第30話 魔者

 吐いた息も凍るような、そんなひどく寒い朝。しんと静まり返った冬の強ばった空気を、不穏な音が激しく震わせた。


「……雪だ」


異音に叩き起こされて真っ先に目に入ったのは、ふわふわで真っ白な雪のひとひらだった。


 寝ながら夜空を見たいと言う女の子の要望で修復せずにいた屋根の穴から雪が入り込み、寝藁の上をうっすらと白く覆っている。以前なら寒さに震えて寝るのもままならなかっただろうが、慣れとは怖いものである。


「あれ、いない?……どこいったんだろ」


今すぐにでも女の子に雪を見せたくて、起こしてあげようと隣を見るも、そこはすでにもぬけの殻だった。


「仕事かな?……でも、今日は休みだったような」


女の子の行き先のあてを探して、ボロ小屋の中をざっと見回してみる。


「…………」


額から嫌な汗が流れた。


 一つ、あるはずのものがなくなっていた。


 凄まじい悪寒に急激に意識が覚醒していく中で、その予感は確信へと変わっていく。


「……っ!白さん!どこですか!!」


たった今自分を叩き起こした、空気が破裂するかのような重たい異音。その正体に、たった一つだけ心当たりがあった。


 女の子が猟師になって初めて貰ったお給料で買ってくれた茶色のダッフルコートを急いで羽織り、袖もまともに通さぬうちに駆け足で表へと飛び出す。


 そこには、一面の銀世界が広がっていた。


 方向感覚を見失うほどの渺然たる雪景色は、どんなものをも白に塗り潰して隠してしまえそうな魔力のような物が感じられる。


 それなのに、自分の探していた女の子の姿は、あまりにも見つけるのが容易だった。


「あぁっ…………」


しんしんと降り積もった純白の中で、唯一温かで鮮やかな色。


 それは、女の子から流れ出る血が雪を赤く染め上げた色だった。


「白さん!?」

「……ぁ……ら?」


女の子の腹部からは、どくどくと脈打ちながら絶え間なく血が噴き出ていた。今すぐにでも対処しなければ、失血死は免れない量だ。


「ごめん、ね。わたし、あんなに大見え切ったのに、引けなかったよ」

「話は後で聞きますから!今はとにかく踏ん張って!止血して村まで連れて行きます!」


焦って動揺していた自分は気遣う余裕などなく、怒鳴るように女の子に言った。


 正しい止血の仕方なんてわからないし、女の子が今動かして良い状態なのかも見当もつかない。でも、何もしないと言う選択だけは許されなかった。


 ここには、自分しかいない。女の子を救えるのは、自分だけなのだ。


「……だめだよ。村の人に見られたら、きっとひどい目にあう」

「そんなのどうでもいいです!こんな安い命、いくらでも差し出して見せます!……他人を見殺しにするような人にだけはなりたくないんですよ。わかったら、大人しくしててください」


自分は羽織っていたコートを投げて、着ていた肌着を脱いで女の子の患部に押し当てた。


 知識のない人間の雑な応急処置に、女の子は痛みに大きく口を開いて泣き叫んだり、今度は痛みに耐えるために歯を食いしばって苦しそうに呻く。やめてくれと何度も拳で殴られながらも、女の子が意識を失ってしまわないように言葉で励ましながら、自分は心の中で必死に何度も謝り続けた。


 自分が医学を少しでも齧っていれば、女の子にいらない苦痛を与えることもなかった。もっと言えば、狐の彼女のように医者の道に進んでいれば、今この手で女の子を助けられたはずだ。


 それなのに、女の子の前にいるのは、何もできない自分だけ。医者の彼女でもなく、体格が良く知識もある猟師さんでもなく、また幼い頃から女の子に好意を寄せていたお弟子さんでもない。


「ふーっ……、ふーっっ…………」


喋ることもままならない女の子に、先ほどまで着ていたコートをそっと被せ、自分は一旦必要になりそうなものを小屋まで取りに戻る。


「……んっ!…………あっ!?」


心細そうな声を上げる女の子を置いて、全力で部屋の中を物色する。病院で払うことになるであろうお金や、女の子のために使ってしまった服の代わりに自分とお揃いの女の子のコートを今度はしっかりと着込み、村までの長い道のりにしっかりと備える。


「忘れ物はないよね、大丈夫だよね」


そんな不安から出た言葉に、もちろん答えは返ってこない。


「急がなきゃ」


自分は女の子を慎重に背負って、信頼できる人の居る村へと歩き出す。止血したはずの患部からは、しかし、未だに血が染み出していて、背中がじんわりと生暖かい。


「わかってるんでしょ?」


そんな言葉を、女の子は耳元で囁く。


「何のことですか?」


余計なことを考えたくなくて、自分は息をするように嘘をついた。


「……ねぇ、わたしのおうさま」


意識が虚ろになってきたのか、女の子が妙な言葉を口にし始める。迫り寄る死の感覚に、自分は可能な限り歩くペースを上げた。


「ちょっと、いじわるだけど。……でも、とってもやさしい、おうさま」


そんな呼びかけに返事をしたくても、貧弱な体は女の子一人背負って歩くだけで限界だった。


 本当なら、走って村に駆け込みたい。でも、それは自分の体では叶わない。


「ずっと、まってたんだよ?なのに、なんで?なんで、わたしなの?ほかにもたくさんいるのに、どうして?……ひどいよ」


世界は腹が立つほど不平等だ。幸せはたくさんの幸せを呼び、不幸は更なる不幸を引き寄せる。ようやく女の子は普通になれたというのに、その希望は、未来は、あっけなく誰かに奪われてしまった。


 幸せ者は、泥棒だ。何も持たない不幸な女の子がようやく見つけた光を、横から平然と掠め盗っていく。七星祭の奇跡のように天と地はひっくり返ることはなく、万が一それが起きたとしても、他人がそれを許しはしない。


「もしも、わたしにせかいをつくりかえるさいのうがあったら、わたしはやさしいせかいをつくるよ。だれもひとりにしない。ひとは、ひとりではいきていけないんだって、わたしはしってるから」


言うことを聞かずに喋り続けていた女の子の体が、気のせいか少し重くなったように感じた。


「ねぇ、あきら」

「……聞いてますよ。全部、聞いてますから」


命を削ってまで想いを声にする女の子に、自分も応えなければと体に更に鞭を打つ。


「わたしが、ゆめをかなえてあげる」

「何を言ってるんですか。今はそれどころじゃ……!」

「ううん、たいせつなことだよ。わたしにとっても、あきらにとっても。……だから、おねがい」


まるでこれが最期の言葉かのような口ぶりに、今まで何もできなかった自分だけれど、それでも女の子の想いだけは聞き逃さまいと、足を止めて女の子の声だけに意識を傾けた。


 それなのに、女の子はとても、とても寂しいことを口にする。


「……………………わすれて、そして、しあわせになってね」


そして、今度こそこれが最後だと、精一杯自分に抱きつきながら、悔しそうに囁く。


「”ーーーーーー“」


その想いを言い終えた瞬間、背中から重みがふっと消えた。


 何が起きたのか、一瞬わからなかった。


 恐る恐る振り返ると、女の子の姿は跡形もなく消え去っていた。


「……!?どうしてっ……!まだ、返事もしてないのにっ……!!」


気付けば、頬に涙が流れていた。初めて他人のことを想って泣いた涙のように思う。


 このまま全ての熱量を流し切って、自分も一緒に冬の白の中に消えてしまいたい。


 しかし、当然そんなことにはならない。


「……なんでだよ」


人はそう簡単に死ねないようにできている。


 だから、まるで心などないように、不細工にも生き続けてしまうのだ。


「……死ななきゃいけないのは、白さんじゃないのに……」


……これじゃあ、まるっきり逆じゃないか。


 さっきまで降っていた雪はいつの間にか止んで、見上げれば雲間から日の光が差していた。心底気の利いた嫌らしい演出に怒りが込み上げてきて、この期に及んで馬鹿にするのも大概にしろと、近場の雪を握って空へと投げつけようとして、やはり止める。


「……優しい世界は、どこにあるんだよ」


自分は女の子が望んだ自分であり続けるために、女の子の血の付いたコートを強く抱きしめながら、少しずつ時間をかけて全ての感情を呑み込むことにした。


 そして、たくさんの時間をかけて、ようやく立ち上がる気力を絞り出す。


「……帰ろうか」


……海の見える丘の上に建つ、誰にも邪魔されない自分たちの家。でも、もう二度とただいまの声が聞こえない、冷たくて寂しいボロ小屋に。


 冬の風を浴びながら、来た道をとぼとぼと戻る。背中に残っていた女の子の僅かな熱は、感触は。数分と持たずに、いや、初めからなかったかのように、白い雪の中へと攫われていってしまった。

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