第21話 誘惑の紫煙は柊と共に

 汽車の中、もう口にするのが何度目かもわからなくなった言葉を、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも正直に女の子へと伝える。


「はい、ハイカード」

「またぁ!?あんなに自信満々な顔してたのに、卑怯だよぉ……」

「考えなしにすぐ降りちゃうからですよ……。さて、いただくものはいただきましょうか」

「うぅ……。バイバイ、わたしの飴ちゃん……」


悔しそうにチップを手放す女の子の手持ちは、今はもう幾ばくも残されていない。


 ひとつ、ふたつ、みっつ……と。残り少ないお菓子を一つずつ数える度、その声がぷるぷると震えていく。小さな口が最後の一つを数えた時、お菓子の数が二桁に至らない現実を突きつけられた女の子は、大袈裟でもなんでもなく、泣きそうになりながら戦慄いていた。そんな姿はとても痛々しくて、それ以上に可哀想なことこの上ない。


 でも、言い訳はさせて欲しい。自分にはこれ以上、どうしようもなかったのだと。


 ふと、場に開けられた手札に視線を落としてみる。


 そこには、貧弱な手札が並んでいた。


「わたし、ワンペアだったのに……。どうして降りちゃったんだろう……」


汽車に揺られながら女の子と始めたのは、お菓子を賭けたポーカーだった。初めはババ抜きの続きをするつもりだったものの、女の子が別のゲームがいいと言ったのだ。


 しかし、それは、終始自分の一人勝ちで進んでいた。


「二人でやってるんですから、無理にフォールドしなくても……」

「でもね、ポーカーって勝ち目がないって思ったら降りるゲームなんだよね?」


ババ抜きしか知らなかった女の子に、自分は簡単にポーカーのルールを説明したのだ。初めて遊ぶ女の子がわかりやすいようにと、場の端には手札の役の例を書いた紙切れも置いてある。他にもレイズやコール、直近のゲームで女の子が使ったフォールドといった動作に関しても、必要なことは一通り教えたつもりだった。


 しかし、むしろそれがいけなかった。


 女の子は、まるでヒーローが必殺技を叫ぶように清々しく、それを連呼する。


「フォールド、だよっ!」

「はぁ…………」


賭け金が期待値に対して高いのなら降りるのもわかる。手札があまりにも酷い場合でも、わかる。だが、自分は基本的にレイズはしていないし、手札が強いと言うわけでもない。なんなら、最悪にも等しいほど運がないくらいだった。


 だというのに、女の子は、今の手持ちが底を尽きないようにパスの多用を余儀なくされている。もうこちらがイカサマでもしなければ、自分の手元に堆く積まれたお菓子の山を女の子へと返すことは不可能に思えた。


 女の子は音の響きが気に入ったのか、ゲーム自体ではなく、格好良く言葉を叫ぶ方に注力してしまっている。何をどうすれば普通にプレイしてくれるだろうかと、無駄な思考を巡らせなければならない現状にため息をつかざるを得ない。


「そんなに手札が悪いんですか……?多分、よっぽどのことがない限り、この手には勝てますよ?」


改めて配られた手札と、場に出ている公開カードを見てみる。自分の手札は、またもやハイカード。所謂ブタというやつだった。


「そうなの?……でも、待ったはなしって約束だからね。フォールドだよ。仕方ないけど……悲しいけど………………はい、チョコ」


 そんな表情が見たかったんじゃないのに……。


 女の子が楽しい時間を過ごせたらと願い始めたゲームだというのに、どうしてこうも上手くいかないのだろう。


 次は、次こそは勝たせてあげたいなと、そう強く思っても、望む勝利が目の前に転がっているというのに、女の子は自ら勝負の土俵から降りてしまう。女の子をほぼ確実に勝たせてあげられる手札。そんな自分にとって最高かつ最弱の手札は、またもや無為に流れてしまった。


「……あの子、迷子かな?」


ふとそんなことを言い出した女の子は、車両の片隅を見るように目線で促してきた。


 その視線の先には、一人寂しそうに俯いている小さい男の子がいた。


「……わたし、ちょっと声をかけてくるっ!」

「あ、ちょっ!?」


女の子は躊躇う間も無く席を立ち、男の子の様子を見に行くために通路へと飛び出した。


 悪行のためだろうと善行のためだろうと、不用意に面倒ごとに関わると大抵ろくなことにならない。だと言うのに、むしろ女の子は積極的に首を突っ込んでいってしまう。それが自分は理解できなかったけれど、しかし、とても誇らしくも感じられて。


「その余裕はどこから出てくるのやら……」


男の子を連れて戻ってくる女の子を視界の端に捉えながら、席の上に散らばっていた荷物たちを手早く片付けた。


「トオル」


女の子の隣を選んで座った男の子は、ぶっきらぼうにそう名乗った。


「玲って言います。よろしくね」


女の子はすでに自己紹介は済ませているようだったので、自分も適当に挨拶をしておく。

「……お姉ちゃんの彼氏?」


ふざけているのか、本気で疑問に思っているのかは定かではないけれど。男の子は少し、配慮に欠ける子供のようだった。


「う〜んとね、家族、かな?」


まぁ、無難な答えか。


 女の子の回答は、当たらずも遠からずだ。


 しかし、男の子は興味を失ったように聞き流すのみだった。なんとなく疑問を口にしただけで、答えを求めていたわけではなかったのだろう。


「トオルくん。お父さんとお母さんが探しにくるまで、わたしたちと一緒に遊ばない?」

「……二人だけでトランプやってたの?」

「うん。ポーカーだよ!」

「神経衰弱とか、もっと他のゲームにすればいいのに。変なの」


 あ、たしかに……。


 何事も思いつきで言葉を口にすることは良くないなと、男の子の指摘に反省させられる。


 でも、男の子の参加でゲームの内容が変わることは不思議となかった。


「トオルくんは、わたしと一緒に戦おうね」

「なんで?僕も普通に遊びたい」

「わたしね、玲に勝ちたいんだ。勝ってね、お願いを聞いてもらいたいの。……だからね、わたしのことを助けてくれないかな?」

「……ちょっとだけならいいよ」

「ありがとうっ!」


男の子が女の子のお願いに頷いたおかげで、ゲーム内容が変わらないどころか、参加者の人数まで同じになってしまう。


 三人いれば色々なゲームを楽しく遊べる。それこそ、大富豪もやろうと思えばできなくはない頭数だ。だと言うのに、今の女の子はとても頑固で、ポーカーで勝つことに執着しているようだった。


「えっと……。フォールド?」

「なんでですか!?」


カードが配られて早々女の子がゲームを捨てようとするのに、男の子は少し不機嫌そうに言った。


「カード悪くないし、まだ一枚もカードが表になってないよ。ここで降りる必要なんてない」

「で、でも……」

「……お姉ちゃんは、負けたくないってわけじゃないよね?向こうのお兄さんに勝ちたいんだよね?……なら、戦わないと」


戦わなければ、敗北することは決してない。そんな歪んだ考え方をもって、自ら進んでゲームから降りる。それはとても楽なやり方だと、生き方だと、自分は身をもって知っていた。


 しかし、そのやり方では、勝利だけは絶対に手にすることができない。降りると言うことは、今以上に傷を負わなくなる代わりに、欲しいものを諦めると言うことに他ならないのだ。


 そして残るのは、たくさんの後悔と、息苦しさを覚えるほどの敗北感。そう言う類の敗北は、拭おうとしても取れないしつこい汚れだ。心にべったりと、張り付いて離れない。


「……わかったよ。ベット。一個」


男の子に背中を押されてなんとかそう口にした女の子に、自分は迷わずコールを選択した。


 チップの代わりに飴玉が二個。子供のお遊びとは言え、立派な賭け金が場に出された。


 自分は、二人の前で共有札三枚を勿体つけながら開ける。


 一枚目。ハートの7。

 二枚目。スペードの4。

 三枚目。クローバーの3。


 手に5と6が有れば3から7のストレートができてしまう、手札次第では初っ端から降りたくなるような、そんな危険な札たちが並んだ。


「…………さて」


ようやくまともにゲームができる。そんな喜びを隠しながら、静かに手札へと目線を落とす。


 クローバーのAと、ハートの3。


 手札と場の共有札で、既にワンペアが成立していた。


 対する向かいの二人の表情は曇っている。次の二枚が悪戯をしない限りは、こちらに武があるだろう。


 とは言え、こちらの手札も安心できる手ではない。場に出ている最弱の札とのワンペアは、むしろ敗北の香りを漂わせていた。


 …………でも。


 目的を達するためには、これくらいが丁度いい。相手とて、手を抜かれて勝つのは嫌なはずだから。


 しかし、今回は二人の側に運がなかった。


「うぅ〜。また負けたぁ〜」

「次勝てばいいんだよ。お姉ちゃん、顔上げて頑張ろう?」


立て続けに負けて落ち込む女の子を、男の子は慰めながら背中を押す。


 そして配られた手札。手元に入った二枚のカードを見て、二人の表情は一変した。


「やったっ!」

「ちょっとお姉ちゃん、ポーカーフェイスって知らないの!?」

「あっ、ごめんなさい。そうだね、落ち着かなきゃね」


二人の笑顔とやり取りが、カードの内容を透かしてくれる。既に手元で役ができているのだろう。


「……コール」


女の子たちのベットに合わせて、自分もチップを場に出す。


 そして、共有札を開いた。


「スペードのK、クローバーの6、クローバーのJですね。二人はどうしますか?」

「うーんとねぇ〜…………」

「……チェック」


男の子が、女の子に被せて宣言する。勝手にゲームから降りたり、無謀なことをしないようにと先手を打ったのだろう。


 女の子は文句を言いたげにしていたけれど、男の子が何やら耳打ちすると、すぐに機嫌を直す。


 その時浮かべていた二人のニヤついた表情が、ああ。少し癇に障った。


「……レイズ。五個」


今まではお菓子一つだったレートを、一気に五個まで釣り上げてやる。それは、女の子が破産しないギリギリの個数だった。


「……玲の意地悪」

「お姉ちゃん、どうする?もうお菓子7個しかないよ?」


途端に焦る二人の表情に、自分は勝利を確信した。


 自分の勝利条件はハイカード。もしくは、弱めのワンペアだ。そして、ポッドの賞金を大きくしてから二人に負ける。それが、自分が女の子を気持ちよく勝たせるための最善手だろう。


 しかし、なぜだろう。急に気分が変わってしまった。


 それは、手札がとても良かったから?違う。


 今よりもいい手になる可能性に期待して?そんなことは断じてない。


 ただ、今の女の子には負けたくない。そういう気分だっただけ。


 スペードとハートのA。それが自分の手札だった。


「……コール」


二人は弱々しい声で継戦することを選択。


 そして、四枚目。


「ダイヤのAです」


幸か不幸か、Aのツーペアはスリー・オブ・ア・カインドに進化した。女の子たちが自分に勝つためには、ストレート以上の役を成立させなければならなくなる。


 このままいけば、二人に難なく勝ってしまうだろう。それこそ、次に開かれるのがクローバーで、向こうの手札が二枚ともクローバーなどということがない限りは負ける目がない。


 実際、男の子の表情は芳しくなかった。今まで開かれたカードの中に手持ちのカードと被るものがなかったのだろう。ならば、最低でもツーペア。最高でも五枚目で当たってスリー・オブ・ア・カインドだ。しかし、自分の手元には最強のAが揃っている。同クラスの役では二人に勝ち目はない。


 だというのに、女の子はこちらの手を気にも留めていない様子で、不気味なくらいに強気だった。


 そして、女の子の後ろに揺らぐ不穏な影は、その正体がわからないうちに動き出す。


「オールイン!」

「……ぇ?」


女の子に残されていたチップの全てがポットに入る。


「どうしてそんな無謀なことを……?」


勝ち目がないなら降りればいい。そうすれば、わずかではあるがチップは残る。潔く諦めて次のゲームに移行することは逃げではない。


 なのに、女の子は全てを賭けてきた。


 途端に、二人の手札がわからなくなった。女の子の独断先行と思われた行動も、しかし、男の子は驚いてはいるが、負けに怯える弱々しさのようなものは感じられない。恐らく予定通りだったのだろう。


 自分は、見誤ったのかもしれない。


「……コール」


でも、もう引くわけにはいかなかった。


 出所のわからない感情に流されて宣言したレイズは、二人から残りのチップのおよそ全てを奪うための一手だった。なのに、向こうが予想外にも強気に出てきて負けそうだからという理由で降りるなんてことは、勝負師ではない自分には不可能だ。相手を倒すために武器を抜いておいて、相手の方が強そうだからと頭を下げる。そんなことをするくらいなら、いっそ負けた方が逃げるよりも格好がつくのではないかと、そう思ってしまった。


 運命を開く。二人が固唾を飲んで見守る中、馬鹿げた悪戯だけは起こらないようにと祈った。


「……クローバーのKです」

「「やった!」」


開かれたカードを見て、二人が人目も憚らずに声を上げて歓喜する。


 スペードのK。

 クローバーの6。

 クローバーのJ。

 ダイヤのA。

 クローバーのK。


 出てくることを恐れていた、フラッシュを成立させるために必要なクローバーが三枚。だが、それももう心配する必要がなくなった。


 場に、Kのワンペアだ。自分の役は静かにフルハウスへと成る。


「さて。手札を開示しましょうか」


フルハウスに成ったことでAとしての強みは消えてしまうけれど、それでも十分に強い手だ。まず間違いなく勝てるだろう。


 なのに、違和感が背筋を舐めるように撫でてくるのだ。


「……勝てるかな?」

「お姉ちゃんなら勝てるよ!」


二人の掛け合いは、信頼関係によるものか。いや、違う。単純に手札が強いのだろう。そうだ。それだけのはずなのに。


 ……あれ、もしかして負ける?


 そう思うと、たくさんの不安が溢れてきて、おかしくなりそうになる。


 そして、嗚呼……。


 やはり”笑顔”が浮かんでしまうのだ。


「ようやくポーカーらしいポーカーになってきましたね。勝てるかは自信ないですが、こういうのって楽しいですよね」


負ける。二人には勝てない。


 そう悟った瞬間、心は不細工にも痛みに備え始める。


「そんなこと言ってていいの?負けたら何でもお願いを聞かなきゃなんだよ?」

「え、何でも!?お姉ちゃんたち、そんな約束までしてたの?」

「そうだよ。だから、わたしは負けられないんだ。この勝負に勝って、まだまだ玲と遊ぶんだから!」

「………………え、それだけ?」

「……こういう人なんですよ」


自分が勝てた時は、女の子の望むように引き続き遊ぶだけ。それに、お菓子も一人では食べきれない量だ。半分分けてあげれば済む話。


 負けたとしても、何も気にすることはない。ポッドの賞金であるお菓子が全部女の子のものになるだけ。そして、また遊びの続きだ。


 そう。勝とうが負けようが何も変わらないのだ。だからこそ、勝負に手を出した。


 なら、なぜレイズした?


 心が嫌らしく尋ねてくる。そして、小さな罪悪感に指を突っ込み、穿り返しては言うのだ。


 お前は偽善者だ。それも最底辺の、偽善者を名乗るのも烏滸がましいくらいの偽物だよ。


 たかがゲーム。そんな子供のお遊び一つで、よくもまぁこうも思考が回るものだと自分のことながら呆れてしまう。


 ……だから?それの何が悪い。


 人には優先順位というものがあるのだ。そして、その頂点は決して揺るがない。そんな摂理にも等しい事実に対して、今更苛立つわけもない。


 けれど、悔しいものは悔しいのだ。叶わなかった願いに、敵わなかった現実に、自分は何度でも打ち拉がれる。


 Kのフォー・オブ・ア・カインド。


 自分は滑稽に負けてしまった。それも、想像の範疇である手だったと言うのに。


 もし次の機会があるのなら、今度こそ立派に”役割”をこなして見せよう。わがままを言わず、ただ君のためだけに全力を尽くすと誓おう。


 だから、今は蔑んで欲しかった。大人げなく、容赦なく、気分で君を傷つけようとした自分に軽蔑の目を向けて欲しかった。


 なのに。それなのに、女の子は優しい目を向けてくるのだ。


「…………なんだ。玲も、わたしと一緒なんだね」


そう嬉しそうに言う女の子。その言葉の意味を理解できないままに、このゲームは終わってしまった。


 それも、部外者によって無理やりにだ。


「おい、トオル。何こんなところで油売ってやがるんだ」

「ひっ!?」


訂正。正確には部外者ではなく、男の子の関係者のようだった。


 声をかけてきたのは、男の子の父親だろうか。体格のがっちりとした彼は、男の子と瞳の色や髪質が酷似していた。乱雑に放置された無精髭には格好良さの欠片も感じられないが、不衛生というほどではない。


「……この子のお父さんですか?」


女の子は男の子を守るように抱きながら、粗暴な物言いの彼に敵意を剥き出しにしながら尋ねる。それはもう、喧嘩を売っていると思われても仕方がないくらいの酷い態度だった。


 ……悪手だ。


 案の定、彼の目つきが鋭くなる。相手を陥れる腹積もりが見え透いてくるような卑しい表情は、近くで見ているだけで吐き気を覚えた。


「あぁ、そうだ。…………で、あんたらは?親の了解なく他人の子供と一緒にカードゲームってか?菓子でも餌にして誘拐でもする気だったんだろ」

「……トオルくんがいなくなって心配はしなかったの?ひとりぼっちで隅っこに蹲ってたんだよ?親なら真っ先に駆けつけてあげなきゃ」

「その役目を奪ってそいつを隠していたのは、他ならぬお前らの方じゃないか。探さなかったのかって?なら、お前の目の前にいる俺は誰だよ。……わからないか?一人で用事も済ませられない子供を、こうしてわざわざ探しに来てやってるんだろうが!」


何がそこまで彼を怒らせるのか、自分にはよくわからない。でも、彼が男の子のことを大切に思っているから、というわけでは少なくともなさそうだった。むしろ、その逆。おそらく、彼は男の子のことをあまり良く思ってはいないのだろう。


 だからと言って、他人である女の子にまで手をあげられては敵わない。だから、自分は腰を低くして彼のご機嫌取りだ。


「……あの、トオルくんが迷子だったようなので、無闇に動き回るよりも一箇所に留まっていた方が安全だと思いまして」

「……何だって?」


さて、何といえば彼は納得してくれるだろう。そんなことを真剣に考えながら口を動かす自分は、どれほど滑稽であろうか。


「……子供は迷子になると、不安で角に蹲って見つけにくくなったり、両親を探し回ってもっと遠くに行ってしまうでしょう?そうなると、親御さんも必要以上に体力を消耗してしまいますから。ここにいれば、親御さんが通りかがれば必ず目に入りますし、寂しさや空腹で大声で泣いて嫌に目立つ心配もありません。なので、少しの間預からせていただいていたのですが……」

「ちっ、恩着せがましい奴だな」

「いえいえ。こちらも楽しませていただいていましたので。とてもいい子にしていましたよ。親御さんの教育がいいんでしょうね」

「はっ、こいつがね。……まぁ、ここはそういうことにしておいてやるよ」


彼の言葉を聞いて、ほっと一息。一先ず逆ギレされる心配はこれでなくなっただろう。


 だが、そう思ったのも束の間。未だに男の子を庇っている女の子を見て、彼は再び不機嫌を顕にした。


「…………おい、いつまでそうしてるつもりだよ」


そのどすの効いた言葉は、果たしてどちらに向けられたものだったのか。


 とにかく、返事をしたのは男の子だった。


「……ごめん、なさい」

「あぁ?」


俯いて顔を見せないまま、弱々しい声で謝る男の子。その態度を傲岸不遜な彼が喜ぶわけもなく、むしろ怒りに拍車をかけてしまった。


「俺はなんて言った?取引先との連絡が済むまでにタバコを買ってこいって言ったよな?」

「でも、お店の人が子供はダメだって……」

「でもじゃねぇよ。こっちは大人なのに、わざわざガキにお願いしてんだ。忙しいから代わりに買い物をしてきてくれよ、ってな。……お前はガキだ。普通に買えないなら泣いて頼めよ。それでもダメなら盗めばいい。それが許されるのが子供様の特権だろう?」


彼は言った。平然と、至極当然のことのように、大人のために子供は働けと怒鳴った。それも、命令するのは紛れもなく犯罪行為。自分の息子に罪を犯させることに何の躊躇いもない様子の彼に、さしもの自分も擁護する要素が見つけられなかった。


 こいつはきっと、ダメな奴だ……。


 彼の行動には、同情する余地がなかった。


 ……が、彼らをこの場から引き剥がすには、彼を満足させるのが必須事項でもある。


「タバコなら自分が買ってきますよ。銘柄はどこのものです?念のため三種類ほどいただけると助かるのですが」

「お前さんくらい、こいつも物わかりがいいと助かるんだがな。……ほらよ、よろしく頼むぜ」


彼はポケットから引っ張り出したくしゃくしゃのガムの包装紙を広げ、自身の吸っているタバコの銘柄を面倒くさそうにペンで書き殴ったものを手渡してくる。その時に浮かべていた嫌らしい笑みは、心底気持ち悪いものだった。


 自分は女の子と男の子に一言かけてから売店へと足を運ぶことにする。心配でないかといえば、そんなことはない。むしろ、身を案じるからこその行動のつもりだった。


 しかし、裏目。売店の店員の一言で、彼の笑みの理由が理解できてしまった。


「誠に申し訳ないのですが、本売店ではタバコの取り扱いはしていないのです」

「なるほど。そうですか……」


彼は全てをわかっていて男の子に頼んだのだろう。無理難題だと、無茶振りだと、達成不可能だと理解していて頼んだのだとしたら、彼は相当な下衆だ。


「つかぬことをお伺いしますが、少し前に小さな男の子が来ませんでした?これくらいの背丈の子なんですが」

「いえ?駅を出発してから担当の入れ替わりもしておりません。私が記憶している限りでは、そのようなお子様は見かけていませんよ。……もしかして、ご家族が迷子に?」

「いえ!先程見つかりましたので。変なことを聞いてしまってすみません」

「変なことなんて。無事に見つかって何よりです」


売店で働く若い女性の店員はとても喜ばしいことのように言ってくれたけれど、こちらとしては頭を抱えたくなるような状況に陥ってしまう。


 それに、男の子が売店に来ていないと言う事実も驚きだ。あの粗暴な男の前で真っ赤な嘘をつける度胸は、果たして誰譲りのものなのだろう。そんな事を考えるのは、とても不毛で悲しい話だ。


 これからどうしたものかと悩んでいると、一人の乗客が甲高い杖の音を伴って売店の前までやってきた。


 店員は乗客と顔見知りのようで、年老いた男へとヒノキさんと親そうに呼びかけた。それに、お爺さんの方も気を良くした様子でニヤリと笑う。


「本日はどのようなご用件で?」

「うむ、また酒のつまみになりそうなものを適当に頼むよ」

「適当と言われるのが一番困るのですよ。わかっていらっしゃいますよね?」

「まぁまぁ、そう言わずにの。カエデさんなら、わしの趣味がわかっておろうて」

「はいはい。毎度ご利用ありがとうございますなのですよ」


足腰が悪いのだろうお爺さんは、一本の杖を手にしている。そのこと自体に違和感はないのだが、杖の材質や装飾など異様に凝った作りをしていて気になった。もしかしなくとも、そこそこお金持ちな人なのだろう。決して着飾っているというわけではないが、纏う雰囲気だけで気圧されてしまうような、そんな不思議なご老人だった。


「よかったらどうぞ」


角に立て掛けられていたパイプ椅子が目に入り、念のためカエデさんなる店員に確認を取ってからお爺さんの元へと椅子を運ぶ。


「おう。最近の子らは気が利かないと思っておったが、まだまだ捨てたもんじゃないの」

「ヒノキさん。お口が悪いですよ」

「すまんすまん。ちゃんと感謝はしておるよ?歳を重ねて緩んだ口から、ふと愚痴が漏れてしまっただけだわい」


かっかっか。お爺さんは大きく口を開いて可笑しそうに笑う。


「今日はお一人でご旅行ですか?」

「いや、ちょっと野暮用でな。お前さんの方は……。ふむ、先に名前を聞いてもいいかな?」

「玲です。お爺さんはヒノキさん、ですね。で、お姉さんがカエデさん」

「あら、私の名前まで覚えてくださるんですか?」

「かっかっか。カエデさんがお姉さんと言われて気を良くしておるわい」


くすくすと笑いが満ちていく。とても居心地が良い空間だ。


 しかし、あまり長居をするわけにもいかない。


「折角なのでお話をしたいのですが、人を待たせているのでそろそろ戻らないと。僭越ながら、自分はここで失礼しますね」

「なんじゃ、つまらんのぉ」

「またの機会があれば、その時に是非」


目的の代物は手に入らなかったが、彼とて無いものは持ってはこられないと理解しているはずだ。買ってこなかったことに難癖をつけられるのは必至だが、怒鳴られるくらいで済むことを期待しよう。


 …………嫌だなぁ。


 それに、あまり買い物を長引かせていると、女の子が無茶をしでかすやもしれない。


 そんな心配を胸に、急いで席に戻ろうと車両と車両とを隔てる重たい扉に手をかけた時だった。


「……ヒノキさん。アキラさんに”タバコ”を を売って差し上げてはいただけませんか?」

「ほう?カエデさんの口から珍しい言葉が出てきたわい。……これは、どういう風の吹き回しだい?」

「……さて、どうしてでしょう。強いて言うなら、女の勘というものでしょうか」


二人の会話に足を止める。振り返ると、お爺さんがニヤリと底の見えない笑顔をこちらに向けていた。


「他ならぬカエデさんの頼みじゃ。……おい、アキラとやら。わしについてきなさい」

「は、はぁ……」

「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。……とは言え、体には悪いものなので、アキラさんは絶対に喫煙なさらないようにご注意を」


売店の店員さんにお礼を言うと、一言”ご武運を”と返される。物騒な物言いに違和感は残るが、今の自分の状況を店員が知るわけもないけれど、頑張れと背中を押されているように思えてとても嬉しかった。


 のんびりと歩みを進めるお爺さんに連れられて、女の子のいる車両とは反対方向へとゆっくりと進んでいく。


 売店からいくつかの車両を跨ぐと、突然車内の内装がガラリと変わった。


「……グリーン車みたい。いや、どちらかと言うと寝台列車かな?」


今までは両脇の席の中央に通路が設けてあったが、この車両は右側に寄っていた。座席も全て個室化されていて、ドアにはわざわざカードキーまで備え付けられている客室となっている。他の車両は文字通り古くてガタが来ている印象だったが、この車両は意図して古くめかして見せているのだろう。どちらも同じく年代を感じさせる作りだが、明らかにこちらの方が細部まで美しく作り込まれていて高級感が感じられた。


「何をしとる。中に入れ」

「は、はい。お邪魔します」


102と刻印されたお洒落なプレートに飾られた扉は、重さを感じさせないほど滑らかな動きで開いた。


「わ〜ぉ」


予想はしていたが、室内も豪華に飾られていた。窓下のテーブルや座椅子に施された彫刻は、手を触れるのが躊躇われるほど繊細だ。椅子に張られた気品あふれる布や、床に敷かれているきっちり編み込まれて隙間のない絨毯も、素人目に見ても安いものではないことは明らかだった。


「かっかっか。お前さん、VIP車は初めてか?」

「はい。すみません、突然押しかけるみたいに……。なるべく物に触らないようにしますので」

「若いくせに思考が年寄り臭いのぉ。殊勝なのはいいことだがな。わしとしても悪い気はせんよ」


シックなソファーに腰掛けたお爺さんは、ゲスト用の椅子の方を一瞥する。長居をするつもりはなかったけれど、立ちっぱなしは流石に疲れるかと、ここは厚意に甘えさせてもらうことにした。


「わしとしては長話をするのもやぶさかではないのじゃが、お前さんはそうもいかんのだろう?」

「……本当にすみません」

「まぁ、よい。欲しいのはどんな銘柄じゃ?」


内容を確かめるためにポケットにしまっていたガムの包紙を取り出すと、お爺さんの表情がムッと歪む。誰とて、目の前であからさまなゴミを取り出す者にいい感情は抱かないだろう。


「……タバコに詳しくないのでメモをもらったんですけど、もう少しちゃんとした紙に書いて欲しかったです」

「……その者は品性のかけらもない男のようじゃな。自身で来ないのもたちが悪い」

「わかるんですか?」

「これで女子おなごだとしたら、もう終わりだと思わんか?」

「確かに。言えてますね」


本人のいない場で馬鹿にするのは後ろめたいが、今は若干偏った思考を持っているお爺さんの機嫌の方が優先だ。彼には求めるタバコのためと、甘んじて受け入れてもらおう。


「ほれ。持っていくといい」


黒い皮の鞄からタバコをワンカートン取り出したお爺さんは、ビニールの包装を慣れた手つきで破り、その中身のいくつかをテーブルに並べて置く。


 パッケージの一部に施された螺鈿細工を模したようなデザインは、黒を基調とした箱を上品に飾っていて目を引かれる。中がタバコと知らなければつい手を伸ばしてしまいたくなる、そんな素敵な色合いだ。


「……えっと、全部でおいくらです?」


お爺さんの身なりに、車両の豪華さ。それに加えてあからさまに高級に見える巻きタバコだ。下手をしたら財布の中身が空っぽどころの話ではない。いくら事を穏便に済ませるためとは言え、彼のためにそこまでしてあげる義理はなかった。


「いや、代金は気にせんで構わんよ。……ただ、一つだけ老害の頼みを聞いてくれんかの?」

「いやいやいや!そんな滅相もない!」

「かっかっか。冗談がわからないやつじゃの。じゃが、よきかなよきかな。お前さんのように愉快な者は嫌いではない」


こちらが親しみやすい態度を心がけてくれているのだろうお爺さんの頼みは、至ってシンプルかつ簡単なものだった。


“新しい銘柄も一緒に持っていって欲しい”


 お爺さんは、新しい商品の試供品の感想が欲しいようだった。お爺さん自身、彼に良い印象を抱いていないはずなのに、社会人として試供品を提供し商品開発の糧を得ようとするその心意気は、そう簡単に身につけられるものではない。この歳でまだ現役なのだとしたら、相当なやり手に違いないと想像する。


 自分は二種類のタバコと共に、感想を聞くための待ち合わせ場所に関する短い言伝も預かる。


 これで、こちらの用事は済んだ。


「良い機会じゃ。お前さんも一つどうだい?」


いい加減帰らなければなと腰を上げた自分に、お爺さんが歪んだ笑顔を向けながら言った。まるで仮面が一つ取り払われたような近しいものに向ける表情は、これまでのやり取りで信用をしてもらえたということなのだろうか。


しかし、あまりに不気味で底の見えないお爺さんの笑みに、自分はなぜだか素直に喜ぶことができなかった。


「……いえ、あまり体が強くないので、自分は。興味がないわけではないんですが、お金もかかりますし、病気がちになっても困るので。きっと、自分には一生縁のないものですよ」

「そうかい?わしはそうは思わんがね」


そう言ってお爺さんは、一息ついて。


「ならば、”賭け”といこうか」


また不気味な台詞を口にする。


「もし何かに絶望して、どうしようもない時。それでも救いを求めるなら、そのタバコに火をつけるとよい。お前さんの言う通り、紫煙は体を壊しこそするが、辛い心を塗りつぶしてくれる癒しにもなりうる。”コレ”はそういう代物じゃ」


なんと言われようと喫煙する気はないのだから、自分がお爺さんの言葉を気に留める必要はない。そのはずなのに、その声は虫を誘う甘い蜜の香りの如く、意識しないという事を許してはくれない。


「逆に、そんな状況でも吸わないという選択をしたのなら、わしの負けじゃ。その時は、箱を引き裂いて暖炉にでも薪と一緒に“焚べて”やってくれ。燃えないタバコほど惨めなものはないからの」

「……わかりました。覚えておきますね」


お爺さんの言わんとしたいことが理解できたわけではないけれど、今はその言葉を返すのが適切だと思った。


「引き留めて悪かったの」


自分の手を握りながら、一つのライターを手渡してくるお爺さんに、先程の妙な笑みは見つけられなかった。


 部屋を出て、今度は反対方向に歩き出す。


「宗教勧誘って、こんな風なんだろうなぁ〜」


何やら痛々しい植物の模様が刻まれた高そうなオイルライターを弄びながら、一息。


 自分は、足早に女の子の下へと急ぐ。

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