第38話 いろは
色は難しい。
赤は、お日様のように温かい色。青は、世界に広がる空や海のように穏やかな色だ。緑色を見ていると、昔住んでいた山の風景を思い出して、とっても懐かしい気分になる。
一番はどれかと聞かれても、わたしは選べない。だって、どれも素敵な色で、他にはない魅力があったから。
だから、わたしは悩んでしまう。
「……わたしに似合う色ってなんだろう」
服屋さんの角にある更衣室の中で、鏡に映る自分に問いかける。
季節は夏だけれど、お店の中は驚くほどに涼しくて、服を着ていなければ風邪を引いてしまいそうだ。
そんな中で、恐る恐る服を体に合わせては、拭えない大きな違和感に、試着することもなく横に置くを繰り返していた。
「……どうしよう」
わたしは、一先ず自分の服に着替えた後、スズメにさっき教わったように、頑張って自分で考えてみることにする。
まず、お洋服だ。お店に並んでいる服だって、着て欲しい相手がいるはずだ。その服が似合う人、映える人の手に渡りたいと願っているはずだと考えた。
そしてそれは、少なくとも、服に興味のないわたしなんかではないと思う。
でも、人の世界で生きていくためには、お洋服は必要不可欠だ。
人の服は窮屈で落ち着かず、何をするにも引っ張られるようで動きづらい。けれど、わたしのわがままで他人を困らせたり、服を着ないせいで嫌われてしまうのは嫌だった。
「…………」
ハンガーに掛けられた数着の服と、わたしはしばらくの間睨めっこする。服の方がわたしを選んでくれたならどれだけ楽だろうと、そう思った。
悩んで、悩んで、一体どれくらいの時間が経っただろう。
ふと目に入った鏡に映る自分の姿に、わたしは一つの答えを見つけた。
……着たい服に似合う自分になろう。
似合う服を着るのではなく、着たいもののために頑張る。それは、とても難しいことだとは分かっていたけれど、他の何よりも納得のいく答えでもあった。
そうやって考えがまとまると、試着に選んだ服に袖を通すことへの抵抗は軽くなった。
「……どうかな?」
お店の服に着替えた後、更衣室のカーテンを開けて、思い切ってスズメに尋ねてみる。
「そうだねぇ〜……。うん、格好はイイね!似合ってるし、可愛いと僕は思うよ!」
でも、とスズメはわたしを見て、残念そうに続けた。
「……その酷い毛並みはどうにかしないと。バサバサでイケてない。ちゃんと水浴びしてる?小まめにしないと虫が付くし、異性に嫌われちゃうよ」
「…………」
「……どうかした?急に黙って、お腹でも減ったのかい?」
「…………スズメにはもう聞かない」
「え、なんでさ!?」
スズメならわかってくれる。そう思っていたわたしは、期待外れの答えを返すスズメに、落胆して背を向けた。
身勝手な感情だって言うのはわかってる。でも、わたしは、嘘偽りのない率直な意見よりも、ただ強く背中を押して欲しかった。
この服を選んだのは、気に入っているわけじゃない。わたしには、他の色の服を着る努力をする自信がなかったんだ。
だから、例えスズメが気に入らなくても、この服を買うつもりでいた。
けれど、様子を見にきたお店の人に止められてしまう。
「お客様は、髪は白くて、瞳の色も銀色ですから、白い服を着たら真っ白になってしまいますよ」
まるで悪いことのように言う店員さんに、先ほどまで決まっていたはずの心から勢いが削がれる。
わたしは、真っ白でも構わなかった。むしろ、望んでさえいたように思う。
だから、答えは揺るがないと、そう思っていた。
それなのに、普段なら気が付かないくらいの微かな痛みが、胸の奥でちくり、ちくりと。広がりながら疼いて、堪らない。
「……わたしは」
その先は、言葉にならなかった。
胸にそっと手を当てて、理由を自分に問いかける。すると、服を買うことを店員さんが止めてくれて、心のどこかで安心している自分がいることに気がついた。
わたしは、駆け込むように更衣室に戻り、自分の服に着替える。漠然とだけれど、玲のくれた服に身を包めば、痛みの理由がわかる気がした。
でも、だめだ。むしろ、この服を着ている方が、痛い。
……なんで?やだよっ……!
今までは普通に着られていたはずの服が、なんだかとても重たく感じる。ここまま着ていたら、わたしと言う存在が潰れて壊れてしまいそうなくらいだ。
それに、窮屈さもいつにも増して耐え難かった。少しずつ服に押し込められて、わたしは小さくなって消えてしまうんじゃないかと、そう思ってしまう。
わたしは、怖くなった。このまま無理に買い物を続けたら、この服やくれた玲を嫌いになってしまいそうで、それが怖くて、泣きたくなる。
「…………っ!」
わたしは、お店から一目散に逃げる。一刻も早くこの場から離れなければと、ただひたすらに走った。
「ちょ、クロ!?」
「お客様!?」
そんな、驚いた様子の二つの声を聞いても、わたしの足は止まらない。
「……ごめんなさい」
そう言葉にすると、さっきまで耐えていた涙がじわりと滲んだ。
きっと、わたしは嫌われてしまう。
用事に付き合ってくれたスズメを、わたしは置いて来てしまった。
店員さんは、服選びを助けてくれたのに、一度もありがとうを言えていない。
それに、コウタから貰ったお金も、袋ごとお店に置いてきてしまった。
でも、戻りたくない。
帰ったら、コウタにいっぱい叱られる。
テツに無言で見つめられると、今にも取って食べられてしまうんじゃないかと、怖くて怖くて堪らない。
それでも、やっぱり戻る気にはなれなくて、悪いことだって言うのはわかってても、暴れる心には抗えない。
「…………ごめん、なさいっ!」
……人の心は、わたしには難し過ぎるよ。
手に負えない大きな感情の波に翻弄されながら、わたしは脇目も振らずに走る。ダメなわたしを、皆んなから出来るだけ遠くにと、道の続く限り真っ直ぐ駆け続けた。
「いつまでそうしてるんだい?」
スズメが追いついたのは、わたしが立ち止まってから数分のことだった。
最初は、スズメのことを無視しようと思った。今は誰とも話したくない気分で、口を開いたら自分でも何を言い出すかわからない。そんなわたしの言葉で、スズメを傷つけてしまわないかって不安だった。
でも、意地悪はいけないことだ。自分がされて嫌なことは、他人にやってはいけない。それはとても単純なことだけど、同じくらい守るのも難しいことだと玲が言っていたのを思い出す。
だから、わたしはたくさんの罪悪感を振り払って、スズメとお話をすることにする。
「……なんでここがわかったの?」
わたしは、ここにくるまで止まらずに走って来た。全力で走ったせいでひどく息が上がって、苦しくて。だから、少しの間足を止めてただけなのに、こうしてすぐに目の前に現れたスズメが不思議で仕方がなかった。
しかし、その原因は、わたしの方にあったみたいだ。
「自覚ないのかい?君、足が遅いんだよ。それに、体力もないみたいだ。だから、ほら。こうやって簡単に追いつける」
運動音痴なんだね、とスズメは笑った。
わたしは、スズメの指摘が恥ずかしくて、素直に受け入れるのが嫌で、道の端で膝を抱えて小さく縮こまる。
そんなわたしの肩に、スズメは断りなく乗ったかと思うと、今度は申し訳なさそうに謝ってきた。
「僕が悪かったよ。女の子にとって、毛並みの話がタブーだったなんて知らなかったんだ」
ばつが悪そうに言うスズメは、わたしが逃げ出した理由を勘違いしていた。この様子だと、不機嫌になった原因の方もわかっていないに違いない。
でも、どちらにしても、スズメはちゃんと謝ってくれた。
だから、わたしもけじめを付けなきゃと思った。
「……わたしも」
スズメが作ってくれた流れのおかげで、自然と口を開くことができる。
それでも、まだ疲れの溜まった体では言葉はすぐに出てこなくて、しばらく沈黙の時間が続いてしまう。
けれど、スズメは何も言わずにわたしのことを待ってくれた。
わたしは、大きく深呼吸をした後、失礼にならないようにスズメの方をちゃんと向く。
たったそれだけのことで、伝えたい思いは自然と言葉になった。
「……スズメ。さっきは置いて行っちゃって、ごめんなさい。わたしね、あそこに居たくなかったんだ」
言葉だけでは足りない。そう思って、スズメには肩から手のひらに移ってもらい、改めて頭を下げる。
そうしてわたしたちは、無事に仲直りをすることができた。
「君にも複雑な理由があるんだね」
「わたしにもよくわからないんだ……。今だって、不安で、怖くて、仕方がないんだ」
この感情は、何という名前なんだろう。得体の知れない衝動に翻弄されて、わたしはもういっぱいいっぱいだった。
「僕の経験から言うとね、そう言う時は、大抵心の方に従った方がイイ」
そんな言葉がすぐに出てくるスズメは、きっととっても物知りだ。それは、わたしより長く生きて、多くのものを見て、また経験してきたからに違いない。
だから、スズメの言う通り、心の赴くままに生きていくのが正しいんだろう。
でも、未知の感情に身を任せるのは、わたしにはまだ怖かった。
「だったら、気分転換だ」
立ち止まっていても、何も解決しない。むしろ、その場から動けなくなってしまうよ。
そう言うスズメに連れられて、先を飛んで行く彼の背中に着いて行く。
テツの家を出た頃に比べると、もう随分と日は高く、人通りも少しずつ増えてきていた。中には、こちらをじっと見ている人が何人かいたけど、今は気にするほどの余裕がなかった。
わたしは、あまり目が良い方ではない。だから、小さなスズメを見失わないように、よそ見をせず真っ直ぐに追いかける。
「もうすぐだよ。たぶん、ちょうどいい頃合いだ」
「……スズメ、速いよ」
「そうかい?昔は遅いって馬鹿にされたもんだけど。僕も成長してるのかな?嬉しいね」
そう言ってより一層速度を上げるスズメに、わたしは文句を言いたくなった。
お店が立ち並ぶ村の中心から少し離れ、家が密集する場所まで来る。
その一角に設けられた開けた空間の前で、ようやくスズメは止まった。
「どうだい?楽しそうな場所だろう?公園って言うんだ」
「はぁ、はぁっ……ん。……スズメの、いじわる」
スズメは平然としていたけど、わたしはそれどころではなかった。無理をしたせいで息が上がり、苦しくて真っ直ぐ立っていられなくて、膝に両手をついて激しく肩を上下させる。
「君が運動音痴なのは、僕のせいじゃないよ。でも、追いかけっこが楽しくて、ついはしゃいじゃったことに関しては、悪いと思ってる」
そう言って嬉しそうに笑うスズメのことが、わたしはちょっぴり恨めしい。
なんとか呼吸が落ち着いた頃。ゆっくりと顔を上げると、すでにスズメは、先に公園の中に入っていた。
「お、やっぱり今日もいるね。クロ、こっちだよ!」
友達を紹介するよ。
小さな子供たちに囲まれながら、スズメは催促するように名前を呼ぶ。
最近は、知らない人と話す機会が極端に多くなった。関わるはずのなかった相手と関係を結ぶたびに、世界が広がったように感じられて、とってもワクワクする。
けれど、同じくらい、カラスのわたしが人の中で上手くやっていけるのか、不安でもあった。
「お〜い、クロ。そんなところでぼーっとしてないで、早く来なよ」
また、わたしのことを呼ぶ声が聞こえてくる。玲がつけてくれた、わたしの名前だ。
頑張れと背中を押された気がして、恐る恐る一歩踏み出してみる。
すると、三歩目にはもう不安は綺麗さっぱり消えてなくなり、何が怖かったのかさえ思い出せなくなっていた。
「お姉ちゃん、だあれ?」
四人いた子供たちの一人が、近づくわたしに気がついて訝しげな目線を向けてきた。
でも、スズメがわたしの肩に飛び乗って見せると、子供たちの目つきは一瞬で変わる。
「お姉ちゃんも、リンのお友達?」
「……リン?」
「あぁ、僕の名前だよ。言葉が通じないのに、ちゃんと愛称があるっていうのは、なんだか嬉しいよね」
わたしがスズメとお話をしていると、まるでみんなを守るように、一人の男の子が前へ出てきた。
「……ねぇ、質問に答えてよ、お姉ちゃん。知らない人とは、遊んじゃいけないんだ。でも、リンの知り合いなら別!リンの友達なら、オレたちの友達だ!」
で、どっち?
代表して声をかけてきた男の子の質問に、わたしはこくりと頷く。
すると、男の子はわたしのことを快く迎えてくれた。
「オレは、ラオ。よろしく!」
四人の中で、一際眩しい笑顔を浮かべる彼は、きっとみんなのリーダーだ。底無しに元気で、ちょっぴり偉そうだけど、ズボンからはみ出た肌着がだらしない。でも、それが少し愛らしくも感じられた。
「ねぇ、ラオ。このお姉ちゃん半端者だよ?ほら、猫の尻尾が生えてる。お姉ちゃんと話してたら、お母さんに怒られちゃうよ」
そう弱気に言うのは、もう一人の男の子だ。ラオとは対照的に、言葉には力強さがなく、俯きがちで、ずっと他人の機嫌を窺うような素振りを見せている。
そんな彼の心配を、ラオは面倒くさそうな表情で一蹴した。
「どうせバレね〜って。朝ご飯の時に、夕方まで集会場で七星祭の準備があるから、ご飯はみんなと外で食べてって言われたし」
「ラオのところも?うちもだよ」
「だろ?それに、毎回遊びが同じで飽きたってお前も言ってたじゃん、ヤナ。お姉ちゃんが入れば、きっと楽しくなるに決まってる」
「……ラオが言うなら、わかったよ」
その言葉で、わたしと距離をとっていた三人は、駆け足で側まで近寄ってきた。
「ヤナです。よろしくお願いします」
挨拶をする時、お行儀よく頭を下げてきたヤナは、きっと良い子に違いない。
「次は私ね!」
残りの女の子二人の内の一人は、ニコニコしながら勢いよく距離を詰めてきた。わたしの手を握ったかと思うと、当然のようにさり気なく抱きついてくる。
あまりに突然のことに、わたしは反射的に逃げてしまった。
けれど、彼女はしつこくわたしの体にくっついてきて、離れてはくれない。
「私はサツキ!仲良くしてね、半端者のお姉ちゃん!」
サツキと名乗った彼女は、ラオに似て元気で活発な子だ。
いきなり飛びつかれた時は、とってもびっくりした。でも、彼女が人見知りのわたしのために、早く仲良くなれるようにわかりやすく好意を示してくれたのだと気がつくと、不快感はすぐに消えて無くなった。
でも、それはわたしの勘違いだったのかもしれない。
「えいっ!」
「…………っ!?」
サツキは、こっそりと背中へと伸ばした手で、わたしの尻尾を断りなくぎゅっと掴んだ。
その瞬間、今まで感じたことがない、全身を舐められるような悪寒が走って、堪らずその場にしゃがみ込んだ。サツキの手の感触が残る尻尾を前に抱えて、また彼女に触られないように、必死になって守りに入る。
「大丈夫かい?痛くない?」
「…………うぅ」
「ご愁傷様だ。子供は僕らと一緒に遊んでくれるけど、ルールを知らないから困るよね」
驚いて肩から退いていたスズメが、足元からわたしを気にかけてくれた。
なのに、わたしは一つの言葉も返すことができない。
「あの子はいつも、破廉恥なことばかりするんだ。僕も、前に何枚か羽を抜かれたりしたよ。先に言っておくべきだったね。ごめんよ」
スズメは、わたしの傷を舐めるように、優しく毛繕いをしてくれる。そのこそばゆい感触に集中すると、驚いてぐちゃぐちゃだった思考も感情も、不思議と落ち着いていった。
「おい、サツキ!お前、なに考えてんだ!」
「だって……」
ラオは、動けないでいるわたしの代わりに、サツキのことを叱ってくれた。
でも、サツキには悪気はなかったみたいだ。
「ラオも気になるでしょ?半端者の体なんて、触る機会なかなか無いよ」
「だからってな!お前だって、いきなり体触られたら気持ち悪いだろ」
「ラオになら平気だよ?」
「お前は良くても、オレが気持ち悪いの!」
「……けんかしないでよ!二人が怒るのは違うでしょ!」
わたしのせいで始まってしまった二人の言い争いに、ヤナがすかさず間に入った。
ヤナは、普段俯いているからか、少し頼りなく見える。それに、ラオのように前に出ず、みんなの後ろで静かにしている印象だった。
でも、二人が険悪な雰囲気になった瞬間、自分の友達が仲違いしないようにと必死に宥めに入る姿は、ラオに負けずとも劣らず、とても頼もしく見えた。
「ねぇ」
まだ名前を知らない女の子が、わたしに向かって声をかけてくる。
わたしは、また尻尾を触られるんじゃないかと怖くて、ひどく警戒をした。体を丸めて、攻撃されないように、防御姿勢を取る。
けれど、心配のし過ぎだった。
「良かったら使って」
彼女の目は、スズメと同じだ。わたしのことを案じてくれている、優しい瞳をしていた。
彼女がくれたのは、ばんそうこうだった。
でも、尻尾は怪我をしたわけじゃない。だから、私は断ろうとした。
すると、今度は小さな容器を肩掛けカバンから取り出したかと思うと、わたしの膝にそれを近づけて言った。
「少ししみるから、我慢してね」
「……うぅ!」
突然の寄せては返す波のような痛みに、わたしは堪らず声を上げた。
それでも、彼女は怯むことなく、わたしのそばから離れようとしない。
「傷だらけだよ。転んで怪我をしたら、ちゃんと消毒して手当しないとね。跡になったら大変。……尻尾は平気?」
彼女は手際良く、わたしの膝にばんそうこうを貼ってくれる。気にならないくらいの、小さな傷だった。でも、彼女は見過ごすことなく、自分のことのように心配してくれた。
「あたし、イロハ。……立てそう?手伝うよ」
イロハの手を借りて、わたしは立ち上がる。
「……イロハ」
「何?他にもどこか怪我してるの?」
「……ありがとう」
「お礼なんて……。当然のことをしただけだよ」
イロハは恥ずかしそうに、わたしからくるりと顔を背ける。
けれど、後ろにはヤナの目があった。
「あ、イロハちゃんが照れてる」
「照れてないわ!うっさいぞ、ヤナ!」
「顔真っ赤にして怒っても、説得力ないよ」
「だからって、あんたね!もう少し人の気持ちを考えなさいよ!」
ヤナにご立腹のイロハは、不謹慎かもしれないけど、少し面白い。きっと、こっちがイロハの本当なんだと思った。
「で、お姉ちゃんは?」
そう言うラオは、すでに仲直りをした後なのか、腕にはサツキがくっ付いていた。
でも、わたしにはもうわかる。サツキは、ちょっとずる賢い子だ。きっと、何か理由があってそうしているに違いない。
「何ぼーっとしてるのさ。今度は君の番だよ、クロ」
考え事ですっかり忘れていた自己紹介を、スズメが思い出させてくれた。
「……クロ。好きな食べ物は、パン」
わたしは、スズメに教わったように、自分のことを話す。
すると、スズメの言う通りだ。みんなは、楽しそうに言葉を返してくれる。
「おう、オレもパンは好きだよ」
「なに適当こいてるのよ。あんたが好きなのはパンはパンでも、菓子パンだけでしょ」
「確かに。ラオは甘いもの好きだよね」
「私も甘いもの好きだよ!」
「フォローになってねぇわ!ってか、いつまでもくっついてないで早く離れろ!」
「なんで?」
「俺が嫌だからだっ!!」
こんなに賑やかなのは初めてだ。
たくさんの人に囲まれて、その仲間として一緒に居る。時には、苦手な子の相手をしなければいけない。それでも、不思議と楽しいと言う感情が湧いて止まないのは、わたしが求めて止まなかった夢の一つだったからかもしれない。
「愉快だ。君もそう思うだろ?」
「……ありがとう、スズメ」
「なぁに。何事も独り占めほどつまらないものはない。それに、僕は時間を潰す相手が欲しかっただけだ」
「うん。それでも、だよ」
「律儀だね。でも、そういうのは嫌いじゃない!」
そう言うスズメも、イロハみたいに少し顔が赤かったように見えたのは気のせいじゃない。
一通り自己紹介が終わった後は、何をして遊ぶかをみんなで相談した。
「今日は何するの?」
意外にも、真っ先に声を上げたのはヤナだった。どうやらこの四人の中では、彼が話のまとめ役みたいだ。
「折角だし、クロのお姉ちゃんとできることやろう」
「さんせ〜い!」
「私も」
全員の賛同を得られたところで、今度はラオが、わたしにしたい遊びはないかと尋ねてきた。
そこから先は、まるで夢のようなひと時だった。
初めは、お絵描きがしたいと言うわたしに、ラオの提案で絵しりとりをすることになる。
わたしは、画力には少しだけ自信があった。
でも、みんなの渋い反応を見て、本当は下手なんだってわかった。
「……お姉ちゃん、それ何?」
「……パンだよ」
「んな馬鹿なっ!と言うか、ん付いてるし!」
それに、歌もだ。玲はいつも褒めてくれたけど、四人には音痴だと言われてしまう。
スズメも、みんなと同意見のようだ。
「君の歌声なら、海の向こうにいてもわかりそうだ」
「……褒めてない、よね?」
「もし褒められたと感じたなら、よっぽどのポジティブシンキングだね!でも、心配はいらないよ。聴くのが嫌になる程じゃないからさ」
「……うぅ」
今までは、朧げな白の記憶と玲の言葉だけが、わたしの全てだった。
けれど、他の人たちと関わる中で、色々な考えや感性があるのだと気が付く。
それは、わたしの心に遠慮なくぶつかり、欠けた。古く脆い部分から崩れ落ち、徐々に綺麗な形に変わっていく。いや、変えていくものなんだと、わたしは漠然とだけど理解できた。
だから、今のわたしには、玲の言葉が嘘ばかりだったと言うことも、理解できるようになっていた。
「……ばか」
自信満々だった少し前の自分が恥ずかしい。近くに巣穴があったなら、今にも飛び込んでいたと思う。
でも、そんな苦い経験すら、わたしにとっては新鮮な時間だ。
「はいはい!次、ドラゴンごっこやりたい!」
今度は、サツキが案を出す番だった。
「よく飽きないね、サツキ」
「飽きるわけない!だって、楽しいもん。だから、ほら。イロハも一緒にやろ、ドラゴン役!」
「い〜やっ!毎回毎回、私を悪役に巻き込むのやめてよ!」
わたしは、ラオとヤナと一緒に勇者役で参加した。
「ガオォォォ!」
「……それ、私もやらなきゃダメなのよね」
「もちのろん!」
「腹、括るか」
「……そこまでの覚悟はいらないと思うよ、イロハちゃん」
そんなやり取りも交えつつ、村を模した砂の山の上で暴れるサツキとイロハを、わたしたちは協力して退治した。
「やぁらぁれぇたぁ〜」
「降参、こうさ〜ん」
ラオとヤナが、嬉しそうに腕を挙げて、パチンと手を叩く。
「ほら、お姉ちゃんも」
「……うん」
真似て手のひらを叩くと、思ったよりも痛かった。
けれど、とても気持ちの良い音が耳元で鳴り、思わず笑顔になってしまうから不思議だ。
「あ、ずるい!私も!」
「好きで悪役選んだんだろ。まぁ、仲間になるって言うなら考えなくもない」
「ふん!ドラゴンは勇者なんかに屈しないのっ!」
「……変なところで強情だよね、サツキって」
そう言って苦笑するヤナに、わたしは何の気無しに尋ねる。
「……ドラゴンって何?何か悪いことしたの?」
その質問に答えてくれたのは、ドラゴン役を率先して受け持ったサツキだった。
「トカゲの体に翼が生えたのがドラゴンだよ。ほら、絵本によく出てくるでしょ?人を襲ったり、お姫様をさらったり、火を吹いて村を焼き払ったり。……とにかく!すごい悪者なの!」
「……サツキは、ドラゴンが好きなの?」
「うん!……あ、悪いことは嫌いだよ?でも、私はドラゴンが進んで暴れてるとは思えないんだよね」
真剣に答えるサツキに、三人は一歩ずつ後ずさって、顔を合わせてひそひそ話を始める。
「あいつ、いきなり何言ってんだ?」
「ついに頭がおかしくなっちゃったのかな……」
「いくらなんでも、言い過ぎよあんたたち。サツキは前からああじゃん」
「……イロハちゃんが一番辛口だよ」
「……だな」
そう言う最中にも、鼻を膨らませて意気揚々とドラゴンについて語るサツキは、他人の意見に左右される様子は全くない。
「で、二回戦はまだ?」
「「まだやるのかよ!!」」
そうやって男の子二人から否定されても、なお好きなものに真っ直ぐで揺るぐことのない彼女は、きっと自分の意見を大切にできる子に違いない。
サツキ以外のみんなは、ドラゴンごっこは遊び飽きているのだろう。サツキが暴走を始める前に、早く別の遊びを考えようと躍起になっていた。
「ヤナとイロハは?たまには意見出してくれよ」
みんなが悩んでいる様子を見て、わたしは肩の上のスズメにも良い案がないか尋ねてみた。
しかし、彼は横に首を振る。
「僕は見る専門さ。それに、あまり仲良くし過ぎても、お互いに良いことはないからね」
「……そうかな?」
「別者は、関わるべきじゃない。争い事や面倒事が嫌いなら、尚更ね」
妙に説得力のある言葉は、スズメの経験によるものなのだろう。少なくともわたしには難し過ぎて、到底言わんとする意味を理解できそうになかった。
お昼を食べた後も、わたしとスズメは四人の子供たちと公園で一緒に遊んだ。何か用事があったような気もするけれど、忘れてしまえるのだから、それほど大切なことではなかったんだろう。
しかし、どんなことにも、いずれ終わりが来てしまう。
ゴーン、ゴーン。
不意に、重たいくすんだ音が夕焼けに染まった空にゆったりと鳴り響いた。心に小さな寂しさを残して、足早に私たちのそばを駆け抜けていく。
「おっと、もう帰る時間か」
ラオが口にするまでもなく、みんなは帰り支度を始めていた。
「クロお姉ちゃんの家はどこにあるの?」
「……遠いところ。今は、テツとコウタの家に住んでる」
「へぇ〜。なら、イロハと同じ方だね。俺たちとは逆だ」
わたしは、彼らとまた遊ぶ約束をして、イロハ以外の三人とお別れをする。ラオとサツキが大きく手を振ってくるのに、わたしは小さく返事をした。
三人の背中が人混みに紛れて見えなくなった後、わたしたちも同じようにお家へと帰ることにする。
「誰かと帰るのなんて、久しぶりだな」
そう言うイロハだったけど、一人だけ家の方向が違って寂しいだとか、仲間外れみたいで悲しいなどとは思っていないようだ。むしろ、彼女は早く家に帰りたいのか、わたしが見てわかるくらいにそわそわとしていた。
「クロお姉ちゃんはさ、憧れてる人っている?」
突然そんなことを口にする彼女に、わたしは理解が及ばずに首を傾げた。
するとイロハは、躊躇いがちにわたしの手を握ってから言う。
「もっと小さい頃はね、いつもお母さんがそばにいてくれた。どこへ行くにも、一緒だったんだ。……いいかな?」
わたしが頷くと、イロハは嬉しそうに手を握る力を強めた。
イロハの手は温かく、とっても柔らかくて気持ちが良い。わたしとはまるで正反対だ。一見細身に見えるけれど、ちゃんと出るところは出ている健康的な体の彼女に、わたしはほんの少しだけ劣等感を覚えた。
イロハは、楽しそうに腕を振りながら軽快に歩く。
何が良いのか、遠慮なしにずんずんと進んでいくイロハだ。手を繋いでいるとは言え、彼女の横について行くのは少し大変だった。
「仕事が忙しいから仕方がないんだけどさ。それに、もう親に甘えるような年でもないし。ラオとヤナなんかに見られたら、絶対馬鹿にされるよ」
「……手を繋ぐのは、いけないことなの?」
「そんなことないと私は思うけど。でも、恥ずかしいものは恥ずかしいの。子供だと思われるのは嫌」
子供と大人。言葉は知っているけれど、わたしにはよく意味がわからない。
そして、もっとわからないのは、子供扱いを嫌がる理由だった。
「お母さんから見たら、イロハはずっと子供だよ?」
「それはわかってる。でも、あいつらは違うでしょ?子供扱いされるってことは、対等に見てもらえないってことだよ?なんだか悔しいじゃない」
すること全てを温かい目で見守られる子供は、失敗成功問わず全力で応援してもらえる代わりに、相手から頼ってもらえない。力になりたいのに断られて、自分の思いが子供の言うことだからと一蹴されてしまうのは、とても悲しいことだと思った。
「……クロは、憧れてる人はいる?お母さんとか、お父さんとか。仲の良いお友達でも」
イロハの言いたいことがようやく理解できたわたしは、質問に対して深く頷く。
すると、イロハは昔を思い出すように、感謝の気持ちでいっぱいの言葉でわたしに言うのだ。
「その人たちは、優しいから何でもしてくれるよね。夢を応援してくれたり、危ないことは煩いくらい本気で注意してくれる」
「……たまにいじわるな時もあるけど」
「そうそう!いきなりちょっかいかけてきたり。自分のことは棚に上げてさ、ひどいよね」
顔を見合わせると、くすりと笑いが漏れた。まるで思いが通じ合ったようで、気分がふわふわとして心地良い。
でも、わたしも、イロハも。そんな優しい意地悪が、決して嫌いなわけではない。
「……でも、ウザい時もあるけどさ、それって私のために言ってくれてるんだよね。なら、少しは言うこと聞いてやってもいいかなって気分にもなるんだ」
「……それに、良い子にしてないと怒られちゃう」
「それもあるかな。一回怒り始めると、昔のことまで掘り返してきたりして。もう終わった話なのにさ。嫌になっちゃうよ」
日頃から抱えていた家族への不満に、イロハは様々な愚痴を吐き出す。
しかし、すぐに人前であることを思い出して、口元を手のひらでぎゅっと押さえた。
「……あ、ごめん。周りにこんなこと言える人いなくて」
ともかく、と。本題から逸れてしまった会話を、イロハは無理矢理に元に戻す。
「わたしだって子供なりに感謝してるつもりなんだよ。それなのに、まだ小さいからってまともに相手にしてもらえないのは嫌だ」
「……うん」
「だからね、クロお姉ちゃん。わたしは子供扱いは嫌なんだよ」
子供でいるのが嫌なんじゃない。思いを軽視されるのが辛いんだ。
そんなイロハの口にした理由は、わたしが感じていた不満を形にしてくれた。
わたしがカラスだった頃も、人になった後も。玲は優しくて、困っているとすかさず手を貸してくれた。
けれど、まるでどこかに線が引かれているかのように、こちらから近づくと決まって玲は離れて行ってしまう。
それはきっと、玲がわたしを子供扱いしていたからなんだと思った。
「……玲は、いじわるだ」
そう不満を呟いたわたしに、イロハはなぜだか目を輝かせた。
「アキラくん?……え?その人って、もしかしてクロお姉ちゃんの彼氏?!」
「かれ……??わ、わからない。…………でも、嫌われてたわたしに優しくしてくれた、初めての人なんだ」
「ふ〜ん。……で、男の人?」
質問に頷くわたしに、イロハは黄色い声を上げた。叫ぶような甲高い声が耳に刺さり、耳の奥がじんじんと痛い。
そこからは、イロハにしつこいほど玲のことを聞かれた。根掘り葉掘り、イロハからの尽きない質問の嵐に、わたしは永遠と付き合わされる。
その拍子に、つい勢いで秘密を口にしてしまった。
「え、アキラくん、人間なの!?それじゃあ、禁断の愛じゃない!!」
「玲は悪い人じゃないよ!!……でも、コウタは一緒にいると不幸になるって言うんだ」
不満気に言うわたしに、しかし、イロハもコウタの味方のようだ。
「しょうがないよ。人間には昔、転移連機を壊した前科があるし。今復元する研究がされてるみたいだけど。ともかく、わたしたち魔者とは、今も喧嘩別れの状態だから」
「……イロハも、玲のこと嫌いなんだ」
玲は、自分よりも強い魔者でも、忌み嫌われている半端者でも、わたしみたいな真っ黒な嫌われ者でさえ、分け隔てなく手を差し伸べてくれる優しい人だ。
それなのに、みんな。……みんな、玲を独りにするんだ。
そうだ。今、彼は崖の上の小さな家で、自分のことを嫌う魔者たちの世界でひとりぼっちで居る。
……わたしは、バカだ。
本当に、どうしようもない。これじゃあ、玲に全部押し付けただけだ。玲のことを、不幸にしただけだ。
そんな、受け入れ難い現実に俯くわたしに、隣のイロハは全身を使って励ましてくれた。
けれど、イロハは相変わらずわたしたちの関係を勘違いしているみたいだった。
「違う違う!他の人間は知らないけど、恋愛ごとならむしろ大好物……、じゃなかった。ともかく!私はその恋応援してるからっ!」
「…………違うのに」
イロハの的外れな応援を、わたしは呟くように否定した。
わたしは、ただ嬉しかったんだ。
何をするでもなく、静かにそばに居てくれる。一緒にご飯を作って食べて、たまに水浴びをして、お昼寝をしたり、お絵かきやお話をして過ごして、暗くなったらふかふかの寝藁に並んで一緒に寝る。それだけでわたしは、叫びたくなるくらいに、本当に本当に幸せだった。
だから、そんな素敵な気持ちのお礼を言いたい。わたしは、恩を返したいんだ。
そう。それ以外には何も無いはずだ。
それなのに、まるで胸が圧迫されるような苦しさを感じる。
初めは気のせいだと思った。何かの間違いだと疑った。
でも、いつまで経っても痛みは消えてくれなくて、それどころか強くなっていく一方だ。
……あれ?おかしいな。
ズキリ、ズキリと。鈍くじわじわと広がる切なさに、わたしはひどく動揺した。思えば、わたしの否定の声は自信なく震えていて、気持ちがこもっておらず掠れていたようにも感じる。
そんな痛みに耐えるわたしに、イロハは先ほどとは打って変わって、とても落ち着いた声音で言う。
「でも、好きなんでしょ?」
「…………」
わたしは、何も言わなかった。
図星だったから、なんて理由じゃない。わたしと玲の関係は、一言で表せるほど単純ではなくて、正しい言葉を見つけることができずに口籠ってしまっただけだ。
それに、否定なんてしなくても、あの夜の記憶が何よりの証拠だ。
だから、少なくともイロハの言うような関係だけは、絶対にあり得ない。
それなのに、イロハはしつこい。
「私、恋愛漫画が大好きなの。特に、みんなの反対を押し切って二人が結ばれる話が大好きでね?」
「だから、わたしと玲は……」
「あ、いいのいいの!言わなくて。私にはぜ〜んぶわかってるから!!」
何も知らないのに、やたらとニコニコとして楽しそうなイロハに、わたしは久しく強い苛立ちを覚えた。
じくり、じくりと。今まで痛いくらいに締め付けられていた胸が、些細な刺激に耐えきれず爆発したかのように、目の前の彼女を傷つけようと、怒りの熱が勢いよく喉元を迫り上がってくる。
もどかしい疼きに、わたしは泣きたくなった。悲しい。辛い。それなのに、わたしの心は自分の身をジリジリと焼きながら、怒りにひたすら支配されている。
けれど、一人では止められない。感情の波に、私は呑み込まれかけた。
……クロ。
でも、わたしが間違えそうな時。どうしようもなく困っている時、彼はいつも真っ先にわたしのことを助けてくれる。
わたしは、大きく深呼吸する。玲の声を思い出すと、心が不思議と穏やかになった。
……悪者にはなっちゃダメだ。
自分でもよくわからない感情を他人にぶつけるのは、八つ当たりと同じだ。
それに、この怒りはきっとわたし自身が持て余している、ままならない感情だ。だから、この痛みとは、わたし自身が決着をつけなきゃいけない。だから、欠片も他人に押し付けちゃいけないんだと、思い直すことができた。
それに、彼は人前で決して怒らない人だった。
だから……。
「……スズメ」
でも、今この場に玲はいない。だから、彼と同じようにわたしを助けてくれたスズメに、わたしは救いを求めた。
けれど、スズメは別のことに意識を取られていて、わたしの話を聞いてくれそうにない。
「今朝言ってたの、彼のことだろ?……全然僕と似てないじゃないか」
そう言ってスズメは、残念そうに肩を落とす。
そんな彼を、できることなら慰めたいと思えるくらいには、わたしはいつもの自分に戻れていた。
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