第34話 それは、星の煌めきの如く

「玲」


クロの呼びかけに、自分は拾った新聞で顔を覆った。


「波に飲まれないように気を付けてね」

「……うん。わかった」


気付けば、桜の季節はとうに過ぎてしまっていた。


 今や、暑い夏真っ只中の月の昼時。クロと自分は、家の近くの海でこじんまりと水遊びをしていた。


 水遊びと言っても、水着もシャベルも浮き輪も持っていない。あると言えば、去年買ったオモチャの水鉄砲くらいで、海も海水浴用に整備されてない以上奥まで行くのも危険がある。


 だから、実の所、自分たちは濡れてもいい格好で浜辺に座り、寄せては返す波に涼みを求めているだけだった。


「なんでクロのこと無視するのよ。一緒に遊んであげればいいのに」


そう横から茶々を入れてくる神様は、限られた魔力を無駄遣いして、その容姿を夏色に変えている。初めこそ話し相手に困らないと手放しで喜んだものだが、それ以来ずっと付き纏ってくる神様に、少し嫌気が差してきていた。


「……今回もダメだったんだ」

「まだ五回目だよ。世の中には、この十倍以上受けてる人だっているんだから。たった数回落ちたくらい、なんともないさ」

「私はただ……」


仕事に就けない自分を慰めようとしてくれる神様の気持ちは、素直に嬉しい。でも、その言葉を聞くと、心がざわつきどうしようもなく苛立ってしまうから聞きたくなかった。


「もう冬だ」


そう思うと、焦りが募って不安になる。


「まだ夏よ。その次は秋。冬が来るのは当分先」

「それくらいわかってるよ。ただ、時間が流れるのが早いなって、そう思っただけ」


白を死なせてしまってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。それと同時に、クロとの約束の期限も迫っている。


 それまでに、自分は変わらなければならない。そんな強迫観念に駆られる毎日は、息苦しさでおかしくなりそうだった。


 クロは、もう自分で考えて行動ができるまでに成長していた。料理に洗濯、買い物から掃除まで、どれも上手とはとても言えないけれど、それでもしっかりと身につけた。


 それに対して、自分は何も変わらないままだ。


「ねぇ、ソラ」

「ん?」

「他に行きたいところがあるなら、いつでも言ってね」

「……何よ急に。気持ち悪い」

「失礼な」


物分かりの悪い神様の相手は、ほんの少し疲れる。


「神様も、クロも、もっと自由に生きればいいんだ」


こんなボロ小屋に住む自分と一緒にいたところで、何も楽しくないだろうに……。


 それなのに、二人はわがままを言うことなく、今の貧しい生活を甘んじて受け入れてしまっている。


 少し歩けば、快適な家も仕事も山ほど転がっている。折れた刀を直せる職人や、猟師さんやお弟子さんのような半端者を受け入れてくれる人もいる。


 それこそ、クロと神様は女の子だ。容姿は言うまでもない。性格も申し分ない。


 だからこそ、自分は何度でも確認しなければならない。


「二人にしてあげられることなんて、何もないからさ」


夢のない自分には、夢の価値が良くわかる。


「悪夢にはなりたくないんだよ」


夢を邪魔する、悪い夢。それは、百害あって一利ない、人の人生を喰う邪悪な魔物だ。


 自分はすでに、白を犠牲にしてしまっている。魔王という運命に、これ以上他人を巻き込むのはもう嫌なのだ。


 そんな思いで口にした言葉に、神様は意外な反応を見せる。


「その言葉、クロには言わないことね」

「言わないよ。でも、なんで?」

「……誰も報われないからよ」


とても可哀想なものを見る目つきで、何かを必死に我慢しているような表情で、ボソッと神様はそう呟く。


 けれど、肝心な言葉が意図することを、自分は全く理解できなかった。


「辛くなったら私が悪夢を食べてあげる」

「……悪夢を?ソラが?」

「刀の名前覚えてる?バクよ、獏。夢を食べる生き物の名前」

「ふ〜ん」

「……反応薄いわね」


話の腰を折られた神様は、心配したのが馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに大きくため息を吐いてから、ともかくと続ける。


「私もクロも、生きたいように生きてる。だから、あんたも適当に生きなさい。一人であれこれ難しいこと考えてたところで、時間が過ぎるだけで答えは出ないわよ」


そんな神様の言葉と共に、突然ひんやりと冷たい水が顔に飛んできた。


 不意の一発に驚いてポカンとしていると、クロが気まずそうに口を開く。


「あっ……。えっと、その…………」


しまったと慌てて出した言葉は、何の意味も成さずに萎んで消えていく。


 モジモジとして落ち着きのないクロは、今更ながら背中に水鉄砲をすっと隠す。それを見て、自分は思わず笑ってしまった。


「……ご、ごめんね。その……わざとじゃないんだよ?」

「わかってるよ。でも、おかしくって」

「うぅ……」


恥ずかしそうに俯いて縮こまってしまうクロに自分は近寄り、服が濡れることも構わずに横に腰掛ける。


 たった、それだけ。それだけで、高揚で沈んだ気持ちがどこかへと吹き飛んでしまったのだから不思議だ。


 クロはきっと、人を幸せにする才能があるに違いない。自分にはない、とても素敵な才能だ。


「他人に銃を向けちゃダメだよ」


そう言って自分は、軽くクロの頭に拳骨を落とした。


「ひぐうっ……。い、いだぃ」

「例えオモチャだとしても、弾が入っていなくても、安易にそう言うことをしちゃダメなんだよ?」

「…………ごめんなさい」

「うん。こっちこそ」


痛そうに頭を押さえる小さなクロの手を避けて、しっかりと気持ちが伝わるように優しく撫でる。そんな自分を、クロは複雑な表情を浮かべてじっと見つめていた。


「一緒に遊ばない?」


そう言って自分はおもむろに立ち上がり、クロに向けて、先ほどこっそり盗っていた水鉄砲の引き金を素早く引いてみる。


 驚いて小さく悲鳴を上げたクロは、確かめるように背中に隠したはずの水鉄砲を探す。しかし、それは自分の手の中にあるのだから、いくら探しても見つかることはない。


 そのことに気が付いたクロは、ムスッとした表情で自分のことを責めてくる。


「ずるいよ!さっきダメって言ったの、玲だよ!」

「他人にはダメって言っただけだよ。それに、先に撃ったのはクロだ。撃たれる覚悟のない者は、引き金を引いてはいけないんだよ。知って……うわっ!?」


前触れもなくクロに不意打ちで水をかけられて、焦った自分は足を滑らせて背中から派手に海へと倒れてしまう。


「……玲はたまにいじわるだ」


盛大に水飛沫を上げる自分を見るクロは、未だに不満げな表情を浮かべている。


 しかし、クロの尻尾が海面をペチャペチャと軽快に叩く音が聞こえてしまって、また怒られるとわかってはいても、つい笑顔を浮かべてしまった。


「楽しそうね」

「……ああ、楽しいよ」

「……なに、あんた泣いてるの?ちょ、え?クロと少し遊んだだけで?」

「泣いてないわ!今ので目に海水が入って痛いん……ぶおっ!?」


呑気に神様と話していると、今度は先程の比ではない水の塊がクロの方から襲いかかってきて、その勢いで再び水中へと戻されてしまう。


「…………いじわる」

「あら、拗ねちゃった」


今度は盛大に口の中にまで海水が入ってきて、堪らずゲホゲホと何度も咳き込んだ。その最中に追い討ちをかけてこないあたり、やはりクロの根は優しいのだろう。


 とは言え、無闇にクロを機嫌を損ねるような行動は今後は控えるべきだと、今回のことでそう思い知った。


「……魔者、侮るべからず」

「自業自得よ。私なんかに構ってるから」

「だって、無視はしたくないし」

「…………たまに相手してくれれば、私はそれで満足だから。今はクロと気兼ねなく遊んでらっしゃいな」


そうやってまた神様と話していると、いつの間にか取り戻されていた水鉄砲から一条の抗議が飛んでくる。


「そ、そうするよ」

「学ばない男」


その後は、クロが満足するまで水遊びに付き合ったのだった。




「……で、魔力が無くなって服を戻せなくなったと」

「はい。おっしゃる通りです……」

「……なに?アホなの?」

「言うな!私が一番わかってるから!!」


夕飯の料理を作るのに使っていた焚き火がパチパチと耳心地良い音を奏でる中、誰が見ても場違いな格好の神様が赤い顔を手のひらで必死に隠す。


「他人に見られる体じゃなくて良かったよ。危うく変態の仲間と勘違いされるところだった」

「人の弱みに付け込んで馬鹿にしてくるなんて、いい度胸してるじゃない」

「あと、クロの目に毒」

「……クロの方がよっぽど際どい格好してるでしょうが」


そう言われてみればそんな気もするが、それはそれ、これはこれである。


 当の本人はと言えば、今は寝間着のワイシャツに着替えて、木製の椅子の上で器用に体育座りをしてこっくりこっくりと船を漕いでいる。それもそのはず、もう少しすれば日付が変わるかと言う時間だ。元いた星の頃の生活リズムが未だに抜けないのも、良し悪しである。


 ともかく、今はこうして神様と話していても、クロに怒られる心配はない。


「……で、魔力っていうのはいつ回復しそうなのさ。明日?明後日?できれば早めに戻して欲しいんだけど」


神様は痩せ気味の白やクロとは違って、至って健康的な体型をしている。髪も二人のように荒れ放題ではないし、血色も頗る良い。そんな神様と一緒にいるのは、自分としても目のやり場に困ってしまうのだ。


 しかし、思いの外神様の表情が優れない。


 どうしたのかとしばらく様子を伺っていると、神様は隠していた秘密を渋々白状し始めた。


「……むりなの」

「…………はい?」

「誰かから分けてもらわないと、私の魔力は回復はしないのよ!」


自棄になって叫ぶ神様に、自分は抱いた疑問を投げかける。


「今まではどうしてたの?」

「他の神籬から魔力を貰ってた。だけど……」

「だけど?前までできてたことなら、また同じようにすればいいんじゃないの?」


当然のように自分がそう言うと、しかし、神様は突然そっぽを向いてしまった。


「……知らないっ!」

「いや、なんで怒るし」


意味不明な言動に混乱させられる中、しばらくは焚き火を眺めながら神様と話すことになろうことだけは、流石の自分にもわかった。


「クロから分けてはもらえないの?」

「試してはいないけど、多分無理。あの子、魔力の使い方がわかってないみたいだから」

「そっか」


人間の自分には、当然の如く魔力など無い。教えてくれる者がいないのだから、クロが魔力を使えないのは当然の結果だ。


「そう言えばこの前、街でエーテルって言うのを売ってるのを見たよ。確かアレ、魔力の代わりになるよね?それは?」

「確かになるけど……。見たんなら知ってるでしょ?」

「……うん。めっちゃ高かった」

「そういうことよ。あんなもの買うくらいなら、このボロ小屋を丸っと建て直した方が賢いし、わがままを言わないなら、スラム街の一角くらいなら家ごと買える。論外ね」


棚に並んでいた透明なガラス瓶に入れられたライム色の液体は、本来生まれながらに魔力を持つ魔者には必要のない代物だ。


 材料が何なのか、製法はどのようなものなのか、そんなことは知り得ない。けれど、何よりエーテルに付けられた法外な値段が、その正体を透かしていていた。


「テツさんには最近頼りっぱなしだし、ミナトさんの所に預けてたお金ももう当てにできないからなぁ……。ん〜、他に何かないの?」

「あるにはあるけど……。昼間の話覚えてる?悪夢を食べるってやつ」

「美味しくなさそうだなとは思ったよ。……なに?悪夢を食べたら魔力が回復するの?」

「人間相手には試したことないから成功するかはわからないけど、多分」

「じゃあ、とりあえずそれで。ダメだったらまた考えればいいしね」


間髪入れずにそう答えた自分に、神様は理解できないと言った様子で確認するように尋ねてくる。


「怖いなら無理しなくてもいいから」

「……口にしたってことは、そうして欲しいってことなんでしょ?それなのに神様が遠慮するのは変じゃない?」

「逆に、何でそこまでしようとしてくれるの?」

「さぁね」


世の中には、代えの利かないものがある。理由など、それだけで十分だ。


「さ、やるならやるで、ちゃっちゃとどうぞ」


面倒くさい神様の質問を適当に流して、自分は勢いよく立ち上がる。


「遠慮はいらないから。別に命まで取るわけじゃないんだし」

「…………」

「え、急に黙らないでよ。怖いじゃん」

「…………本当にいいの?」

「あ〜、もう!神はいつから人のご機嫌伺いをするようになったのやら。……ソラがやらないなら、こっちから行くからね。いらないって言われても無理矢理押し付けてやる」


いつまで経っても踏ん切りがつかない神様が焦ったくなって、自分は弱気な神様に向かって出鱈目に突っ込んだ。


 すると、触れられない体を通り抜けた瞬間、全身から力が抜けたような感覚に襲われた。そしてそのまま、地面へと音を立てて派手に転んでしまう。


「え、なんか急にどっと疲れが。全然動けないんだけど」

「ごめん、取り過ぎたかも」

「……おい、さっきまで遠慮してた神はどこに行った」

「でもこれ…………。いえ、ありがたく頂くわ。大切に使うね」

「まぁ、粗品ですが」

「貢がれるのは悪い気はしないわ」

「……こう言うところでだけ神様風吹かすのやめてくれない?」


冷たくてゴツゴツとした地面の上で伸びている自分の上で偉そうにしている神様に、正直言ってちょっとだけイラッときた。けれど、一先ずは元の調子を取り戻したようで何よりである。


「さて、これで貸しひとつだよ。早速だけど、こちらの要望にも応えてもらおうかな」

「な、何を要求するつもり?変なことだったら引っ叩くわよ」


下衆の極みが口にするような品性のかけらもない台詞は、しかし、地面に無様に倒れているせいで全く格好がつかない。


 それでも、神様は期待通りの反応を返してくれた。こう言うところは、素直な神様だからこそ楽しめる掛け合いだ。別方向で素直なクロ相手では、なかなかこうはいかない。


 神様は何を望まれるのか不安で仕方がないようだったが、自分の願いは最初からたった一つである。


「目瞑ってるから、今すぐ着替えて」

「……あ、うん。ごめん」


 自分がまともに動き回れるようになったのは、それから数時間後のことだった。




 さらさらとした何かが額に擦れる擽ったい感触に、夜更かしでまだ重たい瞼を無理やりこじ開ける。


 するとそこには、居住まいを正して静かに自分の顔を覗き込むクロの姿があった。


「おはよう、玲。お外にね、お手紙が一つだけ置いてあったよ」

「おはよ。手紙?誰からだろ」


勢い余ってクロに体当たりしないように気をつけて起き上がり、謎の手紙の正体を確かめるべく洒落っ気のない茶封筒を受け取る。ざっと見たところ、外には差出人の名前は書かれていないようだ。


 クロに手紙の正しい数え方を教えながら、まだ寝起きで上手く力の入らない体で糊付けされていない頭の部分を適当に破り封を切った。


 中には、筆を押し付けて書いたかの如く荒々しく力強い字で書かれた手紙が入っていた。文字の量はそれほど多くなく、使われている紙も手紙用のそれではない。それでも、伝えたい内容はしっかりと理解できた。


「……嫌なこと書いてあったの?」


手紙を読む自分の表情が優れないのを見て、クロがそう心配そうに声をかけてくれる。


 内容が気になったのか、興味本位で中身を覗こうとしてくるクロに、自分は咄嗟に手紙を折り畳む。


「ううん、こっちの話。ただ、夕方にお客さんが来るみたい」

「テツ?」

「そうそう。仕事終わりにここに寄るって」


奇妙な手紙の差出人は、お世話になっている猟師さんだった。


 おそらく、自分たちが寝静まった丑三つ時にわざわざ自ら置きに来たのだろう。そこまでして気遣ってくれる猟師さんには、本当に頭が上がらない。


「ともかく、まずはご飯だね」


腹が減ってはなんとやら。何をするにしても、行動の前には腹ごしらえが必要だ。


「……手伝えることある?」

「そうだなぁ……。石窯に火を入れてもらおうかな。マッチは棚の中、薪は小屋の横だよ」

「わかった。頑張ってみる」

「お願いね」


正直、クロにはまだ火を使っては欲しくなかった。


 けれど、危険から遠ざけてばかりでは、必要な時に対処ができなくなってしまう。自分のわがままで、クロが不器用になってしまうのは避けたかった。


 怪我をしてからでは遅いと、可哀想だと、最近の者は言う。


 しかし、自分はどうしてもその考えが正しいとは思えない。失敗をしなければ覚えないこともある。悪いことは悪いと叱り、成長は大いに褒める。そういった出来事で残る鮮烈な記憶は、この先クロが生きていく上で味方になってくれるはずだと、そう信じた。


「クロが乱暴な性格だったら、もう少し苦労してたんだろうなぁ」


そんなもしもを口にしながら、猟師さんのお下がりの包丁を片手に、魚を適当に捌く。


 すると、不意に背後から人の気配が近寄ってくるのを感じた。


「……気抜いてると指切るわよ」

「わっ!?痛ぁっ!!」

「ほら、言わんこっちゃない」

「ソラが突然出てきて耳元で喋るからでしょ!」


神出鬼没の神様は、ちょっかいをかけるだけかけると、現れた時と同じように突然すっと消えてしまう。差し詰め、怒られるのが嫌で逃げたという所だろうか。


「……いや、血が嫌で帰ったのか。自爆じゃん」


指の腹を切って出血こそしてはいるものの、傷は浅く、それほど痛みも感じない。唾でもつけておけば治るとまでは言わないが、この程度なら放置していても時期に良くなるだろう。


 しかし、血が嫌いな神様が意図的に悪戯を仕掛けてきたとは考え難い。もしかすると、他に用事があったのかもしれないが、この様子ではしばらくは気まずくて出てこれないだろう。神様に嫌な思いをさせてしまって、少しだけ自分の不注意を反省した。


 いずれにせよ、今はなるべく早く食材の下拵えを終えて、クロの作業を見守りに行きたい。そのために、切った指を庇いつつも、テキパキと短時間で調理の下準備を済ませた。


「どう?できた?」


まな板代わりに使っている木の板に食材を乗せて表へ出ると、クロがしゅんとした表情を向けてくる。


「まだ半分だけ。火を見てたらジリジリって目が痛くなってね、治るまで待ってたら火が消えちゃった」

「火から目を離すのは危ないけど、じっと見つめ続けるのも体に悪いから気をつけて。近づきすぎてもダメだよ。目が焼けちゃうから」

「……玲は物知りだ」

「ただの年の功だよ。知っていれば誰でもできるし、自分が賢いわけじゃないから。少しずつ、コツコツと覚えただけ」


それは謂わば、物理法則や料理のレシピと同じだ。他人から教えてもらわなければ存在にも気が付かないし、だからといって完全に理解できるかと言えば、そんなことはない。だから、残念ながら自分は、クロが思うような立派な人間では全くないのだ。


 しかし、クロはそれでも、いつかは自分のようにと、そんな憧れを抱いてくれている。


「でも、わたしは練習しても上手くはできないよ。教えてもらってもすぐに忘れちゃうし、すごく頑張っても、とっても時間がかかっちゃうんだ」


……やっぱりわたしは、人にはなれないのかな。


 そう言うクロは、なんだかとても寂しそうに見えた。


「鳥は空を飛べるけど、人は飛べないよね。翼があれば、自由気ままに海を渡って、別の国に行くこともできる。それは、翼を持つ者の特権だ」

「それだと、飛べなかったら、わたしは烏でも人でもなくなっちゃうよ。なんでもない、いらない子になっちゃう」


人になりたいと望み、どう言う訳かそれが叶ったと言うクロ。けれど、中途半端な存在であるがために、自分のあり方についてひどく悩んでいた。


 烏として求められる当たり前と、人として求められる常識。それは、全くの別物だ。


 そして、クロは今、そのどちらも持っていない。だから、どうしても不安に感じてしまうのだろう。


「白なら、もっと玲を笑顔にできたかもしれない。わたしは、悪い子だ」

「そんなことないよ。それに、クロがどう思っていようと、一緒にいるのは自分の勝手だ。クロが悩む必要なんてないよ」

「でも、それでもね。こんなわたしなんかでも、少しは玲の役に立ちたいんだ」


そうしたら、また、きっと……。


 そう呟きながら自分を見つめてくるクロの心模様は、自分には覗くとこは叶わない。


 しかし、そんな頑張り屋さんなクロを、応援することくらいならできる。


「人は飛べると思う?……答えは、不可能。人はどう足掻いたって、鳥のように空を羽ばたくことは叶わない。でもね、人は努力を重ねて、空を飛ぶ機械を作ったんだよ」

「玲がたまに触ってる、四角いの?」

「あぁ、スマホね……。あれも機械だけど、飛行機はもっともっと大きいよ。人がたくさん乗れるからね」


充電はとっくの昔に尽きてしまったのだが、手癖と言うものはそう簡単には抜けてくれない。クロの良いお手本になろうと心がけてきたつもりだったのに、全く人の目はどこにあるかわからないものだと苦笑いを浮かべた。


 ともかく、人は苦し紛れにも、空を飛ぶことに成功した。


「クロは、そんな人たちのことをどう思う?馬鹿だって思う?それとも、可哀想だってため息をつく?」

「……その人たちは、どうして頑張れたのかな?だって、みんなにできないって言われてたんだよね?わたしだったら、きっと諦めちゃうよ」

「むしろ、それが普通なんだよ。諦めて当然。……でもね、だからこそ思うんだ」


常識とは、謂わば法則だ。生きていく上で避けるべき道を自分たちにわかりやすく示してくれている。失敗をせずに成功し続けるための道標に従わない方が、むしろ異端だ。


 しかし、それでも人は夢を見ることをやめられない。諦めがつかずに、危険も顧みずに未知の領域へと一歩を踏み出してしまう。


 けれど、世界を変えるのはいつだって、そんな夢に真っ直ぐな者たちなのだ。


「夢を叶えるために必死になって頑張る人のことを、どうせ無理だって馬鹿にして邪魔をするのはおかしいよ。それにさ、つまらないじゃん。自分が不可能だと考えてる景色を実現しようとしてくれてるんだよ?否定なんかするよりも、一緒になって頑張った方が絶対に楽しいって思うな」


叶うか叶わないかではない。叶えるために頑張る人の努力を、自分は応援したいのだ。


「クロが頑張ったのに失敗しちゃって、それを周りが馬鹿にして、貶して、誰にも敵わないのにと蔑まれて哀れまれても、そんなクロを自分は誇りに思うし、素敵だって思うよ。クロはクロだ。他の誰でもない。誰かの真似をする必要はないんだよ」

「でも、わたし、おバカだから……。足し算はできないし、お料理も焦がしちゃう。歌も下手だし、絵も上手に描けないんだ。それでも、玲は応援してくれる?」

「もちろん。良い部分も、悪い部分も、全部ひっくるめてクロなんだから。一つでも欠けたら、それは全くの別人だよ」

「……きっと、いっぱい、いっぱい迷惑かけちゃうよ?それで玲に嫌われちゃうのは、わたし、嫌だよ……」

「嫌いにはならないよ。クロが自分を嫌いにならない限りは、夢の応援をさせて欲しいな。……だって、ほら。楽しいし?」


そう言いながら、自分はクロの横に並んで座る。


 そして、目当てのものを探して、ポケットの中におもむろに手を突っ込む。その指先が触れた金属は、なぜだか氷のように冷たく感じた。


「人は、選んだ道で決まるんだよ。クロはどんな場所に行きたい?それを考えながら進めば、決して迷うことはないよ。だから、烏や魔者には無理なことでも、やりたいことは全部漏れなくやってみよう。そうしたら案外、自分たちなんかでも世界を変えられたりできるかもしれないね」


捲し立てるように、なんとかそこまで言い終えると、なんだか動悸が激しくて少し息苦しかった。それはきっと、柄にもなく喋りすぎたからに違いない。


 それと、もう一つ。目の前で赤々と燃える炎が、酸素を独り占めしようと欲張っているからだ。


「……イカサマだ」

「文明の利器は使ってこそでしょ?」


柊の模様が刻まれたライターを見て、クロは不満げにそう非難する。


 けれど、煤で真っ黒になった鍋がグツグツと音を立てはじめた頃。


「……わたし、また空を飛びたい」


そう口にした時の幸せを夢見るクロの表情を、自分はきっと一生忘れることができない。

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