第18話 呪いを望んだ白い猫

「「ご馳走さまでした」」

「はい。お粗末様でした」


賑やかで楽しい食事を終えると、満腹になったからか、心地よい疲労感と共に微かに眠気がやってきた。


 豪勢な食事を二人と囲んで、思いの外舞い上がっていたのだろう。意図せず力んでいた体から、スッと力を抜いた。


「「ふぅ〜」」


至福のひと時に吐いたため息が、女の子のそれと偶然重なった。そんな偶然がとても嬉しくて、くすりと小さく笑ってしまう。そんな自分に微笑み返してくれる女の子も、なんだか少し眠そうに見えた。


「二人とも、デザートは食べられそう?」

「もちろんだよ!」

「結構食べてましたけど、お腹大丈夫なんですか……?」

「焼きプリンは別腹だからね!平気だよっ!」


女の子待望のデザートを食べ始める前にと、三人でざっくりとテーブルの上を片付ける。魔杖の扱いは彼女に任せて、女の子と自分は、主に食器らを台所へと運ぶ作業に勤しんだ。


 大方片付いたテーブルへと濡れ布巾をかけ終えた頃、丁度彼女が台所から戻ってくる。彼女が手に持つ丸いお盆の上には、海亀の卵に母亀が抱きついている可愛らしい容器が三つ乗っていた。


「海亀亭の焼きプリンをまた食べられるなんて……っ!!ありがとう、ミナトぉ〜!!」

「ちょっと、白!今は抱きつかないで!危ないよ!」


好物の焼きプリンを食べられることが、女の子はよっぽど嬉しいのだろう。女の子は喜びに興奮を抑えられずに、彼女の元へとぱたぱたと駆け寄って行く。


 ターゲットになった彼女はと言えば、プリンを落としてしまわないようにと必死に守りの姿勢に入っていた。


「パス、パスっ!」

「あっ……、うん。は、はいっ!」


思いつきで彼女へと声をかけると、余裕のない様子の彼女は、あわあわと手に持つお盆を自分へと預けてくる。


 次の瞬間、ボフンという音をたてながら女の子が彼女へと抱きついた。


 寸でのところでプリンは無事だった、と喜ぶべきところなのだろうけれど。横目に映っていた女の子が、彼女の元へと走る速度を調節していたのに気が付いていた身としては、彼女を騙してしまったようで少し複雑な気分だった。


「まだ、出すものあるんだ。だから、離してほしいな」

「もしかして、マタタビ酒!?やったぁ!」

「だから、離れてくれないと持ってこれないんだってばっ!」


体をウリウリと擦り付けて全力で感謝を伝えようとしてくる女の子に、彼女は身動きが取れずにじたばたともがいている。これはしばらくかかりそうだと、お盆を持って一人席に戻った。


 しばらくして、解放された彼女はこちらへと近づいてくる。


「見てないで、助けてくれてもよかったのに……」


そう責めるように愚痴を言ってくる彼女は、先ほどより少し窶れているように見えた。


 とは言え、彼女には”これくらい”しないと意味がないと、女の子はきっと知っているのだ。


「…………なに?私、おかしいことでも言った?」


攻めに弱い彼女の一面を垣間見た自分は、知らず識らずに笑みを浮かべていたらしい。そんな自分を、彼女は不満そうにまた責めた。


「いや。別に、助けても良かったんですよ?」

「…………もう。私は、君が何を考えているのかわからないよ」

「そうですかね?」


自分が何の気なしに惚けて見せると、彼女は顔をほんのりと赤らめながら恥ずかしそうに背を向けてしまった。普段は感情がわかりにくい彼女だけれど、羞恥や焦りで余裕がなくなると、逆に感情がダダ漏れになるらしい。


 もごもご、もごもごと。苦しげな声が聞こえてくるのに、ほんの少しの心配と、彼女の表情を見てみたいという邪な感情を携えて、彼女の正面へと周ってみる。しかし、何か嫌な予感でもしたのだろう。彼女は自分が近づいてくる気配を感じると、すぐさまプイッとそっぽを向いてしまった。少しやり過ぎてしまったかと、今更ながら反省する。


「玲〜、ミナト〜。焼きプリン、冷えてるうちに食べちゃおうよぉ〜」

「そうですね」

「ねぇ、君たちのせいだってこと、忘れてないかな……?」


いつの間にか席に戻っていた女の子が、銀色のスプーンを片手に催促してくるのに、自分達もそそくさと席に着くことにする。


 楽しそうに体を揺らしてプリンを眺めていた女の子は、彼女と自分が座ったことを確認すると、もう我慢の限界とプリンの容器に手をつけた。それに続き、自分達も蓋をそっと開ける。


 卵の形をした容器の中には、陽の光と白い雲を混ぜ合わせたかのような、暖かくて柔らかそうな優しい色味のプリンが入っていた。


 不意に、コトリと。彼女が飲み物を自分の前へと置いた。


「……これは?」

「マタタビ酒だよ。アキラも白と同じなら、好きかなって思ったんだけど……。もしかして違った?」


炭酸の混じった淡い黄緑色をした飲み物からは、ほんのりと柑橘系の酸味が香ってくる。


 一見すると美味しそうには見えたけれど、中身はマタタビだなどと言われては、そう気安く口をつける訳にはいかない。とても心苦しくはあったけれど、彼女に頼んで代わりにお茶を貰うことにした。


「白にもあげるけど、飲み過ぎには注意してね。あんまり一気に摂取すると、体には毒になっちゃうんだから」

「だいじょうぶだいじょうぶ〜。それくらいわかってるよぉ〜」

「……本当にわかってるのかなぁ……」


彼女の注意は、右から左へ。既に飲み始めていた女の子には、意味をなしていないようだった。頭をふらふらと揺らしながら、気持ち良さそうな表情で蕩けている様は、女の子として如何なものかと少し心配になる程だ。


 それでも、女の子が幸せならそれで良いではないかとも思えてしまって。仕方なく、女の子の体調に影響が出ない程度までは、自分は黙って見守ることにした。


「私も、今日は飲んじゃおうかな。アキラがいるなら、何かあっても平気だよね」

「後片付けくらいはできますから、気にせず楽しんでください」

「そう?ずっと開けたかったお酒があったんだよ。でも、なかなか開け時がなくって……」


そう言って彼女は、棚の中から一本の酒瓶を取り出してくる。


 妙に見覚えのあるフォルムのそれには、達筆な文字が添えられた和風なラベルが貼られていた。


「この日本酒なんだけどね。徒桜って言うんだ。お洒落な名前だと思わない?」

「ま、まぁ、そうかもですね……」


やにわに彼女から同意を求められた自分は、苦笑いを浮かべながらお茶を濁すしかなかった。


 ……徒桜、ね。


 何処の誰が付けた名前かは知らないが、随分と自分勝手な名前の付け方だと、そう思わずにはいられない。桜の儚いひと時すら根こそぎ奪った張本人が、その美しさに焦がれ、想う資格があるのかといえば、そんなものは欠片もないはずだけれど。


 でも、そんなエゴの塊な名前に対して嫌悪の吐き気を催すのは、今は自分だけで十分だ。


「患者さんが診療料金代わりにって置いていった物なんだけどね……。実はこれ、三百年物のレア物だったんだっ!」

「なっっっがっ!!さ、さんびゃくねんっ!?」

「そうだよね!驚くよね!私なんて、気付いた時はびっくりしちゃって、思わず瓶を投げちゃったよ」


彼女はその瞬間を再現するためか、唐突に全身を使ってジェスチャーをし始めた。お酒を飲む前から若干ハイテンション気味の彼女は、もしかすると、夜という時間と場の空気に流されているのかもしれない。とは言え、目の前に広がる奇怪な光景は、見ている分にはとても楽しいものだった。


 けれど同時に、彼女の自尊心を傷つけてしまわないかとも心配にもなる。もし彼女が意図せず解放的な気分になっているとするならば、不本意な形で自身を晒している彼女を直視するのは流石に可哀想ではないかと思えてならなかった。彼女の内面は知りたいけれど、決して彼女を辱めたいわけではない。そう言うものは、打ち解けてから少しずつ晒してもらうのが一番良いはずだ。


 とにかく、彼女が思い出して恥ずかしい行為は全て見て見ぬ振りをしてあげようと、そう密かに心に決めた。


「でも、それ飲めるんですか……?腐ってたりしません?」

「飲めるかは問題じゃないんだよ。こんな貴重なお酒、飲まずに捨てるなんて考えられないよ」

「無茶してお腹壊さないでくださいよ……?」


こちらの心配など気にもしていない様子で、彼女はせっせと付け合わせを取りに行ってしまう。彼女はどうやら、今日という日を思って日本酒に合うおつまみを自分なりに勉強していたらしかった。


「ミナトにお酒飲ませるのは、わたしはやめたほうがいいと思うなぁ〜」

「どうしてです?」


自分の分の焼きプリンに手を伸ばそうとした時、女の子がおもむろにそう言いだした。


 酔いが回って呂律が怪しくなり始めている女の子は、内緒話をする時のように耳元に顔を近づけてくる。


「ミナトね、すっごく悪酔いするんだよ。面倒見るの、とっても大変なんだ……」

「悪酔いって、どっちの方に?」

「ん〜。なんて言えばいいのかなぁ……。抱きつき癖の、反対?」

「反対……?」


ふにゃふにゃと締まりのない声で言う女の子は、話す内容まで漠然としていて何が言いたいのかさっぱり理解できない。とは言え、この後素面なのは自分だけになるのだ。せめて対応策だけでも詳しく聞かなければと、女の子に縋るようにして質問をする。


 しかし、女の子の興味は既にマタタビ酒に奪われていて、自分の声は全く聞こえていないようだった。


 彼女がお酒を注ぎ終えたのを確認して、遅めの乾杯をすることにした。ついさっき片付けたはずのテーブルの上には、気付けば手頃なサイズの酒の肴で溢れている。海産物やナッツ等、軽いものが大半だったが、その中にちらほらと見受けられる彼女お手製の日本食達が満腹な胃袋を嫌に刺激した。


 小さいのに二人とも、よく食べるなぁ……。


 軽くお腹を摩りながら、ちまちまとプリンを口に運ぶ。


「うん、当たりだ」


程よい硬さは持ちつつも口溶けは滑らかで、食材からくる自然な甘みにはくどさを感じない。底に溜まっているカラメルは飴のような輝きと粘り気があり、まるでプリンの控えめな甘さを補うようにがっつりと重たい甘さと大人っぽいほろ苦さを口に届けてくれる。これは、食べ方に好みが出てきそうだ。


「もうすぐ、春が終わるね」


ボソリと、誰にともなく女の子が口を開いたのに、彼女がしみじみと言葉を返す。


「今年も、もう七星祭の季節なんだね。去年は天気が悪くて見られなかったけど……。今年は晴れるといいな」

「……七星祭って、なんです?」


知らない単語に、反射的に彼女へと尋ねた。


「年に一回、月近くの星々が一列に並ぶんだ。天気が良ければ、七色の夜空が見られるんだよ」

「それが本当なら、ぜひ見てみたいですね」


ちびちびと酒を口にしながら、彼女はその時の光景を思い出すように上を向く。


「星の海って言えばいいのかな。まるで、天地が逆転したみたいで、とっても幻想的なんだよ」


深い黒色の大海原と七色に輝く夜空が繋がった瞬間、世界が反転したかのような錯覚に陥るのだと、彼女は大袈裟ともとれることを自信満々に言い切ってみせた。初めこそ真偽を疑っていたものの、彼女があまりに絶賛するものだから、彼女の言う景色をこの目で見たいと、俄然興味が湧いてくる。


「玲と一緒に、見られるかな…………?」


不意に女の子が悲しげな笑顔を浮かべながら、ため息をつくようにそう言った。察するに、内心では今年も悪天候で無理ではないかと諦めているに違いない。


 だから、俯いたままの女の子が前を向いてくれるような、当日が楽しみで楽しみで仕方がなくなるだろう話題を胸の底から引っ張り出してみた。


「もし晴れたら、その日は外で寝ましょうよ。寝藁を出して、仰向けで空を見るんです」

「それは……、うん!とっても素敵な考えだねっ!」

「あそこは周りに明かりもないですから、きっと綺麗に見えますよ」


人里離れた崖の上にあるボロ小屋では、普通の暮らしを送るのすら困難だ。けれど、人気なく街明かりの一つもない真っ暗な立地も、夜空を見ることに関しては最高の環境に早変わりだ。


「でも、玲がそんなロマンチックなことを言いだすなんて、少し意外だよ」

「そうですかね?別に、そんなつもりはなかったんですけど……」


意図しない方向へと話が転がってしまい、女の子の視線から隠れるように反対を向いた。たとえ女の子に悪意がなかったとしても、ロマンチックなどという評価は受け入れ難い。夢見がちで女々しい奴だと思われているのだとしたら、その考えをいつか改めさせなければならないだろう。


 そんなことを考えていた最中、更なる不本意が彼女の口から飛び出してくる。


「アキラは、ただただ優しいんだよ。私と白が欲しいって思うもの。その全部を、前触れもなく、いきなりくれる」

「だから、ロマンチックだって感じるんだね。わたしの夢が叶ったから、そう感じるんだ」

「アキラって見かけによらず強引だから、ドキッとしちゃうよね」


彼女と女の子はそんなことを言いながら、クスクスと笑いながらこちらを見てくる。それがひどく居心地が悪くて、視界から逃れるように椅子を軽く引いた。


 しかし、女の子は自分の真似をしたかと思うと、間にあった距離まで詰めては、真横に椅子をつけてきた。


「……でも、もしそうだったとしたら、わたしは玲に、どうすればお返しをできるのかな……」


まるで自分の隣にいることが当然であるかのように、女の子は恥ずかしげもなくぴったりと寄り添ってくる。酔っ払って思考が回っていないのか、はたまたどうにでもなれとやけくそになっているのかはわからない。いずれにしても、女の子が自分に素直に甘えてくるのは、これが”初めて”のことだった。


「わたしね。玲の考えてることが、たまにわからなくなるんだ」

「……他人の考えてることが簡単にわかったら、生きていくのにこんなに苦労はしませんよ」

「……もうっ。そういうことを言いたいんじゃないんだよ」


むすっとして不満げな女の子は、こちらに八つ当たりをするように、トン、トンと。こちらへの不満を数えながら、体へと尻尾を軽くぶつけてくる。


 何事にも真面目だなって思ったら、突然無茶をし始めたり。


 トン。


 いつも優しいなって思ってたら、急にいたずらをしてきたりする。


 トン。


 ……わたしが寂しいなって思ってたら、何も言わずに隣にいてくれる。


 トン、トンと。体を叩く女の子の尻尾は、なぜだか次第に力をなくしていく。


「……でもね、思ったんだ。それがもし、全部わたしのためにしてくれていたことなんだとしたら、ね。本当の玲は、どこにいるのかな?」

「……本当、ですか。また難しいことを言いますね」

「難しくてもね、無視をしちゃいけないことだと思うから。わたしは、頑張って考えるよ」


女の子の幸せを願った夜。あの重苦しい夜が明けてから、自分は様々な努力をしてきたつもりだ。女の子が喜びそうなことは片っ端から実行したし、最初は嫌がるとしても、女の子が最終的に笑ってくれると思えたら、その全てに挑戦する心構えで日々を過ごしてきた。


 けれど、必ずしも望んだ通りに上手くできたかと言えば、そんなことはなかった。女の子の理想を叶えるには、自分はあまりに無力だったから。


「ご飯を一緒に食べられる、小さいテーブルと椅子を作ってくれたよね」


違う。


 それは、見窄らしい家を立派に建て直そうとして、失敗を誤魔化そうとした結果だ。


「玲が釣ってきた細長いお魚、塩焼きにしたら美味しかったな」


違う。


 本当は、もっと栄養価の高い大きな魚を釣り上げて、お世辞なく美味しいと思えるものを食べさせてあげたかった。


「わたしの大切なお友達のミナトのこと、玲も大切に思ってくれてるって、わかるよ」


違う。


 それは単純に、興味本位なのだ。本当にただの気まぐれで、利己的な考えで仲良くなろうと画策していただけだ。


 なんで、こうも上手くいかないんだ……。


 理由は、自分でも薄々気が付いていた。


 あの夜。最初は、確かな信念が心の中で熱を持っていた。なのに、今はもう、あの夜に感じた想いが、願いが。靄がかかったように見つからず、残った残滓すら薄らいでいて、一向に思い出せない。


 きっと、足りないのだ。女の子が幸せに疑問を持つ、その原因は、他の誰でもなく自分にあるのだろう。本物だと思えるほどの大きな幸せを、自分は女の子に渡せていない。


 自分がそんな出来損ないだから、今のように女の子が不安に落ちてしまう。そんな未来は望んでいなかったはずなのに、手に入るのはいつだって、自らの愚行を非難する煩いくらいの現実だ。


「ねぇ、玲。わたしは、どうすれば玲を幸せにできる?」

「…………」


自分は、無言を貫き通した。空っぽになったプリンの容器の底を、貫かんとするほどに凝視する。今は、周りを相手する余裕が作れそうになかった。


「もう…………。玲はいつもそうだ」


そんな女の子の寂しげな愚痴にも、この時ばかりは反応してあげられそうにない。きつく口を閉ざさなければ、とめどなく黒色が漏れ出てきそうで怖かった。


「ね、ねぇ……」

「…………え?ちょ、どうしたんですか??」


一旦心を落ち着けようと呼吸を整えていた最中、今まで静かだった彼女が、半泣きな表情でこちらに声をかけてきて驚く。


 突然なにごとかと心配するも、当の本人は平気だと言って、頭を左右に振って聞かない。


 仕方なしと、彼女との会話に専念するべく、体の向きを彼女へと向けた。もちろん、他意はない。


「何か悲しいことでも思い出したんですか?自分でよければ、話くらいなら聞けますよ?」


ぷるぷると震える彼女を刺激しないように、疑問をゆっくりと言葉にしては、涙を湛える理由をそっと尋ねた。


「…………私は……」

「……はい。聞いてますよ。」

「………………っ」


弱々しく口を開いた彼女だったが、しかし、何か躊躇うようにして続きを言うのをやめてしまう。


「いつまでも待ちますから。ゆっくりでいいですからね」


それでも食い下がらないことを選ぶ自分に、彼女はパクパクと口を開いては、口をきつく結ぶことを繰り返していた。自身の思いを言葉にするのが、よっぽど不安なのだろう。彼女はチラチラと視線を向けてきては、頻りにこちらの様子を伺ってくる。彼女は、必死に何かと戦っているように見えた。


 彼女の心の内で揺れ動いていた思いは、次第に一方へと傾き始める。悩みに無理やりにでも答えを出した様子の彼女は、恐る恐ると言った様子で秘めた思いを形にしてくれた。


「私は、邪魔かな……?」


彼女はこちらと視線を合わせないままに、ポツリと悲しい言葉を呟く。まるで予想していなかった展開に、一瞬だけ思考が停止してしまった。


「……そんな、邪魔だなんてっ!誓って、これっぽっちだって思ってませんよっ!」


彼女の考えを否定することばかりに意識が向いて、意図せず大きな声を出してしまう。


 それを聞いた彼女は、怯えるように小さく縮こまってしまった。


「でも……」


素面での大人っぽくて毅然としていた彼女は、今では見る影もなくなっている。口数は極端に少なくなり、会話すら成り立たない状況だ。


 まいったなぁ……。


 彼女に話す気があるのか、それともこちらを試しているだけなのかは定かではない。モジモジとして落ち着きのない彼女はと言えば、チラチラとこちらに視線を向けてきては、また俯くの繰り返しだ。


 その目線は、さながら親に怒られている子供のようだった。赦しが欲しくて、謝りたい。けれど、余計なことを言ってしまってまた怒られる気がしてならなくて、辛いけれど押し黙っている。そんな苦しげな雰囲気が、彼女からはなんとなく感じられた。


「……玲」


困って身動きの取れなくなってしまった自分を見兼ねてか、隣の女の子は間違いを指摘するように声を漏らした。


「酔ったミナトに何を言っても、絶対に納得はしてもらえないよ」

「でも、放っては置けなくて。ほら、あんな様子ですし……」


彼女を邪魔だなどと思う者は、この場に一人として居ない。だと言うのに、彼女は誰かに責められているかのような居た堪れない表情で、今にでも泣き崩れてしまいそうだった。


 女の子も彼女が心配なのだろう。耳打ちで囁くように助言をくれた。その内容に少し驚きながらも、その程度で泣き止んでくれるのならと、思い切って試してみることにする。


「こっち来て」


女の子に言われた通りに、普段人と話すときよりもいくらか強めの口調を心がける。偉そうに命令するのは慣れておらず、上手くできているか心配で仕方がなかった。


「…………いいの?」

「来て。ほら」

「う、うん……」


手招きで急かすように呼び寄せると、彼女は不自然なほど素直に従った。両手で席を抱えながら、トコトコと隣までやってくる。


 そんな彼女がひどく喜んでいるように見えたのは、きっと自分の思い違いだ。そう、信じたい。


「き、来たよ……?」


隣で静かに席に着く彼女は、妙な光を瞳に湛えていた。その怪しげな揺らめきに見つめられて、一瞬ドキリと心臓が跳ねる。彼女の期待に満ちた熱い眼差しに、若干の寒気を覚えずにはいられなかった。


 それはともかく、自分は自分のやるべきことをしなくてはならない。そのことを思い出し、自分は意を決して彼女へと恐る恐る手を伸ばした。


「……っ!!あ、アキラっ??」


自分の手のひらが、彼女の頭をそっと撫でる。その感覚に驚いた彼女は、顔を真っ赤にして声を上げた。


「す、すみません!嫌だったらすぐにやめますから!」


彼女からの拒絶を前にして、自分は演技も忘れて頭を下げた。彼女のためになると信じての行動だったのに、甲斐無く裏目に出てしまったようで焦った。


 しかし、そんな後ろ向きな考えは、すぐに彼女自身から否定された。


「嫌じゃないよっ!むしろ、もっと…………」

「ん?もっと……??」

「…………っっっ!!なんでもないっ!」


何かを口走りかけた彼女は、恥ずかしそうに顔を隠して俯いてしまう。


 これ幸いと、自分は彼女の頭を撫で回すことにした。


 嫌じゃないって言ってたし、これでいいんだよね?


 さっき女の子の言いたかったことが、今になってようやくわかった気がした。


 抱きつき癖の反対。それは、他人からの接触に飢えているという意味合いだったようだ。


「ミナトはね、すごいんだよ。なのに、とっても自信がないんだ。いつもは平気なフリをしてるけどね、いつだって心は不安なんだよ」


女の子は、彼女の望みを叶えてくれと、そう頼んできた。


「玲。ミナトを、安心させてあげて。ミナトは、欲張りさんだから。言葉だけじゃなくて、信じられるだけの確証がないとダメなんだ。……だから、安心をたくさん、もうお腹いっぱいってくらい、あげて欲しいな」


そんな心からの願いを聞きながら、片手は彼女の頭の上だ。涙を流してしまうほどの不安を取り去るために、くすぐったいだろうと思えるほど優しく丁寧に手を動かし続けた。


 そんな自分を見る女の子は、なぜだか複雑な表情で笑っていた。


「ふぁっ!……っちょっと、アキラっ!み、耳は、その……。恥ずかしいから、やめて欲しいな」

「す、すいませんっ!ふわふわしてて、とても触り心地が良かったので。完全に無意識でした……」


一瞬とはいえ、女の子の方へと思考が傾いていた自分は、体と意識が途切れていたようだった。


 やらかしたぁ……。


 理性が働かないその隙に、自分の片手は、彼女の大きな耳をいじり捏ね回し愉しんでいたのだろう。覚えのない滑らかな毛並みの感触や、自分のものではない微かな体温が、知らないうちに手のひらにベッタリと染み付いていて、焦る。


「……私の耳、そんなに良いの?」


そんな悪魔の囁きが、耳元で吐息のように吹きかけられる。


「私のでいいなら、君なら。アキラなら、私は、構わないよ?」


こちらに余裕がないのを知ってか知らずか、彼女はトドメを刺すようにしてこちらの膝に手をついたかと思うと、身を乗り出して顔を覗き込んでくる。


 これ以上は勘弁してくれと頭を抱えているところに、もう一方からも不穏な雰囲気が漂ってくるのを感じた。


「………………ずるい」

「……何がです?」

「玲は、きっと誰にでも優しいんだ。でもね、それってね、少し寂しいんだよ……」


突然、心細そうに思いを吐露し始める女の子に、自分は否定の言葉を必死に探した。


 しかし、どんなに無難な言葉を見つけても、口にすることはとてもできそうになかった。


 羞恥を捨てて彼女を呼び寄せて、彼女の望むままに頭を撫でている最中。もう一方に座る女の子から、寂しいのだと小声で縋られる。そんな今、自分が女の子に何を言ったとしても、きっと聞き入れてはくれない。側から見ても、最低な男であることはまず間違い無い。だから、何も言えなかった。いや、言わなかった。


 しかし、次の瞬間には、その判断をした自分を猛烈に憾んだ。


「……白っ!?何やってるのっ!!!!」

「だって……っ!!ミナトばっかり、ずるいよ。わたしだって、玲に撫でて欲しいもんっ!!!!」


駄々をこねる女の子の姿は、先ほどとは少し変わっていた。違っているのは、たった一部。ほんの僅かな変わり様だった。


 けれど、自分は彼女から教えてもらっていた。”それ”が、それだけで、だ。人生がまるっきり変わってしまうほどの忌々しい呪いであることを、嫌という程知っている。


「なんで、そんな馬鹿なことをしたのっ!?」


女の子の頭上には、今まではなかった獣の耳が二つ、姿を現していた。どこからともなく現れた呪いに、自分は唖然として言葉が出ない。


「ふざけてるのっ!?自分で何をしたのか、わかってる!?」


女の子の変わり様を目の当たりにして、彼女は酔いから覚めてしまったのだろう。ただ、平静を優に越してしまって、彼女は怒り狂っていた。


 彼女が治したいと願った病。それに”自ら”罹った友達を前にして、彼女は鋭い眼光で貫くように睨みつける。


「だ、だって…………!!」

「言い訳は聞きたく無い!白が今したことはね、”私たち”に対しての冒涜なんだよっ!」


彼女は、女の子にそう怒鳴ってはいたけれど。流している涙を一目見れば、悲しんでいることぐらい簡単にわかった。


 女の子も、尤もな怒りだと理解はしているはずだ。泣きながら嗚咽まで漏らしている彼女に、たくさん心配されていることも、わかっているはずだ。


 だと言うのに、女の子は頑なに謝ろうとはせず、逆に彼女を責め始めてしまう。


「悪いのはミナトの方だ……」


ボソリ、と。相手の心を逆撫でるように、女の子は呟く。


「……それってどう言う意味っ?」


案の定彼女は、苛立った様子で言葉を返した。


「ミナトには、わからないよ」

「……っ!!私を、信用してくれないの?」

「そうじゃないよっ!」

「だったらなんで!?」


お互いに感情をぶつけ合う二人は、相手の言葉に傷付き、傷受けられ、でも引けないのだと、ただ前へと突っ走る。譲れない思いが二人を動かしているようだった。それはどちらも、悪意ではない。相手を思っての優しさなのだろう。それがまた救いようがないと、そう思った。


 だからこそ、いつか必ず耐えられなくなる。


「お願いだから、もうこれ以上聞かないでっ……!!」


激しい言い争いを終わらせようと初めに動いたのは、意外にも女の子の方からだった。


「ごめん、なさい……。でも、言いたくないの。言っちゃ、ダメなの」


女の子は上がった息を整えてから、掠れた声でそう言った。この怒鳴り合いの発端が何であるかくらい、酔っていても理解はしているのだろう。女の子の目元はうっすらと濡れていたけれど、涙を流すことだけは我慢しているように見えた。


 彼女とて、怒りたくて怒っているわけではない。女の子が反省しているのを見て、彼女の側も矛を収めた。


 どちらにしろ後戻りはできないのだから、今更何を言っても意味がない。ならば、怒ることもまた無意味なことだと、そう思うのは自分だけだろうか。


「……ごめんなさい」

「なんで玲が謝るの?悪いのは、わたしなんだよ?」


怒りという感情に身をまかせる者の感覚が、不思議と自分にはわからない。でも、怒られるべきが女の子でないことだけは、確信が持てた。


 ……自分のせいだ。


 欲張ったツケが回ってきた。ただ、それだけのこと。


「ごめんなさい」

「……………………」

「ごめん、なさい……」


女の子の頭を優しく撫でながら、何度も何度も自分は謝り続けた。


 問題が起きても乗り越えられると、自惚れていた。


 もっと楽しい時間を送りたいと、欲張った。


 全員で幸せになれたら良いと、高望みした。


 女の子に幸せを贈ることを、疎かにしてしまった。


 自分は心底浅はかだった。女の子一人さえ幸せにできないほど、自分は力不足なのに。何もかもが足りない無能なのに、自分は二つ目に手を出した。


 だから、持っていたはずのほんの少しの幸せすら、こうして取りこぼしてしまう。


 ……必要のないものは、見るな。


 わがままを覚えてしまった心を、いつかの日のように縛り直す。その痛みに耐えるようにして、きつく歯を食いしばった。


 ……周りのものに、興味を覚えるな。


 手を伸ばしたところで、届くわけがない。他の誰にも、敵うわけがない。一切合切無意味に終わり、残るのは虚しさと後悔だけだ。


 ……他の誰にも、憧れるな。


 どんなに魅力的に見えたとしても、それは自分にだけは絶対に手に入れることはできない。そんな明らかな現実から、目をそらそうとしてはいけないのだ。


 …………夢を、見るな。


 そんな幻想は次第に心を壊し、苦しめるだけの毒薬だから。


 ギリ、ギリリ。理性の鎖をきつく巻きつけ、二度と解けないようにと錠をかける。身に余る欲は全て無視し、唯一の退路である錠の鍵も、握りつぶして投げ捨てた。


 でも、全然足りていないのだ。支払えるものを持たない者が、何かしらを犠牲にしたところで、手に入るのは破滅への片道切符、その一枚だけ。大量のお金を支払っても、今ある地位を投げ捨てても、この先待っている明るい未来を全て棒に振ったとしても、仮に今ある命を差し出したところで、そんな些細な支払いでは、決して欲しいものは手に入らない。幸せの代価になり得るのは、絶対に支払えないもの。譲れないもの、それだけだ。夢は所詮夢でしかなく、現実を都合よく捻じ曲げるなんてことは、世界の誰にもできない。


 だから、自分は都合の良い傀儡になってみせよう。女の子に幸せを届けるためなら、どんな手段も選ばない。そんな道具に生まれ変わってみせる。


 だから、お願いだ。


 ……どうか許して欲しい。


 女の子の望みを叶えられなかった罪を、どうかこの手で贖わせて欲しい。そう、心の中で強く叫んだ。


 けれど、女の子は息が詰まってしまったかのように、苦しげに、悲しげに、静かにまた涙を湛え始める。


「……玲は、意地悪だよ……」


もう無理だよ、と。そう呟く女の子の頬には、一筋の雫が流れていた。


「わたしは、そんなに頼りない?わたしは、そんなに、余裕がないように見えるの?……ねぇ、玲。玲の苦しいを、少しはわたしにも分けてよ。君がいつもそうしてくれるように、わたしも君を支えたいんだ」


そして女の子は、自分へと問いかけてくる。


「……玲は、わたしと一緒にいて、楽しい?」

「もちろん、楽しいですよ」


自分は迷いなく即答した。これ以上ないという、無難な回答を女の子へと返す。


 でも、女の子は納得してくれなかった。


「……嫌いだ」

「え?」

「わたしはそんなの、望んでないっ!」


研ぎ澄まされた刃物よりも鋭い言葉が、自分の心に突き刺さったのを感じた。貫き、裂き、抉るような無茶苦茶な痛みに、全身の震えが止まらなくなる。


「玲のバカっ!!」


女の子はそう言い残して、リビングを飛び出してしまった。すぐに、バタンと。大きな音を立てて、奥にある部屋の一つへと消えてしまう。残された自分は、呆然とその場で固まっていた。


「お酒なんて、飲まなければよかった……」


背後で彼女が、悔いるようにしてそう嘆く。罪悪感でも覚えているのだろうか。彼女の言葉は弱々しくて、それでいて心底腹立たしい。そう感じられる、とても優しい声だった。


「白さんのところ、行ってもらえませんか?心配なので」

「……いいの?」

「片付けはしておきますから。お願いします」


彼女はわかったと頷いて、トコトコと女の子のもとへと駆けていく。


 その背中が見えなくなったのを確認してから、自分はそっと目蓋を閉じた。


「…………」


とても静かだった。気持ち悪いくらい、音がない。耳が孤独を訴えては、気に障る異音を絶え間なく鳴らしてくる。それが心底煩わしかった。


 他人はこういう時、どんな心境なのだろうと、ふと思う。失敗したと、後悔するのだろうか。自分に非があったと、謝罪する計画を立てるのかもしれない。あるいは、誰にともなく懺悔をしては、一人勝手に救われた気持ちになるのだろう。


 でも、不思議と自分はそうはならなかった。先程まで痛いほど熱を持っていたはずの心が、急激に冷めていく。抱いていた感情は綺麗さっぱり平坦になり、どれが大切な思いだったのか、今はもう見分けがつかなくなってしまった。


 もうどうにでもなってしまえと、投げやりな心が吐き捨てた。


 自分は悪くないと、そう開き直っている自分も少なからずいた。


 ここで縁が切れるのならそれまでのことだと、そんな風にさえ思えてしまっている。


 こんな気持ち、欲しくないのに。嫌で嫌で仕方がないのに。そんな感情に限って、無限に湧き出てきて止まってくれない。


「……さて、始めますか」


心がざわついて落ち着かず、自分は気を紛らわせるためにテーブルの片付けに手をつけた。


 その間ずっと、明日、目覚めた二人とどう接すればいいのか。どんな嫌な出来事が自分を待っているのか。そんなことを、永遠と考え続けていた。

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