第23話 再会
「おはよう、玲」
まだ眠り足りない。そうわがままを言って聞かない体を無理やりに起こしていると、女の子の柔らかくて心地よい声に迎えられた。
「おはようございます」
睡魔に屈して微睡に潜りたい。そんな自堕落な欲望がなかったわけではないけれど。不思議と心の方は起きることを望んで止まないようだった。
「今は?」
「日の出から少し経ったくらいだよ。今朝は少し肌寒いね。油断して風邪ひかないようにしないと……」
そんなことを口では言っていたが、女の子に厚着をするという選択肢があるわけもなく、いつもと変わらぬ薄手の服を当たり前のように身につけている。
折角の綺麗な白い髪は跳ね放題で、化粧もしていない女の子の姿は病的だ。気を抜けば簡単に病に負けてしまいそうに見えて、とても心配になってしまう。
「……すみません、寝坊しちゃって。今から急いで朝食の用意をするので、少しだけ待っていてくれますか?」
「もう少し休んでてもいいんだよ?」
「いえ。昨日も任せてしまいましたから……」
一昨日。汽車からなんとか逃げ出した自分たちは、夜が眠り、朝が起きる。そんな、潮風の向きが変わる前の凪のような静寂の時になって、ようやく家まで辿り着いた。
どれだけの距離を歩いたのかはよく覚えていない。自分には、疲れて眠ってしまった女の子を落とさないように背負い、間違っても膝から崩れて落としてしまわないようにと、それだけを考えるので精一杯だったから。
そして、それを実行するのにはあまりに足りなすぎる筋力と体力だ。そんな頼りない自分の足は、一歩と呼ぶには重たすぎる、まるで足の骨を地面に叩きつけるような乱暴な音を響かせながら、悲鳴を上げる体に鞭を打ち、軋む体に歯を食いしばりながら、やっとの思いで二人で家まで帰ってきた。
そんな無茶をして体が無事であるはずもなく、泥のように眠った後目が覚めると、歩くことさえままならないほどの痛みに襲われたのだ。仕方なく自分は、本来自分の担当である仕事を全て女の子に任せて、昨日丸一日休んだ。全くもって不甲斐ないことこの上ない。
「……まだ痛む?」
そんな女の子の優しい気遣いは、自分の心を突き動かすには充分過ぎる薬だった。強がりでもいいから頑張ってみたいと、そう思ってしまうほどに沁み渡る。
「平気ですよ!ほら、もう日常生活に支障は…………っとっと」
「どう見ても平気じゃないよ、もう!」
今日は昨日の分まで。そう息巻いて踏み締めたはずの一歩だったが、体がついてこれずに倒れてしまう。
幸い、転ぶ前に女の子が支えてくれたおかげで無駄に怪我を負うことはなかった。でも、細い腕に抱えられているという事実は、自分の心に嫌というほどに深く傷を残す。
気持ちばかりが逸り体がついてこないとは、今の自分のような状況を言うのだろう。ずきんと鈍く痛む両足は、しかし歩けないということはない。けれど、痛みを庇わず普段通り歩こうとすれば話は別だ。それは鈍い痛みから、肉厚の刃物で突き刺されたような痛烈な刺激に姿を変え、体の主人を無理やりにでも床に戻そうと試みてくる。
「…………無理は、しないで?朝はわたしが作るから、ね?」
「……………………すみません」
痛みは、嫌いだ。自分はこんなになるまで頑張ったんだと、十分力を尽くしただろうと、そんな身勝手な満足感がじわじわと身を蝕むように溢れてくる。この卑しい自己愛による達成感が物凄く堪らない。堪らなく、腹立たしかった。
自惚れるなと、心を蔑んでみる。あの程度の努力如きで何様だと、そう罵った。
苦労自慢ほど聞くに耐えないものはない。それに、女の子を担いで夜通し歩いた程度の苦労だ。なにがそんなに誇らしいのか、自分のことながら理解に苦しんだ。
そんなことはわかっている。
心はそうため息をつくように返答した。
心を作り替えることが叶うなら、どれだけ素敵なことだろう。けれど、少なくとも自力では不可能なそれに、自分はまた内心でため息をついた。
でも、それでもと。心は悲痛に叫ぶ。
女の子を救う”役職”になりたかった。
しかし、自分の手のひらは空っぽで、あるのは弱く卑しい人間の心それだけだ。この身には力はなく、才能もなく、ただ一つ。夢幻の理想にうつつを抜かす、無力でわがままな心だけ。
「……ごめんね」
「え?」
なのに、いつだって謝るのは女の子の方だ。
「わたし、重かったよね……。本当はね、すぐに起きて玲と交代しようって、そう思ってたんだ。…………本当だよ?でも、わたしは玲の背中で気持ちよくぐっすりだ。自分が自分で恥ずかしいよ…………」
女の子は、自身が悪者だと信じて疑わない。そんな後ろ向きな言葉たちは、自分の無力さを見せつけられているようで嫌になる。
「自分は男にしてはかなり軽い方ですけど、それでも、女の人には辛いと思いますよ?」
これでよかったのだと、女の子には思って欲しい。自分の努力は”代えが利かない”ものだったと、そう言ってくれる未来を期待した。
でも、やはり自分は向いていない。
「……背中に乗せて運ぶのは、うん。無理だと思う。……でもね、わたしは一緒に頑張りたかったんだ。玲と二人で、乗り越えたかったんだよ」
無責任だって怒られてもいい。頑張れって、たくさん応援したかった。
いつも無理をしがちな玲だから。辛かったら休まないとって、わたしが無茶をしないように提案するつもりだった。
玲は独りのわたしと、ずっと一緒にいてくれた。
馬鹿なわたしを守ってくれた。
罪悪感で動けなかったわたしを無理やり引っ張ってくれた。
そんな玲にはね、いっぱいいっぱい、ありがとうって、言いたかったんだ。
なのに、寝ちゃった。何も言わずに、黙ったまま、玲を独りにしちゃった。
そしてまた、女の子はごめんねと言う。
……いいんだ。気にしなくて、いいんだよ……。
女の子はまるで懺悔するように、自分に赦しを乞うてくるけれど。でも、罪の告白の中身は一から十まで甘々だ。どこをいくら探しても女の子の悪いところなんて一つもなく、見つかるのはひたすらに優しさだけ。そんな甘い言葉を貰ったら、嗚呼。ただでさえダメな自分が、更にダメになってしまいそうで堪らなく怖い。
だから、せめて女の子がこれ以上謝ってこないようにと、女の子が欲しがっているのだろう罪滅ぼしの機会を渋々自分から提案する。
「……じゃあ、今日の朝ご飯はお願いしてもいいですか?それでおあいこってことで」
「玲のあいこの基準はおかしいよ……。でも、うん。今日のご飯はわたしに任せて!きっと美味しいのを作ってみせるから!」
「それは楽しみです」
可能な限り、塩を贈るような真似は避けたかった。本当ならその仕事は、自分がこなすべき仕事だ。だと言うのに、わざわざ進んで苦労を背負おうとする女の子の姿は、どこか嬉しそうですらあって。
……それは君のじゃない。
その苦労は、自分だけのものだ。本来なら、女の子に渡してしまった塩は、肩代わりさせてしまった不幸は、抱え切れないほどたくさん持っていたとしても、この身を切り裂き、その傷に塩をすり込んででも手放してはならないものであるはずだった。
なのに、それを渡されて女の子は喜んでしまっている。
……なぜ?
そんな疑問が尽きない。
……どうして、笑えるんだ?
けれど、考えても答えなど出るはずもなくて。自分は自分であって、どうしようもなく自分でしかなくて、他人になることは叶わず、まして女の子にはなれないから。
「謎だ」
そう呟く部屋には、もう女の子はいない。
今朝の朝食は魚だろうか。壁に立てかけてあった手作りの釣竿がなくなっているから、きっとそうに違いない。
たくさん釣れるかな…………?釣れるといいな…………。
そう願うことだけが、今女の子のために自分に出来る唯一のことだった。
しばらくすると、不穏な声が小屋の外から聞こえてきた。
「あ、玲!!ちょっと来て……って、わぁ!?」
それは必死だとか、助けを乞うような声音では決してなかった。けれど、何かあったのだろうかと心配になってしまい、今すぐにでも駆け出したいという欲求に駆られる。
しかし、先ほどの失敗もある。焦りをなんとか押さえつけてゆっくりと立ち上がった。
重たい体を摺り足で運んで、出来るだけ急いで表へと向かう。
「…………何やってるんですか」
扉の板をズラして視界に飛び込んできた光景に、自分は思わずニヤけながら呆れてしまった。
女の子は、一羽の鳥と楽しそうに声を上げて戯れあっていた。
「この子、お腹減ってたみたい。食べ物を探して”家の前のゴミの山”をガサガサって漁ってたんだ」
「ああ、あれにですか」
汽車での一件は、男から逃げ切って終わり。そんな風には都合よくいかなかった。
逃亡はバレてしまっていた。男自ら調べたのか、はたまた男の子が恐怖で口を割ったのかはわからない。けれど、たとえそうだったとしても自分達は男の子を責めるつもりはないし、権利もない。
どちらにしろ、自分達が逃げたことを知ったのだろう男は、どこで作ったのか、自分と女の子二人の人相書きを辺りにばら撒いたようだった。捕らえたらお金が貰えるとか、そう言った類のものではない。それはただただ、身の程を弁えずに汽車に乗り込んだ半端者がいると、そう言いふらすための嫌がらせの張り紙だった。
驚くべきは、男の行動力だった。その人相書きを作り張り出すまでに、たったの一日すら経過していなかったように思う。
そして不幸なことに、その張り紙は女の子のことを知る者がいる近くの村にも行き着いていた。
昨日はここまで多くなかったのに……。
誰が思いついたのか、嫌がらせのつもりなのだろう。異臭に目が覚めて外に出てみると、たくさんのゴミ袋が小屋近くに投げ込まれていたのだ。
幸いなことに、張り紙が原因で大勢の人が殴り込んできたりだとか、家が壊されそうになったりだとかの直接的な被害はなかった。そこまでの勇気がなかったのか、ただ面倒なだけなのかは知らないし、ちょっかいをかけてこないでいてくれるなら、なんと陰口を叩かれても耐え忍んでみせよう。
そんな地味な嫌がらせは、ご苦労なことにまた夜のうちに暗躍したのだろう。そこには、昨日最後に見た時よりもひとまわり大きな山ができあがっていた。
「この子ね、お魚が好きみたい。玲もあげてみる?」
そう提案してくる女の子の手には、手のひらサイズの小さな魚が掴まれていた。
もしや、今手にしている魚は……。
……いや、考えるのはやめることにしよう。
気にし過ぎて疲れるのは、しばらく御免被りたい気分だった。
「是非。楽しそうなので」
それに、今一番ご飯を必要としているのは、他ならぬ鳥の子の方であるはずだから。
「…………っ。うん、わかったよ」
自分と会話をしていた女の子の側には、餌欲しさに女の子の気を引こうと周りをうろちょろ羽ばたいている黒い鳥の姿があった。おそらく、後ろにいる自分の存在には気がついていないだろう。
よほど食べ物に困っていたか、生き物が潜んでいそうな岩の隙間や地面の穴にでも体を無理やり突っ込んだかのように、その身は所々傷ついていて痛々しく見える。単に羽が少ないだけかもしれないが、かなり痩せ細っても見えた。
可哀想だ。そう思うのが、きっと普通なのだろう。いや、忌々しいと言うべきか。そんな思いの方が、世の中には則しているのかもしれない。
けれど、自分はそのどちらでもなかった。
もっと別の、もっともっと大切な感情を思い出していた。
こっちにも烏はいるんだね……。
ふと、ガウルさんの影に飛び込んで行ってしまった黒いあの子のことを想う。似た容姿である目の前の烏に、あの子の面影を見たのだろうか。月に来てから時はそう経っていないはずなのに、あの子と過ごしたわずかな時間がとても懐かしく感じられて、同時に堪らなく寂しい気持ちになった。
監視塔の牢屋の片隅で暗がりに蹲っていた自分の手を引いてくれたあの子は、律による確定された未来ではなく、欲しい未来のために足掻くことを教えてくれた。
君となら、なんでもできるような気がするんだ……。
何もかもが足りなくて、自分の行先に一つとして希望はないとわかっていたとしても、きっと乗り越えられる。そんな漠然とした思いの出所は、一体どこにあるのだろう。
“逢いたいな”。
そう、声もなく呟いてみる。
どうしようもなく心が渇いて、心臓が潰れそうで痛かった。
でも、それはどれだけ望んでも、決して叶わない願いだ。
「玲、いくよ?……えいっ!!」
力なく俯く自分に、今も烏に絡まれている女の子が、隙を見てこちらに小魚をパスしてくる。
「あっ……」
しかし、小魚は自分の手には届かず、あえなく足元へと落ちてしまう。
自分の手のひらは、空っぽだ。いつだって大切なものを溢してしまう。
諦観の念を持って見つめる先には、地面に落ちた小魚だ。表面にたくさんの砂や土がついてしまっていて、少し見栄えが悪くなってしまっていた。正直言って、美味しそうにはとても見えない。
けれど、食べるのが人ならともかくとして、相手は鳥獣の類だ。魚に多少土がついたところで、何も気にせず食べてくれることだろう。命を粗末に扱ったことはよろしくないが、きっと無駄になることだけはない。お腹を空かせ、なおかつ女の子に散々焦らされた烏だ。目を輝かせて小魚に飛びつくことだろう。
そう、思っていたのに……。
「え?……ちょ、え??」
投げられた小魚を目で追うように、烏がこちらの方を向いた。
可愛らしいまん丸な黒い双眸には、お目当の小魚一匹だ。探し求めていた食料の前では、自分の姿など風景も同然。小魚を奪われまいと威嚇されることは愚か、気付いてさえもらえないのではと、そう考えていたのに。
烏の瞳と目があった瞬間、ぶわっと。熱いものが込み上がってくるような感覚に襲われた。
「カー!!!!カーッ!!!!!!!!」
大きな鳴き声を上げながら、烏は一直線に飛んでくる。地面に落ちている魚になど目もくれず、風景であるはずの自分の胸元へと、黒く大きな翼を羽ばたかせて勢いよく突っ込んでくる。
もしかして…………?
ずっと、ずっとだ。あの子との再会の日を期待していたように思う。
けれど、それは叶わぬ夢だったはずだ。そんな運命的かつ絵空事のようは奇跡は、そう簡単に起こるわけがない。
夢を持つのは嫌いだ。その多くが叶わないと知っているから。期待しているその気持ちが大きい分だけ、裏切られ続ける日常が息苦しく辛いものになるから。
それなのに、世界はかくも、素晴らしい。
こんなの、ずるいよ……っ。
こちらが悲しみに下を向くたびに、世界は微かな希望を見せてくる。機会を見計らっていたかのように、打ちひしがれて立ち直れない心を奇跡で震わせてくるのだ。
幻影かもしれないと、わかってはいた。目の前の烏を、あの子の代わりに仕立て上げようと心が働いている可能性も否めない。
けれど、それでも。首で光る”ソレ”を見つけてしまったら、もう我慢できなくなってしまうではないか。
ぽすん、と。万が一を期待して止まり木代わりに構えていた腕に、君は答えをくれるように躊躇いなく飛びついてくる。
その体を抱きしめるように、自分はもう片方の腕で優しく包み込んだ。
「カー!!カー!!!!」
「……っ、久し振り。また、逢えたね」
「カーッ!」
首にぶら下げたガラス管は、明るい未来を示している。そんな偶然も、自分の心をどうしようもなく揺さぶるのだ。
「チェーン切れてたはずだよね?もしかして自分で直したの?すごいね」
「カーッ!」
うん、と。そう肯定したように聞こえたのは、あまりに都合がいいだろうか。
ガウルさんが噛み切ってしまったはずのネックレスは、細くしなやかな植物の茎で手直しされていた。いや、正確には口直しと言うべきか。優しく賢いこの子のことだ。きっと一生懸命考えて、頑張ったのだろう。その努力と想いを見つけて、また心が堪らなくなる。
「なに?玲はこの子のこと知ってるの?」
「ここに来る前に一緒にいたんです。……大切な友達なんですよ」
「今までは離れ離れになっちゃってたんだね……。でも、うん!ちゃんと再開できてよかったね!」
「はい。お礼もたくさん言わなきゃですよ」
薄暗い牢屋の中、静かに首を絞められながら緩やかな死を迎えるためだけの未来を、自分は簡単に受け入れてしまっていた。不幸をあっさりと受け入れて、その中に小さな生き甲斐を、幸せを探していたように思う。
そんな時、君は気紛れに現れて、優しく手を引いて外の世界へと連れ出してくれた。脱獄した後、たくさんの困難が待ち受けているのは明らかだった。けれど、君とならばどこまででも行ける。大丈夫だと、そう期待してみたいと思ったのだ。
この子には返しても返し切れない、そんな大変な恩がある。でも、不思議と重荷だとは思わなかった。くれた想いを返したい。それは、自分の素直な望みなのだと思う。
未来をくれた君に、自分はなにを返せるだろうか。それを考えるだけで、なぜだか無性に愉しくなった。
「ねぇ、この子のお名前は?なにちゃんって言うの?」
女の子は胸の中に収まり大人しくしている一羽の鳥を見て、何気なくそう尋ねてきた。
「いや、つけてないですけど……」
「え〜〜!」
当たり前のようにそう答えると、女の子は目に見えるほどの不満を表に出した。
「可哀想だよ!ちゃんとしたお名前つけてあげよう?」
「は、はぁ……」
「カー?」
「可愛いのつけてあげるから、楽しみにしててね!」
そう言って思案顔でうんうんと唸り始める女の子に、自分たちは顔を見合わせてクスリと笑った。
「名前が気に入ったら、カーって鳴いてあげるんだよ?」
「カー?」
「……独り言だよ。気にしないで」
この子が人の言葉を理解できるとは思っていない。
でも、伝わったら良いなと、そうは思うから。
「いつか君と話せる日が来たら、楽しいんだろうな」
そんな叶わない夢を語ってしまうのは、きっと諦めるためなのだろう。
そんなこんなしているうちに、女の子は名前の候補をいくつか考えついたようだった。
「ポチ!」
「犬っぽいので却下です」
「タマ!」
「猫につける名前じゃないですか」
「アズライール!!」
「それは天使の……って、なんでそんなの知ってるんですか…………」
内容はさておき、指折り数えながら候補を披露する女の子はとても楽しげに見える。
けれど、だからといって微妙な名前でも許容するかといえば、それとこれとは話は別だ。
「そっかぁ、良い名前だと思ったんだけどなぁ〜」
「始めの二つはともかく、最後のなんて生き物につける名前じゃないですよ」
「じゃあ、玲はどんなのが良いと思うの?」
「自分ですか?」
「うん。今度は玲が名前を考えてあげる番だよ」
突然そのように言われてしまって、何も考えていなかった自分は悩んでしまう。
少なくとも、ペットのような名前をつけるのは嫌だと思った。この子は自分たちの愛玩動物ではなく、一つの命を持つ生き物だ。その子の明るい未来を思い、意味を持たせた名前をつけてあげたい。
とは言え、無理に気取った名前をつけるのも違う気がする。自然でこの子らしい名前をつけてあげるべきだ。
……だめだ。全然思いつかない……。
しかし、深く考えれば考えるほど迷走するもので、考えつくのは案として口にするにも値しないようなものばかりだ。
考えて、考えて、考えて。なのに、なにも思いつかなくて。申し訳ない気持ちになって、胸元の君へと視線を向けた。
「…………クロ」
気付くとそう呟いていた。
口にしてから、安直過ぎたかと後悔した。けれど、自分はどうしようもなく、その子の黒く鮮やかな虹色に目を奪われてしまっていた。
烏のcrowと、上品で綺麗な濡羽色。君を一言で表すなら、これしかないとそう思ったのだ。
「…………どうかな?クロは、だめ?」
しかし、名前にいくら意味を込めたとしても、知らない者からしてみれば単純に色の名前だ。女の子の意見を一蹴しておいて、目を見張るような妙案を出せない自分が恥ずかしい。
だから、君には精一杯想いを込めて尋ねた。それはもう、断られたら心が折れてしまうかと思えるほどにだ。言葉は理解できなくとも、何か少しでも伝わればいいなと、そう願う。
「カー!」
君は一度、カーと鳴いた。
それは恐らく、肯定でも否定でもなかったはずだ。ただ気分で声を上げた。それだけ。
でも、不安に塗れた心は違った。偶然にもタイミングよく鳴いたその子に、勝手に喜びを感じて舞い上がっている。
それは、女の子も同じようだった。
「よかったね、玲。気に入ってくれたみたい」
勝手に相手を理解した気になって、納得して、押し付ける。それは、決してやってはいけないことだ。
でも、それを我慢するのはとても難しいことだから。
「これからよろしくね、クロ」
「カー!カー!!」
だから、無邪気にはしゃぐ君を眺めながら思うのだ。今は形だけの空っぽな名前だけれど、これから先の未来、共に過ごす日々の中で、この名前をかけがえのないものにしていければといいと。
そして、いずれ時が来た時に、君は選べばいい。なんと呼ばれたいか。誰に呼ばれたいか。どこに居たいか。どう生きたいか。君が望みさえすれば、君は何者にでもなれる。それを今ここで決めつけてしまうのは、押し付けてしまうのはつまらないことだ。
そんな思いも、言ってしまえば言い訳であり、都合の良い解釈なのだろう。
だから、せめてこの想いに嘘をつくことがないようにと、そう心に決めた。
「お名前も決まったし、そろそろ朝ごはんにしよっか」
揃って空腹な自分たちの中に、その提案を拒むものはいない。
「……ところで、さっきの小魚は何だったんですか?」
「あっ……」
「やっぱり朝ご飯用に釣ったやつでしたか…………」
自分は外壁に立てかけられていた釣竿を見つけ、苦笑しながら手にする。優しさゆえの失敗を咎めるつもりは毛頭なかった。
どちらにしろ、小魚二匹だけではお腹を満たすには足りなかっただろう。今日は女の子とクロをお腹いっぱいにできるくらい、魚をたくさん釣らなければならない。
とは言え、釣りはそれなりに。いや、かなり暇なのである。
「クロも一緒に釣りする?」
「カー!」
話し相手と釣竿を抱えて、自分は海へとのんびり向かう。びりびりと体に痛みが走るも、一度歩き出してしまえば大して気にならなかった。
「あっ!置いてかないでよ!わたしも行くんだから!」
仲間外れにされると思ったのだろう。女の子が寂しそうに声をあげた。
「なら、もう一本釣竿を用意しないとですね」
「カー!」
「……クロもやりたいの?」
「カー!カー!」
「わかったよ。でも、釣竿の出来は期待しないでね」
何はともあれ、腹が減ってはなんとやらだ。ひとまず今ある分で魚を釣って、簡単に朝食を済ませてしまおう。
そして、お昼は皆で森へ、釣竿の材料集めだ。
きっと今日は楽しい日になる。そんな予感がした。
自分の分も新調しようかな。
そんなことを考えながら、海へと続く坂道を降りていく。その歩みは痛みで遅かれど、焦る必要はないだろう。一日はまだ始まったばかりだ。なにを始めるにしたって十分過ぎる時間がある。
……でも。
「下まで競争!」
「え?」
抱えていたクロには飛んでもらって、空いた手を大きく振りながら駆け出した。
「いきなりはずるいよ、玲!!」
「問答無用っ!!」
「あぁん、玲が壊れたぁ〜!?」
だって、勿体無いではないか。
こんなに愉快なひと時を、一秒だって無駄にはしたくない。
「足が痛ぁぁぁぁぁぁぁぁいっ……!!」
「だったら走るのをやめなよ!無理しちゃだめだよ!転んだらどうするの!?」
「それはその時考えまーす!…………あと〜、勢いがついて止まりたくてももう止まれませーん!!」
「ええっ!?」
そうして始まったかけっこは、フライングした自分の圧勝だ。
その報いとして最後は盛大に転けてしまったが、幸い怪我だけはせずに済んだ。
「玲はたまに意地悪だよ」
女の子は倒れた自分の側で屈むと、そうぼやいた。
「そういう気分だったんです」
地面に倒れて仰向けになった自分は、上がった息を整えつつ答える。
「カー!」
そして自分の後ろをついて飛んでいたクロは、今は自分の胸の上で楽しげにぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
こんな時間が、毎日続けば良い。
そんなことを願っていると、くすりと。誰とは言わず笑いが漏れた。
「ほら、立って」
「ありがとうございます」
「お詫びはお魚十匹?」
「カー?」
「はいはい、出来るだけ頑張りますよ」
「やったね、クロ!」
「カー!カー!」
さて、この子たちの期待に応えねば。
女の子の手を借りてなんとか立ち上がり、よろよろと覚束ない足取りで海へと進む。転んで落としてしまった釣竿は、代わりに女の子が持ってくれた。
そして、自分の手の中にはクロだ。抱かれてのんびりと寛ぐクロは、少し眠たそうにも見える。
「ここまで来るのに、きっと色々あったんだよね。……ゆっくり眠ってていいからね、クロ。玲が美味しいご飯をたくさん釣ってくれるから、ね?」
「……カ〜」
とろんとした目で見上げてくるクロに、静かに微笑みを返した。すると、気が抜けたかのだろう。全身からすっと力が抜けて、ついには自分に体を預けて眠ってしまった。
「おやすみ、クロ」
警戒心がなさ過ぎて心配ではあったけれど、それなら自分が守ればいいだけの話だ。
とにもかくにも、まずは食料調達からだ。
「目標十匹、頑張りますか」
「お〜!」
クロを起こしてしまわないように、自分たちは密かに声を上げた。
……君の目が覚めるまでに、きっと大物を釣って見せるから。
だから、今だけは不安も心配も全部忘れて、ゆっくりと休んで欲しい。
良い夢を。
そして願わくは、その夢が現実でも叶いますように。
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