第32話  約束

「クロは飛べるの?」


冬の寒さがだんだんと和らぎ、木々の枝の蕾が膨らみ始めた頃。小屋の裏でクロと並んで日課の日向ぼっこをしながら、ずっと気になっていたことを思い切って聞いてみた。


「…………」


自分の質問に、無言でもぞもぞと服の下で翼を動かしていたクロだったけれど、すぐに気持ち悪そうに顔を歪めて止めた。


「……ねぇ、玲。この布、本当に着なきゃダメ?」

「ダメだよ。……と言うより、それでも薄着な方なんだよ?まだ夜は冷えるし、風邪をひかないようにもっとあったかい格好をして欲しいくらい」


嫌々クロが身につけている衣服は、人ならば着なけらばならない、ごく普通の洋服だ。


 わざわざ自分のために新しいものを買わなくていい。あるもので平気だからと譲らないクロに、最初は渋々ながら自分のお古のワイシャツを着てもらっていた。


 人間の女の子でこの年頃なら、お洒落に気を使って大変なくらいだろう。


 けれど、クロの場合、逆の意味で苦労させられた。


「……ふく?を買うには、お金っていうのが要るんだよね?それなら、わたしのためじゃなくて、玲のために使ってよ」


そうやって駄々を捏ねるクロは、これでもかなり人としての生活に慣れてきた方だ。


 烏として生きてきたクロにとって、人の生活は困惑の連続だったに違いない。


 とは言え、我儘にも許せるものと許せないものはある。少なくとも、洋服だけはちゃんと着てもらわないと、自分としても色々と困るのだ。


「ちゃんと自分のために使ってるよ。お金の心配も当分は大丈夫だから、遠慮もいらないからね。……それとも、その洋服気に入らなかったかな?動きやすいように頑張って考えたつもりだったんだけど……」

「……ううん。前のよりは、平気だよ」

「そっか。テツさんに無理を言って頼み込んで良かったよ」


 クロが身に着けているのは、猟師さんに頼んで村の服屋さんで縫製してもらった、世界に一つだけの洋服だった。クロの動きを邪魔しないようにと工夫を凝らして発注した服だったのだが、どうやらクロは気に入ってくれたようでホッとする。


「テツさんにはずっとお世話になりっぱなしだから、今度何かお礼をしないとだね」


猟師さんが毎日欠かさずに湖にお見舞いに行くことを白から教えてもらっていなければ、クロの服を調達するのにもう少し苦労しただろう。


 猟師さんには服だけではなく、他にも様々なものを用意してもらった。生活していく上で必要になるものから、自分のただの気紛れにまで、本当に感謝しても仕切れない。


 お弟子さんに女物の服を買うのを見られて怪しまれたと愚痴を言われたりしたが、逆に言えば、猟師さんが不満を口にしたのはその時くらいだった。


 けれど、クロは猟師さんと顔を合わせるのに気が進まなそうな表情だ。


「…………」

「やっぱり無理そう?」


一つの季節を共に過ごしてきて気がついたのは、クロが人見知りの恥ずかしがり屋さんだと言うことだ。


 一度だけクロを連れて森の中で猟師さんと会ったことがあるが、その時は自分の背中に隠れて俯いたまま口を開かなかったほどだ。


 そして、クロは決して口数が多くない。だから、むしろ今日はよく自分に付き合ってくれている方だった。


「まぁ、人には誰だって苦手なことがあるものだから。あんまり気にしちゃダメだよ」

「でも、お礼だけはちゃんとしないといけない。……だよね?」

「うん。気持ちはね、言葉にしないと相手に伝わらないから。だから、クロは苦手かもしれないけど、せめて『ありがとう』と『ごめんなさい』だけは言えるようにならないとね」


クロはまだ自分以外の人とまともに話したことがないから、気持ちを伝える言葉の大切さがわからないかもしれない。でも、いつか絶対にクロの役に立つはずだからと、心を鬼にして少しキツめの言葉を使った。


 それに、クロはもう自分だけを味方してくれていた烏ではない。これからは、一人の女の子として人の世を生きていかなければならないのだ。


 自分がいつまでも、クロのそばにいられるとは限らない。


 だから、一刻も早くクロを一人前にしなければと、そんな焦りのようなものを感じてもいた。


 そんな思いを知ってか知らずか、クロは学ぶことに関してとても積極的でいてくれている。


「……できるかわからないけど、頑張ってみる」

「うん。応援してるよ」

「……わたしも、応援してる」

「う、うん」


クロの何気ない優しさに、自分は照れ臭くなって顔を背けた。


 他人から優しくされるのはどうにも慣れなくて、どんな反応をしていいのかわからなくて困ってしまう。


 そんな動揺を隠すために、自分は手にしていた一冊のノートを取り出した。


「……それ、白の日記」

「これを日記と言っていいのかはわからないけど。でも、これのおかげで色々なことに納得がいった。……だから何っていう話でもないんだけどね」


日記によると、寂しく苦しい日々を強いられた白は、歪にも魔王の助けを望んだようだった。しかし、その心境に至った理由を知ったところで、今から過去に戻れるわけではない。


 けれど、白の言葉に、ふと考えさせられるのだ。


「クロ」

「…………?」


まだ言葉が話せなかった頃のように小さく首を傾げるクロに、自分は世間話をするかのように尋ねる。


「クロは、魔王をどう思う?他人の物を奪って、壊して、殺してしまう。そんな存在に、もし自分が困っているとして、助けてほしいって思うのかな?」


白の答えは、日記を読んだからわかっていた。


 他人は、神様は、自分のことを助けてはくれない。だから、自分と同じように、嫌われる悪者の味方に付く。そうして、白は魔王が迎えに来てくれるのを待ち焦がれていた。


 だから、聞きたいのはそう言うことではない。


「……わからないよ。わたしはまだ、玲から教わったことしか知らないから。……でも、悪い人の助けは借りちゃダメ、だと思う」

「……うん。そうだね。そうだよね」

「正解?」

「うん、正解。良くできました」


ご褒美と、頭を撫でてみる。尻尾がゆらゆらと楽しげに揺れるのを眺めていると、思わず笑みが溢れた。


 だから、誰にともなく許しを乞うた。


 ……まだ、良いよね?


 その問いに返事をしてくれる者はいないはずだった。


 でも、不思議だ。そんな不安に目ざとく気が付いたかのように、クロが自分へと他愛無い言葉をかけてくれる。


「でも、玲はこうも言ってたよね。この世界に神様はいないって。それって、困った時に助けてくれる良い人はここにはいないってことだよね?」

「そこまで極端な話をした覚えはないんだけどな……。でも、そんな考えもあながち間違いじゃないんだから、悲しい世界だ」

「もし、もしもだよ?この世界にいる人たちが全員悪者だったら、その人たちに悪者だって、魔王だって怖がられてる人がいるならね?その人は、もしかしたら良い人なのかもしれないって、わたしは思うんだ」


それは、決して直接的ではない。でも、不安に満ちた心に安心を届けてくれるような、そんな優しい想いでいっぱいな言葉だった。


 その言葉に、自分は聞き覚えがあるような気がした。でも、いつ誰に言った言葉かまでは上手く思い出せない。


 けれど、一つだけ確実に言えることがある。


「……それは無いよ。断言できる」


自分は、日記に挟まれていた古新聞の切り抜きをクロに手渡す。


 それは、孤独な白が村の屑籠で見つけたと言う、魔王について書かれた一面だ。


「魔王は、誰も擁護する余地がないくらいに悪者だよ。だから、魔王なんだ」


クロは魔王について何も知らないし、知る術もない。


 だって、自分が真実を隠しているのだから。


「…………」


自分は魔王だ、などと。


 言えるわけがない。


 言いたくない。


 でも、いつかは明かさねばならない言葉の重さに、自分は押し潰されてしまいそうだった。


「……玲は、魔王が嫌いなの?」


自分を悪者だと知らないクロは、そう心配そうに声をかけてくれる。


 だから、この言葉は自分へのものではない。そう思うことで、心の平穏を取り戻そうと努力した。


「魔王も、かな」

「他にも玲をいじめる悪い人がいるの?」

「そういう意味じゃないんだ。ただ、自分が悪いだけなんだよ」


自分は、クロの求める善人の役割を演じる。それにだけ徹すれば、きっとクロは喜んでくれるし、もしかすると誇らしく思ってくれるかもしれない。


 でも、人の心は、そんな単純なことさえ叶わない。


 白の言う通りだ。人はやはり、一人では生きてはいけない生き物なのかもしれない。


「……難しくてわからないよ」

「それで良いんだよ。人が難しく言う時は、正直になる勇気がない時だ。わからないように言ってるんだから、わかりっこないんだ」

「……玲はたまに、いじわるだ」

「そうそう。世間では、小さな男の子は気になる女の子に意地悪をするらしいよ。おかしいね」

「……まただ。わたしにわからないように難しい言葉を使う」

「ごめんごめん。今のは思いつきで喋ったから、特に意味はないんだ。……ともかく、悪い人について行っちゃダメだからねって、そう言いたかったんだよ」

「……………………嘘つき」


クロはたまに、自分のつく嘘を鋭く見破ってくる。


 でも、そう言う時は決まって自分は言うのだ。


「嘘じゃないよ」

「…………玲はいじわるだ」


そんな薄っぺらい言葉でも、話題を逸らすには十分だった。


 でも、こんなことを続けていれば、いつかは嫌われてしまうだろうから。


「……さて、そろそろ夕飯の支度を始めないとね。日が暮れる前に火も熾さないと」


その場から逃げる口実を作った自分は、なんとなく後ろめたくて、クロに背を向ける。


 その代わりに、ほんの少しだけ見栄を張ることにした。


「今晩は、パンにしようか」

「……作れるの?」

「味は保証できないけど、頑張ってやってみるよ。一からやるのは初めてだけど、材料はあるからね。あとは運と、勘かな」


そう保険をかけつつ、自分は小屋の外に置いてあるカゴを背負う。ともかく、まずは、浜辺へと石窯の材料拾いだ。


 しかし、逃げようとした自分の服の袖を、クロに指先で掴まれてしまった。


「……どうかした?」


振り解くと言う選択肢は、自分には選べなかった。


 クロは自分を引き止めはしたものの、口を開くことなく黙ったまま動こうとしない。


 そんなクロに、狡いとわかってはいたけれど、自分は試しにわがままを言ってみる。


「手伝ってくれる?」


そんな自分勝手なお願いに、こくりと。小さくクロは頷いてくれた。




「ごめん、クロ……。痛くない?」

「平気だよ。だから、そんな顔しないで」

「顔はいつも通りだよ。それより、クロの怪我の方が大変だ」


パンを焼くために小さな石窯を作ろうとした自分は、その作業をクロに任せた。


 単純作業の繰り返しだから危険はないと思っていた。油断していたのだ。


「割れた石で指先が切れてるんだよ?それに尖った枝が刺さって、折れて中に入っちゃってる。クロは、女の子だ。もっと気をつけなきゃダメだったのに……」


自分はクロを傷つけ、痛い思いをさせてしまった。


 想定できたはずなのに、自分は浮かれていた。いつかの日のように、二人でならなんでもできる、上手くいくと、そう思い込んでいたのだ。


「……だから、今日はお膝に座るのを許してくれたの?いつもは、はしたないからダメって言ってたのに」

「赦されようとは思ってないよ。……むしろ、救われてるくらいだ」


罪滅ぼしの意図がなかったといえば、それは嘘になる。けれど、だからといって自分の失敗が消えて無くなるわけではない。


「懐かしいな」


膝の上で大人しく座っていたクロが、自分の顔を見上げてくる。


「わたしがまだ烏だった頃は、玲のここはわたしだけの特等席だった。ここにいる時だけは、外のことは何も考えなくてもいい。……あったかくて、くすぐったくて、たまにいたずらされるのは少しだけ嫌だったけど、でも、とっても安心できた」

「…………でも、もうクロは烏じゃない。人の女の子だよ」


無意識に頭を撫でようとしていた手を、自分はそっと地面に下ろした。


 代わりに、焦げ付いて硬いパンを少し千切って、これ以上余計な言葉を吐き出さないように口の中に詰め込む。


「……わたしは、変わったのかな?」

「変わったよ。すごく変わった」


クロは、黒色から白色に変わった。


 嫌われ者だった一羽の烏から、人の姿をした魔者になった。


 烏なのに、白みたいな耳と尻尾が生えている。


 そしてなにより、とても……そう。女の子になった。


「クロは、未来を選べるようになったんだよ。だから、過去は忘れるべきだ」

「……わからないよ」


自らの手のひらを見つめながら、クロは言葉を溢す。


「見た目は変わったよ?憧れてた人に、わたしはなれた。……でも、それだけだ。中身は烏の頃のまんまなんだよ。おバカで、他人に迷惑ばっかりかける、皆んなから嫌われるお邪魔な子だ」

「皆んな?」

「……玲は、変なんだよ」

「変で結構」


皆んなから嫌われていると思い込んでいるクロが、その考え直すきっかけになるのなら、変に思われるくらいなんともない。


 クロはまだ、生まれたばかりだ。きっとこれから、やりたいこと、行ってみたい場所が数え切れないほどできる。それなのに、過去に囚われて前向きに生きることを諦めては欲しくなかった。


 でも、それは自分勝手な考えの押し付けでしかない。


「……無理だ。空を飛ぶことしかしてこなかったわたしが、いきなり未来だなんて。あの星の空でさえわたしには広過ぎたのに……。もう、寂しいのは嫌だよ……」


同胞が害獣として駆逐された星で運良く生き延びた一羽の烏は、別の星で人としての生きる機会を得た。それなのに、烏として過ごしてきた長い孤独の時間が、新しい未来を選ぶことを妨げる。


 そんなクロの足を引っ張るのが、過去だけだったならどれほど良かっただろう。可能性の前で変化を許さずに足踏みを強いているのは、一体どこの誰だ。


「冬にしよう」


自分は、声に出して宣言した。


「来年の七星祭の夜。それまでに、一つでいい。素敵な夢を見つけよう」


生まれも、容姿も、境遇も。まして、才能のあるなしなどこれっぽっちも気にして欲しくない。だから、夜までに決めて欲しかった。


「そうと決まれば、善は急げだ。時間は有限だからね。それまでにクロと一緒にやりたいことが、たくさん、たくさんあるんだ」

「……玲?」

「まずは絵を描いてみようか。歌もいいね。料理も捨てがたい」

「ちょっと、玲?わたしまだ何も言って……」


突然のことに戸惑うクロを無視して、自分は数え切れないほどの未来たちを列挙した。


 何も知らないクロは、何者になることを選ぶのだろう。そのことを考えていると、何故だか少し楽しい気持ちになれた。


 だから、目前にある魅力的な未来だけは、絶対に言葉にはしない。


「……もう。玲は時々おかしくなる」


だって、口ではそんなことを言っているクロだけれど。クロは自分の願いを、きっと受け入れてしまうだろうから。


 この世の全員に配れるほど幸せは決して多くはない。


 なら、自分の答えは一つだ。


「クロの未来が、どうか幸せで溢れていますように」


……そしてどうか、自分の未来と交わることがありませんように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る