第42話 新天地

「……もう行っちゃうの?」


上目遣いで心細そうに尋ねてくる狐の彼女に、自分は現実逃避のためにさり気なく目を逸らす。同じ秘密を共有する仲になった途端に甘えん坊を隠さなくなった狐な彼女の破壊力に、早くも自分の中の理性が悲鳴をあげていた。


「良いご身分ね」

「いや、これは……っ!」


神様がジト目を向ける自分の腕には、医者の彼女が隙間なくピッタリとへばり付いている。


 自分は、彼女と仲直りをするためにここへ来た。仲直りなんて限りなく不可能に近いと、そう思って彼女を思い出すことすら避けていた自分にとって、またこうして普通に会話することができている現在は勇気を出した報酬とも言えるだろう。


 そうだ。自分には、魔剣の件を足掛かりに彼女と仲直りができればと言う打算があった。もちろん、その逆もである。


 しかし、この思いを神様に言ったところで、今の状況が説得力を皆無にしてしまうだろう。こんな未来を自分は誓って予想していなかったし、期待なんてもってのほかだ。それだけは、疑わずに信じて欲しかった。


 それなのに、神様は汚物を見るような目で自分のことを見てくる。それがたまらなく辛くて、心外で、とにかく焦った。


「ねぇ、ソラ!なんか餅みたいにくっついて離れないんだけど……っ!?」

「あんたが突き放さないから調子に乗ってるだけでしょ!いいからさっさとミナトから離れなさいよ、このロリコン詐欺師!」

「いや、本当にさ!もう瞬間接着剤並みなのよ!」


試しに思い切り腕をブンブンと振り回してみるも、彼女は体と一体になってしなやかに動きについてくる。


 神様に言われずとも、この状況がおかしいことは理解している。きっと、さっきの魔剣の話のせいで彼女の精神状態が不安定になってしまったのだろう。強いて言うならば、彼女はお酒を飲んだ時と同じ状態だ。いや、彼女の方から引っ付いてくるあたり、もっと質が悪いようにも思う。


 ともかく、自分は、なんとか餅ってる彼女を引き剥がそうとあらゆる手を尽くす。


 けれど、それはあまりに無駄な努力であった。


「そりゃあそうよ。あんたは人間だもの。馬鹿力な魔者と正面から張り合って勝てるわけないのはわかりきってるじゃない」

「なら妙な言いがかりはやめてよ!」

「あら、嘘はついてないつもりよ?白に、ミナトに、クロでしょ?ほら、全員小さくて、庇護欲をそそられて、いかにも弱々しい可愛い女の子じゃない。手を出す勇気がなくて、でも助平なあんたには、これ以上ない呼称だとは思わない?」

「そんなのと一緒にしないでよ!それに、それを言うならソラだってイケメン好きの露出狂じゃん!」

「はぁ?!あれは魔力がなくなっちゃったから仕方なかったでしょ!ノーカンよノーカン!」

「なんでそっちはノーカンでこっちはロリコン呼ばわりされなきゃいけないの!不公平だよ!」


初めこそ、小声でやり取りしていた自分たちだった。神様の声は、彼女には聞こえない。だから、一人で喋っている者がいれば、当然気味悪がられる。そう思って、可能な限り声を抑えていた。


 けれど、途中からは、そんなことは知ったこっちゃない。自分の意見を押し通そうと、相手に被せるようにして大声でがなり合う。


 そうすれば当然、彼女も黙って見てはいない。


「…………アキラ?」

「はい、何ですか?」

「今、ソラって。さっきから会話してるように見えるけど、他に誰かいるのかな?」


違和感ありありの自分の様子に、しかし、彼女は怯えることなく鋭いところを突いてくる。


 それに正直に頷くと、彼女はハッとした様子で腕から勢いよく飛び退いた。


「…………離れる。」

「ぇ?あぁ、ありがとうございます?」

「……ち、違うよ!だって、ずっと一人だったから……。だから……………………っ!!」


他人の目があると知って、流石に我に返ったのだろう。彼女は自分がしでかした行為の恥ずかしさに耐えきれずに、店の柱の影に逃げ込み屈んで顔を覆ってしまう。


「いや、本当に気にしなくて平気ですから!だから、柱の隅に隠れないで出てきてくださいよ。これじゃあ話辛いです」

「…………なら、初めから誰もいなかった。そう言うことにしてよ」

「それでも自分は大丈夫ですけど……。紹介しなくてもいいんですか?」

「うん。そうしたら私、多分倒れると思うから」

「精神面を冷静に自己診断しての言葉でしたか。そういうことなら、はい」

「ここは素直に、褒め言葉だって受け取っておくよ」


存在する神様を居ないものとする自分たちの決定に、当然本人は良い気はしないだろう。実際、耳元でぎゃあぎゃあと喚き散らしていたから、相当ご立腹なことが窺えた。けれど、ここは一つ、神様には彼女との円滑なコミュニケーションのために、少々我慢をして頂こう。


 そもそも、バクの前の持ち主は彼女だったのだから、神様の存在自体を否定しているわけではない。恐らくは焦りと緊張のせいで、魔杖の存在に気が付かなかっただけだ。それに加えて、今の神様の呼び名も悪さをしている。もしも神様が彼女に対してアメと名乗っていたのならば、彼女は赤の他人の前で醜態をさらしたと思い込まずに済んだだろう。つまり、非はこちらにも少なからずあるのだ。


 ともかく、話題は再び振り出しへと戻る。


「そんなに急いで、どこに行く予定なの?場所がわからないなら、良ければ案内するよ?」

「そこは問題ないですよ。ヒイラギさんって人が、お迎えを自分につけてくれるみたいで」

「……え?ヒイラギって、あの柊!?」


何気なく自分が先方の名前を出した途端、彼女はひどく驚き、また怪訝な様子で自分のことを見てきた。


「……何するつもりなの?」

「何って、バイトですけど……」

「……あのね、嘘を吐くなら、もっと現実味のあるものにしないと。そんな話、誰に話したって信じてもらえないよ。冗談にしても笑えない」


彼女はおもむろにカウンターへ向かうと、棚の中から二つの瓶を手に取り自分に見せてくれた。どちらの中身も、何やら怪しい白い錠剤で一杯で、正直悪い予感しかしない。


 そして、瓶側面に貼られたラベルには、お爺さんから貰ったライターにも彫られていた綺麗な柊の紋様が記されていた。


 しかし、二つの模様は微妙に異なっているようにも見える。


「柊の名前は、この街で危ない橋を渡ったことがあるなら、誰でも一度は耳にするってくらいに有名なんだよ」

「それって、悪い意味で、ですよね?」

「それが、そうとも言い切れないんだ。多分、この組織は一枚岩じゃない」


それを証明するために、彼女は瓶の蓋を開けて中身を一つずつピンセットで取り出す。


 そして、そのうち一つを自分へと近づけて、こう言った。


「……飲んで」

「え?いや、なんの薬かを先に教えてくださいよ」


甘えるような、懇願するような、そんな官能な響きで言う彼女は、完全に悪戯を考えている子供の表情だ。素直に受け入れてはならないと、そう直感が警鐘を鳴らしていた。


 しかし、向こうのほうが一枚上手だ。


「えい」

「……むぉぁ!?…………っんく」

「はい、ごっくん。うん、よくできました」


彼女は、薬を持った指を隙を見て自分の口の中に突っ込んだかと思うと、すかさず指先でおかしな場所をツボを押すようにグッと押し込んだ。その瞬間、抗い難い嚥下の衝動が押し寄せてくる。そんな体の仕組みを悪用した彼女の悪戯に、自分はなす術なく、あやしい薬を勢いよく飲み込んでしまった。


「……って、何するんですか!!本当に飲んじゃいましたよ、大丈夫なんですか!?」

「安心して。そっちは普通の栄養剤だから」

「もう一個が何なのか気になるんですが……」


得体の知れない薬を飲み込んでしまったことに、不安と気持ち悪さを覚えていた。しかし、彼女の言葉で杞憂だとわかり、ひとまず胸を撫で下ろす。


「まぁ、何ともならないならいいですよ。……それにしても、似てますよね。些細な違いしかなくて、見間違えそうです」


栄養剤の入っていた瓶に貼られたラベルは、柊の紋様だ。けれど、自分の知っているライターのもと比べると、いくつか葉が多いように見える。


 しかし、違うと言ってもその程度だ。気にしなければ、どちらも同じ物だと思い込んでしまってもおかしくはない。


 そして、そんな違いを教えてくれたのは、他ならぬ彼女だ。


 だから、油断していた。


「……………………」

「……ちょっと、急に黙り込んでなんです?」

「ぇ?」

「え?」


自分の質問に、玉のような汗をかきはじめる彼女に、一つの嫌な予感が脳裏をよぎる。


「……まさかとは思いますが。一応聞いても?」

「も、黙秘権を行使するよ……」

「それ、もう答えを言ってるようなものじゃないですか!怒ったりしませんから、言い訳しないでください。本当は間違えたんでしょ?」

「…………ごめんなさい、間違えました。」

「……はぁ、やっぱり」


彼女の落ち込みようを見るに、反省しているのは明らかだ。だから、約束通り責めることはしない。


「大丈夫?」


彼女は、具体的に薬の名前や効果を口にすることはなかった。言ったところで素人にはわからないだろうと、そう考えているのだろう。


 代わりに、体が熱くないかとか、指を立てて何本に見えるかなど、具体的な体調の方を気遣ってくれた。


「私が変な風に見えたりしない?気分は?気持ち悪くない?」

「いえ、別に平気ですよ」

「良かった……。……でも、どうして効果が出ないんだろう」

「えっと、それはどう言う……?」

「な、何でもないよ!!気にしないで。きっと個人差があるんだ、うん!」


終始何かを隠そうとしているのは、正直に言えば、少々癪である。でも、これと言って実害がないのだから、責めるのもまた憚られた。


 だから、一つだけ。


「自分にも責任はありますから。だから、もうしないって約束してくれたら、それでいいです」

「うん。約束する」

「お願いします」


この場は一先ず、これにて一件落着とすることにした。


「災難ね」

「他人ごとかい」

「だって、実際他人だもの」

「正論で返さないでよ」


そう言う神様は、まだ拗ねているようだ。夕食の串カツは、前回よりも奮発しなければならないだろう。


 ともかく、いい加減おふざけもここまでである。


「そろそろ出ないと」


話を切り上げるために、少し声の調子を変えて言った。


 寂しそうな彼女に笑顔を向けてから、店の外へと出る。


「さっきの話、考えておいてください」

「……わかった。七星祭の日までには決めるね」

「なら、次はその時に」


そう互いに約束して、自分は待ち合わせの場所へと向かった。




 約束の時間になると、どこからともなく彼女は現れた。


「ぁ、こんにちは、カエデさん」

「……やはり、来てしまわれましたか」

「え?」

「いえ。こちらの話です。こんにちは、アキラさん」


両手でスカートの裾を軽くつまみ上げながら、彼女はお上品な挨拶をしてくれる。その仕草は、さながら一国の姫か、その侍女だ。頭にフリルこそ付けていないが、今身につけている服装のせいだろう。彼女がメイドのように見えなくもない。


 とは言っても、俗物的だとか、堅苦しいと言った雰囲気は感じられない。それは、彼女が身に纏っている衣服が、モノクロではないからだろう。ワインのように鮮やかで魅惑的な濃い赤色を基調とした服は、むしろ揺るがない自我といった芯のある女性を思わせる。それでいて優しい印象も受けるのだから、なんとも不思議な人だ。


 けれど、一見すると、彼女と自分とは年齢はさして離れていないように感じられる。そんな、随分と大人びて見える彼女に、自分はどこか憧れのようなものを抱いていた。


「よろしければ、お荷物お持ちしますよ」

「いえ!軽いので平気です。お気遣いありがとうございます」


彼女からの過剰な親切に、自分は今の立場を改めて理解させられる。


 彼女は、個人的な関わりではなく、仕事のお客様として対応してくれているのだろう。そんな、緩みのない公私の切り替えっぷりは、彼女が普段どのような姿勢で仕事に取り組んでいるかを透かしてくれている。それがまた、お世辞なしに格好良かった。


 先方と向こうで会える時間までには、それなりに余裕があるのだろう。彼女はなんとも落ち着いた歩調で、大通りに沿って街の中心部へと歩き始める。それに、自分も何を言うでもなく、大人しくそっと彼女の横についた。


 すると、彼女はまるで世間話を始めるかのように、本来知り得ない情報をおもむろに口にする。


「珍しい魔杖をお持ちですね」

「あれ、言ったことありましたっけ?」

「いえ。ですが、特に力が強いものは、感覚でわかるものですよ。それに、以前鷹のようなお友達がいらっしゃるとおっしゃってましたから、もしかしたらと思っただけです」


彼女はそうさらりと口にしたけれど、自分としてはにわかには信じ難い。


 ともかく、彼女は勘も良いようだ。こうなると、もはや自分が彼女に敵う点はあるのかと、そう本気で悩んでしまいそうだ。


「偉そうなことを言ってはいますが、要するにただの当てずっぽうです。アキラさんのお友達さんは私には見えませんし、声を聞くことも叶いません」

「それでも、姿も見えない相手が、実はすぐ近くにいるんです。気味が悪かったり、怖いとは思わないんですか?」

「はい。意思疎通が図れるのであれば、それはもう人とほとんど変わりありませんからね」


そして、彼女は神様が会話に混じることを渋ることは愚か、むしろ快諾を通り越して、推奨さえしてくる。


 その理由は、強いて言うなれば、同情なのかもしれない。


「無視をされるのは辛いものですからね」

「……だって。ソラ、良かったね」

「…………え?えぇ、そうね」

「何、ぼーっとして。もしかしてお腹減ってる?」

「……あんたは私を何だと思ってるのよ」


そうボヤく神様ではあったけれど、先ほどまで居ないものとして扱われていたのだ。彼女の提案は、少なからず神様にとっては喜ばしいもののはずである。


 それなのに、何を尋ねてもどこか上の空な様子の神様に、自分はどうにも違和感を覚えた。


「ここからは車で向かいますね」


しばらく行くと、彼女は横道に逸れる。奥に見える駐車場には、それなりの台数が整然と停められていた。


「どうぞ」

「……すごい車ですね」


彼女は光沢のある黒塗りの外車に近づいたかと思うと、後部座席のドアを平然と開ける。その挙手動作の洗練具合は、見惚れるを通り越して、もはや狂気じみていた。


 そんな、高級車を前にした程度で怖気付いている自分を、彼女は目敏く察知して見逃してはくれない。


「……いつ何が起こるかわからないのがこの世界です。それを承知の上で連絡をいただいたものだと理解しておりましたが……」


まだ引き返せる。そう暗に告げてくる彼女だけれど、自分は逃げるわけにはいかない。


「えっと、助手席でも良いですか?そっちの方が落ち着くんです」

「そう言うことでしたら、もちろん。ついでと言うわけではありませんが、道中の話し相手になっていただけると、私としても嬉しいですね」

「はい、自分で良ければ」


自分たちは車に乗り込み、がっちりとして重たいドアを勢いよく閉めた。ドスンと響く音と同時に、街の喧騒が遠のいていくのを感じる。


「シートベルトはしましたね。では、出発です」

「よろしくお願いします」

「はい。任されました」


鍵を回すと同時に、機嫌良く動作を開始するエンジン音とともに、ギアが手際良く低速トルクへと入れられる。


 駐車場を出ると、そこからはしばらく直進のようだ。


 とは言え、建物を器用に避けながら通されている道路だ。それも、ただ蛇行するだけでなく、場所によっては幅員が極端に狭かったり、あり得ない急勾配も見える。正直、自分としてはとても運転する気にはなれない、言うなればひどい悪路だった。


 けれど、彼女には慣れた道のようで、特に気を張ったり緊張している様子は見られない。


 だから、もうそろそろ話しかけても問題はないだろうと、閉じていた口を開くことにする。


「カエデさんは、どんなお仕事をされてるんですか?」


彼女の望んだお話とは、きっとこう言う類のものではないだろう。けれど、ずっと気になっていたことを尋ねる絶好の機会だ。逃す手はない。


「一言で表すのは難しいですが……。そうですね。悪者退治と言ったところでしょうか」

「警察みたいな感じですか?」

「当たらずも遠からずと言ったところでしょうか。……でも、そうですね。そう言う道も、もしかしたらあったのかもしれません」


…………いえ。私は多分、それでは満足ができなかったでしょう。


 そんな意味深な言葉は、すぐに別の言葉でかき消されてしまった。


「アキラさんは、どんな目的でここへ来ようと考えたのですか?ヒノキさんに誘われたことはお聞きしました。ですが、あなた自身にも、何か達成したいことがあるからこそ、ここへ足を運んだ。違いますか?」

「カエデさんの前でこう言うのはおかしいと思いますが、特段ヒノキさんの下で働かせてもらうことに拘っているわけではないんです」

「言い方を変えれば、働かせてくれるのなら他の誰でも良かったと、そう言うことでしょうか?」

「……ごめんなさい。でも、何事を成すにも、最低限のお金は必要になります。お仕事の内容も事務仕事がメインだと聞きましたし、お給料もこの辺りではかなり良い方ですよね。だからと言って、怠けたり嫌々やるつもりはありませんよ?信じてもらえないかもしれませんが」

「信じますよ。初めてお会いした時から、あなたが真面目で優しい方だと思っていました。人柄はいくら隠そうとも、表へ出てしまうものですよ。良い意味でも、悪い意味でも」


彼女は、きっと自分のことを褒めてくれている。そう気付くと、なんとも照れ臭くて、失礼とはわかりつつも、彼女からそっと視線を外した。


 そして、話を自分のことから逸らすために、何気なく彼女に質問する。


「知り合いから聞いたんですが、もしかして、ヒイラギさんの所には派閥があるんですか?」

「……派閥。そうですね、そう呼称するのが適しているのかもしれません」


少し考える素振りをした後、彼女は組織の内情を、自分にもわかるように簡単に説明してくれた。


「私やヒノキさんは、柊様の下で働かせていただいております。ですが、行動理念は、むしろ真逆と言っていいでしょう」

「でも、目的は同じなんですよね?」

「すみません。私としても、柊様が何を目指しておられるのかまでは」

「ぇ、わからないんですか?」

「お恥ずかしながら、おっしゃる通りです」


突然無茶苦茶なことを言い出す彼女に、組織としてそんなことがあり得るものかと驚かずにはいられない。どんな小さな集まりでも、そこに籍を置く身ならば、その場所に居る理由があるはずで、同じ理想を持っているからこそ、他人と力を合わせて達成を目指す。それなのに、彼女は組織の理想がわからないと、そう口にしたのだ。


「柊様は、特別なお方です。きっと、私などでは到底たどり着けないような、高い理想をお持ちなのでしょう。そして、そう勝手に思ってしまう私には、それを知る権利もありません」

「……なら、カエデさんはなぜ働いているんですか?」

「私にとっては、都合の良い取引だった。それだけのことです」


自分の問いに、彼女は答えるつもりはないようだ。


 しかし、少なくとも、彼女にも自分と同じような退っ引きならない理由があるのだろう。そう知ることができただけ、今日この時は御の字である。


 そして、自分からの質問はもう一つだ。


「すると、どうして今日は、自分を迎えに来てくれたんですか?カエデさんとヒノキさんは別の派閥なんですよね?」


実際の組織がどうであるかは知らない。けれど、想像ができないわけでもなかった。


 派閥とは、理想へのアプローチの数だけ存在し得るものだ。そして、自分たちのやり方が最も優れていると、そう信じる者たちの集まりである。だからこそ、自分と違う思想を持つものたちを否定して、排除するのだ。


 そう仮定すると、この状況は相当異様に違いない。何せ、別派閥の下に入ろうと言う者の手助けをする行為だ。本来なら、いくら金を積まれても願い下げだろう。


「そうですね。そこは、アキラさんのご想像にお任せします」


しかし、それは自分の考え過ぎか。或いは、踏み入るべきではない深淵なのか。どちらにしろ、彼女は曖昧な言葉を返すのみだった。


 そして、今更ながら、失礼なことを言っていることに気が付く。


「ぁ、あの!嫌だってわけじゃなくてですね!むしろ、知らない人じゃなくて、カエデさんで良かったなって思ってるくらいで!」

「あら、嬉しいことを言ってくれますね。そう言っていただけると、私としても救われます」


そう口では言っていた彼女だけれど、表情の方は、逆に残念そうに見える。


「……他に道はなかったのですか?」


それは、彼女からの最後の忠告だった。


 いや、自分はこの車に乗ったのだから、どちらかと言うと後悔に近いのかもしれない。


「あなたには、この場所は似合わない」

「……カエデさんと同じです。都合が良かったからですよ」

「……そうですね」


それからしばらく、自分たちは無言の時を過ごした。


 ギアフロータス上層に張り巡らされた道は、形式としては高速道路に近いだろう。分岐と合流を繰り返し、一定区間ごとに出入口も見受けられる。けれど、高速道路に入ったところで、見える景色は常に無機質な鉄色だった。重苦しく温かみのない寂しい街並みは、それでいて人だけは溢れるほどいるのだから妙な話である。


 そして、今日からは自分もその一員だ。


 ……頑張ろう。


 叶うならば、この街に淀む心をも錆びつかせるような鉄の香りに、いち早く慣れたいものだ。




「少し寄り道をさせて頂きますね」


そう言って停車したのは、なんの変哲もない平凡なアパートの前だった。


「つかぬことをお伺いしますが、アキラさんは携帯電話はお持ちですか?」

「あ、はい。……これです」


自分は上着のポケットから急いで取り出し、彼女へと見せた。今はただの鉄の塊と化しているが、以前は最新のスマートフォンだ。型落ちとは言え、まだまだ現役である。ただし、充電ができれば、ではあるが。


「少しお借りしてもよろしいですか?」

「えぇ、構いませんけど。でも、多分使えませんよ?」

「なら、使えるようにするまでです。お任せください」


そう自信満々に言う彼女ではあるが、問題は何もバッテリーだけではない。月での通信網がどのような仕組みになっているかは知らないが、少なくとも契約なしに無制限に使えるわけではないはずだ。それを解決しない限り、このスマホで使える機能と言えば、カメラにメモ帳、あとは計算機くらいだろう。


「お待たせしました。どうぞ、お返しします」


彼女は、自分のスマホを持って一人アパートに入ったかと思うと、十分も経たずに戻ってくる。そして、宣言通り、スマホは使えるように修理されていた。


「器用なんですね。電子機器を修理できるなんて、すごいです!」

「これも仕事のうちですから」


一瞬、どんな仕事だよと突っ込みたくなるが、どうせはぐらかされるのでやめておく。


 軽く操作してみると、新たに彼女の連絡先が追加されているのを見つけた。どうやら、本来の目的は連絡先の交換だったようだ。


 ……なら、ここに来た意味はなんなのだろう。


 そんな考えは、スマホが使えるようになった喜びで、すぐにどうでも良くなった。


「直してくださって、本当にありがとうございます!ずっと充電できなくて困ってたんです」

「バッテリーも新しいものに変えておきましたから、当分は充電の心配もないかと思いますよ。通話やインターネットの方も、しばらくは私のものをお貸しします」

「え!?それじゃあカエデさんが困りますよね?」

「実は私、ほとんど使っていないんです。それに、仕事用の携帯は別にありますから。不要になった時に返して頂ければ、それで問題ありませんよ」


もちろん、契約違反ですから、他の人には内緒ですからね。


 そう口元に指を添えて悪戯っぽくいう彼女に、月での自分の立場としては、素直に甘えさせてもらうしかない。この埋め合わせは、一先ず初回のお給料が出た時にでも返そう。


 そして、今度こそ彼女は、当初の目的の場所へと車を走らせる。


 アパートを出てから到着までには、そう多くの時間はかからなかった。


「お疲れ様でした。到着です」


しかし、予想外の光景を前にして、一息つくことも叶わない。


 ……な、なんだこの豪邸は!?


 どっしりとした門構えに、古めかしくも趣のある和風建築の建物は、見ているだけで、まるでタイムスリップしたかのような感覚に陥る。敷地が広くとも、手入れは行き届いている様子から、それなりに多くの数の使用人が勤めているだろうことは明らかだ。


「珍しい建物ですよね。私も初めて来た時には圧倒されたものです」


ここ機械の街にある木造の建築物は、珍しいを通り越して不気味とさえ言える。彼女曰く、隅々まで探したところで、木造の建築物は片手で数えられる程度しかないだろうとのことだ。


 その中でも、これほどの威厳と繊細さを呈しているのは、このヒイラギ邸だけだろう。


 そんな風格を感じられるほどの年月を、脈々と主人を変えながらも共に過ごしてきただろう邸宅だ。しかしながら、堅牢や頑丈と言う表現よりかは、むしろ開放的で、さらに言えば危うい印象すら受ける。


「先先代のご当主様が、日本という国の建築様式や文化がお好きだったようで、わざわざ屋敷を改築したのだそうですよ。でも、その気持ちもわかる気がします」


この街は、金属と人が犇めき合い、まったくと言っていいほど余裕というものがない。


 そんな中で、空間の捉え方に独特の味を持つこの建築様式は、当主には大層魅力的に見えたのだろう。それに加えて、珍しいものに手を出すことで、財力や権威を示すこともできる。つまるところ、この建物は、趣味と実益を兼ねていると、そういうことらしい。


 屋敷の門をくぐると、これまた規模がおかしい枯山水だ。敷かれているたくさんの砂利や砂に加えて、これを整える職人のことを考えると、湯水のように消えていくだろうお金に、だんだんと頭が痛くなってきた。


「その、今日はヒノキさんだけじゃなくて、ヒイラギさんにも会えるんでしょうか?」


 玄関を上り、木の香り漂う長い廊下を進みながら、彼女の背中に自分は尋ねる。


 正直、この家の雰囲気に飲まれて、不安がぶり返してきていた。何かとんでもない粗相をしてしまいそうで、普段通りの呼吸すらままならない。それに加えて、お金持ちで権力があるのだろう家主と顔を合わせるとなれば、なおのことだ。今からでも正装に着替えるべきかと、本気でそう悩んでいた。


 そんな自分の不安を、彼女は笑顔で取り去ってくれる。


「柊様は、現在お仕事で別の星へと出ておられます。ですから、あまり緊張なさらなくても結構ですよ」


 しかし、それと同時に、聞き捨てならないことも口にした。


「そうですね。今は私とヒノキさんが、ここでは一番偉いと言うことになりますね」

「え?ぁ、すみません!その、全然気付かなくて……」


知らず知らずのうちにとんでもない失礼を働いてしまっていたことに、自分は彼女にすかさず深く頭を下げる。


 今まではどこか、彼女のことを使用人程度の身分だと、そう思い込んでいた。


 だが、それも仕方がないだろう。たかがアルバイト、それも何の経歴も実力もない、不思議な縁で誘われただけの自分を、だ。迎えにきてくれる相手が、その組織ではトップクラスの人だなんて、誰が想像できるだろう。


 ともかく、自分の中で彼女の立ち位置を修正しなければならない。


 そう思っていたのに、彼女はそれをひどく嫌がった。


「お気になさらないで下さい。そうです。私のことは、どうかカエデとお呼びください!カエデちゃんでも構いませんよ?むしろ推奨です」

「え?ぁ、すみません。ちょっと良くわかりません……」


お茶目というか、子供っぽいというか。そんな一面を不意に見せてくる彼女に、自分は呆気に取られてしまった。今の今まで、できる女性を体現するような立ち居振る舞いだっただけに、あまりのギャップに思考回路が停止してしまう。


 そして、そんな数秒の困惑さえ、彼女には不満なようだった。


「……女の子のお願いは、素直に聞くものですよ」


残念そうに、不貞腐れるようにいう彼女に、自分はどう対応して良いのか、また悩まされる。相手は自分よりも遥かに偉いのだ。気安く呼び捨てになど、出来るはずもない。ちゃん付けなどもってのほかである。


 しかし、そんなことで悩む必要はないのだと、ふとした拍子に気が付いた。


「あまり揶揄わないでください……」

「あら、バレてしまいましたか。残念です」


そう言う彼女ではあったけれど。クスリと楽しそうに笑うあたり、もう彼女の中では、自分への子供扱いは定着してしまっているようだった。


 しばらくすると、追っていた背中がすっと止まる。


「私が案内できるのはここまでです」


渡り廊下の向かい側を見据える彼女だけれど、足を動かす気配は全くない。


「派閥争いは大変そうですね……」

「そうでもありません。ヒノキさんがヤケを起こさない限り、争いにはなりませんから」


彼女の物騒な物言いに、自分がいるうちは面倒ごとが起こらないようにと密かに願う。


 ともかく、彼女とはここでお別れだ。


「突き当たりを右に曲がったところのお部屋です。迷わないように気をつけて下さい」

「わかりました」


淡々と説明してくる彼女に、自分はほんの少しだけ寂しさを覚える。また、これで縁が切れてしまうのではと、そんな不安も感じていた。


「あの……」

「はい、なんでしょう?」


でも、折角ここまで仲良くなれたのだ。彼女が許してくれるなら、またドライブをしたり雑談に花を咲かせたい。そう願ってしまう自分は、欲張りだろうか。


「……なんと言って良いのかわかりませんが……。とにかく、自分は派閥とか、そういうのを気にしてヒノキさんを選んだわけじゃないんです。だから……」

「…………はい。仕事仕事のつまらない私で良ければ、お相手しますよ」

「はい!では、失礼します。ここまでありがとうございました」

「こちらこそ。では、ご武運を」


彼女に見送られながら、自分は渡り廊下を行く。少し怖いけれど、応援してくれる人がいる。そう思うと、前を向く勇気が湧いてきた。


 それでも、やはり緊張はするものだ。


 だから、気を紛らわせるために、いつものように神様を呼ぶ。


「ねぇ、ソラ。ソラ?……あれ、いないの?」


しかし、自分の呼びかけに神様は応えてくれない。先ほどから妙に静かだと思ってはいたが、姿まで見えないとは珍しいこともあるものである。


「魔力切れで消えちゃったとかはやめてよね」


そんな考えが杞憂でありますようにと、神様ではない方の神に祈ってみる。どうせ無意味だろうが、しないよりはマシなように思えた。


 結局、緊張は少しも解れないまま、自分は部屋へと着いてしまった。


「……すみません!ヒノキさんはいらっしゃいますか?」


うるさくない程度に声を張り上げると、中からすぐに返事が来る。


「待っていたよ。入りなさい」

「はい、失礼します」


許しを得て戸を開くと、そこには、あぐらをかいて美味しそうにお茶をすするお爺さんがいた。


 目線で促されるまま、向かいに敷かれた座布団の上に正座する。


 するとお爺さんは、急須で一杯のお茶を淹れてくれた。


 ……緑茶も、そういえば久しぶりだな。


 湯呑みに注がれた緑茶の色は濃く、けれど落ち着いた清涼感のある香りは、夏の突き抜けるような青空と深緑を思わせる。清々しくも鬱陶しい暑さの中、木陰でふと深呼吸をしたならば、それなりに近しい心地良さを覚えるだろう。


 ともかく、このお茶の香りは否応にも故郷を思い起こさせてだめだ。特段緑茶を気に入っていたと言うわけでもないのに、ひどく感傷的な気持ちにさせられて困る。


 それに、もくもくと湯気が立ち上るほど熱々のお茶は、お爺さんには悪いが、正直言って苦手だった。わがままだと言うことは、自分が一番わかっている。けれど、まだ常温の水道水の方がいくらかマシだと、そんな気持ちに嘘はつけそうにない。


 ……失礼な奴。


 結局、文句たらったらでも大人しく口をつけるあたり、悉く自分というものがないなと、苦笑するしかなかった。


「先日はすまなかったの」


一息ついたのを感じ取ったのだろう。お爺さんから話を振ってくれる。


「いえ!自分がいきなり押しかけてしまったのが悪いんです。むしろ、今日もこうして機会を設けてくださったこと、本当に感謝してもし切れません」

「今の柊ほどではないが、わしも星を離れる時はある。急用でない時以外は、なるべく先に連絡をしてくれると助かるわい」


そう言って笑うお爺さんを、一年前なら親しみやすいご老人程度にしか思わなかっただろう。


 けれど、今はもう、お爺さんがかなりの実力者であることを知っている。だから、以前のように、気軽に言葉を口にすることは憚られた。


 そんな緊張を見抜いてか、お爺さんは自分の答え易い質問を頻りに投げてくれる。


「仕事をしたいと言うことだが、わしとしては歓迎じゃ。柊やカエデさんは反対するだろうが、その辺も心配は要らんよ」

「こう言ってはなんですが、そんなに怖い人たちなんですか?」

「怖い、か!あぁ、そうさな。血も涙もない化け物だ、アレは」

「ば、化け物ですか……」

「その様子だと、顔もまだ知らないようだな。結構結構!」


かっかっか、と。お爺さんが掠れた声で大笑いをする前で、しかし、自分は頭を抱えざるを得ない。


 誰から聞いても良い印象を受けないヒイラギという人は、果たしてどのような人物なのだろう。少なくとも、自分の尺度で測れるような存在ではないことだけは確かだ。


「今はどこに住んどるんじゃ?必要であれば、街に部屋を用意するが」

「今日は陸の方から鉄道で来ました。片道にそれなりの時間がかかるので、可能であればこちらに引っ越したいと考えています」


それに、鉄道だってタダで使えるわけではない。


 今自分の手元にあるのは、いわゆるへそくりというやつだった。白が生前、いざと言うときのために別に置いていた、それでもごくごく僅かなお金。それを、交通費で無闇に使い潰してしまっては、彼女に申し訳が立たない。


 もちろん、自分が人間だということを忘れてはいけない。可能な限り不特定多数の他人と関わる機会は減らすべきだ。


 だから、お爺さんに提案こそされたが、金銭面でも、人間だとバレるリスクを最小限に抑えるという観点においても、むしろ、この街に移住するのは自分にとっては必須条件であった。


「……ほう。と言うと、七星祭に妙な風習がくっついとる村がある辺りか」

「ご存知なんですか?」

「昔、仕事での。と言っても、わしが直接出向いたわけではないが。人伝に村の内情を聞いてしまっただけじゃ」


そう軽く流すお爺さんとは違って、自分の気分はひどく重かった。


「今年も生贄は選ばれてしまうんでしょうか……」

「なんじゃ。身を案じるほどの知人がおるのか?」

「……はい。一人だけ」


森に住まう主への捧げ物として、一人の命を犠牲にする。そんな、正気とは思えない行事を隣村まで巻き込んでまで続けてきたのは、ひとえに死ぬのが怖くて、また不安だったからなのだろう。


 そして、死に怯える村人たちとは言えど、生贄とする命を選ぶ冷静さは欠いてはいない。


 そうして死ぬ未来を押し付けられるのは、人とは違うはみ出者だ。月の場合、それは半端者であり、また人間であった。


 だからこそ、心配せずにはいられない。


「あの村の人たちは、命には重さがあると思っているんです。半端者なら死んでもいい、とは思わないまでも、損失が少ないくらいの感情は持っているのではないでしょうか」

「ほう?するとお前さんは、生贄に半端者が選ばれるのが不満なのか?自然の理から逸脱したあやつらは、もはや魔者ではない、化け物じゃと言うのに」

「……それでも。命の選別を、剪定を人の身でしようと言うのは、あまりにも傲慢ではないかと、そう思ってしまうんです」


去年の七星祭で生贄を選出したのは、同じ脅威に怯える隣村だった。順当に行けば、今年はこちらの村から生贄が選ばれることだろう。そして、そこで半端者のクロが選ばれてしまう可能性も、決して低くはない。


 けれど、実際のところは、自分が起こした例外によって、生贄選出の役割は隣村と入れ替わってしまっている。だから、今年も隣村から生贄が選出される可能性も無い話ではなかった。


 しかし、生贄選出の帳尻合わせが期待通りされるとも限らないし、仮に今年は運良く助かったとしても、次も上手くいく保証などどこにもない。


 だからと言って、自分にできるのは、相手の批判、それだけだ。


 そんな自分に、お爺さんは失望の目を向けてくる。


「それはお前さんの自分勝手な言い分じゃ。文句を言ったところで、何も変わらんよ」


その言葉を聞いて、お爺さんは半端者の敵なのだと思った。


 けれど、彼と話すうちに、徐々にその考えが間違っていることに気づく。


「立場が変われば、答えも違う。お前さんがどう足掻いたところで、村の方針は変わりはせんよ。……じゃが、何か情報が入ったら伝えるとしようかの。もちろん、そこから先どうするかは、お前さん次第ではあるが」

「……いえ。ご配慮、痛み入ります」


感情論と現実とを区別して考えられる。そんな聡明さを持つ彼を前に、自分はどのような表情をしていいのかわからなくなった。


 自分にとって、クロは大切な存在だ。だから、誰よりも気にかけているつもりでいた。


 けれど、実際はどうだろう。クロが大切だ、守りたい、応援したいなどと、ただ一人願望を口にするだけで、自分は何の努力もしてはいない。それこそ、たった今冷たいとも取れる言葉を放ったお爺さんにすら、自分の想いは負けていた。


 自分は信じたかった。自分だけがクロを見ていると、だから他に適任はないのだと、そう驕っていたのだ。


 ……何様だよ。


 そんな、くだらないエゴで彼女を危険に晒す奴に、クロのそばにいる資格などない。だから、こうして距離を置いたのだ。


 それなのに、自分はどうしてこんなにも苦しいのだろう。正しいことをしているはずなのに、堪らなく悔しく感じられるのは、何が理由なのだろうか。


「…………ん?」


一人勝手に気分を沈ませていると、廊下から慌ただしい物音が迫ってくるのが聞こえる。


 それが足音だと気がつくまでに、そう時間はかからなかった。


「……ヒノキ様!」


戸を挟み聞こえてくる男の必死な呼び声に、お爺さんから、穏やかで話しやすい雰囲気は消えていく。


 しかし、苛立ちに歯軋りをし、眉間に皺を寄せてはいるものの、声を荒げることはなかった。


「……なんじゃ。わしを客人の前で恥をかかせる気か?」

「失礼いたしました!ですが……、”彼”がヒノキ様に今すぐお会いしたいと仰っておりまして……」


壁一枚向こうで男が何度も頭を下げている様子が声だけでわかる。


 正直、自分も平静を繕うのは大変だった。ただでさえ人が怒る声は嫌いなのに、年配の男性が出す低い音程の声は、どうにも人の恐怖心を煽ってだめだ。萎縮してしまって思考が止まってしまう。


 けれど、この場で固まってしまっているのは自分だけのようだ。


「あやつとは明日会う約束ではなかったのか?それがなぜ今すぐと言う話になる。納得する理由を説明せい」

「それが、”彼女”を交えて内密に話したいことがあるとだけ。こちらのお部屋に乗り込んで行ってしまいそうな勢いでしたので、今は別のお部屋でお待ちいただいております」

「……良い判断じゃ。共々、助かったわい」


男の報告を聞き終えたお爺さんは、すぐに向かう旨の言伝を託していた。どうやら自分は、しばらくここに置かれるようだ。


「……さて、ようやくお出ましか」


ニヤリと、不気味な笑みを浮かべるお爺さんは、待ち侘びた機会を喜んでいるようにも見えるし、緊張しているともとれる。


 ……深入りすると良いことなさそうだ。


 車で彼女と話した時もよく内容をはぐらかされたが、それは、秘密を隠したかっただけではなく、知ることで被る不利益から守っていてくれたのかもしれない。


 どちらにしろ、自分には関係のない話のはずだ。こう言う時は、愚直に聞かなかったフリに限る。


「そう言うわけじゃ。連絡をくれたお前さんを無下にするのは大変忍びないが、向こうは向こうで無視ができない面倒な相手じゃ。しばし時間をくれんかの」


自分は、悩むまでもなく頷いた。


 するとお爺さんは、部屋の棚から折り畳まれた紙を一枚引っ張り出してきたかと思うと、机の上におもむろに広げ始める。


 大きな机を覆い尽くすほどの紙の正体は、ここギアフロータスの地図だった。


「住みたい場所に目星でもつけて待っていてくれるか?なに、すぐに話をつけて帰らせるさ。安心せい」

「わかりました。ありがとうございます」

「うむ。ではの」


部屋に一人残された自分は、すぐに住みたい場所を探し始める。と言うよりは、他にすることもなかった。


 けれど、渡された地図は、何の変哲もないただの地図だ。どこに入居できる建物があるかとか、その建物の外見だとか、そんな情報は一切記されていない。これは想像でしかないが、自分がどの場所を選んでも希望を叶えられるだけの力が、お爺さんにはきっとあるのだろう。つまり、自分の選択肢は今、ほぼ無限大に等しい。


 ……そもそも、このお屋敷がこの地図のどこに当たるのかわからん。


 通勤時間は、なるべく短い方が良いだろう。それを考慮に入れるためには、現在地を把握する必要があった。


 幸い、移動中景色ばかり見ていた自分は、お屋敷の場所を見つけるのにそう多くの時間は要さなかった。


 と言うより、この場所はあまりにも目立つ。


「……ここは自然公園か何かか?」


建物がひしめくギアフロータスのほぼ中央。そこに空いた大きな穴が、この屋敷の立つ場所のようなのだ。


 元々何かの跡地を利用しているのか、外縁はやけに綺麗な矩形をしている。交通網もこの屋敷のために用意されたかのような、都合の良い通り方をしていた。


「ヒイラギさんって、どんな人なんだろう。怖くないと良いなぁ〜」


ギアフロータスの一頭地に、これだけ広い土地を保有できるだけの力を持つヒイラギと言う人に、自分は段々と興味を持ち始めていた。性別も性格も未知の相手ではあるが、彼女とお爺さんの上司に当たる人であり、またこの家の最高責任者だ。アルバイトとはいえ、せめて顔くらいは知っておくべきだろう。


 ともかく、自分は新居選びに集中することにした。


 けれど、駅周辺しか歩いたことのない自分だ。運任せに選ぶことを避けるならば、自ずと場所は絞られる。


「ねぇ、ソラはどこがいいと思う?」


同居人となる神様の意見も聞こうと、声をかけてみる。


 しかし、まだ戻っていないのか、返事はなかった。


「ソラ〜?……ほんと、どこ行っちゃったんだろ」


持ち運び用に大きな布で覆っている刀を、その上からツンツンと突っついてみる。神様と刀が感覚を共有しているのかは知らない。けれど、人斬りと血の感触を嫌う神様だ。反応があってもおかしくはないと、そう思っていたのだけれど。残念ながら、空振りのようだ。


「ん〜、どうしよう……」


引っ越し先選びも、一人ではいい加減行き詰ってくる。


 ……今度はケチらず、もう少し多めに記憶をあげようか。


 そんな風に、いよいよ神様の魔力切れを疑い始めた頃だった。


「土筆のそばがいいわ」

「ぁ、お帰り、ソラ」


どこからともなく現れた神様は、遠慮なく自分の意見を言ってくれる。おかげで、最後の最後で決めかねていた自分は、ようやく結論を出すことができた。


「……何も言わないで居なくなって悪かったわね」


神様は突然、照れ臭そうに謝罪の言葉を口にしてきた。


「ん?何で謝るの?」

「…………知らない」


神様には、神様の自由がある。だから、四六時中自分のそばにいる義務はないし、そう望む権利も自分にはない。そんなことは、神様だって理解しているはずだ。それでも、頭を下げてきたということは、何かしら後ろめたいことがあるということだ。だから、こうして問い詰めたのだけれど、神様には素っ気なくはぐらかされてしまった。


「この辺りなら、ミナトの家も近いし、仕事に通うにも、ギリギリなんとかなる距離よね?」

「車なら良いけど、徒歩は辛いよ。……ぁ、でも、自転車でも買えば、あながち無理でもないか」

「そう?じゃあ、決まりね」


それからしばらくして、お爺さんが戻ってくる。


 早速希望は決まったかと尋ねてくる彼に、自分は駅周辺が良いと答えた。


 しかし、残念ながらその希望は通りそうにない。


「その辺りは、最近学園に寄付してしまったばかりでの」

「そうでしたか……」


お爺さんの言葉にショックを受けているのは、自分だけではない。


 だからと言って、文句を言える立場でもない自分たちだ。二人して静かに項垂れる他なかった。


 けれど、落ち込む自分の様子を見かねてか、お爺さんが一つ提案をしてくれる。


「狭くても良ければ、用意できないこともないのじゃが……」

「本当ですか!?」

「……しかし、あそこは本当に狭いぞ?それに、あくまでも学園が保有する学生寮じゃ。今でもある程度は融通が利くが、借りられて最上階の物置部屋じゃろう。それでも構わんか?」

「はい!むしろ、それでも十分過ぎるご配慮です。ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」

「なぁに。今こうして待たせてしまったからの。お詫びというわけではないが、これくらいはさせてくれ」


お爺さんの気遣いに、自分は頭を大きく下げた。


 新天地での生活には、少なからず不安を感じていた。何しろ、今までは、人っ子一人いない海沿いの崖の上での生活だ。こんな大都会で、しかも、自分は人間である。はっきり言って、上手くやっていける自信がなかった。


 だから、お爺さんの計らいで、多少なりとも見知った場所で新生活のスタートを切れるのは、かなり気が楽になって助かった。


「入ってしばらくは、建物の管理も一緒に頼む。と言っても、改築が終わるまでじゃ。それと、身の上を聞かれたら、学生とでも答えておけば良いじゃろう。その容姿なら誰も疑うまい」


なんなら、そのまま学園に通うのも面白いかもしれんの。


 笑いながら冗談を口にするお爺さんに、そんな未来も悪くないなと思ってしまう自分もいた。


 ……学校、卒業できなかったからなぁ。


 ともかく、お爺さんの提示した条件に納得した自分たちは、わがままを言って、今日からその部屋を使わせてもらえることになった。


「書類は避けたい、だったか?」

「……はい」

「ならば、こちらで適当に用意させてもらうぞ。仕事に関しては、こちらの準備が整い次第連絡を入れよう。そうじゃな、それまでは新しい街での生活を楽しんでおくと良い」

「はい」


それからは、お互い特に話す内容もなくなり、今日はお開きとなった。


 お爺さんに改めて感謝の言葉を伝えてから、自分は部屋を後にする。


 そこには、使用人らしき男性がトレイを持って控えていた。


「アキラ様、こちらがお部屋の鍵となっております」

「ありがとうございます。お借りします」


お互いにペコペコと頭を下げ合い、そのやり取りに二人して苦笑しながらも、かなり年季の入った、擦り減って触り心地の良い鍵を確かに受け取る。


 よく見ると、キーチェーンにはもう一つ、真新しい鍵が付いていた。同じ部屋の鍵ではないのは明らかで、特に注記もない。全くの用途不明だった。


 首を傾げる自分に、すかさず使用人さんが説明をくれる。


「古い方がアキラ様のお部屋の鍵です。……と言うと誤解があるかもしれません。正しくは、改装前のマスターキーです。新しいものは、改装後のお部屋のものですね。必要に応じて活用ください。」

「ぁ、すみません。ご丁寧に」

「いいえ、滅相もない。他にもご不明な点がございましたら、私に遠慮なくおっしゃってください」


特に質問も思いつかなかった自分は、彼と別れ、来た道を戻るために渡り廊下へと足を運んだ。


 その途中、ずっと黙っていてくれていた神様が、痺れを切らしてボソボソと愚痴をこぼし始める。


「あのオヤジ、怪しくはあるけど、待遇は不思議と良いのよねぇ」

「これで、土筆に通えるね。あ、でも毎日は嫌だからね。こっちには胃もたれする体があるんだから」

「お気楽で良いわね、あんたは。でも、この街で人間がお気楽でいられるなら、むしろそれは良いことなのかな」


他人に聞かれても言い訳ができる程度の声量で、だらしなくいい加減な会話をしていると、ふと神様が険しい表情で立ち止まった。


「どうかしたの?」

「さっきからずっと、な〜んか嫌な予感がするのよね」


そう言いながら神様は、漫画の忍者がするように人差し指と中指を立てると、まるで張った蜘蛛の巣でも払い除けるように、上から下へと指を切ってみせた。


「何?神様除けの結界でも張ってあった?」

「物語の読み過ぎよ。嫌な空気をサクッと切っただけ。ここで刀を出すわけにはいかないでしょ?だから、あくまでコレは気休め」

「なんか、神様っぽいね」

「だから、ずっと神様だって言ってるでしょうが」

「あはは、そうだった」


自分は特に何も感じなかったが、だからと言って神様を疑うつもりもない。まして、自分から厄災を遠ざけてくれるのであれば、感謝こそすれ、無碍に扱う理由など一つもなかった。


「帰ろっか」

「そうね。新しい家、楽しみだわ」

「あれだね。世の中で言う、同棲だね」

「そんなの今更でしょ」

「えぇ~、ツッコミしてよぉ」

「やーよ。同レベルと思われたくないもの」


そんな他愛無い会話に花を咲かせながら、自分たちはお屋敷を出る。


「仕事も決まったことだし、夕飯は期待して良いのかしら?」

「余裕があるわけじゃないから無駄遣いはできないけど、そうだね。今日くらいは特別によし!」

「なら、善は急げよ!」


そう言って街へと駆け出していく神様に置いて行かれまいと、負けじと自分も腕を振って走る。


 そんな自分たちを新居の近くまで送るためにと、表で待っていてくれていた彼女に見られて笑われたりもした。恥ずかしさに苦笑いする自分の横では、神様が下品に笑い転げている。全く理不尽な話だ。


 けれど、兎にも角にも、今日は新しい門出の日である。


「まぁ、何とかなるよね。きっと」


笑う門には何とやら。この気持ちを忘れずに持っていれば、この地でも上手くやっていける。そんな、漠然とした安心感、或いは高揚とも取れる感覚に、自分は吹っ切れたように笑いながら浸っていた。

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