第16話 最も身近で遠い夢

 日がもうじき沈むかという頃。金属の屋根が空を覆うギアフロータスでは、早くも街灯が活躍していた。


 薄暗い街中に並ぶ街灯は、しかし、日暮れ前の暗闇すら晴らす力はない。暗闇で歩くのが困難という訳ではないけれど、進んで外に出ようと思わない程度には街は深い夜色を呈している。ぼんやりとした淡い光は頼りなく揺らめき、むしろ街を不気味に色付けてさえいた。


 とはいっても、大通りはいたって賑やかだ。一人の客引きが声を上げる度、周りの者も負けじと声を張る。商店街らしいといえばそれまでだけれど、彼らのお陰でいくらか夜が明るく感じられるのはきっと気のせいではない。


「おまたせ。行こうか」


涼やかなドアベルの音色とともに、支度を終えた彼女が自身の店から出てきた。


 変わらず身につけている白い外套は、彼女の頭をフードで覆っている。中は少し窮屈なのだろう。彼女の大きな狐耳が、ごそごそと居心地のいい場所を探しているようだった。


「気にしないで。その気持ちだけで、私は平気だよ」

「……何のことですか?」

「ううん。何でもない」


意図せず彼女をまじまじと見つめてしまっていたことに気が付いて、恥ずかしくなってしらばっくれようとする。しかし、彼女は穏やかな笑みを浮かべるばかりで、全く責めてこないものだから不気味だった。


 暗い街中、夕食の材料の買い出しに向かう彼女の手には、暖かな光を放つ小さなランプが握られていた。近くに光源があるからだろうか。足元はくっきりと照らすランプの明かりは、しかし、辺りの景色を曖昧にしていく。


 街の喧騒が遠のく感覚に、おもむろに口を開いた。


「今日はすいません。突然お邪魔することになってしまって」

「私はむしろ大歓迎だよ。大勢でのお泊まり会、やってみたかったんだ」


彼女は気遣い無用だと、こちらに微笑みを向けながらに言ってくれた。


「白、今日は特にはしゃいでたから。きっと疲れちゃったんだよ」

「急に倒れた時はびっくりしましたけどね」


店に着いてからしばらくして、女の子が大きなあくびを漏らしたのを思い出す。心底眠そうな締まりのない声で平気だとそう宣った女の子は、しかし、その後すぐに倒れる様にして寝息を立てながら眠ってしまったのだ。


「思いつめなくても大丈夫だよ。いざという時は、私がちゃんと面倒見るから」


胸を張りながらそう言った彼女は、幸いなことに医者の身だ。女の子が万が一体調を崩したとしても、きっと適切な対処をしてくれる。それはとても頼もしいことで、大事になることはないのだと安心できた。


 けれど、それと同じくらい悔しくも思ってしまう。


「よろしくお願いします。自分には、白さんに何もできないので……。代わりに何でもお手伝いしますから」


何もできない。それは、要らないということと同じだ。そう思うと、ひどく胸が苦しかった。


「もう……。遠慮しなくていいのに」


そう言って彼女が寂しげに俯くのに、また胸が締め付けられる。


 ……ごめんなさい。


 そんな表情を見たくて言ったわけではないのに、どうやら自分は、心底どうしようもない人間のようだった。


「名前」

「え?」

「今、白さんって。何で白の前では呼ばないの?」


唐突にそう聞いてきた彼女は、不思議そうに首を傾げた。


 何と答えたものかと思案した後、ありがちな返答を見つけて口にする。


「名前って、覚えるのも呼ぶのも苦手なんですよ。なので極力、名前を呼ばなくていいようにしてるんです」

「そうなの?でも、私の名前は呼んでくれたよね?」


無難に選んだ言葉に、しかし、矛盾を見つけた彼女は、自分を追い詰める様にして質問を重ねた。


 確かに、彼女の名前はちゃんと口にした。でも、それは彼女が望み、許可してくれたからだ。


「本音を言えば、誰の名前も呼びたくはないんです。呼ぶこと自体は嫌いではないんですよ?でも……」


そう言って自分は、隣の彼女へと何の気なしに視線を向けてみる。


 小さな体に、細い手足。女の子ほどではないにしても、華奢で今にも折れてしまいそうだと、そう思った。


 あなたと仲良くなるには、どうすればいいのかな。


 そう内心で口にしてみると、渇いた心が叫ぶのだ。彼女の名前を呼べ。そして彼女のことを……になれと。


 けれど、君たちを……になってしまったが最期、自分はきっと変わってしまう。絶対に嫌われて、しまうだろうから。


 それなのに、不意に胸から込み上げてくるものを感じて、堪らなくなって。その想いを吐露するようにして、そっと口を開く。


「ミナト」

「っ!」


彼女は息を呑んだかと思うと、驚いた様子で固まってしまった。普段は半分も見えない綺麗な目をぱっちりと見開いて、ほんのりと頬を朱に染めてこちらを見つめてくる彼女に、思わず笑みがこぼれる。


 この温もりを、くすぐったさを、いつまでも抱いていたい。手離したくはないと、そう思った。


「き、急にどうしたの?アキラ?」


自分の言動を不審に思ったのだろう。彼女は心配半分、警戒半分で問うてくる。まだ一日も共に過ごしていない自分に名前を呼ばれただけで照れてしまう彼女が可笑しくて、もう少しばかり悪戯を仕掛けたくなる衝動に襲われたが、ここはぐっと我慢することにする。


「いえ。何でもないですよ。今は呼びたい気分だっただけです」


自分は、彼女にとっては友達の友達だ。だとしても、自分にとっては、白さんも、ミナトさんも。もう、失いたくない大切な人だから。


 きっと願いが叶ってしまったら、自分は変わってしまう。今はたった二人だけの、大切だ。だから、無闇に名前は呼べない。そのわがままを、どうか許してほしい。


「それって……。なんか、ずるい」


頬を膨らませて不服そうにしていた彼女だけれど、それでも隣からは離れずに居てくれた。


 もとい、突然彼女は体を寄せてきたかと思うと、ぴったりと横にくっついてきた。


「ミ、ミナトさん?どうしました?」


 ……え、何?なんか急に近くない??


前触れのない彼女の行動に、驚きで鼓動が急激に早まっていく。羞恥で焦って周囲を見回すも、幸いなことに自分たちを気にしている風な人は見当たらず、ほっと胸をなで下ろした。


 彼女は、自分を嫌わないでくれている。軽々しく手を出すことはしないだろうと、信頼してくれている。それを身をもって知ることができたのはとても嬉しいことで、安心できるから良いのだけど。


 く、くすぐったい……。


 隣にくっつく彼女は、自身の尻尾をこちらへと伸ばしては、毛先で焦らすように手を撫でてきた。さわさわ、さわさわと。自分の肌を僅かに掠めるようにして尻尾を近づけてくる彼女に、どうしたものかと思考を巡らせる。


 しかし、彼女は自分の中の冷静を見逃さず、更に攻勢を強めてきた。


 あぁ、ちょ。待って待って!ふわぁっ!ぁぁ、なんか変な気持ちになってくるからやめて!


 なんとか平静を繕っていた表情が、くすぐったさに堪らず崩れていく。それを見た彼女は、くすっと小さく微笑んだ。


「仕返しだ」


彼女が楽しそうな表情でいたずらっぽく言うのに、つられて思わず笑ってしまう。してらやれた感は否めないが、それもまた一興と愉しむことにした。


 しかし、彼女の明るい笑顔は長くは続かなかった。


 先ほどまでの軽やかに跳ねていた声音とは正反対の真剣に訴えかけるような口調で、彼女は思いを語り始める。


「アキラは全然分かってない。私達にとって、君が優しくしてくれることがどれだけ嬉しいことか。幸せなことか、君には分からないんだ」

「……それは流石に言い過ぎでは?」


自分の言葉に、彼女は悲しそうにため息をつく。


 彼女は、聞こえなかったなんてことがないようにと、改めて自分の名前を呼んでから言った。


「事情に疎いみたいだから言うけどね……。私達は、本当に、すごく、心の底から。これ以上ないってくらい、皆んなから嫌われてるんだよ?」


彼女はそう言って、おもむろに街の裏路地へと視線を向ける。その目線の先にある暗闇に目を凝らすと、路地の壁や地面に黒ずんだシミがいくつも見つけられた。


「陰口とか罵倒は、もう慣れたよ。でもね、それで満足する人なんてごく一部なんだ。暴力を振るわれる程度のことは、私達にとっては日常なんだよ」

「そんな…………」


馬鹿な、とはとても言えなかった。


 彼女の言葉には、きっと冗談も誇張も何もない。ひたすらに現実だと、そう思える重さのようなものが感じられた。


「私の診ていた患者の中には、酔った人達に…………うん。”襲われた”んだ。その時の恐怖が忘れられなくて、自分から命を絶ってしまった子もいた。ここはね、それがまかり通る場所なんだよ」


海に浮かぶこの街は、日が暮れた後も遅くまで賑わう、いわゆる眠らない街なのだと彼女は言った。夜更け過ぎでも人の視線がなくなることはない街で、しかし、その子を助けようとしてくれた人は誰もいなかったのだと、とても苦しげな声で嘆く。その悲痛な声に、自分は言葉を失った。


「家を奪われたりなんてのも、よくある話なんだよ。……白も、地主に騙されて両親と家を失ったんだ。その当時、白はまだ十歳にもなってなかった。なのに、突然独りぼっちになってしまったんだよ」


今日この日まで、自分は女の子が一人でボロ小屋に住んでいる理由を考えないようにしていた節があった。どう言い訳をしたところで、単なる穿鑿に過ぎない考察など無意味だと、そう断じてきた。


 けれど、自分は踏み込めなかっただけだ。女の子の境遇を知ったとして、その困難をどうにかできる能力がないと女の子に気付かれてしまったとしたらと思うと、その先を考えるととても怖かった。だから、今の今まで見て見ぬ振りをし続けてきたのだけれど。彼女の言葉は、今まで抱いていた疑問達に最悪に等しい答えをくれた。


「いくら地主とは言え、そんな横暴が許されるなんて……」

「もちろん普段は無理だよ。でも、私達は”別者”だからね。良心も法律も、私たちを守ってはくれない」

「そんな無茶苦茶な……」


優しさの欠片もない世界のあり方に落ち込む自分を、隣の彼女は慰めてくれた。仕方がないんだ、と。全てを諦めたような微笑みを向ける彼女に、嗚咽が漏れそうになるのを必死に耐える。本来なら自分が彼女を慰める立場だと言うのに、まったくもって自分は情けない。


「…………っ!!」


カツ、カツ、カツと。不意に背後から石を叩く硬い音色が近づいてくるのに、心臓を舌で舐められたかのような悪寒を覚えた。


 他人ひと!?


 暗闇を照らす灯りで薄暗く滲んでいた街並みが、途端に喧騒を取り戻したように感じた。実際は対して人の数は変わっていないのかもしれない。けれど、彼女の話を聞いてしまったからだろうか。周りの視線がひどく不快で、どうしようもなく不安を煽った。


 冷たい目だ。


 隣の彼女に目を向ければ、そこには”魔物らしい”立派な尻尾だ。ゆらり、ふわりと。のんきに、無警戒に、露わにされている。耳の方はフードで覆われているけれど、これでは頭隠してなんとやらだ。丸見えの尻尾のせいで、全く意味をなしていなかった。


「どうしたの?私の顔に何かついてるのかな?」


そう言って頬や小さな鼻先をちょこちょこと探るように撫でる彼女に、緊張感がなさ過ぎると内心で叫ぶ。よく目を凝らしてみれば、周囲のいたるところに人影だ。いつ見つかってもおかしくは無いというのに、隣の彼女は警戒している気配すらない。その楽観さ加減に、頭を抱える。


 カツ、カツ。自分たちへと近づいてくる足音に、気付けば彼女の手をがっちりと掴んでは近場の店の壁へと思い切り押し付けていた。


「きゃっ!」

「ごめんなさい。でも、今は隠れないと」


向き合う形で壁にもたれかかる彼女は、驚きに目を見開いていた。恐怖と不安に揺れる瞳に、猛烈な罪悪感が今更ずっしりと心にのしかかってくる。


 赦してとは言いませんから。


 言葉なく謝罪した後に、もう一歩彼女へと距離を詰める。いくら小柄な彼女とはいえ、決して体格が良いとは言えない自分だ。こうでもしなければ、彼女の全身を隠すことができそうになかった。


「ア、アキラ?あのね……?」

「静かに。近くに人が来てて……」


彼女の体に覆い被さるようにして、通りから姿を見えないようにする。彼女はいきなりのことで動揺しているのか、あわあわと落ち着きなく慌てふためいていた。


「……人が多くなってきたので、そこの路地に入りましょうか」

「はぇ?ろ、路地に?そんな、いきなり……。うん、でもそれも良いかも知れな…………って、違う!」


状況の急変に狼狽しているのだろう彼女は、落ち着きがないことこの上なかった。自身に迫る危機を理解はしているはずなのに、当の彼女はと言えば、夢うつつかといったような緩い声で、何やら意味不明な言葉を呟いている。


 彼女の様子が変な理由を探そうと、自分の言動を思い返す。するとすぐに、自分が犯してしまった大きな過ちに気がついた。


「すみません!こんな場所嫌ですよね。気分が悪くなりますよね。……でも、見つかるよりはマシだと思うんです。だから……」

「もう!君はどれだけ私を甘やかしてくれるつもりなの!!」


頭がパンクしそうだなどと言い始める彼女には、やはり危機感の欠片も見られない。能天気だなと呆れながらも、自身の役に立てることを見つけて少し嬉しくも思えてしまう。


 そんな彼女は、やにわに自分の両肩を掴んだかと思うと、自分を見上げながら懇願するように言ってくる。


「と、とにかくね!私は大丈夫なんだよ!だからね、アキラ。ちょっと落ち着いて?ね?」

「は、はい……?」


無理にでも人目につかない場所へと連れて行こうかと考えていたというのに、渦中の彼女に必死になだめられたものだから、思わず二の足を踏んでしまう。本来ならすぐにでもこの場から立ち去るべきだと言うのに、自分の行動力は冬の乾燥しきった枯れ枝のごとく容易く真っ二つに折れてしまった。


 ちゃんと説明するからと言う彼女に、自分は渋々身を引くことにする。


 意図せず拘束される形となっていた彼女は、両手を胸に押し当てて大きく深呼吸をしたかと思うと、こちらを責めるようにジト目で睨め付けてきた。


「君は、なんて言うのかな。見た目とやることが違いすぎる。まるでちぐはぐだ。びっくりだよ」


不安に焦っていた心が、彼女の言葉でだんだんと平静を取り戻していく。冷静になった自分の目の前には、小さな彼女だ。身を守るようにして縮こまる姿に、自分の行動が異常だったことに気がついた。


 やらかした……。


 近くに穴があるならば、今すぐにでも飛び込みたい気分だ。


「白は、よく君と一緒に居られるね。私だったら心臓がいくつあっても足りないよ」

「すみません……。突然馴れ馴れしく触ったりして……」


謝って済むような行為ではないけれど、それでもと深く頭を下げる。しかし、彼女はさして気にしていないのか、微笑みながらに自分の愚行を赦してくれた。どんな形であれ、後で埋め合わせをしなければならないだろう。


 でも、どうしてこんなことしたんだろう……?


 過ちの理由を探すべく、彼女の体温と感触が残る手のひらに視線を落とす。軽々しく女性に触れるなど、普段なら絶対にしないはずなのに、まるで自分が自分でないようだった。もしかすると日常を失った弊害は、思わぬ方向へと心を歪ませているのかもしれない。


 歩きながら理由を話すと言う彼女に連れられて、再び通りを並んで歩く。不思議なことに、自分たちの存在に気がつく人は一人としていなかった。


「この灯りはね、ただの明かりじゃないんだよ」


こうして尻尾を出していても騒ぎにならないのは、手にする灯りのお陰なのだと彼女は言う。ダメ押しとフードを外してみせる彼女だったが、本当に誰も気づいた気配はない。


 灯りを持つ者の存在感を薄くし、周りから認識されにくくなる。そんな灯りの効力は、まるで魔法のようだと、そう思った。


「変わった道具もあるものですね……。これがあれば、外も安心して出歩けるってことですか?」

「制限はあるけど、うん。そうだよ。それでも、不便なことには変わりないんだけどね」


人とは少し違うだけ。たったそれだけのことで、周りから疎まれ、虐げられる。謂れのない嫌悪に毎日精神を擦り減らしながら、びくびくと臆病に生きていかなければならないのは、地獄に等しい苦痛に違いない。


「私が医者になったのは、不便な体をどうにかしたいと思ったからなんだ」


普通の体になって、普通に穏やかに暮らしたい。そんな当たり前の日常を、彼女は真剣に「夢なんだ」と恥ずかしそうに言った。


「初めは医者になろうなんて思ってなかった。でも、生きていくには働かなきゃいけないからね。私が私のために溜め込んだ知識は、医者として生きていくには都合が良かった」


 でも、と彼女は続ける。


「……たまに分からなくなるんだ。たくさんの患者を診てきたよ。可能な限り治してもきた。……でもね。時々だけど、私の力が及ばない患者もいるんだよ。そして皆んな、口を揃えて言うんだ。”死にたい”、”殺してくれ”って、私に頼むんだよ……」


医者は、怪我や病気を治すのが仕事だ。それだというのに、そんな患者に懇願されるのは安らかなる眠りばかりで。そんな死を求める患者達の声が頭から離れないのだと、彼女は辛そうに両手で耳を塞ぐ。


「私には、……無理だった。患者達のお願いを叶えることが、一度たりとも出来なかったんだよ……」


病気を治すことができなかったというのに、患者の最期の希望さえ呑むことができない。そんな不甲斐ない自身を、ひどく悔やんでいるようだった。


 ……それが普通だ。


 そう言うのは簡単だった。けれど、彼女が頭を抱えて悩んでいるのは、ひとえに患者を救いたいと願うからで、諦めきれないからだろうから。


「叶えなくていいんですよ。患者さんの話は、聞かなくていいんです」

「……なんで、そんな冷たいことが言えるの?……君は分かってくれる人だと思ってたのに。少し見損なった」

「…………そうですか」


彼女の向けてくる嫌悪の視線が、深く突き刺さって胸が痛い。


 勿体無いことしたかな……。


 せっかく仲良くなれたと言うのに、一日と経たずに嫌われてしまった。この後のことを思うと面倒なことこの上ないけれど、それでも言葉を撤回するという選択肢は自分には不思議とないようだった。


 せめて、この出会いが少しでも彼女のためになればと、苦しむ彼女の役に立てればいいなと想いながら考えた言葉達を、拙いまでもなんとか繋ぎ合わせて声にする。


「人は誰しも、無意識にもうダメだって、諦める理由を探しながら生きてると思うんです」

「……なんの話?」


訝しげに聞いてくる彼女の瞳の中には、もう自分はいない。だから自分は、独り言のようにして再び重い口を開く。


「死にたいと強く願っても、でも、根底にある生きたいっていう衝動には人は絶対に逆らえません。それでも、生きることにどうしようもなく疲れてしまって、人は少しずつ心を擦り減らしていくんだと思います」


 病気が辛くて、楽になりたい。


 暴力が怖くて、耐えられない。


 未来が不安で、終わりにしたい。


 そんな苦痛から解放されたいと願う人は、最期には同じ望みを抱くのだと思う。お金も、権力も、人脈も要らない。望めば必ず手に入れられる、一番身近な夢だから。


 だと言うのに、他人はおろか、自身すら終わることを許してはくれない。生き地獄のような日々を耐えろと、無責任に、煩いくらいに、心は叫ぶのだ。


 ミナトさん。あなたは、患者なんですよ。


 両手で耳を塞いだとしても、声は決して消えてなくならない。彼女が苛まれているのは、自分自身の苦痛の声なのだろうから。


「……それなら、やっぱり私はひどい医者だね。無能だって罵られたり、慈悲がないって怒られたこともあったけど……。悪いのは、私だったんだ」


患者の痛みが分かるからこそ、苦悩が理解できてしまうからこそ、彼女は悩んでいる。それでもなお医者でありたいと願う彼女だからこそ、答えが出せずに潰れかけているのだろうから。


 だから、その肩の荷を少しでも下ろして欲しいと、自分は密かにそう願うのだ。


「……ミナトさん。不幸に進んで堕ちようとする人たちの非難なんて気にしなくていいんです。ミナトさんは、ミナトさんのやりたいようにやればいいんですよ」

「やりたいように……?そんなの、私には分からないよ」


自身の願いに気付いていない彼女に、自分はそっとヒントを手渡す。


「患者さんの不幸を、治してあげましょうよ」

「…………私、言ったよね?私には、治せなかったんだよ……?」

「不幸は、病気に似ています。患ったら最後、自力では抜け出せない。だから、一度でもいい。患者を幸せの絶頂にしてあげるんです。不幸を幸せに塗り替えてあげて、それでもなお死を選んでしまう患者がいたのなら、またその時に悩めばいいと思いませんか?」


人はあまりに夢を見失い過ぎると、そう思う。これしかない。これだけが救いなのだと求める光は、大抵は偽物の粗悪品だ。叶ったとしてもその先には何も生まれない。そんな夢は、夢なんかではない。夢を邪魔するだけの、意地悪な悪夢だ。


「ミナトさんは、叶えたい夢があるんですよね?その夢は、他のみんなも幸せにできるものではないんですか?」


彼女の夢は、苦しんでいる人を楽にしてあげることだ。それには、死なせてあげる他にも方法があるはずだろうと、彼女に考えるように促してみる。


「……私の、研究のこと?」

「ミナトさんが成果を独り占めしたいというのなら、それでもいいと思いますよ。それを責めていい人なんて誰もいませんから。…………でも、ミナトさんは医者ですよね?」

「…………うん。私は、みんなを治したいって、思うよ」


彼女がはっきりと言ったのを聞いて、もう大丈夫だと、そう思えた。


「……そっか。私は、”人を幸せにしたい”んだ」


彼女は胸に手を当てながら、自らの心に確かめるようにしてそう呟く。目を瞑って自らの鼓動に耳を澄ませている姿は、神に祈りを捧げているようにも見えなくもない。


 彼女は自身の望みの形を、少し恥ずかしげに、しかしとても誇らしげに口にした。


「不幸を消すだけじゃ、私は満足できないみたい」

「…………そうですか」


彼女が向けてくる無邪気な笑顔は、まるで子供が綺麗な宝物を見つけた時のように透明に光り輝いていた。一片の曇りもない純粋な願いの色は夜に見るには少し眩しいくらいで、自分はどこか遠い宇宙に輝く星を眺めるかのようにしてしばらくその光を静かに眺めていた。


 彼女は、どれだけの年月を医学の勉強に当てたのだろう。趣味を愉しむ時間も、きっとなかったに違いない。楽しみや苦労を分かち合う、そんな友人の一人さえ手に入れるとがやっとで、そんな身が嫌で努力をしてきたのだろう。


 ひどくふざけた話だと、そう思った。


「……困ったことがあったら、手伝わせてくださいね。何ができるわけでもありませんけど、雑用くらいはできると思うので」


女の子も、彼女も。何も悪いことをしていないのに、世界から、世間から、目の敵にされている。


 二人のような者は、存在自体が悪なのだ。それは、分かった。理解してはいるけれど、でも納得なんてものはこれっぽっちもできそうになかった。


「……私を治してくれてありがとう、アキラ」


しっとりと、穏やかな声音で彼女は言う。その声色が。込められた想いが。心底満足そうに花咲くのが、悲しくてならなかった。まるで小さな幸福に必死に縋り付いているように感じられて、そんな拙い希望しか手渡せなかった自分がひどく悔しい。


「私は、ずっと頼られてばかりだった。だから、私は万能なんだって勘違いしてたんだと思う。君みたいに……、少し乱暴な言い分だとは思うけどね?そうやって思いをぶつけてくれるのは、なんだかすごく新鮮だ」


医者は、患者の最後の頼みの綱だ。頼られるということは信頼されていると言うことで、彼女は医者としては優秀な部類に入るのだろうと想像する。


 けれど、そんな医者を診てくれる人はどこにいるのだろう。普通の者なら問題などない。しかし、彼女は嫌われ者の半端者だ。誰も彼女を診てくれる人はいなかったに違いない。


 彼女は、色々と抱えすぎていたのだろう。


 患者が寄せる、信頼と言う名の期待の押し付けを真に受けて。


 最期のひと押しを執拗にせがまれるのに、本気で悩んで。


 でも、彼女自身も患者なのだ。同じ痛みを、苦しみを、悲しみを抱えて生きている。そんなことは患者も分かっているはずなのに、なんでみんな彼女に不幸を押し付けるのだろう。もう、彼女は、いっぱいいっぱいなのだ。彼女の側に立つだけで、悲しみで心が潰れそうな音が聞こえてくるというのに、それなのに知らん振りをして辛さを押し付ける。


「……頭は、もう痛くはないですか?」


身勝手に頼って。自分が一番不幸だと嘆いて。それは一向に構わないのだ。辛さに救いを求めるのは、たとえそれがどのような形であれ責められるものではないはずだから。


 けれど、一人として彼女を救おうと行動する者がいなかった。その事実に、現実に、無性に腹が立って仕方がない。


「声のこと?うん、良くなったよ。…………でも、まだ少し不安だ」


人は持ちつ持たれつだ。幸せを分け合い、辛さを分け合い、時には不幸を押し付けて逃げてみたり、手にするには有り余る幸福を罪悪感で贈ってみたり。


 自分は、大きな耳の生えている彼女に何を贈ることができるだろう。お金。権力。労働力。学力。他にも思いつく限り挙げてみたけれど、どれも役に立てそうな居場所はなくて、歯噛みする。


「……そうだ。私のお願い、聞いてくれないかな?」

「できることなら、なんでも」

「本当に?なんでもいいの?」

「はい」


無力感に苛まれていた自分は、せめてもの罪滅ぼしと彼女の望みを快く聴き入れることにする。すると彼女は、おもむろに近寄ってきたかと思うと、向き合った状態で自分の両の手をそっと取ってきた。


 手はゆっくりと持ち上げられ、それに抵抗することもなく自分はされるがままになる。


 彼女は少し恥ずかしそうに微笑みながら、自身の大きな狐耳へと自分の両手をポフッと被せるように乗せた。


「……これは、どういうことですか?」


ふわふわで滑らかな触り心地の毛並みに、自分の両手は包まれるように埋もれた。ひだまりのような彼女の体温が手に伝わってくるのに、しかし、彼女の意図はさっぱりわからなくて動揺する。


「……こうすれば、聞こえるのは君の音だけだね」


ぎゅぅ〜っと。隙間ができないように彼女は耳を押さえてくる。途切れることのない血潮の音に耳を澄ませながら不安で乱れた心を調律するかのように、彼女はその身を静かに自分に委ねてきた。


 その時の彼女の表情を見て、嗚呼。哭きたくなった。


 たった、たったこれだけのことで、だ。彼女は幸せそうな笑顔を浮かべてくれる。だと言うのに、今まで彼女は誰にも助けてもらえなかった。彼女を笑顔にするその役割が、自分なんかに周ってくるほどまで無視され続けてきたことに、心の中で嗚咽する。


「ミナト」

「……っ。君に名前を呼ばれるのは、少し心臓に悪いな。……ごめん、何かな?」


死ぬことを許してくれないこの世界は、いつだって人生は素晴らしいもののように謳う。けれど、実際に世の中に転がっている光たちは、その大半が質の悪い夢ばかりだ。


 そんな中、苦しく悲しい毎日を送る者の不幸を、嘆きを。決意を否定することはあってはならない。そう、思うから。


「願いは、なんですか?自分に叶えられることですか?」


死にたいと心から嗚咽して、慟哭して。そんな寂しい言葉を口にする者が、頑張れだの、命を大切にしろだの、生きていればいいことがある……などと、心底下らない空っぽな言葉で救われるわけがない。そんな冷たい言葉で救われるのは、物語の登場人物達だけだ。


 ……幸せの絶頂、ね。


 あぁ、笑えない冗談だ。我ながら吐き気のするような台詞を吐いてしまった。


 幸せは、どこにある?


 “患者”ははっきりと口にしていた。心の底からの求める救いを、願いを。医者の彼女へと隠すことなく打ち明けていた。そして、その苦悩を理解できる彼女もまた、”同じ”なのではと思ってしまったから。


 けれど、彼女はそんな闇に強く惹かれるほど、心は弱くないようだった。


「もう、十分だよ。君の優しさで、今はお腹いっぱいだ」

「…………いつでも、言ってくれていいですから」

「そう?……なら、私も。君に願い事があったら……。それを私が叶えられるのなら、いつでも言ってね」


そんな優しい言葉をいってくれた彼女に、しかし、自分は無視を決め込んだ。


 ミナトさんが優しくしてくれるような価値は、自分には、欠片もないんですよ。


 ゆっくりと、のんびりと、再び二人並んで歩き始める。”彼女”は少し歩くのが速くて、追いつくのがやっとだった。


「今日の夕飯は、何を作る予定なんです?」


黙ったままでは居心地が悪くて、適当な話題を見つけて口にしてみる。


「白が来た日は、お肉を食べようって決めてるんだ。ほら、あそこのお店だよ」


彼女は女の子との出会いや、どうして肉を食べる決まりができたのかを楽しそうに話し始めた。けれど、彼女の言葉は全く頭に入って来ず、右から左へと流れ去っていく。自分の心は、そう簡単に切り替えが効くほど出来は良くないようだった。


「美味しいの、入ってるといいですね」

「そうだね。今日は三人だから、多めに買わないと……。色んな部位を少しずつ買って、食べ比べてみるのも良いかもね」


彼女達の笑顔があるのなら、他の患者などどうなっても構わない。そう、心から思う。手が届かない。目が届かない。そんな遠い場所にいる誰かの苦しみに親身に共感して助けられるほど、自分には余裕はない。


 だから、これは酷いわがままだとわかってはいる。それでも、願わずにはいられないのだ。


「今日はお肉パーティーですね」

「……白、喜んでくれるかな?喜んでくれたら、嬉しいな」

「良いお肉、頑張って二人で選びましょう」


他愛ない会話が、向けられる笑顔が、手元から失われてしまうのが怖くて、嫌で。


 他人なんてどうなっても構わない。


 だから、せめて自分の周りだけでも、大切は人たちだけでも幸せでありますようにと、独り密かに、強く願った。

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