるイロハは、今も前もずっと同じイロハだ。嫌なことでも、捕まったら強引で逃してもらえない。そんなわがままな彼女が、わたしは少なからず煩わしかった。
なのに、今のわたしは、イロハの提案を嬉しく思っている。
だから、彼女が変わったわけではない。きっと、わたしの方が変わったんだ。
イロハが言うような、好きだとか、嫌いだとか。人の使うそれは、わたしにはよくわからない。
でも、少なからずわたしは、彼女に苦手意識を持っていた。それが突然薄れたのは、何が理由なんだろうと考えてみる。
“好き”
イロハは、その言葉を容易く、けれど自信を持って言い切ってみせた。
それに、気になることは徹底的に追求して、わたしの不満に折れることなく、また曲がることもない。欲しい物を手に入れるまでは、決して諦めない積極的な姿勢は、わたしにはない才能だ。
そんな、前のめりなイロハが、わたしの触れては欲しくない部分に興味を持ってしまったその時は、とても不快な気持ちでいっぱいだった。
けれど、彼女は、わたしを喜ばせようとしてくれている。それがわかった瞬間、わたしの中で、彼女の見方が変わった気がした。
もしかすると、好きと嫌いは似た物同士なのかもしれない。
嫌いは、嫉妬心に似ている。望んでも叶わない、自分には手に入れようのない素晴らしい才能に、わたしは、ただただ憧れていたんだ。
相手にはない才能を、他人のために使ってくれる。わたしのすることを、心から応援してくれる人。たったそれだけで、相手への嫌いは、都合よく好きへと変わった。それは、ゆらゆらと揺れる波のように、その日その時で模様は移り変わり、曖昧で危うく、他愛ない出来事一つで、抱いていた感情は反転する。
だとすると、みんなが当たり前のように口にする好きという言葉には、どれだけ信憑性があるんだろう。
でも、きっとそれは、好きという感情の一側面なんだと思った。
「善は急げだよ!はい、いらっしゃいませ!」
イロハは店の扉を開けて、お手本のように元気で気持ちの良い挨拶でわたしを迎えてくれる。
けれど、わたしはまだ、彼女と二人きりになることに少しだけ不安を感じていた。
「…………」
「む、無言の圧力を感じるよ……。ねぇ、クロ?何で急に僕のことをじっと見てくるのさ?…………ぁ、いや、ダメダメ!僕、この後予定があるんだから!」
「……………………」
「……んぁあ、もうわかったよ!怒られたら君も一緒に頭下げてよ、約束だからね!」
「……ありがとう、スズメ」
「…………それをわかっててやってるなら、とんだあざとい子だよ、君って子は」
心強い味方を得たわたしは、勧められるがままに、お店の中へとお邪魔することにした。
「天井が低くて狭いところだね。飛びにくそうだ」
「……スズメは、屋根がない方が良いの?」
「そんなの当たり前だ!僕たち翼がある者にとって、必要なのは青天井、それだけさ」
「今玲がいるお家なら、天井がないよ?」
「それは良い!今度お邪魔させてもらおうかな」
「え、お姉ちゃん家屋根ないの!?」
スズメとお話をしていると、イロハが信じられないといった様子で尋ねてきた。でも、世間知らずのわたしには、彼女が驚く理由がよくわからない。
「……まぁ、その辺の話は後で詳しく聞かせてもらうとして。今は服だよね!……お母さん!お客さん連れてきたよ!!」
イロハは、店の奥に向かって声を張り上げて、お母さんを呼ぶ。
「は〜い。今行くわ」
間延びした返事からしばらくして、奥から物腰柔らかそうな女性が出てきた。
そして、わたしが視界に入るなり、すぐに困ったように顔を顰める。
「ハーちゃん、この子……」
女性は、わたしの尻尾を一瞥すると、イロハを守るように、わたしとイロハの間に入った。
魔者に半端者が嫌われていることは知っている。玲や白、コウタとテツに、耳にタコができちゃうってくらいに聞かされたから、いくら頭の足りないわたしでも忘れるわけもない。
でも、いざこうして自分が避けられてみると、やはりどうしようもなく悲しくなってしまうのはなぜだろう。
しかし、そんなわたしを、友達と呼んでくれる人もいた。
「だ、大丈夫だよ!クロお姉ちゃんは半端者だけど、一緒に遊んでくれたお友達なの!」
俯くわたしに駆け寄ってきたイロハには、後悔の色はなかった。世間的には嫌われ者のわたしなのに、大人の言うことを無視して、子供であっても自分の考えを譲らない。そんな彼女の勇敢さに、先ほど感じていた悲しみが、優しさの温もりに溶けていく。
そして、そんなイロハの真っ直ぐな気持ちは、相手の感情も変えてしまうんだ。
「……そう。あなたがクロさんなのね」
女性の中で何が変わったのかはわからない。でも、わたしへ向けられていた痛いくらいの嫌悪の視線は、もう女性からはなくなっていた。
「うん、とても似合ってるわよ」
おもむろに女性は、わたしの身なりをじっくりと見たかと思うと、穏やかな笑顔を浮かべた。
その視線は、決して嫌ではない。ないけれど、とてもくすぐったくて、恥ずかしくってたまらなくて。わたしは、イロハの背に咄嗟に身を隠す。
「アキラくんから貰ったんだって!きっとね、彼氏さんだと思うんだ、私」
「……ハーちゃん、何でもかんでもそうやって色恋にこじ付けるのは良くないって、お母さん前にも言ったわよね?」
「だって……」
「クロさんだって、また無理矢理連れてきたんでしょう?いつもそう。まったく、親として恥ずかしいわ」
「ち、違うよ!…………ね、クロお姉ちゃん?」
弱々しく言うイロハに、今度はわたしが前に出る番だった。
わたしは、今に至るまでの過程を、なるべく手短にイロハのお母さんに説明する。
最初は、庇っていると疑われて、信じてくれなかった。けれど、イロハがわたしの言葉に驚いている表情を見つけると、すぐに本当のことだと納得してくれる。
「他のお店は品揃えが良くて人気だけど、クロさんのような耳や尻尾がある子には既成服は合わないわよね。因みに、ここの前にはどこのお店に行ったの?」
「……覚えてない」
「大丈夫、僕が知ってるよ。前にお店のインコちゃんと世間話したとき聞いた気がするんだ。ちょっと待って。名前は確か……、うん。キノシタって言ってたね!」
「……スズメが、キノシタって」
スズメに教えてもらった名前を言うも、しかし、イロハとお母さんは固まってしまっていた。
「……ねぇ、ハーちゃん。あの子、鳥と何してるの?」
「わからないけど、多分話ができるんだよ」
「へ〜。半端者ってすごいのねぇ」
そんな風に、のんびりと会話をしていた二人だったけれど、イロハのお母さんは何かに気がついたのか、突然大きな声を出す。
「クロちゃん、今キノシタって言わなかった!?」
「言ってたね。……じゃなくて、お母さん私と呼び方混じってるから!さん付けはどうしたの!?」
「だってイロハ、あのキノシタさんよ?半端者嫌いで有名な人なのに、良くお店に入れてもらえたわね……。たまたまパートの人の日だったのかしら?」
うんうんと唸って悩むイロハのお母さんは、少し子供っぽくて可愛らしい。
ともかく、ここまで色々あったけれど、わたしは、このお店のお世話になることに決めた。
「わたしはチハルよ。お客さんってことなら、相応のおもてなししないとね。よろしくね、クロちゃん」
「結局その呼び方でいくんだ」
「こっちの方が慣れてるのよ。それに、さん付けって距離を感じてあんまり好きじゃないの」
あなたは?
そう尋ねてくるチハルの質問にも、わたしは焦らないくらいには慣れてきていた。
「……クロ。好きなものは……」
「クロお姉ちゃんはね、パンが好きなんだって!」
「……うん」
わたしが言うより前に、イロハに先を越されてしまい、自己紹介のために入れた気合いの行き場がなくなってしまった。そのせいか、肯定のために出した声が少し上擦って、恥ずかしい。
そんなわたしたちを見て、チハルはくすくすと笑う。
「偶然ってあるものね。ハーちゃん、ちょうどお隣さんから頂いたラスクがあるから、お茶と一緒に出してあげなさい」
「わかった!私も食べて良いよね?」
「ちゃんと半分こするのよ。夕飯前だから食べ過ぎないようにね」
「やった!行こ、クロお姉ちゃん!」
準備ができたら呼ぶから。
そう言って仕事部屋に戻ったチハルとは逆に、わたしは、イロハに連れられて、リビングへと向かう。
その途中。イロハが何気なく発した言葉に、わたしの中で何か嫌なものが目を覚ますのを感じた。
「ご飯前にお菓子が食べられるなんて、ラッキー!もしかしてクロお姉ちゃんは、幸運の女神様だったり?」
「そんな事ない」
「ぇ、あ、うん……。ごめん。悪気はなかったんだけど」
突然のわたしの強い口調に、イロハはひどく動揺していた。他人を傷つける内容はなかったかと焦り、機嫌を確かめるように、頻りにわたしの表情を窺ってくる。
けれど、動揺しているのは、わたしも同じだった。
胸の奥で、ごそりと。気色の悪い音を立てて蠢くそれは、ひどく醜い感情だ。カリカリ、ゾリゾリと。心を引っ掻く感触が気持ち悪くて、苛立ちで頭がおかしくなりそうだ。
しかし、肝心の不快感の原因は、漠然としていてよくわからない。
ただ、イロハの言葉を聞いた瞬間、押し込めていた何かが爆発したかのように、遣る瀬無い気持ちで胸がいっぱいになった。イロハの気持ちも考えずに、怒りを乱暴にぶつけてしまう。
そんな、つまらない八つ当たりをしてしまったことには、ひたすらに後悔しかない。
だから、わたしはすかさず頭を下げて、きちんとイロハに謝る。
「ごめんなさい。……でも、わたしは、そう言うのとは違うよ。……でもね、なれたら良いなって、思うんだ」
「……そうしたら私たち、毎日美味しいお菓子が食べれるかもね。太らないように気をつけないと」
「ラオとヤナ、サツキにも分けてあげよう。そうしたら、みんなお腹いっぱいで幸せだ」
「だね!……でもさ、良いの?サツキにもあげるなんて。さっき尻尾鷲掴みにされたのに?」
「……うん」
イロハの言う通り、サツキは少し意地悪だ。触られるのは別に構わない、と思う。でも、痛いのは嫌いだ。
それでも、わたしには揺るぎない道標がある。そして、それを曲げるつもりは毛頭ない。
「ねぇ、どうして?嫌なことされたら、嫌だってちゃんと言わなきゃ。また悪戯されるよ?」
「……でも、サツキと仲良くなりたいから」
「……だから優しくする?……すごいよ。私には無理。そんなできた人が漫画の世界以外にもいるなんて、私尊敬するな。あ、もしかしてそれもアキラくんから?」
無言で頷くわたしは、また玲のことを穿鑿されるんじゃないかと不安だった。
でも、今回ばかりは、イロハは不思議と大人しい。それは、イロハの中で玲の見方が変わったからなんだろう。
「アキラくんは、クロお姉ちゃんのお父さんみたいな人なんだね。二人とも、他人に優しくできて、本当にすごいって思う」
でもね、と。イロハは心配そうに続ける。
「……私思うんだ。そんな生き方ができるのって、傷つくことに慣れてないとできないことだって。裏切られたり、頑張っても報われないなんて日常茶飯事なのに。それでも相手に優しくできるのは……、うん。きっとどこか壊れてるんだ」
気分を悪くしたなら謝る。
確かに、イロハの言葉に、少なからず怒りが湧いていた。
でも、そんなことよりも、わたしには、玲が痛い思いをしていたかもしれないと言うことの方が、よっぽど重要なことだった。
「……そうなのかな?わたし、わからなかった」
「なら、まだクロお姉ちゃんは失敗したことがないんだね。……ううん、そうじゃない。失敗しないように陰から助けてもらってたんだ。私とお母さんみたいに」
「…………」
私たち、まだまだ子供なんだね。
イロハは恥ずかしそうに苦笑した。それは、自分がまだ大人には遠い場所にいると、はっきり自覚しているからなんだと思う。
なら、わたしはどうだろうか。
少なくとも、イロハの方が大人に近いことは、わたしでも理解できた。
「……早く大人になるには、どうすればいいのかな?」
子供でいる事で、玲に負担をかけているのなら、わたしは出来る限り早く大人になりたい。そして、わたしのことを心から頼って欲しいと、信じて欲しいと、そう思う。
「なら、私秘蔵の漫画を貸してあげる!きっと役に立つと思うよ!」
「……わたし、文字があんまり読めないんだ」
「へーきへーき。絵で大体のことはわかるから。なんなら、漫画で字の勉強をするのもいいかもよ?」
字が読み書きできるようになったら、憧れの大人に一歩近づけるね!
そんなこんなで、わたしはイロハから漫画なるものを有り難く借りさせてもらうことになる。
話に集中していたわたしは、気付けばリビングの中にいた。
「アキラくんとの話もいいけど、私はクロお姉ちゃんのことが聞きたいな。お菓子を食べながら話すには、彼の話はちょっとだけ重たすぎるよ」
いつの間に用意したのだろう。テーブルの上には、すでに二人分の飲み物とお菓子が置かれていた。
イロハは、迷いなく自分の定位置に腰掛ける。テツとコウタたちと同じように、きっとイロハの家族にも、それぞれ自分の縄張りみたいなものがあるんだろう。
だから、わたしはお邪魔しますと一言断りを入れてから、こそこそと彼女の向かい側の席を借りることにする。
「さて、ん。何から聞こうかな」
サクッと軽く小気味良い音を立ててラスクを頬張るイロハは、食べながら喋っているせいで、もごもごと声がこもっていて、少しお行儀が悪い。
イロハが質問に悩んでいる間、わたしは自分の分のラスクを半分に割って片割れを小さく砕く。
「良いのかい?僕のことは気にしなくても平気だよ?」
スズメは遠慮がちに言うけれど、目線はお菓子に釘付けで、強がりなのはバレバレだ。
「……食べ物は独り占めするよりも、みんなで分けて一緒に食べる方が美味しいんだ」
「なるほど!そう言うことなら、ありがたく頂こうか!」
出してくれた彼女にもお礼を言っておいてくれ。
そう言い残すと、それからスズメは、夢中でラスクを啄み始める。
そうこうしている間に、イロハは聞きたいことを決めたみたいだ。
「じゃあ、もっと仲良くなるために。それと、信じてもらうために。サツキを悪く言った手前、なんだお前もかって思うかもしれないけど、それでも見ないフリはよくないと思うんだ。その点、サツキは勇気を出してたのかもしれないね」
ともかく、と。イロハは覚悟を決めるように頬を叩き、けれど、あくまでも気軽にわたしに質問してくる。
「クロお姉ちゃんの半端な部分って、尻尾だけ?」
「……見ても面白くはないよ?」
「そうかもしれない。でも、私は友達を都合の良いところだけ見て判断したくないから。どんな部分も、私は許容できる大人になりたいんだ」
「……わかった」
もしイロハが興味本位だったら、わたしは帽子を取らなかったと思う。それが、家を出る前にコウタとした約束だったから。
「尻尾だけじゃなくて耳も生えてるんだね。……うん、可愛いと思う」
「無理しなくてもいいんだよ?わたしだって、嫌われてるってことくらい知ってるんだ」
半端者は、半端者だという理由だけで、距離を置かれ、また避けられる。それは、カラスだった頃のわたしと同じだ。なんら変わらない。だからこそ、受け入れ易い状況でもあった。
けれど、嫌われ者のわたしを受け入れてくれる人も、少なからずいてくれる。
「今までは半端者は”狡い人”だって思ってたけどさ。でも、クロお姉ちゃんは違うよ。話してたらわかる。……だからさ、自分で嫌われてるなんて言わないで」
最初、人間の玲に優しくしてもらった時は、彼だけがわたしを大切にしてくれる存在だと思い込んでいた。
黒く醜いわたしを愛おしそうに見てくれた。
怖がらないようにって、優しく話しかけてくれた。
美味しいパンを分けてくれた。
雨に濡れた体を拭いてくれた。
そんな玲だけが、他人の中で、唯一わたしを必要としてくれている人なんだと、そう信じて疑わなかったように思う。
でも、それは違うんだと、最近になってよく気がつく。
わたしは、ただ逃げていたんだ。嫌われてるからって他人と仲良くなることを諦めて、いじめられないように大きく距離を置いていた。
でも、今わたしは地面にいる。みんなと同じ目線で、同じ体で、同じ景色を見ている。
そして、ようやくわたしは理解した。自分の手の届かない高い場所からじっと見下ろされるのは、とっても怖いことなんだ、と。それに、羨ましくて、切なくて、少しだけ嫉妬もしてしまう。それは、相手を嫌いになってしまうには十分すぎる悲しみだ。
「……わたしは、イロハと友達になりたい」
「何言ってるの。私たち、もう友達じゃない。ラオも、ヤナも、サツキも。クロお姉ちゃんのこと、とっくに友達だと思ってるから」
「ぁ、僕も忘れないでよ!仲間外れは嫌いなんだ!」
「……うん」
きっと、相手との間に空いた距離の大きさだけ、お互いに感情はすれ違ってしまう。
なら、失いたくないものは、ずっとこの手に掴んでいればいい。人が相手の温もりを求めるのは、言葉では伝えることの叶わないこと”も”あるからなんだと思った。
「私のせいでまた重たい話になっちゃったね、ごめん。……さて、次はクロお姉ちゃんの番!何か聞きたいことある?遠慮はしなくていいから、思いついたことなんでも聞いちゃって!」
イロハは気を遣ってそう言ってくれたけれど、すぐに質問を思いつけそうにはない。
それは、決してわたしが、イロハに興味を持っていないからというわけじゃなくて、ただ、こういう時に聞くべきことの正解に見当がつかないだけだ。
しかし、ふと一つだけ。わたしにとって、とっても大事なこと。でも、解決口が見つかっていないことの相談をしたいと思い付く。
「……イロハは、夢ってある?」
「夢?あるよ。そんなに立派なものじゃないけど。……どうして?」
「それは…………」
自分から聞いた手前、イロハを利用しているように思えてしまって、わたしは返答に口籠る。
でも、どうしてもわたしは、わたしの夢が願っても良いものなのかを知りたかった。
「……言えない?」
「違うんだ。ただ、なんて言えば良いのかわからなくて……」
わたしは、しばらくの間、自分の中の不安の正体を考える。漠然とした感情に、当てはまる言葉をあてどなく探した。
そして、イロハがラスクを一つ食べ切った頃。
「……わがままな夢は、お願いは。他人の幸せを邪魔しちゃうものだとしても、叶って欲しいって、望んでも良いのかな?」
それは、お世辞にもまとまっているとは言い難い質問だったと思う。
でも、そんなぐちゃぐちゃな言葉なのに、イロハは、わたしが口にしたことの意図を上手に汲んでくれた。
「ダメだと思う」
けれど、彼女の答えは、わたしが期待したものとは少し違う。
「他の人は、それでも叶えたいなら頑張れって言うと思うよ?他人なんか気にするなって、背中を押すと思う。だけど、クロお姉ちゃんは、私を頼って、真剣に相談してくれてるんだよね?なら、私は嫌われてでも、ダメだって言わなきゃいけない」
イロハは、若干早口にはなりながらも、きっぱりと言い切った。真面目な話は恥ずかしいと、赤くなった顔に風を送るように、手のひらをパタパタとうちわのように扇いでいたけれど、そんなことで彼女の言葉が軽くなることはない。
答えがどうあれ、わたしは、突然の相談にも関わらず、彼女が真摯に向き合ってくれたことがとても嬉しかった。
でも、ひとつだけ譲れないものもある。
「……嫌われてでも、なんて。そんなこと言わないでよ」
「言葉の綾だよ!相手を思うなら、勇気と信念がいるって、そう言いたかったの!」
「違う。違うよ、イロハ。そんなのは間違ってる」
嫌われることに努力する。そんな悲しく辛いことに、力を注ぐのは絶対におかしい。
それは、相手のためであっても、自分のためであってもそうだ。その努力は、自分自身の心をきつく縛り上げて、徐々に弱らせてしまう。大切なものを諦めて、それが正解だと信じて。そうして、全てを放り出してしまった時、何も感じることもなく、まるで楽になったように思うのは、その手で心を殺しているからだ。
努力は報われるためにするものではない。そうわたしはスズメに教わった。
けれど、報われないとわかっている努力をするのは、なによりも辛くて、苦しいことだって知ってる。
「……わたしは、イロハを嫌いにならないよ」
「クロお姉ちゃん……」
わたしは、イロハの努力に報いたい。わたしを思ってくれるからこその、彼女の選択だ。その努力を、覚悟を、一蹴することはしたくなかった。
だから、今も目の前で、嫌われるのではないかと不安に思っているだろう彼女に、わたしは声を大にして言わなければいけない。
「わたしは、イロハの良いところも悪いところも、好きになりたい。普通はできることを上手にできなくて失敗しちゃっても、それを他の人にバカにされても。わたしは、イロハの味方だよ。だから、嫌いになんてならない」
一言一句、わたしの大切を綺麗に形にすることは当然できない。
それでも、これが今のわたしだ。わたしがイロハに渡すことの叶う、全力の思いの欠片だ。
そして、まだ自分のものではない、荒削りの夢でもある。
だから、少しずつ、一歩ずつ。丁寧に、優しく、たくさんの人たちの力を借りながら、わたしは大きく成長していきたい。
「……どうしてそんなことを言い切れるの?そんなに生きづらい生き方を選んだの?」
そんなイロハの質問は、少し前のわたしなら、答えに困っていたかもしれない。
でも、今のわたしは”以前”とは違う。
「わたしの、進みたい道だから」
……そうしたらいつか、叶うかもしれないから。
人は、選んだ道で何者になるかが決まる。
それなら、わたしは優しい人になりたい。
人の痛みに寄り添うことができて、諦めてしまいそうなことがあったら応援する。
だからと言って、努力を押し付けることはしないで、時には諦めることを許してくれて。
それでも、呆れ果てて見捨てることは決してなくて、再び前を向く手助けをさりげなくしてくれる。
そんな、静かで暖かい優しさだ。
「………………」
イロハはしばらくの間、わたしの顔を見ながら、口を丸くぽかんと開けて固まっていた。変なことを言ったつもりはないのに、彼女が驚いた様子で向けてくる視線がなんだか恥ずかしくて、わたしは俯いて顔を隠す。
そんな石像みたいな彼女を動かしたのは、お仕事を終えて一息つきに来たチハルからの、背後からの重たい拳骨だった。
「痛ったいなぁ、もう!良い雰囲気だったのに、急にやめてよ!」
「経験がないのに大人ぶるからよ。少女漫画ばっかり読み耽ってないで、もう少し現実を見なさい」
「それとこれとは話が別でしょ!」
「考えても見て欲しいわ。自分がお腹を痛めて産んだ子が、漫画にしか出てこない目の大きな女の子の台詞をドヤ顔で言ってるのよ?殴りたくもなるわよ」
「…………っ!?」
チハルは、イロハの前で顔を覆ってしくしく泣くふりをして見せる。
するとイロハは、途端に赤面したかと思うと、テーブルに手をついて勢いよくその場で立ち上がり言った。
「……な、なら、お母さんは夢についてどう思うの?!経験があるなら答えられるよね?」
チハルを困らせたいのか、とても反抗的な態度を見せるイロハだったけれど、チハルはそれを気にした様子もない。きっと、こういう落ち着いた人のことを大人と言うんだろう。
「私?う〜ん。私はこのお店をおばあちゃんから引き継ぐって決めてたから、あんまり考えたことないわねぇ」
そう言いながらもチハルは、いくつか理由を口にする。
しかし、わたしには、そのどれもが一番の決め手ではないように感じられた。
「チハルは、どうしてその夢に決めたの?」
「そうねぇ。やっぱり才能かしら。言っても魔者の定石だから、クロちゃんの参考にはならないと思うけど」
「……才能?」
「えぇ、そうよ。三つの才能の話は知ってるわよね。クロちゃんはどんな才能をもらったの?」
「…………わからない」
三つの才能という言葉自体は、わたしも知っている。
でも、それはあくまでも白の記憶だ。まるで霧のかかったような、あまりにもぼんやりとした記憶は、生きるのに必要な最低限の知識はくれても、それ以上の詳しいことは何も教えてくれない。
「もう七星祭の時期なんだね。すっかり忘れてた」
だから、イロハの口にしたお祭りのことも、楽しい催し事ということ以外には、印象に残ってはいなかった。
「何悠長なこと言ってるのよ。今年はこの村から生贄を選出しなきゃいけないのよ?もう少し緊張感をね?」
「平気だよ!だって、私悪いことしてないから。あと、普通だし?」
「ハーちゃん……」
「…………失言でした」
チハルの拳骨が、またイロハの頭に落ちた。でも、今回は痛みに不満を訴えることはせず、素直に受け入れているように見える。
「ごめんね、クロちゃん。ハーちゃんも悪気があったわけじゃないの」
「……うん」
「そ、そうだ!生贄と言えば、去年はすごかったよね、人間が生贄に選ばれてさ!そのおかげかは知らないけど、森での被害もぴたりと止んだし!そんなに人間って美味しいのかな?いや、食べないけどさ。カニバリズムに興味はないけど、ともかく理由は気になるよ」
「……………………」
「あ、やばっ……」
わたしは、イロハの言葉で、今まで忘れていた過ちを思い出してしまった。その途端、喉が詰まってしまったかのように、苦しくて声が出なくなる。
七星祭。
それは、白にとっては、結果的に楽しくて幸せな日だったかもしれない。だからこそ、わたしは無意識にその感情に甘えて浸っていた。
でも、わたしのは違う。
あの日、わたしは、玲の幸せを守れなかったんだ。
玲が小屋を出発する時、白はまだぐっすりと眠っていた。だから、わたしさえ黙っていれば、白は何も気が付かない。誰にも邪魔されることなく、玲の夢は叶うんだって、そう思った。
なのに、”彼女”は唐突に帰ってきたかと思うと、白に玲のしようとしていることを全部バラした。勝手に玲の心を読んで、知られたくなかったはずの奥底の感情まで、勝手に詳らかにしたんだ。
玲は、皆んなの不幸をなくしたいって、頑張ってた。自分から生贄になって、不幸を意図的に押し付けてもらって。そうして、玲はたくさんの不幸を抱えながら、みんなの幸せを願って、森の中へと向かったのに。
そんな玲の邪魔をして欲しくなくて、わたしは、玲を探す白を必死に通せん坊した。でも、わたしの体はとっても小さくて、人の白には全く敵わない。
わたしには、生贄と言う言葉が何を意味するのか、今でもよくわからない。それでも、他人を幸せにしようと頑張る玲を、わたしは応援したかった。
でも、それは叶わなかった。
だからきっと、玲はあの夜、白を選んだんだろう。
そう思うと、胸が痛くて、苦しくて。悔しくて、寂しくて、涙がじわりと浮かんでくる。
「もう、今度は何したの!?クロちゃん黙り込んじゃったじゃない!」
チハルは、わたしの方へ駆け寄ってきて隣にしゃがみ込んだかと思うと、よしよしと言いながら頭を優しく撫でて慰めてくれた。その感触は、とても心地良くも、何か少し物足りない。そう感じてしまうわたしは、きっとわがままで悪い子だ。
それなのに、責められるのはわたしではなく、イロハの方だった。
「変な言いがかりはやめてよ、お母さん!クロお姉ちゃんは元から大人しい子なの!」
「じゃあ、さっきの”あっ”て何よ。……ほら、顔逸らす。何か思い当たることあるんでしょう?怒らないから言ってみなさい」
そうチハルは言っていたけれど、内容次第では、また拳骨が落ちてきそうな雰囲気を纏っていた。
けれど、イロハは隠している方が怒られると思ったんだろう。チハルの機嫌を窺いながら、彼女はおずおずと口を開く。
「……えっとね。クロお姉ちゃんにはね、人間のこぃ……、じゃなくて。大切なお友達がいるんだ」
「人間!?去年の彼の他にも、月に人間がいるの?」
「うん。でも、今は遠距離中なんだって」
「……相手は男の子なのね」
「どうして?何でわかったの!?」
「誰でもわかるわよ……」
何でもかんでも恋愛ごとにこじつけようとするイロハに、チハルは呆れてため息を吐いた。
でも、わたしにはどうしても、チハルからイロハと同じ感じがするように思えてならない。
「安心して。私に任せて、クロちゃん」
チハルは、気持ちを切り替えるように気合を入れて、わたしの両肩を掴んで言う。
「でも、私にできることは洋服を作ることだけよ。だから代わりに、私の誇りにかけて、貴方に似合う最高の一着を作ってあげる!」
そう言ってくれたチハルは、半端者のわたしを、仕事場へと快く案内してくれた。
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