畿内制圧

「まるで師走がやってきたような有様だな」


 俺は京の一角で慌ただしく動く人・モノを見ながら独りごちる。


 上洛を果たし、足利義昭を将軍職に就けた信長ではあるが、いつまでも本拠である岐阜を留守にしたまま京に逗留し続けるわけにもいかない。

 朝廷・畿内の諸勢力と一通りの折衝も終え、これなら問題ないと感触を得たのか、信長は旗下の軍勢に帰国の準備に取り掛かるよう命じた。


 即断即決即行動、それが織田軍の取柄の一つである。

 京に残していく一部の軍勢を除き、織田軍は即座に帰国準備に取り掛かり始めた。


 とはいえ、個人の旅支度ならいざ知らず、六万とも七万とも言われる大軍の帰国準備である。

 ああ、それだけで少なくない日数を要するだろう。織田本軍が京を出立するのはまだ先のことになるに違いない。


 一方俺はというと、既に旅の準備を終えて、一足先に京を発とうとしているところであった。

 行先は岐阜……ではない。

 先の堺商人たちとの会合で、予言者ごっこの確かな効果を確認できた。

 ならば、紀伊国に蒔いてきた種も刈り取らない手はないだろう。



※※※※



 全ての準備を終えた信長は、今一度本圀寺の足利義昭の元を訪れ、帰国の挨拶をした。

 送る義昭は、信長の武功に報いんと感状を下した。感状には、上洛作戦の成功を褒めると共に、『武勇天下第一なり』とまでの言葉が綴られていたが。

 更に驚きであったのは、感状の宛名である。――『御父織田弾正忠殿』とあった。


 信長と義昭とでは、三歳しか年が変わらない。それを『御父』とは随分と大袈裟なことであったが、義昭の感謝の気持ちがそれ程まで大きかったということであろう。


 本圀寺を出た信長はサッと馬上の人となった。

 彼は馬上から、本圀寺の門前に立ったままの男を見下ろしながら声を掛ける。

 信長が声を掛けたその男とは、近江・若狭の国衆から構成される京の留守部隊を任された明智光秀であった。


「明智十兵衛、頼んだぞ」

「ハッ。必ずや、任務を全うして見せまする」


 暫し、互いに無言で見詰め合う。


「……任せた」


 そう言うや、信長は既に隊列を組んでいる一団の中に乗騎を歩ませる。

 ほどなくして、織田本軍は整然と京を発った。


 その堂々たる様に、見物に来た物見高い京の人々は大層感心すると共に、畿内の実力者が代わったのだということを初めて実感した。



 京を発った織田軍は、来た道を逆に進む。

 粛々と進軍し、何事の問題もないまま近江を経由して、直に美濃国入りしようかという段であった。


 連戦連勝、破竹の勢いで上洛を果たし、無事足利義昭を征夷大将軍に就けた。

 大勝利である。その武威は天下に鳴り響くに足るもので。

 織田軍将兵にとっては、正に故郷に錦を飾るべく凱旋の途上にあると言える。


 兵卒らの気が大きくなって、多少軍紀が緩んでもおかしくなかったが。

 その真逆、織田軍はぴんと張り詰めた異様な空気の中にあった。


 それは、信長が軍紀を正し行軍に些かの乱れも生じさせるな、と厳命したからである。

 この命を受けて、兵らを取り締まる諸将であったが、その内心は疑念に満ちていた。


 確かに、軍紀を疎かにしていいわけはないが。それでも多少羽目を外すくらい、目溢ししてもいいのでは? ここまで厳粛に隙のない隊列を組む必要などあろうか? と。


 まるで、これから戦に赴くかのような空気である。

 しかし諸将が疑問に思ったところで、信長から厳命されては彼らも従うしかない。

 そういうわけで、織田軍は常在戦場と言わんばかりの空気を醸し出していた。


「伝令! 至急の伝令でござる!」


 そんな異様な空気をまとう織田軍の下に、血相を変えた伝令が駆け込んできた。

 すぐさま、その報は信長へともたらされる。


「一大事です! 畿内より四国へ退いていた三好軍が海を越えて畿内入り! これに畿内勢力の一部も合流した模様! 京を急襲する構えを見せております!」

「なんと!?」

「殿!!」


 織田本軍が立ち退いた隙を狙っての三好軍による京への急襲。この報に、信長の側近たちは狼狽する。気色ばんで主君である信長の顔を見て、そして唖然とした。

 ほんの一瞬ではあったが、それでも確かに信長が笑っていたからである。


「すぐさま京へと取って返す。……急げ!」

「は、ハッ!」


 整然と隙の無い行軍を維持していた織田軍は、そのまま京へ向けて急行した。



※※※※



「何故だ! 何故落ちぬ!? たかが寺一つだぞ! 僅かな留守部隊相手に!」


 三好長逸は怒りのままに吠える。

 思いがけない苦戦に、彼の心は怒りと焦燥に満ちていた。


 信長が京に残した留守部隊の数などたかが知れている。その上、足利義昭が仮御所とした本圀寺は堅固とは程遠い造りであると聞いていたのだ。


 急襲当初は、陥落も時間の問題であろうと三好軍の誰もが思っていた。

 しかし現実はどうだ! 本圀寺に籠った織田の留守部隊は三好軍の攻撃を跳ね返し続けている。


「何故だ……何故……!」


 長逸は血走った目で側近たちの顔に視線を走らせる。


「それが……どうもおかしいのです! 本圀寺の様子が、我々が京にいた頃とまるで様子が変わっています! 外縁部に襲撃を防ぐための入念な改築がなされています!」

「それだけではありません! 籠る兵らの士気が異様に高い! 明智某とかいう敵将が『殿が戻るまで辛抱せよ!』などと、しきりに檄を飛ばしているとはいえ、普通ではこうはいきません! 急襲にもかかわらず、動揺するどころか兵の士気が高いとあっては、これは……!」


 側近たちが口々に予期せぬ異常を告げる。それらの事実から、長逸は認め難い予測を口にする。


「つまり……我々の急襲を読んでいたと? 我々はおびき出された? しかしならば何故、織田上総介は美濃まで下がったのじゃ? いくら手こずっているとはいえ、救援が間に合う筈が……『急報!』」


 長逸の呟きを遮るように伝令が駆け込んでくる。


「何じゃ!?」

「摂津国衆ら、畿内の織田側勢力が後詰に現れました!」

「ぐっ! 動きが早い……! これか! この畿内からの後詰と合力して、織田本軍が駆け付けるまで持ち堪えさせる気か!」

「殿、如何なさいますか!?」


 側近らが長逸の顔を見詰める。決断を迫るように。


 ――どうする? 読まれていたのであれば、無理攻めは余りに危険じゃ。しかし、何ら得るものもなく退き下がったとあっては、三好の名が失墜する! どうする!?


「急報! 急報! 織田上総介の軍勢が、京から二日の距離まで引き返して来ています!」


 新たな伝令の言葉に、長逸は驚愕の表情を浮かべた。


「馬鹿な!? 早い! 早過ぎる! ……ええい! 撤退じゃ! 今なら、今撤退すれば、何とか逃れ得る! 急げ!」


 ぐずぐずしていれば、織田本軍に捕捉される。その危機感から、三好軍は慌てふためいて京から退却していった。



※※※※



 藪の中から覗き見る。覗き見た先には、桂川の河畔をお粗末な隊列で退却する軍勢の姿があった。

 旗印を確認すれば、間違いなく三好軍のもの。


 形振り構わず、我先にと急ぐような有様には、敗軍の逃走を思わせるものがある。

 だが、実際には大した戦闘もしていないのだろう。慌てふためいているものの、損害のようなものはほとんど見受けられない。


 三好軍は、こちらに向かって進んでくる。いや、これには語弊があるか。俺たちが、三好軍の退却路に伏せているんだからな。


 全てが織田の筋書き通り……か。畿内を牛耳っていた三好をこうも容易く手玉に取るとは……。

 ああ、寒い、寒い。体が震えてくるじゃねえか。


「どうしました、鈴木様? 顔色が優れませんよ?」


 俺は声を掛けてきたひょろっこい男の顔を睨み返す。

 こいつだ。こいつに初めて会った時から、この得体のしれない寒気を覚えるようになったんだ!


 文句の一つも言ってやりたい気分になったが、ぐっと堪える。代わりとなる言葉を口にした。


「心配するな。雑賀衆は受けた仕事は必ず果たす。商人の兄ちゃん、帰ったら織田様に俺らの勇姿を伝えるこったな」


 軽口を叩いている間に、三好軍は完全に射程距離に入っていた。

 全ては作戦通り。なのに、全く喜べない不思議。


 俺はすーっとゆっくり右腕を持ち上げる。苦々しい声音で命じた。


「総員、撃て!」


 投げやりに振り下ろした右腕に一拍遅れて、パンパンパンと部下たちの鉄砲が火を噴いた。




 永禄七年七月のことである。

 信長公が京を御退去の折、三好らが畿内入りし京を急襲した。

 明智十兵衛らが公方様の周囲を固め奮戦している間に、信長公は驚嘆すべき日数にて京へと取って返された。

 信長公の接近を知り、三好らは退却したが、桂川河畔にて伏兵の雑賀衆の攻撃に遭った。

 突然の伏撃に足並みを乱した三好らは、信長公の猛追に捕捉を許す。

 三好らここに一戦を覚悟し、信長公との合戦に挑んだが、信長公に散々に打ち破られた。

 小笠原信定始め、多くの将兵が討ち死にすることになったのである。


 ――『信長公記』

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