第26話 桜鬻ぐ

「明日だね」


表に広げた寝藁の上で静かに夜空を見上げていると、隣で眠っていたはずの女の子が、ゆっくりと体を起こしながらにそう言った。


「もう遅いですよ」

「ちゃんと寝てたんだよ?……でも、明日が楽しみで、起きちゃった」


七星祭りの前日。自分たちは、明日の天体ショーのリハーサルを兼ねて、小屋の外で寝ることにしたのだ。


 女の子は、まだ眠り足りなそうなとろんとした目をゴシゴシと拳で擦る。その仕草は、確かに猫のように見えた。


「ぐっすりだね」


女の子は、自分の膝の上で眠るクロをぼーっと眺めながら、眠気で緩みきった笑みを浮かべる。


「ですね。おかげで身動きが取れなくて」

「でも、クロ、とっても気持ち良さそう」

「そうだといいんですけど……。起きた時に体が痛くなっていないか、少し心配ですよ」


何が良いのか、クロは自分が寝た頃になると、こっそりと体の上に乗ってきて寝るのだ。その度に、寝返りで下敷きにしてしまわないかと不安で、おちおち眠ることもできなくなってしまう。


 でも、なぜだろう。クロと過ごす静かな時間は、不思議と苦には感じなかった。


「クロとの水浴び、楽しかったな。……玲がいきなり水鉄砲を向けてきたときは、少しびっくりしちゃった」

「良い思い出になりましたね。クロが途中で飛んで行っちゃったのが残念でしたけど……」

「それは、玲がクロに触ろうとするからだよ。クロだって女の子なんだよ?そういうことは、ちゃんと手順を踏まないと」

「いや、単純にびっくりしただけだと思いますけど……。とにかく、次は気をつけることにします」


口ではそう言ってみたものの、実際のところ、クロは自分のことをどう思っているのだろうか。


 女の子のように、動物にも人と同じように感情があると思うのは構わない。


 でも、それが押し付けであってはならないとも、そう思う。


「……どんな夢を見てるのかな。楽しい夢だと、いいな」


けれど、こうして警戒を解いて、安心してぐっすりと眠ってくれているのだ。少なくとも、嫌われてはいないと信じたい。


「……玲は、優しいね」


女の子がぼそりと言う。


「そんなことないですよ」


だから、自分も夜空を星を眺めながら、適当に返した。


 それで終わる話だと思っていたし、終わらせたい話題でもあった。


 でも、そんな自分の内心を、女の子がわかるわけもない。


「知ってる?」


女の子は、そう続けた。


「人はね、みんな三つの才能を持って生まれるんだよ。きっと玲には、自分じゃない誰かの幸せを思える、そんな素敵な才能があるんだね」

「……そうだったら、いいですね」


あまりに荒唐無稽な話に苦笑する自分に、しかし、女の子は大真面目に言うのだ。


「……わたしには、どんな才能があるのかな?玲みたいに、誰かを幸せにできるような、そんな才能だったら嬉しいな」


そして、心の底から溢れてくる感情を必死に押さえつけて。でも、堪らなくて。絞り出したかのように辛そうなか細い声で、叶わない夢に身を焦がしていた。


「……人間が、羨ましい。人間に、生まれてきたかった」


この世界に生まれた者は、皆漏れなく神様から三つの祝福を受ける。


 それは、亡き父と母の口癖だったのだと言う。


「人には必ず生まれてきた意味があって、何かを成すために生きていくんだ。その目的を成し遂げられるようにって、神様は才能をくれるんだよ」


人生には明確な目標が定められていて、それを達成するために生きていくのだと、女の子は冷めた口調で語った。


 人の生には、偶然は一切存在しない。そんな考え方は、いわば宿命や運命と呼ばれる曲げることのできない未来が、自分ではない何者かによって用意されていると言うことに他ならない。それが、とても酷い話だと思うのは、自分だけだろうか。


「……でもね、玲」


女の子は焦がれるように、おもむろに夜空の星へと手を伸ばす。


「人間はね、三つ目を選べるんだよ。どう生きたいか。どうなりたいか。自分の意思で、決められるんだ」

「三つ目の才能をですか?」

「そうだよ。魔者にはない、人間だけが持っている特権」


魔者には、比類なき強靭な肉体が生まれながらに授けられる。


 魔者には、種族特有の不思議な力が魂に宿る。


 魔者には、人としての性を失う代わりに、望んだだけ才能を引き出せるような、そんな最強の切り札がある。


 でも、それでどうしろというのだ、と。女の子は夜空を睨めつけながら、激しく憤慨した。


「こんな力、要らなかったっ…………!!」


それは、女の子の抱いていた、嘘偽りのない素直な感情だったのだろう。


 その言葉が引き金となって、内に秘めていたはずの不満たちが、女の子の口から溢れてくる。


「ばかっ!」


それは、子供が駄々を捏ねるように。


「甲斐性なしっ!」


それは、信じていた家族に見捨てられた子猫のように。


「面倒見るなら、最後まで責任を持ってよっ!」


優しさを知ってしまった子猫の叫びが、静かな夜に溶けていく。


「神様のいじわるっ!」


そんな、無責任な優しさに対する罵詈雑言は、しかし、天に届くことはなくて。


「わたしの家族を、返してよっ!!」


そして、女の子が心から望む願いは、絶対に叶うことはない。


 ……嗚呼。全く、救いようのない世界である。


「それと……、それと…………っ!!!!」


身に覚えのあるどろりとした黒い感情が、止めどなく鋭利な刃となって、女の子の心をゾリゾリと削っていく音がする。


 だから、怒るのは嫌いなのだ。


 誰も救われない。誰も、幸せになれない。


 怒りの感情を言葉にして満足がいくまで吐き出しても、得られるのは拭うことの叶わぬ膨大な徒労感だけだ。


それに、怒りを正確に言葉にするのは、とても難しいことなのだ。思い通りに怒りを形に出来ないもどかしさは、負の感情にじわじわと油を注ぐ。自分でも気がつかぬ内に収集がつかないほど燃え上がり、最後には自分でも抑えられなくなってしまう。


 次第に言葉では耐えられなくなって、手当たり次第に物に当たって鬱憤を晴らすこともあるだろう。でも、やはり残るのはたくさんの罪悪感だけで、欲しい快感は何一つ得ることはできない。


 怒りの炎は、怨嗟の焔は、自らの心を徐々に殺していく。


 そして、いつか全てを諦めてしまって、他人の不幸だけを願い続ける死人になってしまうのだ。


 だから、夜空の星空に夢を探した。女の子を悪夢から覚ましてくれるような、そんな、楽しくて眩しい未来を探す。


「明日も、晴れるといいですね」

「…………うん」


女の子は力なく、けれど、確かに頷く。そのたくさんの頑張りを、決して無駄にはしたくないと思った。


「屋根に登って、夜空を眺めるのもいいかもしれません。やったことありますか?少し場所を変えるだけでも、見える景色は変わるものですよ」

「でも、お家壊れちゃわないかな?今も穴が空いてるんだよ?これ以上屋根がなくなっちゃったら、お家に住めなくなっちゃうよ」

「その時は、ちゃんと直しますから。頼んだら、テツさんもコウタも手伝ってくれますよ」


だから、何も心配はいらない。不安なことは、他人に押し付けてしまおう。女の子は、ただ楽しさだけを謳歌していれば、それでいいんだ。


「……そうそう。お祭りと言えば、花火も楽しいですよ。お昼のうちに、村に買いに行こうかな……。どう思います?」

「うん、やりたいな。やって、みたい。でもね…………」


そう言って女の子は、また表情に影を落とす。


 その理由は、至極単純で、だけど、どうしようもないことだった。


「わたし、明日の夜はお仕事の日なんだ」

「お休みは……。できない、ですよね……」

「ダメだよ。そんなことしたら、わたし、本当に要らない子になっちゃう」


半端者は、仕事を選ぶことができない。医者の彼女のような例外はあれど、それは、ごく一部の恵まれた半端者が、死に物狂いで努力した末に掴み取った結果だ。普通の半端者は、仕事すらさせてもらえない。女の子は、普通に仕事をさせてもらえるだけ、まだ恵まれている方だ。


 だからこそ、自分は確かめねばならない。


「何の仕事をしてるんですか?」

「…………言わなきゃダメ?」


自分から目を逸らす女の子は、明らかに何かを隠していた。


 でも、自分には知る義務がある。そんな気がしてならないのだ。


「……ずっと気になってたんです。仕事の日は、決まって帰りが遅いですよね。ひどい時には、日が昇ってた時もありました。それに、いつもたくさんの食べ物を貰ってきますけど、その品物に一貫性がないのも不思議に思ってたんです」


初めは、飲食店の仕込みを手伝っているのだと思っていた。


 しかし、女の子が持ち帰ってくる食べ物の多くは、そこら辺で売られているような安物の味ではなかった。


「不満があるわけじゃないんですよ?むしろ、美味しくてびっくりしたくらいです」

「ならっ……!」

「村をざっと見てみました。……でも、どこにも売ってませんでしたよ」


パンや、チーズ、果物と、食卓に並んでいても何ら違和感のない食べ物たち。でも、それは、明らかに村の者たちが手の出せないような高級な代物に違いなかった。


「もちろん、パンやチーズがないわけじゃない。でも、どれも違いました。村にある食材は、全部全部、普通だったんです」


言い訳はさせない。そんな意図を込めて、女の子を真っ直ぐに見つめた。


「……気付かないと思ってたのにな。ほら、玲はちょっと鈍いところがあるから」


女の子の向けてくるぎこちない笑顔は、言葉なく自分を責めていたのだと思う。


「そんなことないですよ」

「そうだね。バレちゃったもんね」


自分の都合の良い鈍感に、女の子は苦笑した。


「……桜をね、売ってるんだ」


女の子は開き直ったかのように、あっさりと自らの就いている仕事を告白した。


「いつかは枯れる、白い花。……知ってる?儚いものにはね、物凄い価値があるんだって」

「……何が言いたいんですか?」


嘘だ。


 自分は恐らく、その言葉が示す意味に、辿り着いている。


「……逆だよ。言えないんだ。…………玲にだけは」


女の子はそう言って、許してと声を震わせながら、自分の肩に泣きついてくる。そんな女の子を見ていられなくて、慰めるように優しく頭に手を乗せた。


「……ねぇ、玲。わたし、もうやだよっ!本当はね、お仕事なんて行きたくないんだよっ……!!」

「……はい」

「でも、働かないと生きていけないから。だからっ…………!!」


だから、辛くても仕事をやめるわけにはいかない。そんな強迫観念が、女の子の心を狭い世界に縛り付けていた。


 人は誰しも、生きていたいと願っている。


 でも、生きるために払わなくてはならない犠牲は、あまりにも多過ぎるのだ。それなのに、得られるのは苦しみばかりで、欲しい幸せなんて爪の先程の、吹けば飛んでしまうような小さなもの。


 だというのに、人は、生きることからは逃れられない。


「……生きるためだけに生きるのは、辛いですよね」


暗澹とした未来に夢を見失い、ただ生き繋ぐだけの毎日を送る女の子。生まれながらにして足枷を嵌められた人生に幸せはなく、自由に夢を見ることさえ許されない。


 全く、惨いにもほどがあると言うものだ。


 だからこそ、夢を叶えるには絶好の機会でもある。


「恋を、してみませんか?」

「…………え?」


女の子は、驚いて素っ頓狂な声を上げる。


「心の炎の消えぬ間に、今日は再び来ぬものを。……一度きりの人生です。経験しなきゃ損ですよ」

「…………どうしたの?今日の玲、ちょっとおかしいよ」


おかしくなんかない。


 じぶんは至って平常運転だ。


「誰か気になっている人はいないんですか?幼馴染みのコウタのことは、どう思ってるんです?」

「こ、コウタくん?」

「少し口は悪いですけど、とても心優しい人ですよ。コウタなら、半端者だからって酷いことはしてきませんし、悪い人がいじめてきても守ってくれますよ」


そして何より、その恋は必ず成就するから。


「だから、最初から諦めてはいけませんよ。幸せは案外、近くに隠れてるものですからね」

「……いじわる」

「どこがですか?」

「……本当、こういう時ばっかり、玲は鈍いんだ」


鈍いとは心外な。


 自分はただ、女の子がより笑顔に過ごせる、そんな明日を望んでいるだけだというのに。


「……良い案だと思うんですけど、気が進みませんか?」


そう尋ねる自分に、女の子は、恥じらうように、躊躇いがちに。でも、精一杯の勇気を振り絞って、前に進むことを選んでくれた。


「……振られたら慰めてくれる?」

「はい、もちろん」

「…………夜は、わたしと一緒に寝てくれる?」

「寝付くまでなら、いいですよ。と言うより、別々に寝られるほど寝藁がないじゃないですか。」

「………………たくさん、たくさん、泣いちゃうと思うよ?」

「気が済むまで付き合いますから。心配しないで。平気ですよ。」

「……………………もし振られちゃったら、玲はわたしのこと、もらってくれる?」

「…………そう、ですね。自分なんかでいいんなら……、はい。そんな未来も、良いかもしれません」


でも、そんな未来は存在しないのだ。


 だから、そう断言ができる。


「明日は忙しくなりそうです」


自分は、女の子の瞳に星を探した。夢を見失わないように、星の光を目に焼き付ける。


 でも、すぐに女の子は、照れ臭そうにして膝の上に倒れこんでは、器用にクロを避けながら、もぞもぞと寝る体制に入ってしまう。


「……もう、忙しいのは玲じゃないでしょ?」

「応援で忙しいんですよ」

「…………ほどほどでいいからね?」

「…………はい」


しばらくすると、女の子の寝息が聞こえてくる。それは、とても気持ちの良さそうな、深く静かな音色をしていた。


「白。クロ。おやすみ」


…………どうか、どうか。


この膝の上で小さな幸せに縋る女の子たちに、出来る限りの幸せを贈れますように。

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