第35話 あるべき関係

「あんた、私とクロ相手には割と口数が多いわよね」


朝食終わりの片付けの最中。どこからともなくふらっと姿を表した神様は、これまた唐突にそんなことを口にした。


 顔の血色が良いと言う表現が果たして神様に適応できるのかはさておき、神様は普段通り平然としている。その点に関しては、元気に戻ってくれたようで何よりだ。


 しかしながら、弱った心ついでにさりげなく答え難いことを聞いてくるあたり、ずる賢いなとも思わなくもない。


「……そんなことないよ。ただまぁ、話し相手が他にいないからって言うのはあるかも」

「じゃあ、名前は?白とかミナトの名前は口にしたがらなかったじゃない」

「それは、そうだけど……。クロは、烏の時のが抜けないだけ。ソラは……。まぁ、良いかなって」

「何よそれ。なんか嬉しくない」


神様は、人ではない。それは、何より大きな理由であり、かつ偽らざる本音の一つだった。


 けれど、そんな特別を理由として口にしては、きっと神様を不必要に傷つけてしまう。


 とは言え、人は時にどうしようもなく不安になる生き物だ。


「……秘密にしてくれる?」

「バラしたくても、誰にも言えないわよ」


失敗した時、上手くいかない時、もしかすると、相手にとって自分は要らない存在なのではと、そう疑ってしまう。


 そして、神様は神様でありながら、人と同じ心を持っている。


 自分自身を側におき、わがままを認め、失敗を赦し、その一切について寡黙かつ寛容である。それは、相手に優しくしているように見えて、実のところ、ただ何も口にしないだけだ。


 つまるところ、意図せぬ失敗してしまった神様は、そんな自身を隣に置いてくれる理由がわからなくて、その訳を知りたがっている、ように思う。


 だから、そんな神様には、理由の一つを正直に話すことにした。


「声、かな」

「……なに?私の声が良いの?…………変態なの?」

「おい、それは喧嘩を売ってるという解釈でよろしいか?」

「いいえ。……でも、そうね。私は寛大だから、そう言った嗜好も受け入れてあげないこともないわ」

「その嗜好って言い方やめてくれない……?」


心配するだけ損だったと、そうため息を吐きたくなった。


 しかし、かいた恥と僅かな徒労感と引き換えに、神様とまた少し仲良くなれたような気もする。


 心を守るために嘘を吐く。それは、自分が傷つかないようにするために張る防衛線である。


 けれど同時に、自分の正体だけは絶対に理解してもらえない原因でもある。


 だから、常には無理だけれど、時にはこういった機会も必要だ。


 そう思いつつも、そんな理由をつけて甘えてしまった自分に、結局のところ失望を隠せずに内心大きなため息を吐いた。


 そんな自分の姿は、神様の意識は別の方向を向いていて見られずに済んだ。


「ところで、クロは?」

「あぁ、たまにふらっと出かけるんだ。きっとすぐに帰って来るよ」

「そうじゃなくて」

「……あぁ、そっち」


神様の視線を追うと、そこには忌々しい紙切れが置いてあった。


「……本当に、下らない」


そう言葉をこぼす自分を、神様は黙って見逃してくれる。


「テツはこの前見たけど、コウタってのはどんな男なの?イケメン?」

「そうだね。陽気で元気で裏表がない。猟の才能があって、顔も良くて、チートもいいところだよ」

「あんたとは正反対ね。でも、ただ反対なだけ。気にすることないわ。顔だけはどうしようもないけど」

「はいはい、お気遣いどうも」


ともかく、神様の言いたかったのは、これから来る猟師さんたちのことだった。


 手紙の内容は、至極単純かつ率直に記されていた。お弟子さんに、自分が生きていること、クロとボロ小屋で生活をしていることを知られてしまったというものだ。


 つまるところ、これから自分たちは面倒なことになる。


「多分、コウタの目的は二つ」


神様にお弟子さんのことを軽く説明してから、本題へと入る。


「コウタって子は、白のことが好きだった。なら、あんたの言う通り、タダでは済まなそうね」

「コウタにとっては、自分は白の命を奪った人間だからね。いや、事実としては違うのかもしれないけど、そう思うには十分なくらい、コウタは白のことを大切に想ってた」


だから、きっとお弟子さんは、クロのことを拐いに来るのだろう。


 いや、助けに来ると言う表現の方が正しい。


「クロはクロだ。他の誰でもない。……だけど、コウタは違う。白を思わせる白い髪だけでも、コウタには理由になる。罪滅ぼしと、やり直しの絶好の機会だからね」


お弟子さんを突き動かすのは、白を奪った自分への報復と、ささやかな日常の横取りだ。他人を悪く言うのは褒められた行為ではないけれど、そんな感情が彼に全くないかと言えば、そんなことはあり得ない。


 そして、そんなお弟子さんを支えるのは、人間からクロを引き離すという絶対的正義だ。大義名分の下、悪を倒し、人を救う。それは、心底気分が良いことだろう。


「クロは、魔者だ。本来はコウタたちと一緒にいるべきなんだろうね」

「……は?」


何気なく思いを口にした自分に、なぜだか神様の様子が一変する。


それは、以前に浜辺で見せた表情に似ていた。


「……どうかした?」

「……あんた、それ本気で言ってるわけじゃないわよね?」

「なんでソラが怒るの?」

「はっ!呆れた!」


今にも大声で叫び出しそうな姿勢で、しかし耐えた神様は、見限るように自分から視線を逸らして、ため息をするように感情を静かに吐き出す。


「もう少し相手の気持ちを考えなさいよ。あんたはクロじゃないし、私でもない。私たちは、自分で自分の道を選ぶ。あんたに決める権利はない」

「そりゃあそうだよ。当たり前のこと」

「なら、どうしてそんな言葉が言えるわけ?自分よりも他の奴の所に行くべき?その方が私たちにとって良い?ふざけないでよ!」


神様は、何かを勘違いしている。それだけは、この怒りようで理解できた。


「あんたは、失うことに酔ってる。そういう悲しみに浸ってヘラヘラしてるの、私嫌いよ」

「……そう」


神様のひどい言いように、しかし、否定する気は起きなかった。


 そもそも、他人に期待するだけ無駄という話だ。


 クロも神様も、どうせ側からいなくなってしまう。背中の黒い翼で、どこか遠くに飛び立ってしまう。今の場所に嫌気が差して、他の持ち主を探しに行ってしまう。ならば、適当なところで縁を切るのが、お互いのためになるではないか。


 それを、不幸に酔っていると指摘する神様は、やはり自分という存在を勘違いしている。


「……で、どうするの?このままじゃクロ、コウタに連れて行かれちゃうのよ?」

「それはクロが決めること。そうでしょう?」

「また屁理屈を……っ!止めなさいよ!逃げなさいよ!あんたはどうして、いつもそんなに、弱気なのよ……」


そんなものは、単純明快。自分が極端に弱いからに他ならない。


 体力、技術、才能、努力、そして心。そのどれもが、相手に敵わない。勝てない。


 だから、負ける前に勝負から降りる。そうして生きてきた二十年に、今更嘘はつけない。


「よく、人生は選択の連続だと言うけど、それは違う。人は誰も、今まで生きてきたようにしか生きられない。一本道なんだ。その未来が変わるのは、他人に捻じ曲げられた時だけ。……あぁ、そうだよ。そこまでして、クロを幸せにできる自信がないだけだ」

「そんなことをしたって意味ない。もう縁は交わってる。あんたがしようとしてることは、拾ってきた子猫をまた捨てるのと同じよ。今更どうしろって言うのよ。私にはもう、帰る場所もないのに……」


あんたは私の過去を受け入れて、これから先の未来を幸せに生きるためにって、今を変える勇気をくれた。それなのに、未来の責任が取れないからと離れていくなんて狡いと、そう神様は戸惑いながら嘆く。


「適材適所だよ。今にわかる」

「なんでそんなに冷静なの?」

「予想してなかったわけじゃないから。いつか来る日が、今日だったっていう、それだけのこと。でも……」


そんな偉そうなことを口にしておきながら、クロのために全てを背負えるほど、自分はできた人間ではなかった。


「……痛いのは、やだな」

「…………」

「まぁ、考えても仕方ないか。今は、二人が来る前に準備を済ませておかないとね」

「……そうね。付き合うわ」


神様の沈黙が嫌で、自分は荷物の整理を始めた。


 手伝うとは言ってくれたものの、物には触れることが叶わない神様だ。終始近くにはいたが、特に何もするわけでもなく、ただただぼーっと自分のことを眺めていた。


「さて、こんなもんかな」

「随分と後ろ向きな準備だこと」

「じゃあ、何?この猟銃で二人を撃てと?それこそあり得ないよ。二人には何の罪もない。仮にあったとしても、だからといって、傷つけて良い理由には絶対にならないから」


それは、自分を守るためであってもだ。例え大切な友人を助けるためであっても、受けた仕打ちに対する報復や、奪われた命に対する復讐のためだって、”そんな理由”で暴力を振るう者は、限りなく最低な屑たちだ。他人の意見など関係ない。そう、自分は暴力を心から嫌悪する。


「……私だって、他人に対して暴力を振るうような奴は許せない。あんたの言い分は尤もよ」

「でしょ?こんなものは要らない。だから、返すんだよ。全部まとめて、在るべき場所に還すんだ」


パンパンになった袋の中には、部屋の中にあったおおよその物が詰まっている。


 それらの中には、自分が生きていくのに必要不可欠な物さえあった。


 けれど、どうしてか自分は、それを手放すことに不思議と抵抗を覚えなかった。


「あんたの言うことは、多分正しい。……でもね。大切な人に危険が迫った時、あんたは…………」

「……勝手に人の心を読むのは反則だよ、ソラ」


無粋にも土足で人の心に上がってくる神様に、自分は強めの口調で不機嫌を示した。


 神様は、魔力を分けてあげた日以来、時々人の心を覗いてくるようになった。


 それらの多くは、自分から魔力を得るために必要な行為だった。魔力の代わりに記憶や感情を抜き取るとき、或いは今のように他人の思考を探る時には、曖昧な表現ではあるが、心の重さが極端に変わる。そんな、奇妙な感覚に襲われるのだ。


 それは謂わば、神様の持つ才能だ。だから、あまりその力を使う事を強く否定することはしたくない。


 けれど、知られたくない内心に何の断りなく侵入してきた神様を、自分は許すことをできそうにない。猛烈な不快感が湧き上がってきて表情が反射的に歪んでしまうのは、自分の器が小さいからだろう。


 とは言え、神様の側にも非があるのは確かだ。


 しかし、ここまで踏み込んでくることを拒否していると言うのに、神様は引いてはくれない。

 

「……あんたは、何を考えてるのかわからないのよ。文句を言うなら、ちゃんと気持ちを話してくれなきゃ。私にも、クロにも。これから来るテツとコウタにだって、言葉にしなきゃ何にも伝わらないのよ?」

「なら、わからない?」

「…………わからないわよ」


その答えが果たして真実なのかは、自分には推測することしか叶わない。


 しかし、どちらにしても、自分は対応を変えるつもりもなかった。


「まぁ、どちらにしろ秘密だけどね。ほら、良く言うでしょ?秘密が多い方がミステリアスで魅力的だって」


そんな適当な言葉を、自分はふざけながらに口にする。これ以上嫌な自分を見せたくなくて、会話の流れを変えるために恥ずかしいセリフを吐いてみた。


「なぁ〜にがミステリアスよ。そんなんで、あんたなんかに魅力なんてちっとも感じないわ。ただ意味不明なだけじゃない」

「やっぱり、世の中顔が全てかぁ……」

「あと、お金ね。その次に性格かしら」

「おぉ、気が合うじゃん。いくら綺麗事を言っても、結局はそこが重要だよね」

「こんなところで意気投合してどうするのよ……。普通はショックを受けるところでしょうに」

「自己評価はできてるつもりだから」


美男美女は、その容姿を理由として、全てを許される。大袈裟に聞こえても、世の中では往々にして罷り通る、謂わば暗黙の了解のような物だ。


 しかし、残念ながら自分はその分類には属していない。身長は低く、顔も良くて中の下、酷い運動音痴で、また向上心に欠ける。そんな自分が見せる茶目っ気など、他人から見ればさぞ気持ち悪いに違いなかった。


「あんたはまだマシな方よ。表情の変わらない冷徹な神とか、口を開けば暴力の横暴な龍とか、そうそう、ぐちゃぐちゃした粘液の体のスライムなんかもいるのよ?特に、最後!あの不定形の生き物だけは、生理的に無理!あんな悍ましい物が存在しているなんて、考えただけでも気分が悪くなってくるわ。」

「そんなのも居るんだね……。……って、神様だって、神だよね?何?喧嘩でもしたの?」

「神は神でも、本物の方の話よ。なんて言ったところで、あんたは信じてはくれないだろうけど。」


確かに、神なんて言う出鱈目な存在がこの世界に実在するとは思っていない。


 けれど、物事には何にも例外という物がある。


「まぁ、覚えてはおくよ。本物の神様に、自分勝手な龍、それとスライム?どれもゲームの世界みたいな話だけど、逆に言えば、居たら居たで会ってみたくもあるからね。命の危険を感じなくもないけど、想像するだけならタダだ」

「その言い方、信じてないわね!本当にいるのよ?ねばねばぁ〜、ぐちゃぐちゃ〜って。気色悪いったらないんだから!」

「……ソラがスライムが嫌いなことだけは、ちゃんと記憶に刻んでおくよ」


神様は全身を使ったジェスチャーで、必死にその悍ましさを伝えようと体をくねらせてくる。その時の真剣な表情と、何とも言えない気の抜けた動きときたら、もう可笑しいったらなかった。


 本気で苦手な物に正気でいられる者は居ない。だから本来、神様を馬鹿にするのは不謹慎なのだろう。


 しかし、どうしても笑いを耐えられない自分だ。


「何かあったら、自分がなんとかしてあげますよ」


 そんな言葉が、どれだけの意味を成すのかはわからない。でも、力になりたいと、その思いさえ伝われば、自分としては今は十分だった。


「……目の前で溶けたりしないでね?それこそトラウマよ。」

「……え、溶かされるの?そんな話聞いてないんだけど?」

「あぁ〜、あーっ!!そうよね!はいはい、最初から期待なんてしてなかったですとも!」


神様の話を聞く限り、謂わゆる虫の見た目が苦手だとか、気持ち悪くて触れられないとか、そう言った理由かと思っていた。それなのに、単純に危険な生き物でもあったことが判明して、自分の強がりは一瞬にして崩れ去ってしまった。


「そんなことより、いいの?私が言うのも何だけど、そろそろ約束の時間よ?」

「……あ、うん。そうだね」


神様に水を差されて、自分は俯きがちにそう返す。


 神様の言う通り、折角の楽しい時間ではあったが、だからと言ってこのまま続けるわけにはいかない。この類の感情は、相手の負の感情に火に油を注ぎかねない。だから、二人、特にお弟子さんの逆鱗に触れてしまわないように、なるべく早めに切り替える必要があった。


「遅いわね」


神様は、思い出したように言った。


「もちろん、今は帰ってこない方が良いってわかってる。でも、心配で……」

「クロはそんなやわじゃないよ。それに、もしかしたら、もう二人と一緒にいたりして」

「まさか。人見知りなあの子に限って、あり得ないわよ」


そう口にする神様は、他にも何か言いたげにしていた。けれど、結局最後まで言葉にすることはなかった。


「おい、居るんだろ?出てこいよ!」


扉を叩く音が表から聞こえた瞬間、額から嫌な汗が流れ落ちる。


「すぐ行きます!」


なんとかそう口にして、外まで行こうと足を動かそうとするも、思ったように力が入らずこけそうになった。


「ちょっと、あんた大丈夫なの?」

「平気だよ。あと、ソラは来なくて良いから」


なんだかんだで面倒見の良い神様を置いて、震える足にめいいっぱい力を込め、嫌がる体を無理矢理扉の前まで連れてくる。


 そして、外と内とを間仕切る板に手をかけて、恐る恐る扉を開いた。


 そこには、もう二度と顔を合わせることはないだろうと思っていたお弟子さんが、握り拳を構えて待っていた。


「がはっ…………!?」


一つの言葉もなく、いきなり振るわれた一撃は、深く腹に食い込んで自分の体を持ち上げる。


 一瞬宙を浮いたかと思うと、次には勢いよく地面へと落ちた。その衝撃で肺の中の空気を全て吐き出してしまい、苦しさに激しく咽せる。


「白を返せよ」


わざわざ顔を見なくともわかる。お弟子さんの目は、怒りの炎で爛々としていた。


「……すみません」

「謝罪なんて求めてねぇよ。それに、お前はこれっぽっちも自分が悪いなんて思ってないだろうが。白の家で、白そっくりな見た目の別の女と仲良く暮らしてるような奴が、今更何を言っても説得力ないっての」

「……ごめん、なさい」


再び口にした謝罪の言葉に、お弟子さんは不機嫌そうに舌打ちをした。


 けれど、今の自分に謝る以外の選択肢は与えられていないことくらい、誰が見ても明らかだ。今は、もう片方の拳が飛んでこないだけありがたいと思うことにする。


「俺はな、昨日まで白が死んだことすら知らなかったんだぞ!後で知った時の俺の気持ちがお前にわかるか?……おい、何とか言ってみろよ」


口を開くにしても、真実を話すべきか、相手の機嫌を取るべきか。それは、とても難しい選択だった。


 しかし、お弟子さんは白の最期を知りたがっている。そう信じて、本当のことを話すことにする。


「……白は、誰かに銃で撃たれたんだ。相手がどこの誰かまではわからない。そんなことを考える余裕はなかった。血がたくさん出てて、体は冷たくなってて」

「それで見捨てたのか」

「村まで運ぼうとしたよ。でも、出血の量が多くて間に合わなかったんだ」


 助けようと、必死に頑張った。けれど、結末だけ取れば、自分が見捨てたと解釈されても仕方がない。


「お前のせいだ」

「……うん」

「お前が大人しく主に喰われてれば、白は死なずに済んだ。村で普通の魔者として過ごせてたはずなんだよ」


そう責めてくるお弟子さんの言葉に、自分はひたすらに押し黙る。


 するとお弟子さんは、おもむろに自分たちの過去を語り始めた。


 それは、自分に罪悪感を抱かせるためであり、自身の怒りが当然のものだと理解させるための言葉に違いない。


「俺たちが生まれた頃、村じゃ医者にもわからない原因不明の病気が流行ってた。そのせいで、大勢の人が死んだよ。俺の親父も、近所の婆ちゃんも、いつも一緒に遊んでた友達も……。ほとんどの人が病院にも入れないまま家のベットで息を引き取った」


村人たちは、罹ったら治る見込みのない病の恐怖に怯えながら、他人に移さないように、移されないように、それはもう殺気だって日々を過ごしていた。


 そんな時、村に希望の光が差し込んだのだとお弟子さんは言う。


「村長がな、医学の発達した遠方から特効薬を手に入れてきてくれたんだ。効き目も抜群で、薬を投薬された奴は次の日にはケロッとしてたんだぜ?」


けれど、本来は喜ばしい話題のはずなのに、お弟子さんの表情は暗いままだ。


「百万だよ」


疑問に思う自分に、お弟子さんは勿体つけることもなく理由を教えてくれた。


 つまり、村長の持ち込んだ薬は、効果相応に高額であり、誰もが手を出せるような代物ではなかったようだった。


「普通、金取るか?目の前で人が死にそうになってるんだぞ?速攻助けるだろ」


村長が抱えている薬一つ飲むだけで、苦しんでいる大勢の村人が救える。たったそれだけで多くの人たちが死なずに済んだはずなのにと、お弟子さんは過去を嘆いた。


 確かに、今自分の手で救える命があって、それを見捨てるのは人道に反する行為だ。


 人は、生まれた瞬間から、命とは価値がつけられないほどに貴く、またその一つ一つ全てが尊いと教えられる。


 だからこそ、お弟子さんは複雑な表情を浮かべているのだ。村長の意地汚いやり方に憤りを感じつつも、村人の大半を病気の魔の手から救った事実は無視できない。過去の出来事にもしもの話をする自分なんかよりも、万事休すかと思える状況の中で諦めずに行動した村長の方が正しいということを、嫌と言うほど理解している。


 それに、薬もタダで湧いてくるわけではない。誰かが病を治す方法を必死で研究したからこそ、その結果を元に薬を調製して量産した者があるからこそ、患者の元まで安全な薬が届くのだ。


「百万、ですか……」


故に、お弟子さんが文句を言いたいのは、薬の値段、その一点のみなのだろう。


「でも、高いけど、決して払えない額じゃない」


むしろ、それが問題だったのかもしれない。


 誰しもが捻り出せばどうにか工面できる額に、手がぎりぎり届く場所に吊るされたそれに、人は縋らずにはいられなかった。お弟子さんの言葉を借りるなら、その薬は謂わば、希望の光そのものである。


 そして、その光が白の両親を奪い、白を半端者へと変えてしまった。


「村長には感謝してるんだぜ?あの人は、村に住む全員の命の恩人だと言っていい。……でも、元を辿れば、俺たちの人生をこんなにしてくれた元凶もまた、救ってくれたその人なんだよな」


自分は、お弟子さんの言いたいことのおおよそ知っていた。


 それは、白の日記を見つけてしまった時だ。


 おもむろに開いたページには、当時の疲弊した白の心模様が赤裸々に痛々しく記されていたのを思い出す。


「白の家は、昔から貧乏でさ。そこら辺に生えてる花をあげた時なんて、ご馳走だって喜んで持って帰った。可笑しいだろ?俺たちからしたら、白たちは霞を食べて生きてるかと思えるくらい、日々の暮らしに精一杯に見えた」


白の父親は、猫の半端者だった。


 なぜ半端者になってしまったのか、気になったお弟子さんは、得意の真っ直ぐゆえの無神経で尋ねたのだろう。


 そんなお弟子さんに、白の父親は笑顔を浮かべながら、誇らしそうに秘密だと返したと言う。


「半端者は、自然の摂理に反した者の証だ。生きるのに楽をした者に押される烙印なんだよ。それなのによ、なんで白の母さんはあの人を選んだんだ?白だってそうだ。人間相手に、なんで自分の人生を棒に振れるのか、俺は本当にわかんねぇんだ」


困難に溢れた未来が容易に想像できると言うのに、むしろ自らその不幸へと飛び込んでいく。


 そうして自らの身を滅ぼしていく大切な存在たちに、置いて逝かれたお弟子さんは悲しみ、また困惑していた。


「そのせいで全部失っちゃ、元も子もない。なぁ、そうだろ?」


親の反対を押し切って、なんとか一緒になった二人は、しかし、村の中心部から一番離れた小さな家へと追いやられた。


「村長の家がある場所は知ってるか?前は、あそこに白の家があったんだ」

「村に行った時に見たよ。建物が大きすぎて、離れてるようには見えなかったけど……」

「金持ちの考えることはわかんねぇよな。そのせいで、家の維持のために大勢の使用人を雇う羽目になってるんだから、世話ないぜ」


そう言うお弟子さんではあったが、必ずしも悪い話ばかりでもない。


 小さな村の中でできる仕事には、どうしても限りがあった。そんな中、広いお屋敷の維持管理のために生まれた働き口は、大変喜ばれたと言う。かく言う白も、この手の者だった。


「俺はもうその頃には師匠に弟子入りしたから、白が心配でも面倒を見にいく時間は作れなかった。だから、手に職をつけたって聞いた時は安心したもんだぜ。村長様様さ」

「…………」

「なんだよ急に黙って。……あぁ、お前は村長に会った事ないから、実感が湧かないのか」


お弟子さんのそんな予想は、検討外れも甚だしいのだが、あながち間違いとも言えないのだから反応に困る。


 お弟子さんに答えを教えるべきかと、受けた親切心を返そうかと一考した。しかし、どうしても自分は、この話題について深掘りをするのは避けたかった。


 この類の感情は、外に吐き出すべきではない。そして何より、一度解き放ってしまえば、二度と籠の中には戻せないとも薄々わかっていた。


 だから、自分はこの無意味な感情にしっかりと厳重に蓋をした。


「コウタだって同じじゃない」


そんな言葉を自分が口にしたのは、明らかな違和感からだった。


「主語を言えよ、主語を。意味がわかんねぇだろ」

「コウタは、えっと……。告白、したんだよね?……半端者なのに、どうして?」


お弟子さんは、半端者を嫌っている。それは、今までのやり取りの中でも明らかだった。


 だからこそ、どうして?


 ……違う。そうじゃない。


 どうして、あの日まで告白しなかった?


 本当は、そう尋ねたかった。


 しかし、自分にはどうにもこうにも無理だった。


 自分は、お弟子さんに、嫌われたくはないから。


「……白は幼馴染だ。何処の馬の骨とも知らねぇ半端者はお断りだが、俺は白が真面目で優しい頑張り屋だって知ってる。知ってるから、守りたいって思った。応援したいって思った。それが理由だ。悪いか?」

「ううん、そんなことないよ。……そっか。ありがとう、教えてくれて」

「なんだよ、急に礼なんて。気色悪りぃな……」


だから、こうして会話を続けてくれるお弟子さんに、自分は少し安堵していた。


 でも、そんな時間も長くは続かない。


「違う、俺はこんな過去話をしに来たんじゃない」


お弟子さんが目的を思い出して、再び表情が険しいものへと変わる。


「つまりだ。俺が言いたいのはな、俺たちの思いつくあらゆるものを犠牲にして繋いだ命を、白がようやく普通に生活できるようになったタイミングでだ。痛い思いをさせて死なせた挙句、白の家で別の女と幸せそうに過ごしてるのが許せねぇってことなんだよ」

「……ごめん」


凄まじい剣幕で捲し立ててくるお弟子さんに、自分は三度謝ることしかできない。


 お弟子さんが本気で怒る声が、表情が怖かった。正直、今にも泣きそうなくらい目が熱い。


 けれど、涙は相手の感情を煽ってしまう。更に怒鳴られ、手を上げられて、また痛い思いをしなければならなくなる。


 だから、必死で我慢した。


 それに、本来泣きたいのは自分ではなく、白やお弟子さんの方なのだ。自分には、涙を流す権利なんてない。


「一緒にいた女はどこにいる」


お弟子さんの目的は、やはりクロを人間の側から引き離すことのようだった。


「出かけてるけど、そろそろ帰ってくると思う」

「じゃあ、ここで待たせてもらうぜ。……お前もわかるだろ?人間と魔者は、一緒にいるべきじゃないんだ」

「……そうだね」


同じ轍を踏みたくないという点で言えば、自分とお弟子さんの意見は一致していた。だから、特に揉めるようなこともない。


「少しは気が晴れたか?」


話が落ち着いたのを見計らってか、遠慮して後ろで控えていたのだろう猟師さんが近寄ってきた。


「……言いたいことは言えた。ヘラヘラした態度が癪だが……。それは今日に限った話でもないからな。俺は別に、アキラの命を取りに来たわけじゃないさ。それにもう、森の主は姿を消した。生贄も必要ない」


そう言って自分に背を向けるお弟子さんは、最初こそ拳が飛んできたものの、魔者としては最大限の譲歩を人間の自分にくれた。


「……その子が?」

「クロさんだ。……初対面の挨拶も良いが、まずはその表情をなんとかしろ。女の子を怖がらせてどうする」

「そんなの言われなくてもわかってるって。親父かってぇの」


そんな反抗的なお弟子さんの言葉は、過去を明かされた今では、照れ隠しのようにも見えなくもない。お弟子さんもまた、白と同じように、謎の流行り病の被害者なのだ。


「…………」


猟師さんの背中には、お弟子さんから隠れるようにして、クロが半身だけ出してこちらの様子を伺っていた。


 察するに、猟師さんは、この場にクロが来てしまうことを止めてくれていたのだろう。


「お気遣いありがとうございます」

「今更だろう。気にしなくていい」

「そうかもしれませんが……」


親しき仲にも礼儀ありとよく言うが、自分たちの関係は親しいと称するには複雑で、また酷く脆い。だからこそ、相手に対する感謝の意思表示は欠かしてはならないと、そう思う。


 しかし、散々迷惑をかけてきた手前、言葉だけのお礼など、もはやあってないものとも言えるのも事実だ。そんな感情の板挟みで、自分は二の句を継げなくなってしまった。


 そんな不甲斐ない自分の抱える不安とは裏腹に、猟師さんの表情は、むしろ見たことがないほどに上機嫌だ。


「さっきクロさんから、俺には勿体ないものを貰ってしまった。人から贈り物を受け取るなんて、本当に久しぶりだよ」


猟師さんも医者の彼女と同じく、感情が表に出ないタイプの人だ。それでも、クロのプレゼントを喜んでいることだけは、見て明らかだった。


 猟師さんの胸ポケットには、一輪の花が飾られていた。


 それは、どこにでも咲いているような野花だ。人の手で大切に育てられた花のような美しさや繊細さとは無縁の、野性味溢れる力強い緑色。何者にも助けられることがなくとも、自力で生き伸びてきた逞しい命の一つは、しかし、人に贈るにはあまり適していない。


 けれど、猟師さんたちに限って言えば、これ以上ない思い出の品でもある。


「まだ遊び人だった頃の俺が、初めてトウコに贈り物をした時に渡したのがこの花だった。その時のトウコの微妙な顔は、今でもはっきりと思い出せる。もっとまともな花を買えば良かっただろうに、なんでまた、こんな花を渡したんだろうな、俺は」


そんなことを言う猟師さんではあったけれど、まさか本当に理由を忘れているわけでもあるまい。


 それに、自分には、猟師さんがはぐらかしたくなる理由がわかる気がした。


 早く大人になりたい子供だった頃の、勘違いも甚だしい不細工な背伸びは、誰とて他人には知られたくないものだ。


 けれど同時に、そんな小さな心の動きが、猟師さんとトウコさんの縁を結び、そして今の猟師さんを作り上げている。そう思うと、何も、意味のないことなど、この世には一つとしてありはしない。心とは、人柄とは、そう言う類の代物だと、そんなことをこの状況で考えてしまう自分は、きっとどこかおかしい。


「……しかし、覚えていてくれて驚いたよ。この話をしたのは初対面の時だったか?でも、君に対して言ったわけでもない」

「……えっとね、それは……」


猟師さんの疑問に対して、余計なことを口走ろうとするクロに、自分は無言で小さく首を振った。


「テツさん。本当に、色々とありがとうございました」


その一言で、猟師さんとお弟子さんの雰囲気が変わる。本来自分に向けられるべき正しい感情へと切り替わるのをピリピリと肌で感じた。


 二人は今、魔者が嫌う人間と話している。いや、クロも入れて三人か。いくら人通りが少ないとは言え、長居は百害あって一利なしだ。


「本当は、お前の顔なんて二度と見たくないけどな、それでも、白が許したんだ。ここに住むくらいは黙認してやるよ。だが、村には近寄るなよ。こいつに会うのもこれっきりだ」

「わかってるよ。魔者と人間は、一緒にいるべきじゃない。でしょ?」

「なら、お前の口から言ってくれ。その代わり、そこから先は俺が責任を持つ」


これは漢と漢の約束だと、お弟子さんは真剣な顔で言い切った。


 しかし、酷なことを強いるものである。


「……玲?」


何も知らないクロは、自分の名前をいつものように呼んでくれる。


 けれど、それも今日で最後になるのだろう。いや、最後にしなければならない。そう思うと、胸が堪らなく締め付けられて苦しかった。


 嫌いだと、ひと言口にすれば終わる。けれど、どうしてもその嘘だけは吐きたくないと、そう思ってしまったから。


「……その翼があれば、きっとどこまでも飛んでいける。だから、これからも夢を諦めないで」


そんな曖昧な言葉は、想いは、クロにどう伝わったのだろう。


 ただ、一つだけ。クロと一緒に居るのが嫌で絶縁するわけではないのだと、それだけはどうか伝わっていますようにと、そう心から願う。


 しかし。やはり、叶わない。


「…………わたし、行くね」


自分が人間でなければ、クロと一緒にいられたのだろうか。


 そんな女々しい考えが浮かぶ自分に、心底反吐が出る。


「うん。頑張って」


その一言を絞り出すまでに、溢れ出ようとしてくる感情をどれだけ殺したかわからない。


 自分に人を不幸にする魔王などという未来がなければ、まだわがままを言う余地があったはずだ。例え立場が逆だったとしても、クロの側にいられるなら、自分はどれだけ不幸になっても構わない。


 でも、それは全部綺麗事だ。本で見た台詞を読み上げたような、中身の伴わない空想上でした覚悟などに、果たしてどれだけの価値があるというのか。ただの格好付けでした軽い覚悟など、そこら辺の犬にでも食わせておけという話である。


「済んだか?」


お弟子さんの言葉に、自分はクロから目を逸らして、小さく頷いた。


「お前が魔者だったら良かった。そうしたら、きっと色々なことが今と違ってたんだろうな」


そう言い残して、お弟子さんは不安そうなクロの手を引いて、村の方へと帰っていく。


 その背中を横目に、自分は予め用意していた荷物を猟師さんに手渡した。


「クロの荷物と、今まで貸して頂いていたものです。それと、本当に少しですが、お金も。でも、クロはまだお金の使い方がわからないと思うので、お手間でなければ教えてあげてください。よろしくお願いします」

「少しばかり骨が折れそうだが、良いだろう。あいつももう次期に独り立ちだ。新しい弟子が欲しかったところだよ」

「ほどほどにお願いしますね」

「そっちの方は保証しかねる」


そう言ってニヤリと笑う猟師さんは、とても頼もしく見えた。


「なら、この銃は、今度はクロに貸してあげてくれませんか?きっと、クロの味方をしてくれるはずです」


短い間ではあったが、この猟銃は白が使っていた思い出の品だ。だから、クロに万が一があったとしても、白が守ってくれるかもと、そんな淡い期待をしての提案だった。


 しかし、猟師さんは首を横に振った。


「いや、これは譲ろう。お前さんなら、銃を向ける相手を間違えたりはしないだろうからな」

「買い被りすぎですよ。銃を人に向けるのがいけないことだってことくらい、小さな子供でも知ってます」


それに、人を見かけで判断するのは、あまり褒められたことではない。


 猟師さんやお弟子さんには、まだ世のことを何も知らないクロを任せたのだから、もう少し相手を見る目を養って欲しい。そんな偉そうなことを思ってしまうのは、ただひたすらにクロの未来が心配だったからだった。


 それに、意味もなく高価かつ危険な銃を受け取るわけにはいかない。まして、結果的にとは言え、白のように猟師を目指している者と違い、自分はただの一般人だ。刃が折れた骨董品の刀とはわけが違う。資格も訓練も受けていないのだから、銃を所持する権利などあるはずもない。


 しかし、自分の思いに反して、猟師さんは不自然に頑なだ。


「本当は拳銃の方を渡したいが、断られてしまったからな。せめて、これだけは持っていて欲しい。俺のように、守りたいものを守れない男にはなりたくはないだろう?」


猟師さんが口にしたそれは、師匠を置いて先に帰ってしまったお弟子さんと同じ、やり直す機会に巡り会えた者の言葉だった。


「……では、お言葉に甘えて」


だから、自分が猟銃を素直に受け取ったのは、単純に断るのが面倒くさくなったからだ。猟師さんの後悔に胸を打たれて、その傷を少しでも埋めてあげられればなどと、そんな優しい思いからでは決してない。


 それに、猟師さんの言葉は、大いに矛盾を孕んでいる。そのことに、猟師さんは果たして気が付いているのだろうか。


 ……考えるだけ無駄か。


 ともかく、こんな物騒な物は、小屋の隅に放っておけばそれで済む話だ。


「達者でな」

「テツさんも、お元気で」


適当に別れの挨拶を済ませると、猟師さんも村への帰路へ着く。そんな猟師さんを、姿が見えなくなるまで、その場でじっと見送っていた。


 猟師さんの歩調は、何処となく踊っているように感じられる。それは、良く言えば、過去の失敗を乗り越えられたからであり、悪く言えば、自身が背負っていた物を全て他人に押し付けたが故に得た身軽さによるものだろう。


 年を多く重ねた者は、自身の持ち物を譲るのは躊躇う割に、背負っている重荷は若者に押し付けたがる節がある。


 勿論、それが悪いことだとは言わない。文化や技術といったそれは、そうして現在まで繋がれてきた。


 しかし、そんなことは自分は知ったことではない。正直言って、迷惑だった。


 だから、その大きな背中が見えなくなった頃、自分は村のある方を向きながら、おもむろに贈り物を構えてみせる。


「ばーん。…………な〜んてね。するわけない」


弾倉が空であることは予め確認済みだ。勿論、薬室から弾も抜いてある。


 だからと言って、こんなおふざけが許されるかと言えば、そんなことはない。


 ないけれど……。


「……こんな物で、一体何をしろって言うんですか、あなたは」


この銃口が向けられる先を、まさか猟師さんが予想出来ていないわけがない。


 それなのに、むしろ嗾けるような言動をする猟師さんに、自分は甚だ理解に苦しんだ。


 それに、自分は猟師さんが思っているほど、クロに拘ってはいないのだ。


 “わたし、行くね”


 クロは、自らの意思でここを離れると決めた。その理由は、今更言うまでもないだろう。


 これまで生きてきた中で、諦めることには慣れていたつもりだ。だから、今回も平気だと、そう高を括っていた。


 しかし、自分は思いの外、クロに期待していたようだった。


「……期待だ?キモいんだよ。何様だ、お前は」


クロが今まで自分の側にいたのは、世界の広さを知らなかったからだ。それを、別の何と勘違いして期待していたと言うのか。全く、口にするのも馬鹿馬鹿しい。


 結局は、無駄な努力だった。


 そもそも、魔者と付き合うこと自体間違っていたのかもしれない。人間と魔者の関係のように、大人しく相手を毛嫌いしていた方が、お互いに幸せになれる。そんな答えは、常識として深く根付いていたと言うのに、愚かな自分は天邪鬼にも反抗した。そのせいで、今こんなにも空く寂しい感情を抱いているのだから、やはり、常識には従うのが正しい。


 ……そんなことは、わかっている。


 でも、だからこその魔者相手であり、半端者なのだ。


 なのに、誰も自分を見てはくれない。


「優しいなんて、言わないでよ」


 偽善者に、救いの光を見ないで欲しい。そんな重荷を背負うことができるほど、自分に力はないのだ。


 いや、正確には、今までは、だ。


「……それこそ馬鹿馬鹿しい」


人は武器を持ったところで変われはしない。調子に乗って酒に飲まれても、高尚な人の有難い説法を聞いたところで、根底にある人間性は、そう簡単には揺るがない。それは、例え魔法が使えるようになってもである。


「もう、疲れたよ」


そう吐露する自分には、最早ため息を我慢する気力すら残されていなかった。


 とぼとぼ、ふらふらと。おぼつかない足取りで小屋の中に戻り、一人静かに寝藁の隅に蹲って目を閉じる。


 すると途端に、猛烈に泣きたい衝動に駆られた。それが嫌で、渋々瞼を開く。


 意味も目的もなく、ただ虚ろに眺める小屋の中は、今やすっかりも抜けの殻だ。嫌というほど孤独と惨めさを自覚させられる薄暗い空間は、耐え難い寂しさを抱かせてくる。


 しかし、それは、自分と出会う前までの白が味わってきて、けれど耐え続けていた毎日だ。


「……自分には無理ですよ」


面倒な明日など、永遠に来なければいいのに。


 あるいは、天災だ。前触れもなく隕石が落ちてきて、嫌いな人たちが全員居ない世界になれば都合がいい。


 不謹慎な期待だと重々理解している。


 けれど、偽らざる本心からの願いでもあった。


 しかし、当然ながら、そんなわがままが叶うわけがない。


 だから、つまらない明日のために、自分はたくさん悩まなければならない。


「これからどうしよう」


目的と言うのは、何をするにしても大切な要素の一つだ。


 しかし、自分には肝心のそれが見つけられない。


 それにもう、相談相手も手放してしまった。誰も自分のことを助けてはくれない。


「死にたい」


なら、死ねばいい。


 でも、自分はその選択を避け続けてきた。


 死ぬのは、当然怖い。痛いだろうし、苦しいだろう。


 けれど、それが一番かと言えば、違うように思う。


 他人は楽しそうに生きていて、自分だけが諦めて一人死を選ぶ。それは、とても悔しくて、腹立たしかった。自分を害する性格の悪い者たちの死を願った回数など、今や数えきれない。


 また、微かな未来への期待が捨てきれていない自分もいる。何度も裏切られてきたと言うのに、未だに心は奇跡や運命を信じて待っていた。


 けれど、こんなに汚くて正直な感情ですら、真の意味で死を選ばない理由ではなかった。


「……何か、自分にでもできることはないのかな?誰かを助けられたりは、しないのかな?」


命を無駄にするのは嫌だ。


 そんな単純な感情一つが、自分の死を妨げていた。


「頼まれれば、何だってするのに」


困っている誰かの一部にでもなれればと、そう想像した夜もあったように思う。折角もらった命だ。苦痛如きで安易に投げ捨てるわけにはいかなかった。


 そんなことを思っていると、ふと、列車で出会ったお爺さんから貰ったタバコの箱が目に付いた。


「悪趣味なデザインだな」


大抵の物はクロに譲ってしまった自分だが、流石にタバコまで渡すわけにはいかず、不要ながら手元に残していたのを思い出す。


「救い、ね」


汽車の中で押し付けられた螺鈿細工の黒い箱が、まるで弱った心に漬け込むように、怪しい輝きで自分を誘ってくる。


“もし何かに絶望して、どうしようもない時。それでも救いを求めるなら、そのタバコに火をつけるといい”


 お爺さんの口にした、辛い心を塗りつぶしてくれるという作用は、今の自分にはとても魅力的な効能だった。


 それでも、どうしても火をつける気にはなれない。


 タバコが悪いというわけではなく、ただ、その目的が問題なのだ。


 逃げるためだけに使うそれは、依存性のある毒薬でしかない。タバコもお酒も、楽しむために用いなければ、人はいつか身を滅ぼすことになる。


 それに、苦しみを誤魔化したところで、現実は何も変わりはしないのだ。


 だから自分は、重たい体を持ち上げて、表で手早く火を起こした。


「お望み通りに、燃やしてあげますよ」


今の自分には、やることがない。だから、お爺さんの望みを叶えるために行動を起こすことに、一切の躊躇いはなかった。


 ぱちぱちと小気味いい音を立てて燃える炎の中に、タバコを一本ずつ焚べていく。


 すると、妙な匂いを漂わせながら鮮やかな紫色の煙をあげはじめた。それは、さながらゲームに出てくる毒煙のようで、吸い込まないようにすかさず手のひらで口元を覆う。


「……これ本当に吸っていいやつ?」


怪しい煙に気味が悪くなり、残ったタバコも箱ごと火の中に放り投げる。


 しかし、妙なことに、黒い箱はしばらくしても灰になるどころか、火がつくこともなかった。


「火の中に入れろって言うから、てっきり燃えるゴミかと思ってたのに」


渋々細枝を持ってきて、箱だけを恐る恐る取り出してみる。


 無視して水をかけて始末してしまっても良かったが、暇な自分には些細な疑問すら娯楽の一つだ。そのままにしておくのは、それなりに惜しい謎だった。


 だから、別に面白いことだとか、新たな発見だとか、そういった刺激的なことを求めての行動ではなかった。永遠と続く長い時間を少しでも潰したい。本当に、それだけが理由だったのだ。


 だから、その箱に見つけた期待以上の結果に、自分の心は珍しく躍っていたように思う。


「……だから、火に焚べろ、ですか」


その箱には、前まではなかった数字の羅列が、火に炙られたことでくっきりと浮かび上がっていた。


「どうせ、失うものなんてないんだ」


きっと、お爺さんの賭けとは、どう転んでも向こうが勝つようになっていたのだろう。だから、きっと自分の選ぼうとしている道は、お爺さんの思惑通りの未来だ。


 しかし、人の役に立てるかもしれない。そんな最後の頼みの綱に、自分は縋らずにはいられなかった。


「ようやく、自分の未来を決められたよ」


クロがそばから離れてから、ようやく見つけることができた未来。今はもう、夢を見つけるという約束を果たす相手は居なくなってしまったけれど、それでも、人には生きるために夢が必要だと思うから。


「……きっと、いつか、優しい世界を」


だから、待っててね、クロ。


 そして、白。今更だと思うけど、不甲斐ない自分に力を貸して欲しい。


 人間の自分に、どこまでできるかはわからない。この未来が正解とも限らない。


 でも、せめて、何者でもない要らない存在にはなりたくないから。


 だから自分は、深く考えることもせず、黒く怪しげな煙の中へと足を踏み入れる道を選んだ。

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