第22話 不幸を運ぶ者

「遅かったじゃねぇか。これだけ待たされたんだ、売ってませんでしたじゃ済まされないからな?」


随分と偉そうな態度だなと呆れるものの、言ったところで逆効果だろうことは明らかなので黙っておく。


 幸いなことに、自分の手元には店員とお爺さんの計らいで、本来は手に入らないはずのタバコが存在している。踏ん反り返って偉そうにしている彼の横っ腹を殴るには、このタバコを見せるだけで事足りる。


「はい、ちゃんと持ってきましたよ。それに、運良く試供品まで貰っちゃいました。どうぞ」


その一言で、彼の不機嫌は最高潮に達する。この状態で大の大人にキレ散らかされたらたまったものではないが、流石の彼とて自身で頼んだものを今更要らないなどと宣う阿呆ではないだろう。ボロを見つけようと必死に中身を改める彼の様子は、見ていてとても滑稽なものだった。


 女の子と男の子の方はと言えば特に変わった様子もなく、未だに寄り添って静かに座っていた。その隣に開いていた隙間に、自分も腰を下ろす。


 試供品の味が気になって仕方がないのか、はたまた禁断症状に駆られてタバコを求めているのかは知らないが、彼はおぼつかない手つきでタバコに手をつける。折角のお洒落なデザインの箱は、しかし彼は興味がないのか、躊躇いもなく手でぐしゃりと潰されてしまった。


 もったいない……。


 タバコに心があるのなら、きっと泣いていることだろう。その涙で味はまるっきり変わってしまうというのに、よりにもよって湿気を防ぐ唯一の砦は、味わう本人によって崩されてしまった。もしくは、彼にはそちらの方が好みなのかもしれない。どちらにしろ、相容れない趣向であることには変わりなかった。


 彼はオマケで付いてきたのだろうプラスチック製のライターを手に取り、口に咥えた一本に火をつけようとする。車内での喫煙は遠慮していただきたいものだが、周囲にも数人喫煙者がいるものだから注意するだけ無駄かと渋々諦める。季節柄か、窓が開いている場所が多いのが唯一の救いだった。


「……。…………っ!くそっ!不良品寄越しやがって!」


しかし、彼のライターはちらちらと細かい火花を散らすばかりで、一向に火を点さない。


「あ、ライター持ってますよ。火、使います?」

「…………ああ」


先程お爺さんから貰ったライターを取り出し、慣れない手つきとは言え馬鹿にされない程度に格好をつけて火を点ける。横暴な彼に横取りされるかもと今更ながら後悔したが、後の祭りだ。物の良し悪しの判別がつかなそうな彼に奪われるのは癪だが、その時は大人しく諦めよう。


 しかし、彼の反応は少し予想とは違った。


「…………くそ」


自分のライターを一瞥したかと思うと、目を見開き驚いた様子でそう言葉にしたきり、彼は急に黙り込んでしまう。


 そして、不幸にもその沈黙が、女の子には隙に見えてしまったようだった。


「……あのっ!お父さんなら、もっとトオルくんを大切にして欲しいんです。トオルくんは家族なんですよ?もっと優しく接してあげることはできませんか?」


自分が止める間も無く、彼が男の子の扱いを見直すようにと女の子は声をあげてしまう。


 怯える様子の男の子を抱きしめて強きに立ち向かう姿は、さながら一児の子を持つ母の姿を思わせた。知らぬが故の見様見真似か、あるいは幼き頃の母との記憶を思い返しているのかは定かではない。それでも、男の子を守るのに少しの憧れや喜びといった感情を抱いているように思えるのは、きっと気のせいではないのだろう。


 赤の他人に叱責された彼は、気怠げに甘ったるい紫煙を撒き散らす。こういう時に限って、潮風は吹いてくれない。


「……それが人に頼み事をする態度か?」


言葉とは裏腹に緩みきった声音で言った彼は、酒に酔い潰れた者のようにだらしない顔つきを晒してくる。その表情は、タバコの煙に溺れているように見えなくもない。


 ……もしかして、ヤバイものだったり?


 嫌な予感がしたものの、考えたところで現状が変わけでもないかと、思考を一旦放置する。


 それよりも、彼の言動が女の子にとって都合が悪いものであったこと方が死活問題だ。


「……ものを頼む時くらい、その帽子を取ったらどうなんだ、え?」

「こ、これはダメだよっ!お友達から貰った大切なものだから……」

「理由になってねぇな。…………早く取れよ」


怒りのこもった男の低い声は、心に恐怖を植えつけてくる。同性の自分ですら怯え竦んでしまうほどの慈悲のない言葉は、一度耳にするだけで心があっさりと敗北を認め、抗おうという気持ちすら残さず刈り取るほどの凄みがあった。


 女の子は、不安そうに両手で帽子を押さえていた。けれど、彼へと向ける真摯な眼差しを背けることだけはしなかった。


 そんな女の子の固い決意を、戦う意志を、全力で応援できない自分の弱い心が憎くて憎くて堪らない。


 あまつさえ、内心では女の子のことを見捨ててさえいたように思う。優しい女の子の思いを蛮勇だと軽々しく断じ、呆れ混じりにため息すら吐いていたのだから救いようがない。


「嫌がってますし、その辺にして……」

「うるせぇ!黙ってろ!」

「…………っ」


だからせめて、そんな心ない自分とは別れを告げたい。そんな思いで口を開いたものの、心はすでに負けを認めていて。自分の諂い阿るような芯の抜けた言葉は、彼のことを数秒と止めることすら叶わない。


 魔の手が、女の子の帽子を奪い去る。その様子を、自分はただ見ていることしかできなかった。


「ほぅ……。なるほど。小賢しくも帽子で耳を隠していたとはな。そりゃ取れないよな」


 ニタァっと彼の口元が盛大に歪む。悪事を企んでいる者の顔だ。


「トオルに優しくしろって?……あぁ、いいぜ。今はすこぶる気分がいいんだ。望む通りにしてやるよ」


下衆な笑みを浮かべながら、彼は男の子の胸元に奪った帽子を押し付ける。


「……トオル。こいつらを駅員に突き出せ」

「で、できないよ、そんなことっ!」

「おいおい、勘違いしてもらっちゃあ困るなぁ。俺はトオルのために言ってるんだぜ。不正乗車していた半端者を捕らえたとなれば、お前も一躍有名人だ。その大役をお前に譲るんだぞ?……素直に喜べよ」

「…………っ」


有無を言わさぬ高圧的な物言いで、「俺は優しいだろう」と嫌らしく笑いながら宣う。そんな彼の汚い優しさを全否定できないのが、また辛かった。


 彼の優しさは、上辺だけ見ればとても普通なものだ。世間一般から忌み嫌われている半端者を見つけ、通報する。それは、半端者の側からしたら悪夢のような出来事でも、彼らにとっては当然して然るべき行動だ。自分の立場を無視して、人の心を捨てたならば、正義とさえ称しても過言ではない。この星はそういう世界なのだと、医師であり患者でもある彼女から教わった。


 けれど、その優しさに手放しで喜べるのは、半端者を毛嫌いする者に限った話だ。男の子は、まだ大人のように半端者を心の底から嫌えていないのだろう。だからこそ、救いのない優しさに悶えて苦しんでいるのだろうから。


「…………おい、これを売った奴はなんて?」

「売店で、待っているそうです。杖をついたお爺さんでした」

「……そうかい」


自分は何をしているのだろう。この期に及んで未だに彼の言いなりになっている自分は、何を望んでそうしているのだろうか。


 女の子から”彼ら”を遠ざけたくて、彼の都合の良いように立ち回った。


 女の子の秘密がバレないように、自分なりに彼を止めたつもりだ。


 けれど、叶わない。目の前の男には、敵わなかった。


 自分は今、最低なことを想像してしまった。


 お爺さんの所へ彼が行けば、自分たちは逃げられるのではないかと。誰に咎められることもなく、また崖の上のボロ小屋で女の子と二人きり、静かな日々に帰れるのではないかと、そう期待してしまった。


 けれど、お爺さんはどうなる?あの御仁は、困り果てた自分に親切にしてくれたではないか。自らの子供に平気で鬱憤をぶつけられるような彼が、歳上のお爺さんを敬うなどありえないに等しい。そんな危険人物を止めもせず、むしろその結果を望む自分は最低な人間ではないか。


 それに、売店には当然店員もいる。二人は仲がいいようだから、諍いが起きればすかさず止めに入るに違いない。そんな彼女に、体躯のいい彼が腕をひと薙ぎでもしてみろ。細い体が宙に舞い、骨の数本折られても何ら不思議ではないではないか。


 そして、男の子だ。この場で何より不幸なのは、選べる立場にあるこの子である。


「余計な気は起こすなよ。……いや、俺としてはどちらに転んでも面白おかしくていいんだが。でも、選ぶのはお前だ、トオル。せいぜい悩め。そうすれば、お前が普段から早くなりたいと憧れている大人ってやつに少しでも近づけるかもしれないぞ」


そう言い残して彼は、売店のある車両へと下品な足音を鳴らしながら行ってしまう。


 願ったり叶ったり。そう感じてしまうあたり、自分はもう人として終わっているのだろう。


「トオルくん……。ごめんね。わたし、余計なことしちゃったね」

「……お姉ちゃんっ!!」

「………………うん。怖かったよね。頑張ったね」


男の子の不運は、半端者の女の子と仲良くなってしまったことだ。たった一度の出会い、共に過ごした短い時間の中で、男の子は半端者を切り捨てられなくなってしまっていた。


 …………優しいね、君たちは。


 世界は広いと人は言う。確かにと、そう思った。世の中に半端者を嫌う者は多かれど、それと同じくらいに、きっと半端者を思ってくれる人だっているはずなのだ。世界の理不尽に違和感を持ち、世間よりも自身の心を信じられる。そんな男の子のような心優しい者が、きっとこの星には思ったよりもたくさんいて、そんな人がいつか世界の根底を変えてくれるのかもしれない。


 そう思うと堪らなく嬉しくて、寂しくなった。その役目が自分でないことだけは、嫌と言うほどわかってしまったから。


 あの夜、心が女の子を守ろうと決意した理由に、今更ながら自分は気が付いてしまった。


 ……女の子に相応しい人を探さなければならない。


 それはもはや、義務感にも等しい醜い願いだったように思う。それこそ、恩着せがましいにも程がある願いだ。


 けれど、それでも、望まずにはいられなかった。必ず成し遂げなければならない夢に、もうなってしまっていたから。


「……僕、まだ頑張れるよ」


女の子に抱かれながら漏らす声は、弱々しく頼りないけれど、覚悟のようなものが感じられた。


「僕、どうすればいいのかわからないよ。でも、お姉ちゃんたちを困らせるのは嫌だ。……だから、今のうちに逃げて」

「でも、それだとトオルくんが……っ!」

「……子供扱いしないでよ、お姉ちゃん。ずっと一緒に暮らしてるんだ。これくらいいつものことだよ」

「でもっ!」


聞き分けのない女の子は、辛い選択を迷わず選んでしまう男の子の優しさに少なからず涙を湛えていた。申し訳なさに、体を小刻みに振るわせている。


「お姉ちゃんをよろしくね」


だから、男の子は自分に頼んでくる。女の子の帽子を手渡しながら、あなただけが頼りだと、そんな思いの込められた言葉を託してきた。


「……任せて」


不肖ながら。そんな言葉は呑み込んで、精一杯の笑顔を男の子に向ける。それを見て満足そうに喜ぶ男の子に、言葉なく謝罪を繰り返した。


 でも、その謝罪は口にするべきではない。


「また遊ぼう」


だから、次を期待して呟いた。


「勝ち逃げは許さないからね」


そんなもの、万が一にも有り得ないのに。


 でも、それでも、望むくらいは許されるだろうと、そう思ったから。


「……うん。またね、負けず嫌いなお兄ちゃん」


あぁ、男の子の笑顔が眩しかった。信頼を寄せてくれる男の子に、報いたいと思った。


 自分に、万が一を確実な未来に変えられる力があったならば、どれだけ良かったことだろう。


 信じて。


 その一言を心の底から言えたなら、君はもっと笑顔になってくれるのだろうか。

 でも、それは無理なことだから。そんな夢を見ても、現実は変わらないから。


「……またね」


 そう言い残して女の子の手を握り、自分は尻尾を巻いて逃げ出すのだ。苦手で嫌いな嘘までついて、たくさんの人たちの不幸に背を向けて走り出す。


 信頼を裏切って、善意を仇で返して、それなのに自分がすることと言えば、女の子を不幸へと運ぶこと。


 悪人らしい悪人はいないと言う。ならば、善人の皮を被り、自分を善人だと勘違いしているものほど救いようのない悪はないだろう。意図せずして他人を不幸にしてしまう。そんな大馬鹿者に、自分はいつからか成り下がってしまったようだった。


 運良く汽車は駅に停まり、すかさず自分たちは降車する。駅名に見覚えはなかった。


 それでも、もう海の上ではない。歩けばいつか辿り着くのなら、それでも構わないと思った。たとえ途方もない距離だとしても、歩き疲れた女の子を担いででも安全に帰すことだけが、男の子の信頼に応えることになると思ったから。


 黙ったまま喋ろうとしない女の子を無理やり引っ張って進む道は、とても息苦しい。罪悪感に何度も挫けそうになるも、止まることだけは心が許さない。


 約束だけは、違えない。


 女の子の手を、一層強く握った。


 女の子も無言でそれに応えてくれる。


 ……物語だ。


 これは、本来自分では無い誰かが過ごすべきだったひと時だ。


 でも、それでも、今だけは。その代役を務める事を許して欲しい。


 けれど、そんな願いに頷いてくれる者は誰一人としていなかった。




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