第27話 破邪顕正の儀式

「…………疲れた」


薄暗く獣臭い部屋の片隅で、独り。古く青錆びた首輪で壁に繋がれる自分は、残された僅かな時間を過去を振り返ることに浪費していた。


 それは、ある日唐突に問われたのだ。


“あなたの将来の夢は何ですか?”


 小学校低学年の授業参観日。教室の後ろで親たちが我が子の様子を見守っている中、担任の先生はおもむろに、あたかも夢を持っていることが当然かのように、そう尋ねてきた。


 唐突な先生の質問に対して、周りの子たちは特に悩むことなく、生き生きとして自らの夢を答えた。


 そんな中、自分は答えられなかったかと言えば、決してそういうわけではない。


“ーーーー”


 具体的に何と答えたかまでは覚えていない。とにかく、その質問に自分が即答したことだけははっきりと記憶していた。


 自分がおかしいと気がついたのは、ちょうどこの頃だった。


 夢を抱くということが、周りの言う幸せという感覚が、自分には全くわからなかった。


“じゃあ、その夢を叶えるためには、どんな努力がいるのかな?”


 だから、そう続く質問には、いつも自分は答えられない。


 自分は周りが喜ぶ答えを察して選んだだけで、なりたいモノなんてなかった。


 でも、嫌でも人は何者かに成らなくてはいけない。そうしなければ生きることを許されないのだと、そう知ってしまった。


 だから、周りは楽しそうに笑っている中、自分は独り考えてしまう。


 夢を追いかけることが正しいのなら、夢を持てない者の存在価値は何処にあるのだろう。命の価値は皆平等だと他人は言う。でも、人としての義務に等しい権利を放棄して、何も目指さず、ただ生きるためだけに生きてきた怠け者の自分が、果たして周りの者たちの命と等価かと言えば、そんなことは絶対にあり得ないと思った。


 ……死にたい。


 夜になると、必ず明日の失敗を夢に見た。


 みんな頑張って行き着いた大会で、ヘマをして全てを台無しにしてしまう夢。


 不注意で怪我をさせてしまった相手に、謝罪をして仲直りをしようとして、でもどうしようもなく嫌われてしまう夢。


 目標もなく用意された道をなんとか歩き続けて、いざ社会に出ると言う時。用意した張本人たちに個性がないと指摘され、必要とされない、夢を見た。


 そんな未来を、延々と、永遠と。疲れて意識を失うまで見続ける。


 努力をしていないわけではなかった。むしろ、周りの人間の数倍は努力を積み重ねている自信があった。


 でも、全然足りないのだ。圧倒的に熱意や執着が、他人のそれに遠く及ばない。頑張っても頑張っても頑張っても、良くて凡庸。誰にも認められず、けれど無能ではないから切り捨てられず、ただひたすらに努力を強いられる。


 もうたくさんだと思った。


 社会は逸脱を良しとしてくれない。だからと言って、死ぬことも許してくれない。自分にとっての人生は、幸せなんて欠片も無い。まさに生き地獄だった。


 この命には、価値なんてこれっぽっちも無いのに。真っ暗な夢に、未来に、希望なんて一つも見えないのに。他人は盲目に、責めるように、優しく、無責任に命の尊さを謳い続けてくる。


 この程度で諦めるな。


 やれば出来る。


 お前より苦労している子もいるんだ。


 命あっての物種だよ。


 生きていれば何とかなるさ。


 ……でも、ダメなのだ。全く心に、響かない。


 小説や漫画に登場する主人公たちは、他人の言葉に心打たれて、再び前を向いて走り出す。けれど、自分の心は、そんな言葉たちを求めてはいないようだった。


 終われ。終われ。


 願うのは、命潰える、その瞬間。強いて言うなれば、自分の夢は、死ぬことだったのだろう。


 でも、それでも、無意味に死んでいくのだけは嫌で、何か自分にできることはないかと必死に探し続けていた。


 そして、ようやく見つけたのだ。


「……白さん」


生まれた星を離れ、見知らぬ土地で出逢った、魔者から忌み嫌われる女の子。


「……クロ」


自分を牢屋から連れ出して、贖罪の機会へと導いてくれた、嫌われ者の真っ黒な烏。


「あの子たちに、どうか、どうか……。幸せな未来を、お願いします」


誰にともなく、自分は溢れる感情を呟いた。


 不意に、ぎりり、と。小屋の、牢屋の、扉が開く音が聞こえてくる。


 ……時間だ。


 じゃらりと鎖を鳴らしながら、迎えに来た者の元へと向かう。


 本来、自分は項垂れて塞ぎ込んでいた方がウケが良いのだろう。

 

 でも、こちらから積極的に出向いた方が、相手に一矢報いることができるような気がしたのだ。


「……随分と大人しいじゃねーか、嘘つき野郎」


返事はしない。


 人がボロを出すときは、いつだって心を吐露する時だ。


 だから、ひたすらに心を殺す。


「お前のこと、嫌いじゃなかったけどよ。でも、人間はダメだ。それに、これで全部が良くなる。良くなる、はずなんだ。白はようやく、普通になれるんだよ」


広告の裏紙を使って書かれたくたくたの手紙を手に、お弟子さんは怒りに震えながら、そして縋るように懇願する。


「……だから、死んでくれよ、アキラ」


その手紙は、お弟子さんが想いを寄せる女の子の字で書かれた、自分の正体が記された密告の手紙だった。




「一つ聞きたい」


生贄として森の中へと連れて行かれる最中、猟師さんがおもむろに尋ねてくる。


「俺から言うのもなんだが、抵抗しないのはなぜだ?」


安全を考慮してか、はたまた危険な役割の押し付けか。ともかく、猟師さんと二人きりの空間は、気楽でいられて好都合だった。


「抵抗したところで、人間は魔者には敵いませんから」

「敵わないなら、逃げればいい。隠れればいいだろう。実際、お前は今までそうして生き伸びてきた。違うか?」

「……家主に追い出されたんですよ?今更どこに帰れと言うんですか。別に、猟師さんが匿ってくれるわけでもないんでしょう?」

「…………」

「いや、責めてるわけじゃないですからね?……ただ、今までが運が良かっただけなんです。正体がバレてしまった時点で、人間の自分に他に道はないんですよ」


犯した罪を悔い改めれば、やり直す機会を得られる。そんな簡単な問題ならば、どれだけ良かったことだろう。


 人間は、人間であるから、罪なのだ。


 それは、女の子のような半端者が、魔者たちに執拗に忌避され、また暴力の対象になるのと同じだ。半端者だから、人間だから、それだけで嫌われる。


 それは、長い年月をかけて、生命の螺旋にまで絡まるほどに深く刷り込まれた強い嫌悪だ。記憶や感情が自分たちを許しても、本能に全て塗り潰されてしまう。


 でも、不思議と猟師さんは、人間の自分に嫌悪の視線を向けてくることはなかった。


「……テツさんは人間が嫌いじゃないんですか?」


答え辛い質問に、しかし、猟師さんは率直に答えてくれる。


「俺は、そうだな。他の奴らほど嫌ってはいないってところだ」

「そうですか。嘘でも嬉しいです」

「……こんな時に嘘をついてどうする」

「それもそうですね」


自分たちの苦笑する声に、乾いた落ち葉があいの手を入れてくる。おかげで、閑散とした広い森の中であっても、寂しさを感じることはなかった。


 そんな他愛無い会話をしながら進む森は、改めて見ると、初めて見た時とは随分と景色が変わっている。


 咲き誇っていた桜はとうの昔に花を散らせ、少し前まで紅葉していた木々たちも、今はこうして地面に彩りを落としている。それも、じきに白一色に染まるのだろう。


「……トウコ」


ぼそりと、猟師さんは呟く。


 それは、猟師さんの妻となるはずの女性の名前だった。


「テツさんは、トウコさんのために猟師になったんですよね」

「……コウタか」

「はい。飾ってあった写真の話を聞いた時に」


ため息混じりに呆れているあたり、猟師さんはお弟子さんの悪癖を直すことを諦めているに違いない。


「なんでまた猟師に?かなり危険な仕事ですよね?」

「……金が必要だっただけだ。他人がやりたがらない危険な仕事は、その分報酬が高い」


猟師さんが猟師になることを選んだ頃は、ちょうど森の主による被害が増加して、村人たちが恐怖に強く怯え始めていた時期だったらしい。


 しかし、自ら率先して村人たちを守ろうとする勇敢な者は現れず、だからこそ、猟師という仕事の報酬額は以前と比較して跳ね上がっていった。どうしようもなくお金が必要な者たちにとっては、都合の良い仕事に見えたことだろう。


 もちろん、お金欲しさに猟師の道を選んだ者は、猟師さんの他にもそこそこいた。特に、”猟師さん”が成功したのをきっかけに、その数は一気に増えたのだと言う。


 しかし、その者たちが猟師を続けることはなかった。


 今こそ落ち着いた生活を過ごせているが、当時は常に森の主による襲撃を警戒しなければならなかった。一日中村の警備をし、実際に主の襲撃があれば、これを撃退。その際に壊れたものがあれば、その後始末にさえ追われる日々だ。生半可な覚悟で猟師を目指した者たちは、ことごとくこの苦痛から逃げ出していった。


 ともかく、猟師さんには類稀なる狩猟の才能があった。森の主が森の外縁に来ないよう食料が枯渇しないように生態系の管理をし、また獣避けや罠等を仕掛ける。その用意周到さに関して、猟師さんの右に出る者はいなかった。


 しかし、なぜ猟師になる必要があったのかという理由としては、金目当てだけではどうにも説得力が弱い。


 更に言えば、猟師さんは素晴らしい将来が約束されていた。それも、猟師のように危険な職業ではなく、かつ高収入な未来がだ。


「お金というなら、そのまま村の政をやっていた方が良かったんじゃ?」


そもそも、猟師さんは、わざわざ猟師になんてなる必要がないのだ。


 だって、猟師さんは、お金持ちである村長の家の子として生まれてきたのだから。


「……命の価値は、どこにある?」


自分の問いに、猟師さんは質問で返す。


 けれど、それは自分に対しての言葉ではない気がした。


 だから、それならば、その荷物、少しでも代わりに引き受けよう。


「……何があったのか、聞いてもいいですか?」

「聞いてどうする。話したところで、何が変わるっていうんだ」

「何も。……なんせ、自分はこれから森の主に食べられに行くんですから」

「……悪い」

「いえいえ。自分のことはお気になさらず」


今日。もう幾許かの時が流れれば、自分の命は潰える。それは、どう転がっても避けられない運命だと、そう信じた。


 それに、可能な限りたくさんの人たちを幸せにできた方が、この卑しい命の価値を少しでも上げることが叶う。だからだろうか、猟師さんの抱える悩みの欠片でも解消させることは、必死に頼み込んででも成し遂げたい願いの一つとなった。


「トウコは生まれつき体が弱くてな」


森の木々の隙間から覗く曇り空を見上げながら、猟師さんはトウコさんなる女性との思い出のページをなぞるように、懐かしそうに、愛おしそうに、そう言葉を紡ぎ始める。


「初めは、なんとも思っていなかった。……いや、お前さんに嘘を吐く必要もないか。正直に言えば、嫌いだったよ。あぁ、反吐が出るほどにな」

「それはまた、極端な。……もしかして、トウコさんは半端者だったり?」

「単に体が弱い、それだけの人だよ。……本当に、それだけだった」


それなのに、村の者たちはみんな、トウコさんのことを心から嫌っていた。そう嘆く猟師さんではあったけれど、かくいう自身もその一人だ。


「半端者でもなければ、人間でもない。だからこそ、誰もあいつを助けようとしなかったし、あいつ自身も半端者の扱いを知っているから、その苦痛を一人で耐えようとしてしまった」


しかし、それがよくなかった。心労が体に障ったんだろう。無理が祟って、トウコさんは病褥の人となってしまった。


「トウコと初めて話したのは、村の小さな病院で闘病する子供たちの所への慰問の時だ」

「その頃には、もう村長としてお仕事をしていたんですね」

「冗談はやめてくれ。……俺はな、三十になるまで家の仕事があるからと甘えて、来る日も来る日も好き勝手に遊び呆けていたんだぞ」


今の猟師さんからは想像もつかない過去に、自分はしばし呆気に取られてしまった。


 けれど、それで猟師さんを見る目が変わるかと言えば、そんなことは決してない。過去はどうあれ、今日も今日とて危険な森の中で、こうして立派に猟師として働いているのだ。今の猟師さんの姿を見て馬鹿にできる者など、少なくとも村の中には一人もいないはずだ。


 それに、仮に猟師さんが怠け者のままで居続けていたとしても、責める気は全くない。


「それでも良いと思いますよ。社会奉仕の精神で溢れているなら話はまた別ですけど、仕事は必要な時に必要なだけすれば良いものですよ。生活をするためにお金を稼ぐんですから、なら、そのお金に困っていないなら、働く必要もないですからね」

「変な奴だな、お前さんは。……そうだな。病院への慰問は、その社会奉仕から逃げ続けていた罪悪感とやらに駆られて、親に頼み込んで連れて行ってもらった村長としての初めての仕事だったよ」


年老いた医者たちに通されたのは、薬品臭い病院の一角に設けられた患者たちの集まる憩いの空間。そこで楽しそうに戯れあっている子供たちのその中央に、トウコさんの姿があったのだと猟師さんは言う。


「人気者だったんですね、トウコさん」

「あの時は本当に驚いたよ」

「他人からの評価って、案外そんなものですよね。その人に悪い所があるから嫌われるんじゃなくて、嫌われてるから嫌いになる。その点で言えば、病気の子供たちは、幸か不幸か、そういう外の空気から隔離されて生活してきたから、トウコさんのことを偏見無く見れたんでしょうね」

「つまるところ、俺たちの目が腐ってたってわけだ」

「そこまで言うつもりはありませんけど……。でも、それで目が覚めたんですね?」

「まぁ、それも、だな」

「それも?」


何やら含みを持った言い方に首を傾げていると、猟師さんは何か思い出したかのように急にケタケタと大笑いを始めた。


「ど、どうしたんです、急に?」

「いや、すまん。自分のことながら、あの時の俺は心底情けない男だっただろうと思ってな。こうして昔を振り返るのも、たまにはいいかもしれん」

「そうですか?……でも、コウタの前ではやめた方がいいですよ。その辺の気遣いは苦手みたいですから……」


お弟子さんとて、悪意をもって他人の秘密をひけらかすような、そんな悪人ではもちろんない。ないのだけれど、いかんせん極度に無神経であるから、知っていることはなんでもさらっと口にしてしまうのだ。


 そう、つい先ほどの様に。


“死んでくれ”


 あぁ、言われなくとも。


 そんな思いは、しかし、声には出さなかったけれど。でも、今も胸の中でもやもやと燻っている。


「しかし、お前さんみたいに気軽に話せる相手は久しぶりだ。こんな話を真面目に聞いてくれる奴は、探しても他にいないだろうよ」

「大袈裟ですよ。内容からして、相手は選ばないといけなさそうですが」

「そう言う意味ではないんだがな。……さて、どこまで話したかな?」


脱線した話を戻すために、猟師さんがそう問うてくる。


 とは言え、本当に忘れているわけではないのだろう。猟師さんはこちらの返事を待たずに、再び記憶を辿り始めた。


「子供たちにな、聞かれたんだよ。何の仕事をしているのかってな」

「ずっと病院にいる子たちにとっては、働く大人は憧れの一つだったのかもしれませんね」

「でも、俺は働くことは愚か、むしろ遊び呆けていたボンボンだ。何も答えられず、だからと言って誤魔化すこともできなくてな。……そんな俺に助け舟をくれたのがあいつだったんだ」


“むかしむかし、あるところに、ひとりのかりゅうどがいました”


 トウコさんが子供たちに向けて言ったそれは、彼らの読み親しんだ絵本の冒頭文であることを、猟師さんは後に知ったと言う。


“テツさんは、絵本の狩人さんと同じお仕事をしていらっしゃるんですよ”


 そう続けたトウコさんに、子供たちの興味は猟師さんへと向いたのだ。


「お陰で、その日は一日中子供たちの相手をする羽目になったよ。恥をかくよりは何倍もマシだが、それにしても勢いが凄くてな。帰る頃にはもうヘトヘトだった。」

「良かったですね。……でも、なんでトウコさんは、テツさんが趣味で狩りをしていることを知っていたんですかね?知り合いって訳でもないでしょうし……」

「村の病院だがな、当時は森の入り口辺りに建っていたんだ。自然の中で療養するのが一番だとか皆んなは言ってはいたが、要するに、自分たちが病気を移されたくなかっただけだろうな」

「……何と言うか、寂しい理由ですね」


その言い分は、何も間違ってはいない。だからこそ、悲しくなるのだろう。


「……あいつは、一日の大半を病室の窓から見える外の景色を眺めて過ごしていたそうだ」


しかし、森の主による被害が増してからは、人通りはめっきり少なくなり、以前は小鳥たちの賑やかな囀りが止まなかったというのに、今では朝方にわずかに聴こえるばかりだ。


 そんな中で、一人森に入っていく猟師さんの姿を見て、トウコさんはひどく心配していたのだと言う。


 そして、子供たちと同じ様に、憧れてもいたそうだ。


 人を襲う化け物を前にしても恐れることなく、自らのしたいことをしたい様にする。そんな自由と勇気を併せ持つ猟師さんは、トウコさんの希望となっていた。


「大の大人が口にするのもアレだが、その気遣いがとても嬉しかったんだ。お世辞でも何でも、自分のしてきた事を肯定的に言ってくれる人は、そう多くない。特に、俺に関しては遊んでいただけだからな。……だからだよ」

「ちゃんとした猟師になって、その場凌ぎの嘘じゃなくしようとしたんですね」

「そうだったのかもしれない。……だが、その時俺にあったのは、ただあいつに失望されたくない、期待を裏切りたくないという気持ちだけだったろうよ。とにかく、どうせ俺にはこれしか能がなかった。だから、本気で狩りをやろうと決めたんだよ」

「これまた正直ですね」

「お前なら他の奴に”バラせない”からな」

「はは、確かに」


猟師さんが初めて口にした冗談に、ケラケラ、ケラケラ、と。お互いに笑いながら歩く道は、既に先の見えない獣道だ。もうじき自分は、良くて獣の胃袋の中、最悪は食い千切り捨てられて土に還るのだろう。


「……でだ。俺は馬鹿ながら考えて、その日から狩りで捕らえた獲物を捌いて病院に持っていくことにした。病も気からと言うが、腹が減ってはそれもままならないだろうと思ってな。俺にしては良い考えだと、珍しくそう思ったよ」


善は急げと、猟師さんは早速捕らえた獲物を調理し、病院のトウコさんや子供たちに振舞った。その味に、トウコさんはうっとりと笑みを溢し、子供たちは大層嬉しそうに夢中になって料理を口に運んでくれたそうだ。その光景は、今でも鮮明に覚えているほどに印象的で、こうして猟師を続ける原動力にもなっているらしい。


「あいつと知り合って半年くらい経ったくらいか。あいつも少しずつ病状が良くなってきたって頃に、俺は急に親父に呼び出されてな。唐突に病院のトウコ達と関わる事をやめろと言われた」

「差別を扇動していた立場……と言うと、テツさんには悪いですが。その相手と実の息子が普通に仲良くしているなんて、村長としては立場がありませんもんね……」

「もちろん俺は断った。そんな俺に、親父は村長を継がせないと言い出したんだ。……俺は、一瞬だったかもしれない。でも、確かに迷った。……けどな、その迷いへの猛烈な苛立ちのお陰で、俺は全て吹っ切れた」


猟師さんは、安定した未来を捨ててまで、嫌われ者であるトウコさんたちの笑顔を取った。それは、自分の目の前にあって、しかし選べなかった道の一つだった。


「すごいですね。自分だったら諦めちゃうかもしれません」


などと。常識を持った他人たちは、何も知らないくせに、偉そうにそう称賛する。あるいは、当たり前のことだと、宣ってみせるのだ。


 けれど、その道を行った人は、この村で猟師さんただ一人だ。誰も、トウコさんたちの味方にはなってくれなかった。


「みんなに嫌われてる人を邪険にしたって誰も咎めないのに、味方になってあげようなんて……。思うことはできても、それだけです。違和感なんか呑み込んで、素知らぬ振りですよ」


だと言うのに、他人の努力を、苦痛を、自らの尺で都合よく計り、なんとも偉そうに評価する。


 極論、その一歩は、猟師さんでなくとも良かったのだ。けれど、村人たちは、そこへ至るまでの心情や過程に全く目もくれず、楽な道を選び続けた。


 だから、嫌らしく妬むことしかできない。猟師さんやトウコさんの持っている自らを顧みない優しさを、他人はどうしようもなく認め難いのだ。


「恋愛は人を変えると言いますが、テツさんの話を聞いていると、本当のことのように思えますよ。”白さん”も、これを機にコウタと上手くやってくれると良いんですが……」

「突然、何の話だ?」

「……いえ。コウタは白さんのことが気になっているみたいだったので」

「お前さんも大概だぞ。売られてもなお、変わらず彼女に気を遣えるのか」

「これは、そうです。違いますよ。……ただ、折角ですから、不幸になっては欲しくないなと、そう思っただけなんです」


そう、決して自惚れてはいけない。


 だって、自分は、持っているものを捨てただけで、孤独な女の子に必要なものを何一つ与えられていないのだから。


「多分、そう言うところなんだろうよ」

「……何がです?」

「気にするな。」


ともかく、と。猟師さんは、トウコさんと共にいる方を選んだのだと、そう言ってはぐらかした。


 家族には勘当されたものの、持ち前の狩りの才能を活かして猟師の職についた彼は、これまで通りトウコさんの元へと通い詰めた。その甲斐あってか、トウコさんの体調はみるみる回復していき、トウコさんが病院を退院した後は、今暮らしている家で二人慎ましく暮らし始めたのだと言う。


 そして、その日はやって来る。


「後は、今のお前さんと同じさ」

「……そうだったんですか」

「……済まない」

「謝らないでください。それと、助けようなんて思う必要、これっぽっちもないですからね」


不幸にも生贄として選ばれてしまったトウコさん。いや、たくさんの村人の恐怖と悪意によって死を押し付けられただけのトウコさんは、どんな思いを秘めてこの道を行ったのだろう。その隣で猟師さんは、いったいどんな感情を抱いていたのだろうか。


 きっと、今の自分の心模様に少し似ているに違いないと、そう思った。


「……そうだ。何か、伝えたいことはありますか?」

「…………待っていてくれ、と」


あまりに強い決意を、そして、たくさんの後悔を孕んだ猟師さんの寂しげな声音に、自分は一言一句漏らすまいと、静かに想いに寄り添う。


「きっかけがなければ、俺は村の連中と同じように、トウコを半端者扱いして害する側にいた。……それも、それを扇動する立場にだ。みんな、お前が何を考えているのかわからなくて、怖がっていた。見返りを求めない優しさに、怯えていたんだ」


お前は優し過ぎた。


 だから、みんなも、俺も、お前に甘えてしまった。


「なぁ、お前は、好きな相手はいないのか?」


唐突な猟師さんの問いに、自分は当然の様に首を横に振った。


「なら、なぜ彼女のためにそこまでできる?」

「……そう言われましても。でも、猟師さんが考えている様な特別な理由ではありませんよ」


そう。これは、ただの清算なのだ。


 だから、どうせなら、持っていけるもの全部を持っていこう。そう考えただけの、つまらない話に尽きるのである。


「テツさんは長生きしてくださいね。それまで、向こうでなんとか繋いでおきますから」

「……売ったことを後悔していて、彼女がお前さんを追ってきていても、俺はおかしくはないと思ってるんだがな」

「万が一白さんが来たとしても、それで生贄を差し出さないわけにもいきませんよね?考えても意味のない話ですよ。……そうでしょう?」


女の子がこの場所に来ることは、決してない。何故なら、幼い頃に村から追い出された女の子は、生贄の文化を知らないからだ。だからこそ女の子は、気安く森に出入りしていたのだから。


 そして何より、自分を助けてはいけないということを、女の子は嫌というほど知っている。


「恨んでいるのか?」

「嘘をついていた方が悪いんですよ」

「そういうものは、理屈で割り切れる感情ではないと思うんだがな」

「仮にそうだとしても、外に出すべきではないですから」


それに、そもそも自分には怒る権利など、鼻っからありはしない。


「……それなのに、誰かが自分のために怒ってくれることを期待せずにはいられないのは、なぜなんでしょうね」

「それこそ、あえて口にする必要もないだろうよ」

「確かに。そうでしたね」


そう返した自分と、猟師さんは顔を合わせてはくれなかった。


 気付けば、猟師さんはここまで休むことなく動かし続けていた足をピタリと止めていた。そして、目の前に広がっている湖の湖面を、じっと静かに見つめている。


「……ここが?」

「そうだ」


森の中に突如姿を現した湖は、神秘的で美しくも、不思議と物悲しい雰囲気を纏っていた。そう感じたのはきっと、湖の辺りに一切の植物が見当たらないからだろう。


「随分と荘厳なお食事処なことで」

「相変わらず呑気なもんだな。本当に自分の立場を理解しているのか?」

「もちろんですよ。森の主の生贄役です」


自分は、死ぬためにここへ来た。だから、何も怖がる必要はない。


 ……ないはず、なのだけれど。


「……自分は、何のために生まれてきたんでしょうね」


死を目前にして、今更のように呟く。


「とても、下らない人生だった」


自分には、かけがえのない忘れたくない思い出も、手放すには惜しい輝かしい未来も、何もなかった。今日この日まで、生きるためだけに生きてきた自分には、この生に何の未練もない。


 ……やっぱり、嘘は苦手だ。


 自由を謳えども、しかしいくらでも替えが効く世の中で、皆んなに悪者役を強いられた女の子たち。


 そんな君たちに自分は、溺れるほどの幸せを贈りたかった。


「赦してくださいね。これでも、頑張った方なんですよ?」


想いを吐露する湖面に映るのは、ひょろりとして頼りない自分の姿だ。


 涙は流さない。でも、せめてぐちゃぐちゃな感情だけは整理して逝きたかった。


 自分にできたのは、全てを振り出しに戻すことだけだ。それも、一時限りの危うい日常を贈ったに過ぎない。


「だから、無責任ですけど、後は自分の頑張り次第です。期待していますからね。応援、してますから」

「…………」


背後から猟師さんが忍び寄ってくる感覚に、自分は咄嗟に身構えた後、悟った様に弛緩する。


 最期の時間に想うのは、君のことだ。


「……、ごめんね」


君は、自分のことを赦してくれるかな。


 いや、赦してもらえなくてもいい。そんなことは関係ない。自分はただ、一人身勝手に想うだけだ。


「君を理解して、寄り添ってくれる。どんな時でも一緒にいてくれる、そんな大切な相手が見つかると……………………信じてるから」


そう言葉を紡ぐと、なぜだろう。不思議と胸が苦しくて気持ちが悪くなる。


 それはきっと、たくさんの罪悪感と、悔しさのせいだ。


「安心しろ。全て上手くいく」

「……はい」


猟師さんの気配が、背後から鋭く痛いくらいに突き刺さってくる。その手に、銃も刃物もない。それでも、自分を死へと導く凶器には違いなかった。


 猟師さんに言われた通り、目を瞑ってその場で時を待つ。


「だから、次は間違えるなよ」


次?


 そんなもの、信じるだけ無駄だ。


 だって、仮に次があったとしても、そこに今の自分は欠片も無いのだから。そんな次は、これっぽっちも欲しくない。


「……じゃあな」


あと数秒で、湖の水底へと沈んでいくかの如く、自分の命は暗く静かなところへ落ちていくのだろう。その方がきっと、意識あるまま獣に喰い千切られるより幸せな終わりに違いない。


 だから、そんな静かなる死を願い待ち焦がれていた自分は、突然聞こえてきた辺りの木々を震わせるほどの強烈な呼び声に、体が跳ねるほどにひどく驚いた。


「あきらっ!!」

「…………っ!?」


今更聞き間違えるはずもない。自分が救いたいと願った、か弱い女の子の声だった。


「なんで……っ!?……ん、げほっ……ぁ。まって、いやだよ!わたしをおいてかないで!!ひとりにしないでよっ……!!」


枯葉の積もった足の取られる山道を全力で走りながら息絶え絶えに吐き出すのは、もはや言葉ですらない。女の子が抱いてるだろう、純粋な感情の咆哮だ。


「どうして……」


あり得ない展開を目の前に、自分は堪らず頭を抱えた。


 ……誰だ、余計なことをしたのはっ!


 その問に答えたのは、この未来を予見していた猟師さんだった。


「因果だろうよ。……まさか、本当に取り戻しにくるとまでは考えていなかったがな」

「それにしたって、この場所は猟師さんしか知らないんですよね?それに、白さんは生贄の話も知らないはずです」

「何を言ってるんだ?ともかく、どういう手段を取ったのかなんて、俺には分からん。だがな、その不可能を可能にするだけの努力をしたからこそ、こうしてここまで来れたことだけは確かだろうよ」


因果だと?


 不可能を可能に?


 ……何を馬鹿なことを。


 ただでさえ戸惑いと苛立ちで混乱した頭に、遅れてもう一つ聞き慣れた声が聞こえてくる。


「カー!」


……あぁ、なるほど。


 女の子はきっと、クロと共にここまで来たのだろう。空からならば、自分たちの姿を見つけることくらい雑作もないはずだ。


 しかし、その考えを正解とするには、いささか女の子の様子がおかしかった。


「カーッ!…………カーッ!!」

「ちょっ、やめてよ!さっきから何でわたしの邪魔するの!?変だ!玲もクロも、おかしいよ!!」


クロは女の子を先導することは愚か、むしろ、女の子がこの場に到達するのを阻むかの様に、目の前でバサバサと音を立てて羽ばたいていた。


 何故の行動なのか、自分にはとんとわからなかった。なにせ、自分はただの人間でしかなかったから。


 しかし、所詮は一羽の鳥だ。女の子が本気になれば敵うわけもなく、クロは女の子のか細い腕で最も容易く払い除けられてしまう。


「玲!ねぇ、玲ってばっ!」


名前を呼びながら駆け寄ってくる女の子から、自分はそっと顔を背けた。


「どうしたんです?」

「……それ、本気で言ってるの?わたしだって、怒ることはあるんだよ」

「……すみません」


謝る気は毛頭なかった。


 でも、日頃から身に染み付いた癖というものは、なかなかどうして御せない。


「……村でね、色んな人に褒められた。人間を捕まえてくれたおかげで、子供が生贄にされずに済んだって。その子のお母さんにはね、泣きながら感謝もされちゃったよ」


そういう女の子は苦笑していたけれど、かと言って満更でもない表情だった。これまでは周りから嫌厭され、孤独に生活することを余儀なくされてきた女の子だ。そんな相手からの心からの感謝は、相当嬉しかっただろうことは想像に難くない。


であれば、尚更のことわからない。


「良かったじゃないですか。これで、晴れて普通の仲間入りができますね」

「……いじわる」


駄々を捏ねる女の子は、やにわに物言いたげな目付きで猟師さんを一瞥した。


 すると、言わんとしたいことを察してか、猟師さんは生贄に背を向けて遠くへと行ってしまう。


「ねぇ、玲?」


女の子の声は、嫌いな怒りの色をしていた。


「何で自分から生贄になったりしたの?あんな手の込んだ手紙まで用意して……。そんなにわたしが普通になりたい様に見えた?」


もちろん。


 そんな火に油を注ぐ様な余計な言葉は、当然口にはしない。


「コウタくんにも会ったよ。わたしのこと、自分のことの様に喜んでくれてた」

「言った通り、コウタは優しかったでしょう?」

「うん。でね、いきなりだけどって、告白までされちゃったんだ」

「おめでとうございます。これを機に、村に住むのも考えてみてはどうです?きっと……というより、絶対に今よりも快適な生活が送れますよ」


半端者だと迫害されて、地主に家を奪われて、他に行く当てがなく渋々住んでいたボロ小屋だ。風が吹けばギシギシと家が軋み、屋根は隙間だらけで雨でも降ればひとたまりもない。そんな、家とはとても呼べない簡素なボロ小屋なんかに、女の子の評価が改められた今、留まる選択肢などないだろう。


 なのに、女の子の表情は優れない。むしろ、切なる望みが絶たれたかのように、意気消沈といった様子だった。


「……ねぇ、玲。知ってたんだよね。コウタくんが、その……。わたしのこと、好きってこと」


恐る恐る確認する様に尋ねてくる女の子に、自分は一呼吸置いてから返答する。


「そんな、知りませんよ。それこそ、魔法か何かでもない限り、他人の感情なんてわかりっこありませんからね」

「それは、うん。そうだね……」


他人の思考や感情は、絶対に共有することはできない。そんなことは、幼い子供でも知っているようなつまらない常識だ。


 もちろん、女の子がそんな単純なことを知らないだろうなんて、これっぽっちも思ってはいない。だからこれは、これ以上の穿鑿はやめろと、そういう意図を持っての言葉だった。


 しかし、女の子は捻くれ者のように目敏く、こちらの揚げ足を取ってくる。


「他人の考えてることは分からない。……だったら教えて?今、玲が考えてること。わたしが納得できるように、最初から、最後まで」


……勘弁してくれ。


 自分は内心、もう参っていた。


 何のためにと問われても、答えになるような揺るがない思いは、もうわからなくなっていた。


 最初こそ、女の子に普通を贈るために生贄になることを選んだ。でも、今こうして責められていると、間違いだったのではとも思ってしまう。


 そもそも、なぜ女の子を幸せにしなければいけなかったのだろう。


 その根っこがもう、記憶のどこにも見当たらないのだ。


「とにかく、一旦帰ろう?」

「そんな勝手は許されませんよ。生贄を捧げなきゃ、また村の人たちが襲われるかもしれないんですから」


そんなことを言っていると、地面が突然揺れ、湖が不穏に波打ち始める。騒ぎ過ぎて獣の眠りを妨げてしまったのかも知れない。


「ほら、念のため逃げとかないとですよ」

「それは玲もでしょう?」

「いいから、早く早く!」


至って冷静に、淡々と。自分は怯える女の子の背中を押した。


 しかし、今の女の子はテコでも動きそうにない。


「おい、これ以上は危険だ」


湖が見せる異変に、急いで戻ってきた猟師さんが女の子に言う。


「……何をぽかんとしているんだ。お前さんも一緒に逃げるんだよ」

「え?」


あまりに予想外だった猟師さんの言葉に、自分は間抜けな声を漏らしてしまう。


「こう何度も失ってたまるものか」

「それじゃあ、獣がまた暴れて……」

「……お前にはまだ伝えていなかったが、主は年に一度、この時期にだけ目を覚まして食事を探すんだ。ただ、それだけなんだよ。予め腹に溜まりそうな獣を、辺りに両手では足りないほど仕込んである。だから、生贄なんて必要ない」


猟師さんは、死を覚悟していた自分に向かって、そう断言してみせた。


「この十数年、俺だって無駄に過ごしてきたわけではないんだ」


なら、なぜ生贄の文化が村に未だに残っているのだと、この場で猟師さんに問い詰めてやりたかった。


 猟師さんは、確かに自分たちに言ったはずだ。森の主は凶暴で危険だと。だから、気軽な気持ちで森に入っては決してならないと、そう忠告したではないか。だからこそ女の子に銃を譲ってくれたのだろうし、何かと気を遣ってくれていたのだろうから。


 それに、今だってそうだ。猟師さんはこの瞬間まで、気を張り詰めたような表情で真剣に生贄に対して疑問を抱き、自分にトウコさんの面影を見ながら悔しさに歯噛みしていたはずだ。


 それなのに、どうして今更そんな台詞が猟師さんの口から飛び出て来たのか、それが心底不可解でならず、素直に猟師さんの指示に従う気になれない。


「お前にはまだ出来ることが残ってるだろう。なら、生きろ」


そんな陳腐な言葉で、考えを改める者がいるのなら、是非この目で見てみたいものだ。


 そう思うのに、心はどうにもままならない。自分の心の片隅で、謎の義務感がむくむくと膨れ上がっては、勝手に生き伸びる方を選んでしまう。


「……わかりました」

「よし!二人とも、離れるんじゃないぞ!」


そう言って、湖を背にして逃げ出そうとした瞬間。楽な道を選ぼうとした時に限って事は動きだす。


 不気味な地鳴りの音を伴いながら湖面の中央が山のように盛り上がっては、火山が噴火するかの如く激しく水飛沫が宙を舞った。次の瞬間には、滝のような濁流が地面へと音を立てて降り注ぐ。


 そして、その中から湖の辺りに項垂れるように、真っ黒で不気味な獣が這いずり出てきた。


「グルルルルルァァァァアッ!!」


喉の中に水が溜まっているのか、なんとも息苦しげな咆哮は、それでも恐怖を感じるには十分すぎる音量と迫力を持っていた。


 水で濡れてしまった顔をさっと拭う。その拍子に口に付いてしまった湖の水は、奇妙なことにほのかに塩の味がした。


「あれが、森の主……」


改めて見ると、その姿は巨大なことこの上ない。それこそ、大きな家一件分にも及ぶかといった巨体だった。


 今まで息をすることを忘れていたかのように、空気に飢えたずぶ濡れで黒ずんだ獣は、勢いよく大きく顎を開けて必死に呼吸をし始める。喘鳴のようなひゅうひゅうという息苦しい音色を聞いていると、なんだかこちらまで苦しくなる。


「ぁ、玲……」


いつの間にか背中にへばりついてる女の子が、目覚めたての獣を刺激しないように小さな声で不安を訴えてきた。


 せめて少しでも気が楽になればと、そっと頭を撫でてみる。幸い、泣くほどの大きな恐怖ではないらしく、女の子は自分の手のひらの温もり一つで、見てくれだけであったとしても平静を取り戻してくれた。


 再び地響きを伴って森の主が吼えた。しかし、その音は大きく開かれ鋭い牙が覗く口からではなく、巨体の胃袋の虫が空腹を訴えるものだった。


「もしかしなくてもわたしたち、食べられちゃう?」


何を今更なことをと呆れつつも、自分とて生贄が無意味だと知った以上、むざむざ獣に食べられてやる義理はない。どうにかしてこの窮地を脱することはできないものかと、必死に頭を巡らせていた。


 しかし、所詮は一般人の、それも肝の小さい人間が平静を繕って回している思考だ。目の前の巨大な獣を前にして焦り恐怖している状態では、ろくな考えも浮かんでこない。それでも強がりはやめられなくて、永遠と打開策を探し続けた。


「お腹を空かせた獣からこっそりと逃げる方法……」


この場にいる全員が、共通した一つの策を思いついてはいた。


 でも、それはできる限り選びたくはない。


「ダメだからね」

「……わかってますって」


信用がないのか、女の子には念を押すようにそう言われてしまう。


「こうして目覚めてしまった以上、どうにかして主の注意を引かねば厳しいだろうな」


猟師さんは獣から目を離すことなく、緊張した面持ちで言う。


「……でも、それだと必ず誰かがリスクを負うことになりますよね?」

「この期に及んで、全く……。あのな、誰かではなく、それは俺の仕事だ。譲る気はない」

「そこまで言うってことは、テツさんは勝算が?」

「ある……と言いたいところだが。俺が言えるのは、俺に何かあったとしても振り返らずに二人で逃げろってことだけだ」


猟師さんはトウコさんの命を奪った因縁の相手と決着をつけるつもりなのか、あるいは、救えなかった命の代わりに自分たちを助けようとしているのかもしれない。


 もしも後者であったとしたら、全く余計なお世話である。


「……いいですよ。もともと自分の役割だったんです。テツさんたちは逃げてください」


これ以上の問答は意味がないと、服にしがみついた女の子の手を優しく解いてから、自分は一人、獣の前へと進み出る。


 すると、そんな自分を味方をしてくれるかのように、今まで姿を見せなかったクロが飛んできては、右肩にそっと止まった。


「カー!」

「……なんだろうね。変だってのはわかってるんだけど、ちょっと懐かしいような気がするよ」

「カ〜?」


 クロの危機感のない間の抜けた声は、心に安心を与えてくれる。それと、ほんのちょっぴりの勇気もだ。


「迷惑かけてばっかりでごめんね」


恩を仇で返す自分を、どうか嫌いにならないでね。


「……玲は、意地悪だ」


女の子が後ろで文句を言っていたけれど、もう決めたことだからと聞き流す。


「……さて、森の主さんとやらは、自分一人で満足してくれるかな?」


そんな独り言を呟いていると、自分たちの接近に気がついた獣がゆったりと首をこちらへと向ける。


 悪に立ち向かう正義漢のように、真っ直ぐ獣を見据えてみる。


 けれど、目を合わせるにも、獣の瞳はどこにも見つけられなかった。


 それどころか、顔の輪郭さえも掴めないほどに水草の塗れた汚らしい長毛に覆われていて、文字通りの化け物といった外見だった。水を含んで重たいだろう毛に塞がれた視界で、一体全体どのようにして獣が周りの景色を見ているのか、自分は不思議でならなかった。


「まぁ、そこは魔者だもんね」


第六感と言ったような獣の直感が、獲物の気配を捉えている。そんな巫山戯た力が罷り通るのが魔者たちの常識なのだから、人間としては全く敵わない世界だ。


「グルルァ……」


約一年振りに開かれる凶悪な顎が、自分を噛み砕こうと近づいてくる。


 首を軽く捻り胴体を左右から挟み込むように構えるのは、さながら鈍な鋸刃の鋏だ。水底で腐った泥のように濁った吐息を漏らしながら、泡だらけの唾液でぬらりと怪しく光る牙が、ギリギリとぎこちなく体に食い込んでいった。


 痛みを感じる余裕なんてない。唯一、寝起きの獣に弄ばれて一息で逝けないかもしれないという恐怖が自分の思考を占めていた。


 そんな自分を現実に引き戻したのは、未だに肩に留まるクロの姿だった。


「……何してるの!ほら、早くクロもテツさんたちの所に!!」

「カー!!」

「わがまま言わないで!……って、っちょ、なんで突くの!いた、痛いってば!」

「カーーーッ!!」


クロは突然、まるで怒ったかのように鋭い嘴で頭を突いてきた。


 自分の知っている温厚で優しいクロはどこへ行ってしまったのか、今のクロは怒髪天と言った形相だ。そして、仕切りに何かを訴えようとしているように見えなくもない。


 けれど、その肝心の何かを知る術を自分は持ち合わせていないのだ。


 だから、獣が不意に自分を離した理由にも、全く見当が付かなかった。


「……どういうこと?」


置かれている状況が把握できずに立ち尽くしている自分に、獣は再び口を開く。けれど、それはこちらを食べるためではなく、また別の意味を持っているように思えた。


 しかし、開かれた口から聞こえるのは、やはりひゅうひゅうという掠れた音だけだ。


「カー!カー!」

「…………」

「カー!」


種族は違えど、同じ獣同士何か通じ合うものでもあるのだろう。頻りに鳴くクロは、森の主へと話しかけているようにも見えた。


 獣の様子が変化したのは、そんなクロがおもむろに自分の肩から飛び立ち、獣の元へと向かって行った時だった。


「……何あれ?地面が真っ黒に……」


猟師さんに掴まれて動けないでいる女の子が、背後で驚きの声を上げる。直接確認したわけではないが、きっと猟師さんも同じような反応をしていたに違いない。


 獣は仲間を探して遠吠えする孤独な狼のように、天を仰ぎ哭いた。すると、獣を中心として辺りが突然薄暗くなり、地面がぐつぐつと闇色に染まり始めたのだ。


「……おっと」


 自分の足元まで伸びてきた歪で不出来な闇色に、危険を感じてひょいと飛び退く。


 所々虫食いではあるものの、湖の周囲一帯を丸ごと飲み込むほどの黒は、陽の光すら吸い込んで底が見えない。


 そんな奈落の入り口とも取れる気味の悪い大穴の中心で、獣は何を思っているのだろう。


 そして、その側で何かを待つように羽ばたいているクロは、何を待っているのだろうか。


「クロ、危ないから戻っておいで?」


そう声をかけても、クロは嫌そうな声で鳴くばかりで、一向にこちらには帰ってこない。


 黒が辺りを侵食し、その度に少しずつ後退していた自分は、気付けば女の子の隣にまで来ていた。


「……もう、離さないんだから」


 むすっとした表情で泣きそうになりながら上目遣いで言う女の子に、自分はこの時ようやく夢を諦める決心がついたように思う。


「後でもいいから、しっかりと謝っておけよ。仲直りは早い方が絶対にいい」

「……わかりました」


安全な場所まで逃げることができたら、女の子の機嫌が直るように努力しようと心に決める。


 とは言え、自分はこのまま引くわけにはいかなかった。


「クロ、急にどうしちゃたんだろう……」

「……朝起きた時から変だと思ったんだ。私が村や森へ入ろうとすると、突然間に入って来て通せん坊してくるんだもん。わたし、必死に玲を探してここまで走って来たんだよ?なのに、さっきなんて突かれたり体当たりまでして来たんだ」

「でも、ここままじゃ何が起こるか……。森の主の力でクロが怪我でもしたら大変ですし。どうにかしないと」


先程から理解不能な行動が目立つクロは、今も変わらず獣の側に留まっていた。


 魔者だけが持つ特殊な力が、どれほどまで埒外な効果を発生させられるのかはわからない。だから、それが攻撃的なものではないと断言できない以上、最悪を想定するという自分の判断は間違っていないはずだ。


 しかし、女の子の意見は自分とは違う視点で現状を見ていた。


「……もしかしたら、別の子なのかも」

「あの子は、クロとは違う子ってことですか?」

「うん。きっとそうだよ。それにね、森の主さんは飛べないけど、烏は空を飛ぶ翼がある。あの子が本当はクロだったとしても、何かあってもちゃんと逃げて帰ってくるって、わたしは思うんだ」


女の子は言外に、だから早く逃げようよと、そう訴えてきているように感じた。


 元の星では、家畜やペット以外の害獣は悉く排除されていた。けれど、この月は違う。烏の一羽や二羽程度、何も珍しくはないのだ。


 だから、女の子の言う通り、目の前の烏がクロだと言う保証はない。


 そんな言い訳を、自分は素直に受け入れようと思ってしまった。


 何事も優先順位というものがある。仮に他の項目の中で譲れない一番であったとしても、人は抗うことができない常識に縛られているのだ。


 女の子の命と、烏であるクロの命。


 どちらの方が大切か。


 そんなもの、改めて論ずるまでもない。


「……わかりました。主が他所を向いてる間に、急いで逃げてしまいましょう」

「帰り道は任せろ。ただ、無いとは思うが、他の奴に見つかってもまずいことになる。少々遠回りをさせてもらうが、構わないな?」

「はい。色々とありがとうございます」

「感謝されてもな。結局、俺は何もしていないさ。あいつの時も、お前さんの時も。……さぁ、いくぞ」


猟師さんのその一言を合図に、開けた湖に背を向けて、忍足で木々の生い茂る場所まで寄る。


 獣が追ってくる気配はなかった。それでも、獣の意識が及ばないだろう距離まで十分の保険をかけてから、自分たちは走り出した。


 途中、視界が一瞬暗転したかのような感覚に陥る。その妙に生暖かく包み込まれるような闇を、自分はどこか懐かしく感じていた。


 それと時を同じくして、再び激しい地響きが起こる。


 ……ごめんね。


 その言葉は、もう二度と届くことはないのだろう。


 こうして自分は、願ってやまない夢を諦め、たくさんの未練を残し、二つと無い命を身代わりにして、女の子たちと共になんとか逃げおおせることができた。

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